第2話

 そんな論争の翌日の放課後。


 「やることがある」と言い残して忙しそうに去って行った姫宮を、星川は「はいはい」と教室の自席で見送った。普段のように物見遊山で見物をしに行ってもよかったのだが、あんまり付き纏って彼女の不興を買うのも好ましくない。程よく距離を置くとする。


 しかし、どんな予定があるのか気になるのも事実。帰路で尋ねるべく彼女の予定が終了するまで適当に時間を潰そうと、星川は席を立って校内を彷徨うことにした。


 そうしてふらりと訪れたのは、教室棟二階にある図書室だった。見回すと、生徒は片手で数えられるほど少ない。それも当然か。昨今、本は電子書籍で読むという派閥が増え始めている。読書以外に図書室を利用する者と言えば自制心が弱く自宅だと集中できないという受験生程度のものだが、それも今日は少ない様子だ。


 扉を開けて壁一面に並べられた書架から面白そうな題を目で探していると、ふと、テーブルの一画で本を広げて難しそうに何かをメモしている女子生徒が目に入る。


 普段の星川であれば景色の一つとして記憶領域から抹消する光景だが、それがしばらく目に留まったのは、彼女が見知った相手だったからだ。


「どうも」


 適当な本を手に取って向かい側に座ると、その女子生徒は徐に顔を上げた。


 緒方葉月だ。彼女はこちらを覚えていなかったのか、幾らか訝しそうに眉根を寄せた後、昨日の光景を思い出した様子で「ああ」と呟いた。そして相好を崩し「どうも」と応えた。


 こちらを鬱陶しく思う様子なら去ろうとも考えたが、応対してくれるらしい。彼女は区切りを付けたようにペンをテーブルに置く。


 星川は話の糸口を探すように本を置いて彼女の手元に置かれた書物群に目を落とす。


「受験――」


 勉強かと尋ねようとした口を星川は閉ざす。二年生のこの時期に熱心ですねと続けようとした言葉は消え失せる。星川の視線に気付いた彼女は少々バツが悪そうに目を逸らした。


 本の題は『食品衛生責任者』『食品衛生管理者』などなど。


 その意図は問うまでもないだろう。「おや」と星川は頬杖を突いて笑う。


 その笑みを受けた緒方は困った様子で肩を竦めた。


「まあ、『やることやってから来い』って言っちゃったからね。万が一にでももう一度来るようだったら相応の姿勢で対応してやらないと」


 自分でも自分を難儀な性格だと自覚しているのだろう。緒方は目を瞑って眉根を寄せるから、姫宮同様に面白い人間だと腹を揺すり、星川は唇を笑みに曲げる。


「先輩も偽悪的ですね。あの場で寄り添う姿勢を示せば角も立たなかったでしょう」


 すると、緒方は腕を組んで背もたれに背を預けた。


「別に、今も寄り添っているつもりは無いわ。私はただ義理を果たしているだけ」

「義理? アイツに命でも救われました?」

「馬鹿言わないで、初対面よ。そうじゃなくて」


 緒方は溜息の後に軽く後ろ髪を掻く。


「人に物を頼むなら相応の態度で示せと言った以上、彼女がそれを呑んで努力してきたなら、自分の発言に責任を持って約束を果たす。それから、仮にも同じ学校の先輩――生徒会役員の人間として、努力した一年生が報われるよう努めるという義理を守る」


 星川が思っていたよりも数段ほど、彼女は義理人情に厚いらしい。


 星川は姫宮に向けるような冗談の数々を水際で飲み込んで、「なるほど」と得心と理解を言葉に示す。もしも今後、姫宮が退屈な人間になってしまったら彼女を観察しようか。そんなことを思いながら談笑の切り口を探していると、今度は緒方が呟く。


「――ねえ、貴女達ってどんな関係なの?」


 唐突な疑問に星川は目を丸くした後、隠す道理も無い故、答えてから意図を尋ねた。


「恐らく『友人』ですが。それがどうかしましたか?」

「彼女と親しい人に聞きたい。彼女、自分で動くと思う?」


 陰口にならないよう言葉を選んだように感じられる、そんな疑問だった。


 星川は暫し考え込み、意図を探るように黙って緒方を見詰める。緒方はそんな視線を真っ直ぐに受け止め、瞳を微動だにさせず見詰め返してきた。質問の意図は分からないが、笑いものにしてやろうだとか、姫宮を害するような意志はそこからは感じられなかった。


