裄邑(ゆきお)ちゃん

 午後6時、すでに夜の帳が落ち始めた空の下、竹田康大(たけだやすひろ)は会社を出た。大通り沿いを歩いて駅に向かう。混雑する人の流れと共にいつもの便に乗り込んだ。座れるはずもない車内でぼんやりと窓の外を眺める。一定の速さで通り過ぎていく家々の窓には明かりが灯り始めていた。

 なんの変哲もない夕方の車窓である。しかしあの一つ一つの明かりの中に人々の生活があるのだと、そう思うだけで彼の心に湧き上がる感情があった。

 電車に揺られること二五分、竹田は駅に着くと逸る気持ちを脚に乗せて家路を急いだ。

 人間の営みは尊い。竹田は心の底からそう思っていた。

 最寄駅から歩いて一五分、息を切らしてアパートの階段を上がる。三階一番奥の角部屋。鍵を開けて中へ。何の変哲もないワンルームだ。部屋の明かりもつけずに奥へと進む。スーツも靴下も脱ぎ散らかして窓辺に敷いてある布団に入った。すぐそばに置いてあった双眼鏡を手にして。

 だからこれは神聖な行為なのだと信じてやまなかった。

 頭から布団を被って窓辺に、カーテンの下に。なるべく頭を出さないように、なるべく動かないように。そして明かりの漏れている部屋へと双眼鏡を向ける。

 竹田はどうしようもないほど他人の生活に興味があった。不埒な目的で女性の部屋を覗くことはない。自分以外の人間がどのように日常を送っているのか、ただそれを知りたくて堪らないのだ。言わば人々の暮らしを「見守っている」だけだと、彼は胸を張って言える。

 日が落ちて暗くなりゆく世界、その中で窓から漏れる明かりはそれはそれは美しく輝くのだ。無防備な明かりの中に息づく人々の営みは非常に彼を感動させた。

 一人暮らしの青年の部屋を照らす、なんのこだわりもない強烈な昼白色の蛍光灯が愛おしい。暖色の明かりに包まれた親子が夕食の準備をしているのだろうか、リビングを行き来する姿ほど微笑ましいものはない。疲れて帰ってきた若い女が乱暴に鞄を放って荒々しい手つきで厚手のカーテンを閉める、そんな一連の流れを見れば疲れて帰ってきた彼女の幸せを願ってやまない。

 竹田がこの神聖な行いに手を染めるようになったのは他でもない、相棒たる双眼鏡のせいである。休日にリサイクルショップを物色することを唯一の趣味としていた竹田は双眼鏡と運命的な出会いを果たす。簡単に言えば想像していたよりもはるかに安かったのだ。

 購入目的は最初から「他人の家を見る」ことだったというのは正直に告白しておかねばならない。これがあれば人々の暮らしをこっそり覗くことができるのではないかと、まるで悪魔に囁かれたかのように閃いてしまったのだ。とはいえ小心者の彼は罪悪感を消すために一緒に置いてあったバードウォッチングの指南書も購入した。

 そもそも竹田はジオラマが好きだった。精巧なミニチュアの世界を観察するのがこの上なく好きだった。

 まだ幼い頃のことだ。博物館に行けば昔の街並みを再現したものが展示されており、彼はいつもかじりつくようにそれを眺めていた。配置される小さな人形たち、彼らが動き回ればどれほど素敵だろうと胸を躍らせてたものだ。女児向けのドールハウスなんかにも心惹かれていたのだから、その思いは筋金入りと言っても過言ではないだろう。

 とは言え「作る」ことには一切興味がなかった。小さなものが好きではあるのだが、竹田はどうしようもない飽き性であった。ジオラマを見るだけならばいくらでも時間をかけられるのだが、作るとなれば途中で挫折することは目に見えている。

 さてそんな男が双眼鏡という唯一無二の神器を手にしてしまい早数か月。彼は仕事を終えると脇目もふらずに帰宅して楽しい観察のために時間を費やすのだ。近頃では「見守る」家が固定されている。

