第9話 薄い本の話



 暫くすると小麦が、一人でギターを抱えて座り込んだ。その途端、辺りの喧騒が止まる。誰一人として、口を開かない。風の音しか聞こえない、シンと静まり返った世界で皆が何かを待っている。


 小麦が一人で演奏して歌うみたいだ。ギターの表面を叩いて、リズムを刻みながら弦を弾く。ゆっくりとした散歩ができそうなリズム。小さなギターと、痩せっぽちのネーチャンが歌っているだけなのに、まるで耳元で歌われているようにハッキリと音が聞こえた。


「愛している」


 君はそういうけれど、僕が聞きたいのは、そんな言葉じゃない。リズムは変わらないけれど、弦の音は増えていき、歌声は透明感を増してゆく。


「言葉じゃないんだ」


 いつの間にか、周りの研修生たちが下を向き始める。大好きな人や遠く離れた恋人を思い出しているんだと、トオルは言う。言葉は分からなかったけど、きっとそうなのだろう。優しく透き通った曲だった。

 何でも三十年位前のヘビメタ系バンドが、作った曲らしい。ヘビメタって悪魔みたいなお化粧をして、爆音を出すだけじゃないんだな。


 見ると研修生たちに混じって、アンチャンもボロボロと涙を流していた。余韻を残して、曲が静かに終わる。暫くの間、誰も見動きができなかった。小麦がギターを置いた瞬間に、魔法のように周囲の時間が動き始める。



「凄く素敵! 小麦さんって、歌の天才だったんだねぇ」

 小麦の手を取って、ブンブンと振り回すアンチャン。小麦は誰かに救いを求めるように、キョドキョドと辺りを見回す。

「天才だなんて、そんな…… 少し音楽を齧ったくらいで、私なんて大した事ないです」

「そんな謙遜しなくていいよ! 感動しちゃった。お礼に僕ができること、あるかなぁ」

 アンチャンの言葉に、小麦の目が妖しく光った。


「あ、あの! お礼が欲しい訳じゃないんですが、ちょっとお願い事が……」

 小麦は素早く立ち上がり、リュカの手を引く。押し付けるようにアンチャンの隣に立たせた。やっぱりリュカは大男だ。頭一つ分はアンチャンよりデカい。小麦は魔法のように、スマホを取り出すと矢継ぎ早に指示を出した。

「はい! その立ち位置で、お二人とも目と目を合わせて下さい!」


 カシャシャシャシャ!


 二人が目を合わせた瞬間、連続写真を撮り続ける。それから愛美に視線を送った。愛美は小さく頷いた後、俺の手を取る。

「ほら、ケンタ! ボーッとしてないで行くよ」

 俺を二人の傍まで引っ張って行った。

「はい、リュカ! 彼を抱き上げて! シンヤ君は彼から視線を外さない!」


 剃刀のように触れれば切れそうな、鋭い指示が飛び交う。呆然とする俺たち三人。

「おい、小麦。お前、何やっているんだ?」

「!!! そう、その表情! ケンタ君。リュカの首にしがみ付いて!」

 余りの迫力に押され、眉根を寄せた俺は、リュカに抱き付いた。


 カシャシャシャシャ!


「あぁ、素敵! 神様…… グフッ」


 スマホを構えたまま、小麦は鼻を押さえた。鼻血か鼻水でも出したんだろう。馬鹿馬鹿しくなった俺は、リュカから離れて余っていた焼トーキビを齧り始めた。



「小麦さん! どうでした!」

「あぁ、愛美ちゃん。宝物が増えてしまいました……」

 陶然と呟く小麦。愛美は自分のスマホを取り出して、小麦のスマホの傍で振り始めた。

「Rine登録を申請しました! 了承をお願いします」

「うふふ。良いお友達ができました。これからも宜しくお願いしますね……」

「はい! 色々と教えてください」

 グツグツと笑い始める二人。それを遠巻きに見つめる、研修生たちの表情がみんな白かった。


「……まぁ、歌が上手いのは本当だしねぇ。ちょっと癖が、残念な感じだけど」


 アンチャンが肩を竦めた所で研修会は、お開きになる。参加者は道具を片付け始めた。愛美は紙袋の中に小麦から借りた、薄い本を何冊も入れしっかりと抱きしめている。



 その日の晩御飯の時に、トーチャンとカーチャンに話をした。大豆を蒔いた話、トウモロコシの話、小麦と愛美の話。上手く話せたかな?


「もう大豆の種蒔きの時期なんだね。枝豆が待ち遠しいな」

 トーチャンはニコニコ笑いながら、ビールを呑んだ。確かに今日蒔いた大豆の枝豆は、凄く美味い。初めて食べた時、食べ過ぎて俺は下痢をしてしまった位だ。トーチャンも大好物で、収穫されるのが楽しみらしい。


 枝豆が美味しすぎて、ビールを呑み過ぎると言っていた。別に枝豆が無くても、トーチャンは何時だってビール呑み過ぎて、カーチャンに怒られているけどな。

 今だってお土産に貰った焼トーキビを肴に、美味そうにビールを呑んでいる。


「それにしても愛美は大丈夫か? 小麦って女は、ちょっとヤバそうだな」

 カーチャンは眉を顰めた。

「そうなんだ。俺とアンチャンをくっ付けたり、リュカとアンチャンを並べたりして、ヒャーヒャー言っているんだ。意味が分かんないぞ。カーチャン分かるか?」


「意味は分かるが、ケンタは知らなくていい。アイツら、ウチの息子を腐らせるつもりか!」

 カーチャンはプリプリと怒り、トーチャンは苦笑いをしている。



 小麦と付き合っていると俺、腐っちゃうのか?



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