 探り合いよりも話し合いの方が有効な相手らしい。お互いに察して口を緩める。


「――動くと思いますよ。アイツ自身がそう言ってましたから」


 星川が椅子に座り直して答えれば、緒方は思案を隠さない表情で頷いた。


「そう。ありがとう」

「狡いですね。人には訊くのにご自身の質問の意図は教えてくれないんですか」

「聞かれてないもの。自分の話ばかりする人は疎まれやすいでしょ」

「そうでもありませんよ。私は是非お聞きできればと思いますが」


 はぐらかす意図が先ほどまで彼女にあったのかは不明だが、少なくとも今は無いようだ。


 緒方は腕を組んで視線を卓上に彷徨わせ、数秒ほど押し黙った後、徐に切り出す。


「――休み時間。彼女の教室前を立ち寄ることがあった」


 その簡潔な冒頭部分を聞いた瞬間、ざっくりと全貌が見えて、星川は苦笑する。


「授業で二枚のノートを取っていた子が片方を彼女に渡して、次の教室移動で運ぶ荷物を男子が代わりに持っていた。今日の放課後にも掃除当番を他の生徒が肩代わりしている姿を見た。彼女から頼み込んでる訳じゃないみたいだけど、甘やかされているように見えたわ」


 丁寧に言葉を尽くしてくれた緒方へ、星川は苦笑し続けたまま尋ねるように呟く。


「単刀直入に、『甘ったれ』だと」

「そこまで言ったら陰口でしょ。自分で積極的に動くのが不慣れに見えたって話。私、本人に言えないことは陰でも言わない主義なの」

「はは、先輩なら面と向かっても言えるでしょう。そんくらい」


 どうやら軽口は事実だったようで、緒方は軽く肩を竦めてそれを否定しなかった。


 そんな彼女をしばらく眺め、それから星川は図書室の窓辺に目をやる。微かな朱色を帯びた鮮やかな青の空と流れる雲を眺め、朧げな思考の海から顔を上げて溜息を出す。


「…………先輩の言葉を借りるなら、私も『義理』を果たすとしましょうか」

「『義理』?」

「そんな大層な名前を付けるものでもありませんがね。友人として、誤解を解こうかと。どうやら先輩は、一つ、アイツのことを誤解している様子なので」


 恐ろしく歯切れは良いのに要領を得ず含むような言い回しをする星川。緒方は訝しがるように眉根を寄せた後、それを遠慮する理由も無いから、居住まいを正して傾聴した。


「アイツ――姫宮の行動原理は単純です。ただ、ちやほやされたいだけ」


 緒方はどう相槌を打っていいのか分かりかねる様子でぎこちない首肯を返す。友人を名乗る人間がそこまでハッキリ言うとは思っていなかったのだろうが、これはただの前提だ。


「姫宮とは中学からの付き合いなんですが、どうやら家族から溺愛されて育っているみたいなんです。で、人間が誰しも抱く自己承認欲求や自己肯定への願望が人一倍強い。ただね、緒方先輩には釈迦に説法かもしれませんが、世の中、誰もが家族のように愛してはくれない」


 当然の話だろう。緒方の表情に機微はなく、彼女は無造作に頷いた。


「そりゃそうでしょうね。世の中はそんなもんでしょ」


 どこか投げやりな相槌に、星川はにやりと笑ってこう続けた。


「そう。だけど、それを受け入れられないのが姫宮灯里なんですよ」


 まるでお気に入りの玩具を自慢するような顔で、星川は更に話を続けた。




 そんな星川の話を聞き終えた緒方は、今一つそれを咀嚼しきれない状態で図書室を後にした。彼女が語った『姫宮灯里』という人物像が真実だとすれば、度し難い狂人がこの学校に存在し、それがあの人当たりの良い可愛らしい笑顔の裏側に隠れていることになる。


 疑うに足る強い根拠はないが、しかし信じるには些か荒唐無稽だ。


 もう少し星川から話を聞きたいところではあったが、今日は生徒会の作業があるということで別れざるを得なかった。六月後半に控えた生徒会選挙に向けてのスケジュール調整と書類作成、それから校内掲示のデザイン構築の作業だ。デザイン構築については他四名に任せているが、スケジューリングなどの細かい書類作業は全般的に緒方が請け負うのが通例だ。


