第15話 ヘッドガードの話



 チンピラを警察送りにしてから、カーチャンは途端に忙しくなった。昔の知り合いに会ったり、市内にある県警本部へ顔を出したり。それから工業高校へも何回か呼び出された。

 勝手に警察を構内に呼ぶなんて、問題行動だと主張する教職員がいたらしい。俺は暇だったからカーチャンの車に乗って、工業高校へ付いて行った。カーチャンが校長室に行っている間、俺はボクシング部で時間を潰す事にする。きっと夏休みでも、誰か練習しているだろう。


 部室のドアを開けると、アンチャンが一人で何かを磨いていた。

「おい、何をしているんだ?」

「あれ、ケンタ君。どうやって此処に来たの?」

「カーチャンの車に乗って来たんだ。それ試合の時に被っている奴か?」

 ヘッドガードと呼ばれるヘルメットに、何かを吹き付けて布で擦っている。アンチャンは少し意地悪な微笑みを浮かべて、ヘッドガードを俺に差し出した。


「チャンと手入れをしないと、こうなっちゃうんだ。臭いを嗅いでみて」

 俺は鼻を近づけて、クンと言わせた。

「おい、これ腐っているぞ」

 俺の顰めた顔を見て、アンチャンはヘラヘラと笑う。

「家で飼ってる猫みたい! そうだよねぇ。こんな臭いの食べ物があったら、口に入れるのに勇気がいるよねぇ」


 だから汚れを落として消毒して、お日様に当てるらしい。仕方ない。俺はアンチャンの手伝いをすることにした。ヘッドガードの一つを手に取ると、何だか黒っぽい染みが付いている。これは何かと聞いたら、血が残って変色した物らしい。

 やっぱりボクシングって大変な競技なんだな。血を流してまで殴り合いをするのって、どんな気持ちなんだろう?


 足の具合がちょっと良くないアンチャンの代わりに、消毒済みのヘッドガードを校庭に運んだ。誰も使っていない鉄棒に、順番にぶら下げていく。部室に戻ると、アンチャンはリングのマットを拭き掃除していた。

 俺も雑巾を借りて、ロープを上から順に拭いてゆく。部室の窓は開け放っているから、熱く乾いた風が通り過ぎる。きっと早く乾くだろう。


「今日はアンチャンだけなのか? どうして一人で掃除しているんだ。罰当番か?」

「今日は部活の全体休だからね。僕はやる事がなかったから、此処に居るんだ。リングのキャンパスもキチンとしておかないと、スリップして怪我をしちゃうから」

 そう言えばトオルは今日、不良たちと買い物に行くと言っていた。だから俺もトオルを護る必要が無くて、此処に居るんだけど。


 開け放った窓から、男の大声が聞こえて来た。その声はだんだん、部室に近づいてくる。

「ですから! 学校に無断で警察に連絡し、パトカーを入れた事を問題視しているんです」

「その前に学校に不審な部外者が入っていた事は、どう説明するのですか?」

 どうやらカーチャンが、誰かと口喧嘩しているみたいだ。カーチャンに口喧嘩で勝てる人間なんていないんだから、無駄なことをしているなぁ。


「そんな事を聞いているのではない! 学校の自治権について話しているんだ」

「その不審者は、貴校の生徒に害を加えようとしていました。貴方のいう自治権は生徒を、どう護るつもりだったのですか?」

 そこでグッと詰まる男の声。

「大体ストーキングされていたのは、ボクシング部員でしょう! あんな不良たちの為に、我校の評判を落とされるのは困るんですよ」

 何だか言いたい放題いっているなぁ。部室に近づいているのに、大声で話しているし。


「……つまり不良たちのお陰で、ご自身の評価を落とされては堪らないとお考えですか」

 凍り付くようなカーチャンの声。それと共に部室のドアが開いた。

「ケンタ、待たせたな。帰るぞ」

「待ちなさい! まだ議論は終わっていない」

 続けて部室に入って来たオッサンが、足を止めた。ヘラヘラ笑うアンチャンを見て、シマッタという表情を浮かべる。


「あれぇ? いつもはクールな教頭先生が、顔を真っ赤にして怒っているねぇ」

「君。今日、学校は休校の筈です。直ちに帰りなさい!」

「えぇ、でも。野球部や水泳部も部活をしてるみたいだよ?」

「いいから帰りなさい。私の言う事が聞けないのか。帰れ!」

 教頭は顔を真っ赤にして怒鳴り散らしていた。カーチャンに口喧嘩で勝てないのが、余程悔しかったのだろう。カーチャンは冷めた目で教頭を見つめる。

「余程、あのチンピラが連行されたのが、気になるみたいだな。どうしてだ? ボクシングの強い、私大にでも転職が決まっているのか?」

 それを聞いた瞬間、教頭は赤かった顔を青くして、部室から逃げ出してしまった。


 それから俺たち三人は、リング周りの床を掃き掃除した。鉄棒から取り込んで来た、ヘッドガードをロッカーの中に並べ終わると、戸締りをする。

「手伝ってくれてありがとう。凄く早く終わっちゃった。教頭先生に叱られるのも馬鹿馬鹿しいから、今日は帰るね」

 カーチャンはアンチャンをジッと見つめた。何か言おうとして口を開くが、何も言わずに口元を引き締めた。


「……ケンタ。帰るぞ」


 帰りの車の中でも、カーチャンは物思いに沈んでいた。何か考え事でもあるのだろう。俺はボンヤリと口を開けて、流れて行く車窓を眺めていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る