 竹田はその内の一つに双眼鏡を向ける。通りを二つ挟んだところにあるアパートだ。二階建てで四部屋しかない。しかもベランダが無いためとても観察しやすい、竹田にとってとても都合のいい部屋だった。

 通りを行く人々の姿も観察しながら待つこと数分、部屋にぱっと明かりが灯った。竹田の胸が高鳴る。思わず唇を舐めた。

 住んでいるのは一人の男だった。ワイシャツに黒のスラックスと通勤鞄と何か小さな白い袋。年は竹田より若いだろう。なかなかズボラな性格らしく、帰宅してもすぐにカーテンを閉めず、下手すれば寝るまで開けっ放しのこともある。白い明かりに照らされて、青年は荷物を床に置く。いつも小さめのビニール袋を携えていることから夕食を買って帰って来ているのだろう。彼はワイシャツのボタンを外しながら部屋をうろつく。

 青年が気だるげに服を脱ぐ様子も竹田は静かに観察していた。まるでジオラマに設置された小人が意思を持っているかのようだ。竹田はテレビを見ているかのような気安さでそれを眺めていた。

 やがて青年は下着姿になると窓へと近づいた。そして呆気なくカーテンが閉められてしまう。どうやら今日は「ハズレ」の日だったらしい、と竹田はため息をついた。

「観察」できる時間は案外短い。対象の部屋が限られいる上、大抵は帰宅してすぐにやることが「カーテンに手をかける」ことなのだ。夢のような時間はいつだって短い。竹田は観察対象をつぶさに見て回る。今日はどうにもタイミングが合わないようで、じっくりと楽しめる家はもう無いようだった。

 竹田は一つため息をついてからようやく、被っていた布団をはぎ取った。のそりと立ち上がって部屋の電気をつける。突然の明るさに彼は目を瞬く。

 こうしてようやく竹田は自身の世話に取り掛かるのだった。これがいつものルーティンであった。双眼鏡を手にしてからというもの、竹田はすっかりこの観察にのめり込んでいる。

「竹田さんって休みの日は何してるんですか?」

 だから後輩から飛び出すこの手の質問にはいつも窮するのである。竹田は弱みを見透かされたような気がしてドキリとした。しかし無関心を装って視線を外す。

「これといって何も。だらだら過ごしてるだけだよ」

 竹田はそう答えるしかなかった。強いて言えばホームセンター巡りであるが、最近はご無沙汰である。大好きなジオラマも単なる鑑賞では趣味へと昇華できない。さらにあの尊い観察行為も何かしら法に抵触している自覚はある。つまり竹田は「無趣味」と答えるしかなかった。

「じゃあ今度飲みに行きましょうよ。竹田さんと俺って駅一緒だし」

 後輩が身を乗り出す。彼は今度の四月に移動してきたばかりの、まだ二十代前半の男である。ひと回りほど年が離れていること、竹田自身が人付き合いを億劫としていることから後輩の提案は到底受け入れられるものではなかった。

「駅の近くに住んでるんだっけ」

 竹田は巧妙に話を逸らした。後輩は疑うことなく「そうです!」と答えた。

「駅のそばのピンク色のおっきなマンションあるの分かります? 電車の中から見えるんですけど」

 空を見つめて記憶をたどり「ああ」と答えた。

「分かるよ、薄ピンクのマンションでしょ。あそこに住んでんの?」

「いえ、あの裏にあるアパートです。新しめのとこなんですけど」

「じゃあ本当に駅の近くだね」

 後輩は「そうなんですよ」と声を弾ませた。

「だから結構フットワーク軽いですよ。先輩が呼んでくれればすぐにでも行きますから、ぜひ飲みに行きましょう!」

 彼自身の特性かそれとも若さゆえか、後輩はしきりに竹田を飲みに誘った。当然のことながら彼は気が進まなかった。

「また今度誘うよ」

 竹田はそう当たり障りのないことを言った。

 その日帰宅した竹田は早速後輩のアパートを探した。後輩に興味があるわけではなく、単に得られた情報の答え合わせのような気持ちだ。

 件のピンク色のマンションはすぐに見つかった。しかし角度の問題で彼の家からは窓が見えないため彼の観察対象外だったのだ。

 裏にあるというアパートはすぐに見つかった。最近建てられたような、黒を基調としたモダンなモノクロのアパートだった。しかもおあつらえ向きに窓が彼の家から観察できる。しかしそれもまた竹田の観察対象ではなかった。彼の見ている時間に帰宅し、かつカーテンを開けっぱなしにしてしばらく過ごすような無防備な住人がいないのだ。あまり楽しめる部分がないので気が進まないが、本当に後輩が住んでいるかどうかは確かめたい。その一心で竹田はアパートに双眼鏡を向けた。