 緒方がそれらの作業に精通しているという部分も大きいが、他のメンバーが総じて電子資料の作成を苦手としている点が強い。ハッキリと言って前年度の生徒会選挙は失敗だったろう。


「お疲れ様です」


 少し遅れて生徒会室に入ると、見慣れたメンバーがデスクでダラダラと時間を過ごしていた。


 面々はその調子のまま「お疲れさまー」と間延びした声で応え、そんな様子に緒方は思わず溜息を出して片手で顔を覆う。それから投げやりに今日の残存作業を尋ねようとした矢先、


「あ、今日の作業はもう全部片付いてると思うよ」


 一瞬、言葉の意味を理解できずに緒方は表情を失った。怪訝な顔を取り戻し、自分の常識を疑って言葉を再解釈するも文面以上の意味は測りかねて、「はい?」と真意を尋ねた。


 普段は書類作業をこちらに押し付けているのに今日は片付いているという話も意味が分からないし、それをまるで他人事のように語っているのも理解できなかった。どちらから、どのように言及すればいいのかも分からず、取り敢えず誰かに説明責任を果たさせる。


 応じたのはスマートフォンでソーシャルゲームに勤しんでいた三年女子の役員だ。


「ほら、昨日来たあの子、居るでしょ? あの子が過去の文化祭関連の資料を借りたいらしくて、代わりに今日の仕事も全部持って行ったの」


 姫宮と星川の顔が思い浮かんだ後、すぐに先ほどまで会話していた星川を除外。


 頭の中に残るのは、あの誰かに頼ることに慣れた様子の甘えた一年生の顔だった。次いで、彼女について語った星川の言葉の数々を思い出し、言葉を探しながら後ろ髪を掻く。


「で、資料が戻ってくるまでは生徒会室を開けとこうかという話になった」


 三年男子の生徒会長が呑気にそう補足して、緒方は状況を正しく把握する。


 姫宮という奇妙な人間の奇行はまだ理解できないが、起きた事は事実である以上、それは理解できるし、受け入れて認めざるを得ない。


 緒方は固いものを飲み込むように神妙な表情を作る。


 次に、軽い懸念を抱く。――普段は自分の手によって片付けている書類を、果たしてあの一年生が片付けることができるのだろうか、と。現状において緒方が姫宮を信頼する理由は殆ど存在しない。無論、楽をするために彼女に仕事を押し付けるのも一つの手段ではあるが、副会長という立場である以上、楽観視して責任を負うのは御免だ。


「ちょっと様子を見てきます。場所、どこに居るか知ってますか?」


 「水島先生に数学準備室を借りてたよ」と、生徒会顧問の先生の名前が出てくると同時、「どうもです」と手を振り言い残して緒方は階下の数学準備室へ向かった。


 間もなく数学準備室の前に辿り着いた緒方は、ノックもせずに勢いよく引き戸を開けた。十七時を迎えようというこの時間に残って作業をしている数学教師は居ないと知っているからだ。


 鍵が掛かっていない扉が滑るようにぬるりと開き、がらりと音を立てた。途端、


「ぴぎゃ⁉」


 と、準備室から可愛らしい悲鳴が上がった。


 傾いた夕日によって染められた橙色の数学準備室は四人用の長机が中央で向かい合わせて置かれており、その半分が雑多に積み重ねられた数学のプリントや提出物で埋まっている。


 残る半分に幾つかの書類や冊子、そして備品のノートパソコンが置かれており、その前に女子生徒が一人座って、まん丸く見開いた目で唖然と唐突な来訪者を眺めている。


 パクパクと、驚きに口が開閉していた。


 姫宮灯里だ。やはり、本当に生徒会の作業を奪っていったらしい。そして見たところ、仕事は全て片付いている様子だった。今は過去の文化祭の事例を追っている。




『アイツの代わりにノートを取っていた女子、実は入学前に利き腕を骨折してたんです。で、姫宮はその女子の代わりに一か月間、全教科のノートを代わりに取っていたんですよ』




