第20話 嘘つきの話



「僕はケンタ君と出会ってから、沢山の好きな事を教わったよね」


 カゲロウのこと、ヤマメのこと、焼トウモロコシのこと、と指を折りながら数え始める。

「それに、この枝豆は最高! 一生忘れない」

「喜んでくれるのは良いけど、大袈裟だ。もっと旨い物なんて、幾らでもあるんだからな」

 俺が答えると、アンチャンはフニャリと微笑んだ。そしてまた枝豆を口に運び始める。気に入ってくれたのは良いけど、食べ過ぎると本当に下痢をするんだよなぁ。


「それから小麦さんの歌は凄いよねぇ。歌を聞いている時だけだけど、嫌な事を忘れて聞く事に集中できるんだ。こんな経験、初めてだよ」

 例え一時だけでも嫌な事を忘れさせる、小麦の歌は凄い物なんだろう。実物の中身は、ちょっとアレだけど。俺はボンヤリと頷いた。

 アンチャンは小麦からギターを習うんだと、張り切っている。ギターって、そんなに簡単に弾けるのかな?


「それに有機農家の仕事や生活って、憧れちゃうよね。高校を卒業したら、ここにお世話になろうかな? 僕の成績だと、碌な所に行けそうにないし」

 桑原さんの家は日本どころか、世界中から色々な人がやって来る。中には大学の先生や、外国の偉い人もいるらしい。勉強できなくても、やって行けるのかな? まぁ、俺が心配する事じゃないか。


 通訳の真似事をしていたトオルがやって来て、枝豆を摘まみ始めた。

「先輩。枝豆も旨いっすけど、この大豆で作った味噌が絶品なんすよ。煮豆を作ると半分位、味噌にしないで食べちゃいますからね」

「へぇ、トオルが言うなら間違いないねぇ。味噌造りが楽しみだなぁ。こんなに人を感動させられる仕事って、なかなか無いよ。本当に素晴らしいよね」

 確かにこの豆で作った味噌は、凄く美味い。家でカーチャンも手作りしているけど、この味噌で作ったモツ煮は最高だ。


「これだけ好きな事が増えたら、ボクシングの事も忘れられるね。これから楽しみだなぁ」

 アンチャンは両手を振り回して、力瘤を作って見せる。俺は何か言いたいが、何を言いたいのか分からなくてボンヤリしていた。


 それからアンチャンは、滔々と話し始めた。ボクシング部の部室が日当たりの悪い、校庭の端っこにあるとか、厳つい男子部員ばかりで、女の子にモテないとか……

「それにボクシンググローブって、ヘッドガードなんか目じゃない位、臭くなるんだよ。幾ら手を洗っても、臭いが落ちてない気がするんだよね」

 しんどいばかりで、報われる事の少ないボクシングは、高校卒業と同時にサヨナラするんだと笑う。


「……アンチャンは、嘘つきだ」


 俺の呟きに、アンチャンは小首を傾げる。俺は、その顔を睨み付けた。

「アンチャンが一番好きな事は、ボクシングだ!」

 皆が振り返るような大声を、俺は張り上げる。


「アンチャンはボクシングが大好きだ! そうじゃなかったらトオルの面倒も見ないし、休日に一人で皆の分のヘッドガードを磨いたりしない! アンチャンは嘘つき……モガァ」

 俺はトオルに羽交い絞めにされて、口に大量の枝豆を押し込まれる。きっとこれ以上、無駄口を叩くなという事なんだろう。でも俺は枝豆を吐き出して、言葉を続ける。


「減量って辛いんだろう? でもアンチャンは痩せているよな。今でも試合に出れるように、食べるのを我慢しているんだ!」

「お前に何が分かるんだ! ちょっと黙ってろ!」

 トオルに口を押さえつけられた。でも俺は止まれない。


 ガブリ!


「うわっコイツ! 噛み付きやがった」

 驚いたトオルの手が離れた所で、俺は大きく息を吸い込んだ。

「アンチャンはボクシングが大好きな嘘つきだ! 痛ぇ!」

 トオルに後ろ頭を強めに叩かれ、俺は皆の所から強制退去させられる。呆然とする研修生たちと、一人で立ち尽くすアンチャン。



「ウチの息子が大声を上げて申し訳ない。いつもはボンヤリしていて、ちょっと心配なくらい大人しい子なんだけど」

 ガッシリした身体付きの大男が、心配そうに金髪の青年の顔を覗き込む。彼は苦笑しながら、小さく首を振った。

「いえ。ケンタ君のいう事が正しいんです。皆が遠慮して言えない事を、彼は一人で身体を張って教えてくれました……」

 青年は肩を竦めて、苦笑いする。

「これまで僕は、ボクシングしか知らなかったんです。生活の中心がボクシングで、それに従って動いていたから。

 試合に出れない、この二年間は本当にキツかったんですよ。どんなに好きな事を増やしても、ボクシングを忘れることなんてできないですよね」


 青年は人の輪から外れ、青々とした一面の大豆畑に佇んだ。昼間は熱かった風が少し涼しくなって、青葉と青年の金髪を揺らす。いつも微笑んでいる彼は、嘘のように憂鬱そうな表情を浮かべ溜め息を付いた。


「……でもねぇ。手術に失敗したら僕、死んじゃうかもしれないんだよ」


 青年の影は夕暮れの太陽に照らされ、長く大豆畑に伸びている。彼の独り言に応えてくれる風は、何処からも吹いては来なかった。

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