第11話 減量の話
「それで二年前と同じ事が、起きないとも限らないでしょう? 特に今のトオルの状態は、絶好調だからライバルが多くて…… わぁ、ケンタ君! 何で泣いているの」
下を向いていた俺の肩に、アンチャンは慌てて手を置いた。俺は歯を喰いしばって、アンチャンを睨み付ける。
「そんなの酷過ぎるぞ。何でアンチャンが、そんな目に合わなきいけないんだ」
アンチャン以外のボクシング部員が、全員で頷いた。歯欠けはポンポンと俺の頭に、手を乗せて苦笑する。
「見込みのあるガキだな。お前に手伝って欲しいのは、これだ」
登下校の時に小学生が持たされる、防犯ブザーを俺に手渡す。
「こんな物なら、学校で渡されて俺も持っているぞ」
「これはGPS発信機能が搭載された、特別製だ」
これのボタンを押すと、大きな音の他に部員たちのスマホに位置情報が発信・共有される。最も近くにいる人間が、直ちに現場に急行できるらしい。
この防犯ブザーはメガネのお手製だ。俺には良く分からないが、高性能な特別品なのだろう。
「ウチの学校にいる間と、登下校時は俺たちでトオルをカバーできる。だが朝晩のランニングや休日までは、手が回らない。それで……」
「俺がトオルに付いていればいいんだな。その位なら、俺にもできる」
俺は防犯ブザーを握りしめる。力を入れ過ぎたみたいで、ブザーから物凄い大音量が響き渡った。更に部員たちのスマホが様々な音で鳴り響いく。
歯欠けは慌てて、ブザーを俺から取り上げて電源を落とす。凄い威力だ。ビックリして涙が引っ込んだし、少し耳が痛くなる。
「何やってんだよ、お前は」
俺はトオルに後ろ頭を叩かれた。不良たちは苦笑しながら、自分たちのスマホのビープ音を解除する。何となく悪い雰囲気が緩くなった。
その時、他校の選手が一人で現れる。また坊主頭がまた、番犬のように唸り声をあげた。
「失礼します。次の試合の対戦相手です。トオルさんは、いらっしゃいますか?」
「おい、お前。対戦相手の陣営に一人で来るなんて、いい度胸してるじゃねぇか。何の偵察だ。あぁん?」
坊主頭が選手に、ネットリとしたガンを付ける。顔と顔の距離が近すぎて、ぶつかりそうだ。でも相手もピクリとも動かない。どちらも凄い迫力と根性だ。
「俺っすけど。何か?」
トオルが前に進み出ると、選手は深々と頭を下げた。
「再計量に失敗しました。試合に出る事ができません。ご迷惑をおかけしました」
大きな石コロでも呑み込んだような顔をするトオル。坊主頭も気まずそうに、咳払いを始めた。
「あの…… 何て言っていいか分かんないっすけど、お疲れ様でした。また対戦できる日を待っています」
トオルも深々と頭を下げる。選手は口元を真一文字に引き締め、返事を返さない。そして振り返りもせずに、その場を去って行った。
「あの兄ちゃんは、何を言ってるんだ? 良く分かんねーぞ」
俺は首を捻る。トオルはグローブを外して、説明してくれた。
ボクシングには体重による階級制があり、その階級の体重を維持しなければならない事。例えばトオルはライトウェルター級だから、六十四キロ以下の体重でなければいけない。その制限を超えてしまうと、試合に出る事が出来なくなってしまう事。
「それじゃ今日の試合は、どうなるんだ?」
「不戦勝で俺の勝ちになる」
俺は小首を傾げる。それならアンチャンや歯欠けが、大喜びしそうなものだ。でもみんな下を向いて黙っている。まるでお通夜みたいだ。どうしてなんだろう?
「減量では俺たちみんな、苦労しているからな。試合で負けるより悔しい気持ちも、自分の事のように分かるんだよ」
坊主頭は自分の頭をガリガリと掻きながら、説明してくれる。成長期の高校生にとって、食事制限は大変な試練なのだ。
「減量で辛くなってフテ寝していると、夢の中で熱々のたこ焼きが出て来るんだよ。マヨネーズがタップリとかかった」
坊主頭は情けない表情で、そう呟く。不良たちの口からはハンバーガーやカツカレー、ピザに背脂チャッチャ系ラーメンなどの単語が、呪詛のように次々と湧き上がって来る。
「ちょっと、止めて貰えないっすかね。今日は勝てても明日も俺、試合なんすから。再計量なんて御免被りたいんすけど」
トオルの悲鳴で高カロリーメニューの、呪詛がピタリと止まった。今日を勝ち抜いた工業高校の選手たちが、それぞれ帰り支度を始める。裏方に回ったアンチャンたちボクシング部の不良たちは、大物の道具の後片付けを始めるのだった。
その日の晩御飯の時に、トーチャンとカーチャンに話をした。アンチャンの話、防犯ブザーの話、ボクシングの減量の話。上手く話せたかな?
「今から二年間に、そんな傷害事件があったのか。この辺で起きた事だろう? 何で私が知らないんだ」
カーチャンは不機嫌そうに鼻を鳴らす。トーチャンはビールを呑みながら、肩を竦めた。
「もう現役を引退して十年近く経つんだから、知らない案件だってあるよ」
「まだ社には現役の同僚だっている。そんな物騒な案件だったら、私の耳に入る筈なんだが」
カーチャンの下あごに梅干しの種が浮かび上がる。よっぽど何か気に喰わないのだろう。それから俺に声を掛ける。
「ケンタは明日も、試合会場に行くのか?」
「夏休みで暇だからな。それに役目もある」
俺はポケットから、今日渡された防犯ブザーを取り出した。これを持って、トオルを護らなければならない。トーチャンは、それをジッと凝視する。
「GPS機能もついて、それだけ大きな音が出せるのに、この大きさなんだ。メガネ君は大した技術者なんだね」
頻りに感心しているトーチャンを見て、カーチャンは何だか不満そうに唇を尖らせていた。
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