 後輩の部屋番号までは聞いていないので彼はただ漫然とそれを眺めた。ベランダはあるが、ちょうど窓のある部分は柵になっているので観察に支障はない。後輩とは会社のロッカーですれ違ったのだから、竹田の次の電車に乗って帰宅するはずである。とは言え、それは彼が真っすぐ帰宅していればの話だ。もしかすると彼女とデートでもしているのかもとぼんやりと考えた。しかし火曜日の夜にデートをするものだろうかとも考える。とりとめのないことが頭を巡り始めてそろそろ切り上げようか、と思った。そのときだった。

 アパートの四階のとある部屋に明かりが灯る。竹田はすぐさま注目した。興奮で胸が高鳴る。さっきまで微睡んでいたような意識が一気に覚醒した。

 明るい蛍光灯に照らされて、薄いカーテン越しに見えるのはスーツ姿の男だ。竹田は思わず身を乗り出した。あれは後輩ではないだろうか。

 部屋に入ってきたのは一人ではなかった。髪の長い女も一緒だ。

 竹田は途端に気まずさに襲われた。これでは完全に覗き見だ。そうは思うもののどうしても視線を逸らすことができなかった。職場の同僚が恋人とどのように過ごすのかという強い好奇心と、それを観察しようとする自分への強い嫌悪感が拮抗した。

 そして勝ったのは前者であった。彼は目を離すことができなかった。あの明るい彼が恋人の前ではどのように振る舞うのか、竹田は初めて後輩への強い興味を抱いた。

 二人は立ったまま部屋の真ん中で何か話している。そのうち女が窓へと近づいた。カーテンを閉めてしまうのだろう。竹田は残念という気持ちよりも見なくて済むという安堵感に襲われた。

 彼女がカーテンに手をかけた、次の瞬間である。

 男が彼女の肩を掴んだ。かと思えばそのまま顔に拳を撃ちつけたのである。竹田の喉がひゅっと鳴った。まるで自分が殴られたかのように体がびぃんと硬直した。

 彼女は──ごくごく当然のことながら──長い髪を振り乱して抵抗した。両腕で顔を覆う。しかし男は殴るのをやめない。躊躇うそぶりすら見せなかった。一定の間隔で機械のように女を殴りつける。彼女の悲鳴まで聞こえてきそうだった。竹田は震えが止まらなかった。

 女は倒れた。男はそれでも暴力を止めなかった。何がそこまでさせるのか、今度は馬乗りになって殴り続ける。やがてすっくと立ちあがったかと思えば、今度は踏みつけ始めた。まるで床に見つけた蜘蛛でも踏みつぶすかのように、何度も何度も女に足を振り下ろした。そんなにしては階下まで音が響くのではないか、竹田はそんなことを考えた。いや、その音に気づいて誰かが駆けつけてくれればいい。竹田は祈るような気持ちで双眼鏡越しの光景を見つめた。

 やがて男の動きが止まる。床に落ちているであろう女は、ここから見る限りではピクリとも動かない。

 男が、顔を上げる。何か確信があったのだろう。そうとしか思えない。

 男の顔は、真っすぐに竹田を見ていた。

 竹田はびくりと震えた。その拍子に双眼鏡が布団の上へと落ちた。恐怖で金縛りにあった彼は最早、そこから一歩も動くことができなかった。

 どのくらい布団を被って窓辺に貼りついたままだっただろう。真っ暗な世界を彼は見つめ続けていた。夜の闇と自分の境界が分からなくなる。ついさっき見た光景が何度も頭の中で繰り返される。