 緒方は、図書室で星川の語ったその言葉を思い出す。


『アイツと掃除を代わった女子は、実は美化委員会でして。ある日、委員会作業として清掃作業を任されたんです。で、そいつはすっかりそれを忘れていた。危うくお説教を食らいかねなかったところ、姫宮は誰にも替え玉を気付かれぬままひっそりと作業を肩代わりした』


 先程そう語った星川に、緒方は困り果てていた。


 姫宮灯里は甘やかされるのが好きなのだろう。だが、単に甘ったれた人間と評するには、少しばかり他人に寄り添い過ぎている。そんな人間を、どう見ればいいのか分からなかった。


『姫宮は人に甘やかされるのが好きで、でも、現実は人に優しくないから――アイツは恩を売って、その恩義で人に可愛がられる生き方を選んだんです』


 その時の星川は、心の底から楽しそうに微笑んだ後、『でもね』と続けた。


『アイツは皆に甘やかされているつもりでしょうけど、実のところ……皆、姫宮に恩返しをしているだけなんです。知っての通り、打算的な奴なんですがね』


 そう前置きした後、星川は憎めない様子で姫宮をこう評した。


『アレで、やるべきことはちゃんとやる、他人を放っておけない奴なんです』


 緒方は星川の言葉を思い出しながら、しばらく姫宮を見詰めた。


 先程までは自分で行動することのない甘ったれだと思っていた。だが、この様子だと――


 緒方は紡ぐ言葉も見失ったまま泰然と部屋に踏み入ると、後ろ手に戸を閉めて彼女の近くに歩み寄る。少し人に慣れた程度の野良猫が通行人に対して仄かな警戒心を覗かせるような調子で、姫宮は黙ったまま緒方の一挙手一投足を観察している。


 居心地の悪さを覚えつつ、緒方はテーブルに置かれた、印刷されたらしき生徒会選挙に関するスケジュール表を手に取って確かめる。


「あ!」


 弾かれたように声を上げる姫宮を無視して、書類に目を落とした。


 ――丁寧だ。それを見た時、緒方は最初にそんな感想を抱いた。


 とにかく丁寧にスケジュール調整がされており、例年は記載していなかった細かい注釈なども追記されている。それでいて過去の資料をよく読み込んだだろうことが窺えるような、細かい部分で要点を押さえた造りだ。文字のインデントなど、文書作成ソフトの知識不足による僅かなレイアウトのズレはあるが、今後も使い続けるテンプレートとして残すならばともかく、今回の生徒会選挙のスケジュールとしては必要十分以上の完成度だ。


 警戒心を隠さない姫宮を尻目に、緒方は他の書類も見る。


 静かな数学準備室に紙の擦れる音だけが響き、一分。書類を読み終えた緒方は、それらを纏めた後、机に落とすようにして整えてから思わず鼻で笑っていた。


 ドキドキと回答を待っていたらしい姫宮は、その所作に怒りを露にした。


「な、なんですか! ちゃんと仕事はしましたけど! 文句でも?」


 不服そうな物言いに、緒方は容赦なくソフト周りの不備を指摘しようとして――寸前で言葉を呑んだ。自分の作業であれば何も言わずに修正しただろう。だが、自分の果たしたい目的の為に、誰に要求された訳でもない仕事を引き受けた彼女に文句を言いたくなかった。


 これが生徒会役員で、自分の指導対象であれば話は別だが。


「そうね、思ったよりしっかり作られてる。このまま使って問題なさそう」


 素直に認めてやると、姫宮は一瞬の安堵を挟んで、嬉しそうな笑みを覗かせた。だが、相手が緒方だということを思い出すと速やかに顔を歪めて「当然です」と可愛くないことを言う。


 それから緒方は彼女の手元の資料に目を落とす。過去の文化祭の事例――出店内容や議事録のまとめだ。どうやら昨日の話をまだ諦めていないらしく、その上、緒方の言葉を素直に受け止めて自分なりにできることを模索している様子だった。


 どうやら姫宮という女を見くびっていたらしい。


 緒方はブレザーのポケットに手を突っ込んで姫宮を見下ろす。


「そんなに飲食店、やりたいの?」


 不意の質問に、姫宮は警戒心を剥き出しにしつつも素直に答えた。


「……私は別に。ただ、友達がやりたがっていて」


 他人を放っておけない奴だという星川の評価を思い出し、緒方は後ろ髪を掻いた。『甘ったれた奴ですが、甘やかされるための努力は欠かさないんです』と面白い玩具を紹介するように言った星川を思い出し、緒方も胸中でそれに賛同する。確かに、面白い人物だった。


