chapter4

 何週間かのち、ボクは京阪電鉄の淀屋橋駅近くの広場にいた。スナに無理じいされ、彼女が取り組んでいるボランティアにつきあわされたのだ。

 コッチェビ達に菓子や食べ物を届けるっていう、アレだ。子供の喜びそうなスナック類を軍から支給してもらい、それを有志たちがトラックで配って回って、ささやかながら子供たちに喜んでもらおうってやつ。黙って配るだけでは年かさの少年たちがお菓子を全部独り占めしてしまったり、二重取りしたり、ケンカになったりする。だから小さな子や弱い子にも万遍なく行き渡るよう年齢別にグループ分けをし、直接手渡しする必要がある。そしてちゃんと食べ終わるまでその場で見守ってあげなければならない。

 名目上はボランティア活動だが、その実体は占領軍への支持を広げるための宣伝工作活動であり、GHQの予算がついた、れっきとしたCivil Affairs(民事心理作戦)である。

 早朝、荷物をピックアップ・トラック何台かに積み込んで、それに分乗したボランティア十数人が、駅周辺の繁華街などを回って子供たちにギフトを届ける。コッチェビたちは人通りの多いところにたむろする。そこでは残飯や施しにありつける可能性が高いからだ。

 我々が到着すると、そこにはもう大勢の浮浪児たちが三々五々群れをなして待ち構えていた。カエルのキグルミに身を包んだスナがトラックの荷台に立ち、がらんがらんとハンド・ベルを鳴らしながら大声でこう叫ぶ。

「さあさあ、ぼっちゃん、おじょうちゃん! おいしいパンやお菓子がありますよ! みんなで仲良く食べましょう! さあ、いらっしゃい、さあさあさあ!」

 トラックが停車すると、子どもたちは一斉に押し寄せた。ほとんどがドロだらけの薄汚い身なりで浮浪児だった。でも、中には普通の家庭の子供らしいのも混じっている。彼らとて、ひもじいのは同じなのかも知れない。


 子どもたちが思い思いにお菓子を頬張る様を、僕達ボランティアはしばらく眺めていた。

「ねえ、すごく幸せな気分になるでしょう?」

 隣に腰かけたスナが僕にそう話しかけてきた。確かに子供の笑顔というのはいいものだ。こっちまで幸せになってくる。特に幼い子供の無邪気な笑顔は心を和ませてくれる。

 こんなことしたって子どもたちが根本的に救済されるわけでもないし、我々がいい人ぶりたいだけの自己満足でしかないのかもしれない。しかしこの瞬間、子どもたちに笑顔が戻っているのは疑いようもない事実だ。それは〈救い〉に他ならず、そこに全く意味がないとは思えない。むしろ、そんな瞬間のために人間は生きていると言ってもいい。

「君がこの活動を続けているのが、何だかわかる気がする」

 僕は正直に、ウソいつわりのない気持ちを告白せざるをえなかった。


 ふと、人だかりのそとを見ると、ひとりの少女に目がとまった。指をくわえて静かにイベントを見つめている。それはまるでセルロイド人形のような、ほんとうに愛くるしい、天使のような少女だった。だけど、その身なりはあまりにもひどいものだった。いつ洗ったのかもわからないような、ごわついてハネだらけの髪の毛。汚れて所々穴の開いた、もともと何色だったかわからないような綿入れのジャケット、泥んこの軍手。サイズと色ちがいのビニールのサンダル。ススで黒ずんだような頬は、しもやけと寒さで真っ赤になっていた。