 男が、なんどもこちらを振り向くのだ。

 はっと気がついたときには朝を告げる携帯のアラームが鳴っており、窓の外はすっかり明るくなっていた。竹田はのっそりと起き上がった。窓際で倒れるように横になっていたらしい。

 竹田はまだ恐怖で体が震えるようだった。暴力を目の当たりにしたこと、被害者を助けることができなかったこと、そして何より「相手から見られた」ということが彼を恐怖のどん底に突き落とした。

 あの男が肉眼で竹田のことを捉えるなどありえないことなのだ。頭では分かっていても感情は追いつかない。

 後輩に会うのが怖くてたまらなかった。会えば何を言われるだろうか。そもそも、自分の今までの観察行為もバレていたのでは。そんな考えがぐるぐると回る。

 立ち上がろうとして体が軋むように痛んだ。まるで一晩中硬直していたかのようだった。心も体もまったく休まった気がしない。

 それでも竹田はいつものように会社に行くことにした。休むことも考えた。それは仕事のパフォーマンスへの影響ではなく後輩と顔を合わせることへの恐怖からだった。しかし彼はいつも通り出社した。理由は明白、後輩に昨日のことを悟られないようにするためである。休めばやましいことがあると告白しているようなものである。何もなかったことにしなければいけなかった。

 見られたはずはない。あの男から竹田のことが見えるはずはない。それでも男の視線に心臓を貫かれたのだ。彼は精いっぱい平常心を装わなければならなかった。

「竹田さん、おはようおございます!」

 後輩は常と変わらぬ明るい笑顔でそう言った。竹田も精いっぱいの笑顔を作ろう、としたがそもそも自分が笑顔を苦手としていることを思い出した。いつも通り形だけ口角を上げて彼なりの愛想の良さを表す。

「ああ、おはよう。今日は田中さんと組んで仕事だったな。頑張れよ」

「それが田中さん、娘さんが風邪ひいたらしくて今週休むそうですよ。だから竹田さんとやることになりそうです」

 竹田はぎょっとした。こんな日に後輩と組んで仕事だなんて。それは顔に出ていたらしく、後輩はおかしそうに腹を抱えて笑った。

「そんなに嫌がらないでくださいよ! 大体の流れはちゃんと分かってますから、竹田さんは俺がヘマしてないか見てるだけで大丈夫ですよ」

 そういうわけにもいかないだろう、と言いながらも竹田はバクバクと打つ心臓を落ち着けようと必死だった。

 後輩との仕事は金曜日まで三日間も続いた。異動してきたばかりの彼のためにと研修を兼ねた仕事である。慣れれば簡単な仕事、のはずだった。

 しかしふたを開けてみれば問題ばかりだった。相手先の企業が必要な書類を用意していなかったり、なぜか担当者に話が伝わっていなかったり。そうなると当然締め切りに間に合わない。ところが「間に合わない」の一言で済むはすもないので、竹田が各所に電話をして頭を下げる羽目になる。「すいません」と繰り返して調整をする横では後輩が必死になって書類を作っている。どちらも休む間もなく働いた。そんな三日間だった。

 当然帰宅するころには竹田は疲れ切っている。夕食をかきこむと双眼鏡を手にする間もなく寝支度をして布団に倒れこむ。また現実的な忙しさは彼の意識を摩耗させた。あの恐怖体験の記憶などあっという間に薄れてしまったのだ。

「はあ、どうにかなった!」

 金曜日の午後十時、後輩がそう言って大きく伸びをする。このときばかりは竹田も労りの気持ちで彼の肩を叩いた。

 仕事後の達成感から飲みに行こう、と誘われても断れないほどには竹田は疲れ切っていたのだ。断る理由などなかった。三日間休憩時間も関係なくずっと一緒にいたのだ。否が応でも彼との親密度は上がっている。

