第2話 カゲロウの話



 アンチャンと会って暫くしてから、自転車でトオルのランニングに付き合った。トオルは少し離れた工業高校という学校の一年生になった。ジーサンから教わった合気道の練習は続けているけど他に、ボクシングを始めたらしい。

 その高校のボクシング部は県内でも有数の強豪で、何度もインターハイに出ているらしい。


「インターハイって凄いのか?」

 走りながら、トオルは苦笑いする。

「出来損ないや不良の吹き溜まりのウチでは、凄いだろうな。プロボクサーになった人もいるぞ」

「ふーん。そう言えばこの前、トオルの知り合いのアンチャンに会ったぞ」

「誰の事だ?」

「名前は聞いてない。金髪でヒョロ長くて、ヘラヘラ笑ってた」


 キキッー


 突然立ち止まったトオルに衝突しそうになって、俺は急ブレーキをかけた。

「急に止まったら危ないだろ!」

「おい。その人って」

「左足を引きずっていたぞ。それから星形の耳飾りをしていた」

 トオルは右手を額に当てて、空を仰いだ。


「星のピアス。 ……シンヤ先輩だ。お前、失礼な事してないだろうな!」

「やっぱりアンチャンの事、知ってるのか」

「アンチャンなんて言うな! 殺されるぞ!」

 トオルは真っ青になっていた。両手で俺の頬っぺたを引っ張りながら、真剣な顔で俺と目を合わせる。俺の頬っぺたは、極限まで引き延ばされた。トオルの指は震えている。

「イタッ。イタァーヒ!」

「おぉ。すまん」

 慌ててトオルは手を離した。まだ頬がジンジンする。俺はトオルを蹴飛ばした。

 その後は、何を聞いてもトオルは返事をしなかった。家に帰る分かれ道で、トオルは真面目な顔をして、俺に言った。


「いいか。あの先輩はヤバいんだ。絶対付き合うなよ!」


 前にも誰かに、同じ様な事を言われたような気がする。まぁもう、アンチャンに会うことも無いだろう。トオルは何度も振り返りながら帰って行った。

 もう辺りは暗くなり始めている。俺達を馬鹿にするように、山へ帰るカラスが鳴き声を上げた。




 トオルと話した翌日の夕方。


 俺と愛美は河原で、猫の墓に花を置いていた。愛美がどうしても、お参りしたいと言い出したからだ。俺も河原に行くつもりだったから、丁度良かった。

「ケンタはどうして、河原に来るつもりだったの?」

「多分、そろそろ始まると思うんだ」

「?」

 いつもに比べると、飛んでいる蝙蝠の数が多い。川で飛び跳ねる魚も目立つようになった。きっと今日明日中に始まる。その時、草むらがガサリと音をたてた。ヒョロリとした人影が現れる。

「あれぇ? ケンタ君じゃないの」 

「おぉ。アンチャンも見に来たのか」

「そろそろかなぁ、と思ってね」

 チョイチョイと俺のシャツを愛美が引っ張る。小声で俺に耳打ちする。

「ケンタ! 不良だよ。関わっちゃダメ!」


「猫は、このアンチャンと埋めたんだ」

 ビックリした顔の愛美。慌ててお辞儀をする。

「あの、ありがとうございました。私、この子を埋めてあげたかったんですけど、怖くて触れなかったんです」

 アンチャンはフニャリと微笑んだ。からかう様にウィンクする。

「どういたしまして。可愛い子だねぇ。ケンタ君の彼女さん?」

「違います」

 別に良いけど、愛美はアッサリと否定した。アアソウと、アンチャンも毒気を抜かれたような顔をしている。


 ザッ


 その時、風が変わる。ふわりと地面が持ち上がったように見えた。

「やっぱり今日だ!」

 一瞬夕日が陰る位、大量の羽虫が一斉に飛び上がる。初めて見た愛美は、その場で固まった。

「なにこれ!」

「カゲロウの羽化だ! やっぱりスゲー迫力だ!」


 夕日に照らされた大きな群れが、オレンジ色に輝く。何重にも重なるグラデーションが、川面の上昇気流に乗せられて吹き上げられる。カゲロウは、そのまま天国まで昇ってしまいそうだ。

「うわっ、綺麗」

 愛美は思わず声をあげる。俺たち三人は、無言で大自然の神秘を眺めていた。

「今日は運が良かったなぁ。これが見られると、何だか良い事がありそうな気がしない?」

 しばらくしてアンチャンが、ため息をつく。


「何でこんなことが起こるの?」

 愛美は心底不思議そうに尋ねた。アンチャンも俺を見る。

「トーチャンの説明だと、結婚式らしいぞ。ここで結婚して、卵を産むんだ」

 俺は地面に落ちたカゲロウを一匹拾った。もう弱っていて、あまり動かない。昆虫を食べる生き物にとって、カゲロウは御馳走だ。


 空では無数の蝙蝠が群れに突撃している。川では魚がカゲロウを待ち構えていて、水に落ちた瞬間にパクリと呑み込まれた。でも、周りで幾ら頑張っても、とても全部を食べ切れるとは思えない。食べられなかったカゲロウが、産卵して群の命を繋ぐんだ。

 だから大勢で結婚するのだろう。人間が生まれるずっと前から。そうトーチャンは言っていた。


「ケンタ君は何でも知ってるねぇ」


 アンチャンは俺の頭を撫でた。そんな事は無い。ただの受け売りだ。俺はアンチャンの腕を振り払う。ニヤリと笑った兄ちゃんは俺を羽交い締めにして、頭をグリグリ撫で始める。それを見ていた愛美が、軽く引き始めた。

 そんな愛美を見てアンチャンは、妖しく微笑みかけると俺を抱きしめる。なぜか顔を真っ赤にする愛美。


「ちょ、ちょっと」

 愛美は両手をバタバタさせ、俺たちの周りをウロウロする。

「別に良いでしょ。君はケンタ君の彼女さんじゃ無いんだし。何だかカゲロウの結婚式を見ていたら人恋しくなっちゃった」

 何を言っているんだ? と思うと、アンチャンは俺の耳に口を近づけ、小声で囁いた。

(ちょっとそのまま動かないで)

 というので力を抜いた。


「ヒッ キ、キス」


 愛美が息を呑んだ。どうやら角度的に、そう見えたらしい。

「お、男の人同士で、そんな事するのイケナイと思う!!!」 

 愛美は後退りながら叫んだ。何を言っているんだ? 俺はアンチャンから無理やり身体を引き離す。

「おい、もうすぐ暗くなるから送って行くぞ」


 ギャー!!!


 愛美は大声を上げて、土手を駆け上がる。運動が苦手で普段は鈍臭い筈なのに、すごいスピードだ。また明日な、と声をかけると、また悲鳴が聞こえる。

「アンチャン。愛美は、どうしたんだ?」

アンチャンは腹を抱えて大爆笑し、土手を転げ回っていた。



 カゲロウの羽化を見た翌日から、ふと気づくと、愛美が無言で俺を見つめていることが多くなった。俺を見て勝手に顔を赤くして、手足をジタバタさせている。

「どうしたんだ?」

 話しかけると、慌てて何処かへ行ってしまう。変な奴だなと思って席に戻ると、また何処かから視線を感じた。愛美が教室のドアの向こうから、半分だけ顔を出してジッと俺を見ている。


 しばらくして元に戻ったけど、愛美が何日か薄気味悪かった。


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