 気後れしてか、遠慮のあまりイベントに入りづらいのかもしれない。ボクはなんとなく気になって、少女のもとに歩み寄った。

「やあ、お嬢ちゃん。お菓子がほしいのかい?」

 少女は僕の目をまっすぐ見つめ、無表情のままうなずいた。僕は彼女を抱きかかえてトラックの荷台に引っ張り上げ、隣に座らせチョコパイを与えた。

 やがて彼女はボクにむかって何かをささやいた。

「アジョシィ、トーン ジョム ジュセヨ、ペガコパヨ。コマヲヨ アジョシィ……」

 何を言っているのかわからない。ひとりごとか何かだろうと聞き流したら、また何かをささやくのだ。ボクは彼女の言葉に耳を傾けた。 

「アジョシィ、トーン ジョム ジュセヨ、ペガコパヨ。コマヲヨ アジョシィ……」

 彼女がおなじことを何度も繰り返すのを聞くうち、ようやくそれが高麗語であることに気がついて、胸がはり裂けそうになった。


 おじさん、お金を少しめぐんで頂戴。お腹空いたの。

 ありがとう、おじさん……


 おそらくはそれが彼女の知っている高麗語の全てだ。とんちんかんな内容はただの受け売り、意味もわからずその言葉を丸暗記していることを示している。まるでお題目か何かのように。僕とスナが高麗語で話をしているのを聞いて、彼女としては気を利かせたつもり、それが高麗人へのサービスのつもり、だったのだろう。

 ボクは涙目になって鼻をつまらせながら、少女にチョコパイを与えた。

「あんナァ、おっちゃん……」

 チョコパイを握り締め、うれしそうに微笑んだ少女は、ハニカミながらもこう尋ねた。

「お菓子、ツヨシの分までもろてもエエのん?」

 モロテモ? ……もらっても? 関西弁がわかりにくかったが、何とか意味は理解できた。

「ツヨシが……何?」

「あんな、ウチの弟やねん」

「もちろんだよ、ここに連れておいで」

 僕は笑顔でそう言った。すると少女は首を何度も横にふりながらこう言うのだった。

「ちゃうねん、ツヨシは歩けへんのや。そやしな、ウチがいっつもお菓子、持って帰ってあげてるねん」

 ツヨシ、アルケ、オカシ、モッテカエル……よくわからないが、弟は歩けないからお菓子は持って帰る、ということらしい。

「よーし、ここでちょっと待っていて。これが終わったら一緒にツヨシのところへ持って行ってあげようね」

 会話はどうやら成立したらしい。少女はキラキラと目を輝かせ、満面の笑みを浮かべた。それはまるで天使そのものだった。


 やがてお菓子も底をつき、子どもたちはそれぞれ散っていった。僕は残ったハンパなお菓子を袋いっぱいに詰め、ツヨシのところへ行こう、と少女に声をかけた。名を尋ねるとスミレだと言う。

「あんな、こっち! こっち来て!」

 スミレに手を引かれ、商店街のあちらこちらの路地をスナと三人でクネクネ歩いて行くと、やがて廃墟となった雑居ビルにたどり着いた。スミレはビルの脇にある地下階段を指さし、この下だ、と言った。

 三人で階段を降りてみると、奥にはコンクリートで覆われた薄暗い空間があり、そこはビルの駐輪場かゴミ捨て場のようになっていた。さらなる奥には、ダンボールや汚れた毛布が集められている一角がある。

「ここで暮らしているの?」

 スナが呆れてそう言うと、スミレは屈託なくウン、とうなずいた。

「とうさん、かあさんはどこ行った?」

 僕にそう尋ねられるとスミレはうなだれた。

「ウチ、わかれへん……お父ちゃんもお母ちゃんも、急にいいひんようになったん……」

 それを聞いて僕は思わず胸が締め付けられた。どうやらスミレは憐れな戦争孤児のようだ。

「ツヨシ、帰ったで! お菓子、持って来たげたで!」

 奥に駆け込んでスミレが毛布をめくった時、僕はそこにいた男児を見てゾッとした。

 頬はこけ、目はギョロリと飛び出し、手足はやせて骨と皮……

 髪の毛は抜けて薄くなり、老人のようにハゲている……

 ツヨシは横たわったまま身動きもせず、スミレが話しかけても目をギョロギョロさせるだけで反応しなかった。誰が見ても瀕死の状態だ。栄養失調はもちろん、どこか病気であろうことは素人目にも明らかだった。