「私がどうにかすると言ったので、吐いた言葉は撤回したくないです」


 そう言いながら調査を再開する姫宮。


 緒方はそれを見て言葉を探すように視線を彷徨わせると、行き場を失ったそれを抱えるように目を瞑った。ふぅ、と彼女に聞こえないくらいの小さな溜息をこぼし、彼女の隣の椅子を引いた。怪訝な眼差しが突き刺さる中、構わずそこに腰を落とす。


 姫宮は動揺を隠せない調子で「あの……?」と緒方を見た。


 返す言葉は、軽い謝罪からであった。頭を下げる。


「貴女の事を単なる甘ったれだと誤解していた。悪かったわ。ごめん」


 直接的に言った訳ではないが――それでも、そう認識していたこと。そして、それを動機に、礼節を欠く話を星川と交わした。その謝罪が必要だと判断した。


 日が傾き、差し込む夕日に段々と紫が滲み始めるような沈黙。姫宮は悪いものでも食べたのかと尋ねてきそうな表情で唇を開閉させた後、むっと唇を閉じて押し黙る。調査の手が止まった。不服そうに、照れ隠しのように唇を尖らせる。


「……別に、間違ってはいないです。実際、昨日生徒会室で話を持ち掛けた時は、役員の皆さんにやってもらう前提でしたから。『友達の頼みを引き受ける』ことに意識が向き過ぎていて、『人を動かそうとしている』ことに頭が回っていませんでした。……すんません」


 そう自己分析をできるくらいには理性的らしい。緒方は思わず苦笑をする。


「それが自覚できているだけで充分でしょ。結構見直したわ」

「こんなんで見直されるんですか。どれだけ今までの評価が低かったんですか」

「ハードルで言うとこの辺」

「それハードルじゃなくて床ですね」


 内履きで床を叩くと、そんな緒方に姫宮は容赦なく鋭いツッコミを返す。


 緒方が思わず乾いた軽い笑いをこぼすと、姫宮も堪えきれない様子で唇から空気を吐き出す。緒方が見れば、彼女はすぐにムッと唇を閉じて素っ気ない態度を務めようとする。


「嫌われたもんね」

「わ、私は私を好きじゃない人が好きじゃないですから」

「そんなに人に好かれたい?」


 間髪を挟まずに問うと、彼女から少々の怒りを孕んだ瞳が返ってくる。


 しかし、緒方の言葉が揶揄の類でないことを、軽薄ながらも返答を待望するような表情から察した様子だ。怒りが鎮火し、感情の勢いを動揺に転換した後、瞳をテーブルに落とす。


「……先輩は」

「うん?」

「人に嫌われるのが好きなんですか?」


 緒方は頬杖を突いて瞑目し、返答を考える。五秒ほどで回答は出た。


「流石にそこまで斜に構えてはないわね。でも、無関心は心地良いと思う」


 その返答を聞いた姫宮は少々の驚きの後、寂しそうに「じゃあ理解してもらえないかも」と前置きをした。緒方が流し目を返すと、彼女は躊躇いがちに当初の質問へと回帰する。


「私は人に好かれたいです。愛されたい。嫌悪や無関心より愛情や好意が好きです。一の愛情を示したら一億の愛情を注ぎ返してほしいです。全人類に甘やかしてもらいたい」


 聞いていて可笑しくなるほど都合の良い理想だが、冗談ではなく本気だ。


 本気で彼女は人に愛されることを渇望し、きっと、そこに大きな理由もない。


 姫宮灯里という人間は人に愛されるのが好きで、そのための努力を厭わない変人なのだ。そう、変人。――その言葉を定義することでようやく尺度を測ることができた緒方は、得心して軽い笑みをこぼす。「なるほどね」と呟くと、姫宮の少し悪戯めいた笑みがこちらを見た。


「だから先輩も、もう少し私を可愛がってくれていいんですよ」


 と、胸に手を置いて唇を緩める。本心か冗談か。緒方のどんな言葉が作用したのかは分からないが、先ほどまで抱いていた警戒心が僅かながら緩み剥離したその内側で、彼女は笑う。


