第10話 アンチャンの秘密



 分校は夏休みに入った。塾に行く愛美などは、相変わらず勉強に忙しい。俺も今年の夏休みは、忙しかった。川遊びの他に、トオルの練習に付き合う事になったからだ。ボクシング県大会が始まり、俄かにトオルの周りが騒がしくなって来る。


 トーナメント制の試合でドンドン勝ち上がり、準々決勝位からボクシング部の先輩たちがピリピリし始めた。トオルの周りに他校の選手が近づくと、番犬そのままに唸り声をあげるのだ。

 歯欠けや坊主頭は黙って座っているだけで、大の大人も遠巻きにしてしまう程の迫力がある。そいつらが全身から雰囲気の悪い気を放って、トオルを取り囲んでいるのだ。


「どうしたトオル。悪い事でもして、締められているのか?」

 俺が工業高校のスペースに入ると、歯欠けが苦笑いする。

「オイ坊主。締めるなんて、行儀の悪い言葉を何処で覚えて来るんだ?」

「酔っ払ったトーチャンを、良くカーチャンが締めている。言葉の使い方、間違ってないよな」

 あぁ、あの赤鬼か。と、歯欠けは呟いた。坊主頭がやって来て、興味深そうに俺の顔を覗き込む。

「あの武闘派の先輩たちがビビっている姉御と、結婚した豪傑ってどんな感じなのかな」

「普通のオッサンだぞ。ちょっと背がデカいけど」

 俺の返事に二人の不良は、何だか感慨深そうな表情を浮かべた。


「よし! 右・右・左! インパクトの瞬間は、もっと手首を内側に捻って!」

「うっす」

「パンチを当てるのは、中指と人差し指の付け根だよ! ほら外すから、ミット音が軽くなった」

「うっす」

 奥ではトオルがアンチャンを相手にミット打ちをしていた。これから試合があるだろうに、無駄な体力を使っているなぁ。


「おいトオル。もう試合だろう? 今更、練習してどうなるんだ。俺と同じで夏休みが終わってから、宿題するタイプなのか?」

 トオルは気勢が削がれたように、鼻を鳴らす。アンチャンはミットを、パンパンと叩きながら笑っている。

「これは試合前のアップと言ってね。人によるんだけど、急に動き始めると身体に良くないんだ」

「それだけ動いたら、本番前に疲れちゃわないか?」

 トオルは肩を竦めると、誰も居ない空間にパンチを打ち始めた。これはシャドーボクシングという練習方法らしい。


 それにしても、この辺りの雰囲気は最悪だ。歯欠けたちの無駄な威嚇のせいで、他高の生徒どころか、応援の人間すら近づいて来ない。どうしてこんな事をしているんだ? そう聞くと、これはトオルの身辺警備なんだと歯欠けが答えた。

「トオルは今大会の、優勝候補だからな。また結果が出る前に、選手を潰される訳には行かねぇんだ」

「また? 選手を潰す?」

 俺は小首を傾げた。話続けようとした歯欠けは、アンチャンを見て鼻を鳴らした。


「ケンタ君には、これから手伝って貰いたい事があるんだ。悪いけど、ちょっと話を聞いて貰ってもいいかな」

アンチャンはフニャリと笑って、俺の肩に手を置いた。



「僕が一年生の時、この大会で優勝した事は聞いたでしょう?」


 話し始めたアンチャンを、ボクシング部の不良たちは悲しそうな目で見つめている。県大会に優勝すると次に、日本一を決めるインターハイへ出場することが出来るのだそうだ。日本一になることは凄い事だし、プロボクサーになってお金を稼ぐ事だって夢ではないらしい。

 インターハイでも優勝の大本命だったアンチャン。夜道を一人で歩いている時に、後ろから木刀を持った二人組に襲われてしまったのだ。

「あんなに強いアンチャンでも、やられちゃう事があるのか?」

「後ろから木刀で叩かれて、無事な人なんていないよ」


 そう言ったアンチャンを、化け物でも見るような目で、歯欠けは見つめた。

「襲って来た二人組だけどな。両方ともノックアウトされたんだよ。シンヤは木刀で殴られた後、そいつらを殴り倒したんだ」

「頭を叩かれた後、全然記憶が無いんだけど、身体が動いたみたい。練習は裏切らないんだねぇ」

 ヘラヘラと笑うアンチャンを、無言で見つめる不良たち。これまでにボクシング部で、何度も話した事なんだろう。それ以上、余計な口を挟む者はいなかった。


 結局、三人が倒れている所を誰かが見つけて、警察に連絡した。

「不良たちが暴れて、倒れている」

連絡した人間は名前も名乗らず、そう言って電話を切ったらしい。その後の警察の取り調べが最悪だった。いつの間にかアンチャンが、二人組を襲った事になっていたのである。更に未成年という事で、二人組の素性も教えて貰う事が出来なかった。


 ボクシング部は必死でアンチャンを護ろうとしたけど、どうにもできなかった。不良の集まりだった事も、警察の印象を悪くしたのだろう。公式試合一年間の出場停止処分まで、貰ってしまった。


 でも本当に最悪だったのは、別の事だった。


 頭を強く叩かれたアンチャンは、運動機能が低下し左足が上手く動かなくなった。それから頭の中に血の塊が出来て、今度強い衝撃を受けると死んでしまう。そうお医者さんに言われてしまった。



 ……アンチャンはボクシングの試合に、出る事が出来なくなってしまったんだ。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る