「いつからこんな感じなの?」

 僕が尋ねると、スミレはもう何日も前からだと言う。僕は糞尿の臭いが漂うツヨシを抱き上げ、ついておいで、とスミレに言った。

 そこへスナがあわてて僕を止めに入った。

「ちょっとまって、その子をどうするつもりなの?」

「もちろん、病院につれていくんだ」

 スナは通せんぼをして言った。

「ダメよ、それはダメ。あなたはどこまでその子の責任を取れるというの? その子だけ助けたところでどうなるの? 私たちにできることは限られているのよ」

 僕は声を荒げた。

「じゃ君はこの子をここに放っておけ、とでも言うのか?」

 スナは怖い顔で言い放った。

「そうよ。それはここの行政府の職員たちの仕事で、あたし達の問題じゃないの。お菓子を配る以上のことはやり過ぎだって、わからないの?」

 怯えたスミレがグズグズとぐずりだした。

「君は冷たい人なんだね。その体に血は通っているのか?」

 僕がとがめると、スナは感情を押し殺すように黙り込んだ。

「……あなたは何も知らないのね。ここでは何十人もの子供たちが毎日のように死んでいるのよ。飢えや寒さだけじゃない。誘拐されて大人たちの慰みものにされたり、体を切り刻まれて臓器売買の餌食にされたりしているの。あなた一人が頑張ったところで問題を解決できる?」

「うるさい! だからと言って目の前にいる子を見捨てるのか? いいからそこをどけ!」

 僕は問答無用でスナを押しのけ、そこからツヨシを連れだした。はじめて乱暴に扱われ、スナはショックのあまり言葉を失ったようだった。

 僕は姉弟をトラックに載せ、モバイルで近くの小児科を検索して片っ端から訪ねてまわった。しかし何軒回ろうが診察を断られる。門前払いを食わされるところもあれば、ツヨシを見て僕らを追い出すクリニックもあった。最後のクリニックで僕はとうとうブチ切れた。

「いい加減にしろ! 金は俺が払うから診察をするんだ!」

 しかし中年の医師は捨て台詞を吐いて立ち去ろうとする。

「そういう子は自治体の方で対応することになってますから……」

 激昂した僕は医師の髪の毛をつかんでを机に押し倒し、ピストルを頬に押し当てた。

「ごちゃごちゃ言ってないで診察をするんだ! この野郎、いったい俺を誰だと思ってる! ナメるんじゃないぞ、このバカが」

 僕はピストルの安全装置を外し、撃鉄を立ててみせた。

「お前一人ぐらいここでぶち殺したところで、どうってことはないんだからな!」

 ひいいいいい! 

 医師が悲鳴を上げたその瞬間、スナと看護師が飛びついてきた。

「何てことするの、やめなさい!」

 おかげでその場はすったもんだになって、僕は冗談ぬきで小児科医を撃ち殺してしまうところだった。

「わかった、わかった!」

 机の上の書類や備品がさんざんとっちらかった後、医師の大声が診察室に響いた。医師はようやく観念したようだ。

 彼はスミレに容体を聞きながらツヨシを診察し、こう言った。

「とにかく状態はひどいです。栄養失調はもちろん感染症もあるようだし、内臓疾患の可能性もあって助かるかどうか……何しろ衰弱がひどいですから。もしどうしても、とおっしゃるのであれば、設備の整った病院に転院させる必要があります。助からないかも知れませんし相当費用がかかりますが、よろしいか?」

「お願いします」

 しばらくすると、医師は検査装置のある病院を手配してボクに同行を求めた。ボクはトラックに全員を乗せて、近くの大病院まで伴った。

 診察の間、スミレの身の上話を聞いた。


 ……最後の大阪空襲の後、両親が突然帰ってこなくなった。待てどらせど両親は戻らないし親戚とも連絡がとれない。

 空襲被災者のための炊き出しが始まったから、食べ物にありつくことはできた。食べ物を求め、昨日はあっちの町内・今日はこっちの町内と放浪する、そんな姉弟の暮らしが始まった。もちろん炊き出しのない日は何も食べるものはなく、水道の水を飲んで飢えをしのぐしかない。

 それからしばらくして、二人は住んでいたアパートを家賃滞納で追い出されるハメになる。そこで待っていさえすれば両親が帰ってくるかもしれないが来ないかもしれないし、いつになるかもわからない。とにかく雨は降るし寒いし寝る場所もない。スミレは仕方なく幼い弟を連れ、ハナテンのおばちゃん、という親戚の家に向かうことにした。

 ほうぼうで道を尋ねながら姉弟はひたすら歩いた。途中、靴が破れて歩けなくなり、スミレはゴミ箱からボロ布を拾って穴を塞いで歩いた。しかし穴が塞がったのはいいが、それでは片足だけ高くて、まるでスキップをするような歩き方になる。空きっ腹にスキップはきつくて、スミレはだんだん悲しくなってきた。