 緒方は足を組んで苦笑し、膝に頬杖を突いて適当に冗談を聞き流すパフォーマンスをする。だが、腹の内ではそれも悪くないと感じていた。そこに葛藤はない。緒方は「そうね」と呟いた後、その言葉に目を剥いて硬直する姫宮の、手元の冊子――文化祭の記録を奪い取った。


「あ、ちょっ――」


 驚きつつも資料を奪い返そうとする姫宮。緒方は唇を濡らす。


「――何を調べてる?」


 唐突な質問。資料を奪い返そうという気持ちと、手伝ってくれるのかという動揺と、質問に対する返答の模索でキャパオーバーを迎え、姫宮は露骨に狼狽えた。だが、緒方が急かさず、しかし時間を無駄にしないよう資料を流し読みしながら待つと、落ち着いた姫宮が恐る恐る、飼い主の様子を窺う子犬のように質問に応じた。


「取り敢えず、過去に何が開催されていたのかを把握しようと思って……」

「食中毒事件前は飲食の出店が行われていたかってこと?」

「そうです」

「目的は?」

「……え、えっと、取り敢えず昔はやっていたんだから今回も、って説得しようと」


 緒方はページを捲る手で額を押さえて絶句する。姫宮も自分で言っていて稚拙な言い分だと感じたのか、恥じ入るように顔を赤くして俯いた。「うるさいです」「何も言ってないでしょ」と嫌味を言い合った後、緒方は「まあいい」と話を本筋にも戻して進めた。


「以前に飲食の出店があったのかなんて、確かめるまでもないでしょ。食中毒が発生してるんだから。――説得をするときは『自己の都合の通し方』じゃなくて『向こうの都合の折り方』を考えなさい。今回で言うと、学校は明確に食中毒事件の再発を恐れ、そのリスクを根絶する効率的かつ無情な手段として飲食出店禁止を選んだ。であれば、説得の方向性は私達が如何にして『食中毒発生の回避に努めるか』。ここまではいい?」


 昨日の姫宮の来訪以降、漠然と考えていた説得の方向性をペラペラ語ると、姫宮は目を白黒させる。付いていけない様子で慌てるも、緒方が彼女の理解を待てば、彼女もそれに気付いた様子で少しずつ頭の中で言葉を整理して「待ってください」とスマホでメモを取り始めた。


「――いい? 調査するのは前回の食中毒発生の原因。これは生徒会の議事録に残っていないから教職員への聞き込みなんかで調査しておく必要がある。『何が食中毒を起こしたか』『どうしてそうなったか』『どうすれば回避できたか』――三つ。少なくともその三つを用意して私のところに持ってきなさい。そしたら、ちゃんと手伝ってやる」


 緒方は真っ直ぐ姫宮を見た。


「私も説得に協力してやるから」


 伝えている内容はつまるところ昨日のそれとは変わらないが、昨日よりは少し言葉を尽くしたつもりだ。そして、それは姫宮にも伝わっていることだろう。


 姫宮の表情がグルグルと不安定に変わっていく。緒方の協力的な姿勢に驚きを示したかと思えば、その内容を喜ぶような笑みを覗かせ、しかし意地を張るように少し不服そうに歪めたかと思うと、考え直すように困ったような顔でテーブルを見詰める。