「いやあ、本当にありがとうございました。竹田さんがいなきゃどうなっていたことか!」

 後輩はビールジョッキを片手に笑顔を見せる。竹田もつられて笑った。

「今回はイレギュラーが多かったからね。いつもはあんなことないよ。次の監査は簡単すぎてきっと腰を抜かすさ」

 竹田は彼への警戒心をすっかりなくしていた。あの日見た光景は夢だったのだ。また、仮に現実だとしても後輩な訳があるまい。早合点してミスをすることもあるが、リカバリーがしっかりできる人間だ。それだけで竹田にとっては信頼にたる人間たり得た。いい加減で人懐っこいが、要領がいいわけではなくどこか真っすぐすぎるきらいがあるのも、非常に好感が持てた。

 金曜日の夜、そして大仕事を終えたということもあって彼らはどこまでも開放的な気分だった。時間だからと飲み屋を追い出され、後輩に「竹田さんの家に行ってみたいです」と言われて断らないほどに、竹田の気分は高揚していた。

「あの辺ってコンビニありますか?」

「家の近くにはないから、ここで買っていこう」

 彼らは気楽に会話を続けながら駅前のコンビニに入った。いつものように客はまばらだ。後輩もよく立ち寄っているらしく、真っすぐに酒のコーナーに向かった。カゴに目についたものを適当に入れていく。

「竹田さんの部屋ってどんなのだろう、想像つかないや」

「何もない部屋だよ。趣味もないし」

「でもあれでしょ? フィギュア買うって言ってたじゃないですか」

「それもほんの数体、気に入ったのだけさ。ここ数年で買ったのは一つだけ、そんなもんだ」

 街灯が照らす道をのんびりと歩く。五月にもなればやはり少し蒸し暑いが、この後ゆっくりと酒が飲めると思えば苦にならない。話していればあっという間にアパートに着いた。二人はアパートの階段を上がる。竹田の城、三階の角部屋に彼らは連れ立って入っていく。

 中に入って部屋の電気をつければ簡素な内装が明らかになる。「お邪魔します」と後輩がいつものように明るい声で言い先に入って部屋を見渡す。

「何も面白いものないだろう?」

 竹田は冷蔵庫を開けながら言った。中にはビールが丁度二本入っている。飲むなら冷えているそちらの方がいいだろうと二本取り出し、買ってきた分をまた冷蔵庫へと入れる。

「このチューハイはどうする。いったん冷やしておくか」

 竹田はそう言って居間にいるはずの後輩の方を向いた。


 男の大きな瞳と目が合った。

 いや、違う。それは大きなレンズだった。妖しく滑らかに光るレンズ。見覚えのあるそれが、恐ろしいほど真っすぐに竹田を見ていた。


 後輩は、いつの間に見つけたのだろうか、双眼鏡を目にしっかりと当ててこちらを見ていた。大きなレンズの輝きはまるで狂気と怪しい好奇心を湛えた瞳のようだった。

「なにしてんの」

 竹田は喉から引きつった声を絞り出した。思い出すのはあの日の光景。夕闇にそびえる黒っぽいアパートの一室。目に痛いほどの白い蛍光灯。髪を振り乱して倒れる女。それを機械のように殴りつける男。

「これ、よく見えるんですか?」

 後輩は言う。いつものような、明るい声。目が隠れているというだけで感情がまったく読み取れない。竹田は口を開いた。

「それ、リサイクルショップで買ったんだよ。バードウォッチングするのに使えるって聞いてさ。趣味を増やそうかと思ったんだ。でもまだ使ってなくて、案外邪魔になってるんだ」

 竹田は、自分でも驚くほどすんなりと嘘を吐いた。口から飛び出しかかった心臓をどうにか押し戻した。おかげで以前よりもはるかにしっかりと胸に収まったらしい。今なら何を言われても上手く答えられそうだった。

「それにしても、何してるんだよ。びっくりしただろう」

 竹田は年長者らしくそう言った。彼は動揺をうまく隠した、ように思えた。心臓はうるさく音を立てているが、それはあくまで後輩の行動に驚いたからだ。断じてやましいことがあるわけではない。

 後輩の口元は笑っている。目から双眼鏡を離さないまま、男は「俺も」と言った。


「俺も、びっくりしましたよ。まさか竹田さんと目が合うなんて思いませんでしたから」



 終わり


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