 やがて、感情と表情を初期化するようにぎゅっと目を瞑ると、一抹の罪悪感と感謝を混ぜ合わせた微笑を浮かべ、姫宮は膝をこちらに向けて座り直す。そして、頭を下げた。


「私もちょっと、先輩のこと誤解してたかもです。ごめんなさい」


 次に面食らったのは緒方だ。だが、生きてきた歳月の一年の差か、すぐに苦笑する。


「……最初からそれくらい可愛げがあればいいんだけどね」


 途端、姫宮はガバッと顔を上げると不満そうに自分の胸に手を置いた。


「は、はい⁉ 私を捕まえて何を言うんですか、この可愛さの権化に!」

「アンタのそれは自己愛でしょ。自己愛の権化」

「自己愛じゃなくて可愛いものを愛してるんです。そして私が世界一可愛いから、私を世界一愛しているんです。単なる自己愛で括らず、もっとロジカルに考えてくださいね」

「……何を食って育ったらそんな図々しくなれんのよ」


 彼女の容姿が客観的に優れているのは認めるところだが、それにしてもここまで自分に自信を持てるのは凄まじい話だ。よほど周囲に愛されて生きてきたのだろう――そう思うと同時に、今は、彼女が積み重ねてきた愛されるための努力を感じ取ることもできた。人に恩を売るのは打算的かもしれないが、それでも結果として人を助ける善行だ。そして言動だけでなく容姿も、習慣的な運動の形跡や顔立ちにあった化粧などを調べ、工夫しているのが分かる。


 姫宮は緒方の呆れたような小言に唇を尖らせた後、しかし、思い直して微笑む。


「でも、何だかんだ。最後には私に優しくしてくれましたね」


 微かな朱色を帯びた青葉が、彼女の赤みを帯びた黒髪と窓の向こう側で揺れた。


 淡い逆光で少しだけ薄暗い顔に滲む微笑みは、憎いほど綺麗で、緒方は思わず口を噤んでしまう。生意気な後輩の美貌と、それから、そんなものに言葉を奪われてしまった自分が腹立たしくて、緒方は嘆息と共に椅子を蹴るように立ち上がった。


「なんか滅茶苦茶腹が立ってきた。帰るわ」

「何でですか! 素直に認めてもいいじゃないですか!」


 徐に席を離れて出口に向かう緒方に、姫宮は不満を隠さずにそう叫ぶ。


 だが、やるべきことはやって、伝えるべきことは伝えた。後は普段から楽をしている生徒会メンバーに資料の返却待ちを任せて速やかに帰るとしよう。


 そう判断して姫宮を振り返ることもせず歩を進めて、ふと、「あ」と調子の変わった声が姫宮から上がる。


「そうだ、最後に一つ。調査資料の提出って期日はありますか? ほら、近々生徒会選挙もあるので、先輩が今季は役員をやらないなら個人的に渡した方がいいのかなー、とか」


 黙って去りたかったのに格好が付かないな、と思いながら緒方は半身を振り返る。


「生徒会の任期は気にしなくていい、今年もやる予定だから。ただ、文化祭の企画立案が始まる夏休み明けまでに用意しておかないと、アンタの努力の意味は無くなるかもね」


 それだけ言い残すと、姫宮の相槌も聞かずに緒方は振り向いて歩き始めた。


 やっぱり少し、素っ気ない。他の周囲の人々に比べると冷たく手厳しい。だが――悪い人ではない。姫宮の努力を正しく評価し、そして多少の慈悲を以て譲歩の姿勢を見せてくれた。不器用で、偽悪的で、芯のある優しい先輩であった。それを今日、確信した。


 姫宮は去って振り向く気配もない緒方に軽く舌を出して意趣返しをする。


 こっそりとクスクス笑った後、少しの好意に突き動かされて小さく手を振った。


 そして、そんな姫宮を引き戸のドア窓の反射越しに見ていた緒方は、鼻で笑った後に後ろ手に手を振り返した。その一瞬で諸々の所作が見られていたことに気付いた姫宮は、羞恥で顔を真っ赤に染めて声にならない声を上げるが、その頃には、それを聞く者は教室に居なかった。――姫宮は熱の消えない顔でしばらく、彼女が戻ってこないかを睨んで見守る。


 十秒経って、ふぅと吐息をこぼしながら背もたれに背中を預ける。


 顔が熱くて仕方がなかったから、しばらく両手を両頬に添えた。熱は引かない。頬がアイスのように溶けて緩んでいく。普段は人当たりの良い外見を取り繕って生きてきた分、取り繕わない剥き出しの素肌を見られた羞恥と迂闊な行動をした悔恨が顔面を襲っていた。


 紙粘土を捏ねるように頬を揉んだ姫宮は、それから胸を撫でて深呼吸を挟んで呼吸を整えた後、平静を取り戻すために普段の何気ない所作をなぞった。大きく身体を伸ばし、どうにか気持ちを切り替えて生徒会から借りている資料に目を通そうとする。


 だが、ふと緒方の言葉が脳裏に蘇る。


 ――私も説得に協力してやるから。


 思い出すと、「ふふ」と笑い声が漏れてしまう。誰に聞かれている訳でもないが恥ずかしくなって口を押さえ、物思いに耽った。今まで、人に恩を売った分だけ返してきてもらった。だが、緒方は貸し借りではなく、義理という堅苦しい名を冠した善意で姫宮に寄り添った。その事実が胸の奥をくすぐって、思わず口許を綻ばせながら膝上で拳を握った。


「もー少し、優しくしてくれればなあ」


 そうすれば文句なしに素敵な人で、好意を持って接することができるのだが。


 姫宮は両手を繋ぎ合わせてひっくり返し、ぐっと前に伸ばす。ふと、脳に電流が走る。


 思わず動きを止めた姫宮の脳内に過るのは、先ほどの緒方の言葉。


 ――生徒会の任期は気にしなくていい、今年もやる予定だから。


 そう語った彼女の言葉を紐解くように思いだした姫宮は、にやりと笑った。


「……ふむ?」


 『悪だくみ』という言葉を日本語で定義した人間は、きっと今の姫宮のような表情を目の当たりにしたに違いなかった。








「私は人との対話が得意です。また、人望があります。コミュニケーション能力に長けているという自負があり、その根拠として、私は私を除くクラスメイト全三十一人の推薦を受けてこの壇上に立ち、そして皆様とお話をしています。そんな私が生徒会の庶務になった暁には、持ち前の対人折衝能力を最大限に活用し、この場に居る皆様や近隣住民の方々の、未だ言語化されていない要求を具体化して掬い上げ、それを実現していくことをお約束いたします」


 全校生徒四百五十人が見詰める体育館の壇上には、生徒会役員の立候補者が揃っている。


 会長・副会長・書記・会計・庶務の五つのポストに十三名の生徒が今回の生徒会選挙に立候補をした。今はその立会演説会だ。


 立候補者が各々の決意表明をして票の獲得を試みる機会であり、余程肝が据わっていない限り、多少なり緊張の素振りを見せるというもの。


 ――そんな中、堂々と胸を張って、自らが選ばれることを信じて疑わない庶務立候補の一年生が居た。彼女は芝居がかった仕草で演説台を叩き、上手い抑揚で言葉を遠くまで届ける。


 そんな彼女の背中を副会長立候補者の席から眺めていた緒方葉月は、悩ましそうに額を押さえて俯いた。溜息が零れ落ちる。緒方も、まさかあの彼女が生徒会役員に立候補するなどとは思いもしなかった。どうして彼女が、彼女で大丈夫なのか。そんな疑問が湧くと同時、『まあ大丈夫なんだろうな』という信頼に基づいた、諦観と呆れの滲む確信も抱く。


 ふと見れば、同じく庶務を立候補していた二年生の男子生徒は唖然とそんな彼女の背中を眺めていた。威勢よくハキハキと話して面々の興味や関心の眼差しを浴び続ける対立候補の姿に、段々と悲しそうに肩を落としていく。流石に、同情をした。


「――有権者の皆様! 私を、姫宮灯里をどうぞよろしくお願いいたします!」


 姫宮が胸を張って大見得を切ると、演説会だというのに歓声が上がった。出元は主に一年生から二年生の辺りだが、段々と、燃え広がるように三年生の座席からも声が上がって収集が付かなくなる。「はーい、静かに」と進行役の教師の間延びした声が何度か繰り返され、燃え広がるよりも緩やかに、少しずつ静けさを取り戻す。


 その最中で一礼をして壇上を離れた姫宮は、庶務候補の座席に戻ろうとして、副会長候補席の前で立ち止まる。呆れた顔でこちらを見守っていた緒方の前に立ち止まると、座る彼女と目線を合わせるように腰を折って、小悪魔めいた笑みを見せた。


「せーんぱい。言いましたよね。私は、私を好きじゃない人が好きじゃないって」


 緒方は嘆息し、それから呆れと愉快を織り交ぜた苦笑を見せた。


 周囲に奇異の目を注がれながら緒方が首肯すれば、姫宮はこう続けた。


「――振り向かせますから。ちゃんと私を見てくださいね」


 可愛らしくも悪い笑みに、男女問わずその場に居た者達の視線が引き付けられた。

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姫宮灯里は愛されたい 4kaえんぴつ @touka_yoru

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