 おまけに疲れきったツヨシが泣きべそをかきはじめ、ぐずりだす。

「お父ちゃんに会いたい……お母ちゃんに会いたいよう……」

 ツヨシは座り込んで足を投げ出すと、もう歩こうとしない。

「なあ、おネエちゃん……なんでお母ちゃん帰って来いひんのん? どこ行ってしもたん? お父ちゃぁん、お母ちゃーん……」

 ツヨシは天をあおいでオンオンと泣きだした。そんな弟に困り果て、スミレも泣いた。

 そうしてようやくたどり着いた親戚の家だったが、そこにはもう誰も住んでいなかった。行き場がなくなった二人はやむなく地下街に身を寄せ、ダンボールや毛布を拾い集めて暖をとった。地下街に居さえすれば雨風に晒されることもなく寒さもしのげたが、そこは大人の監視がきつくて二人はしょっちゅう外に追い出される。ひどいと何度も大人にぶたれた。そのうえ自治体の職員が定期的にやって来ては浮浪児たちを追いまわし、トラックに乗せては収容所に連れていく。

「連れていかれたらエゲツない目にあわされるらしいで……」

 浮浪児仲間の、そんな噂をスミレは聞いた。

 それから姉弟は大人を避けるようになり、あちこちネグラを転々とするようになって、今の雑居ビルに落ち着いたのは最近のことだという。

 いつの頃からか、お腹が痛いと言っては下痢を繰り返すようになったツヨシ。気付けばガリガリに痩せて動けなくなっていた……。


 話を聞きながら、スナはこらえきれずに何度も涙をぬぐった。

 診察が終わって、ツヨシはそのまま入院することになった。スミレを宿舎につれて行くわけにはいかないから、もと居たネグラに送りかえすしかない。

「何か食べたいものはない?」

 そう尋ねると、彼女は迷うことなく、ラーメンが食べたいと言った。ラーメンは両親との思い出の食べ物で、スミレが知っている唯一のごちそうだ。

 スミレにラーメンを食べさせた後、僕は彼女をあの汚いゴミ捨て場に連れて帰り、所持金やプリペイド・カードの類いを全部を渡してそこで別れた。寂しがり、僕にしがみついて泣くスミレを置いて帰るのは身を切る思いがして、死ぬほど辛かった。

 スナは泣き顔を笑顔でごまかしながら、スミレに軽くハグをして頭をなでた。

「スミレちゃん。風邪をひかないように気をつけてね。必ずまた、会いにくるからね」

 後ろ髪をひかれる思いでスミレと別れた帰りの車中、僕はスナに詫びた。

「ごめんよ、スナ。確かに君の言う通りだった。こんなことしたってどうなるわけでもないね。スミレを引き取るわけにもいかないし、ツヨシが治ったところでいつまで生きられるか……ほんとうに、どうしようもないんだね」

 スナはトラックを運転しながらしばらく黙っていたが、小さい声でぼそっと言った。

「……いいのよ。気持ちはわかるわ。あたしだってヨハンと同じ気持ちだもの」

 トラックは宿舎のホテルに到着し、僕はスナがエントランスまでたどり着いたのを確認してからトラックの運転席に移った。そして別れの挨拶でもしようと、彼女がこちらに振り向くのをじっと待っていた。

 しかしスナは突然立ち止まり、そこから動こうとしない。やがて彼女は振り向き、こちらに近づいて来たかと思うと、運転席のガラスを人指し指でコンコン、とこづいた。

 急ぎ窓を開けた僕に向かってスナはこう言った。

「今日はまだ休みたくないわ」

 それは僕も同じだった。このまま別れてしまうには何となく寂しい気分だった。

「じゃ、このまま飲みにでも行くか」

「ええ、そうしましょう」

 僕達はトラックを宿舎に置いてタクシーを手配し、ミナミにある、こ洒落たジャズ・バーに向かった。

 ドアを開けると、薄暗い店内にはドラムのハイハットとスネアの音がコダマし、アルト・サックスのけたたましい音が鳴り響く。1950~60年代の古いビバップのナンバーだった。

 いざ二人向かい合ってグラスを傾けあうと、何だかしんみりしてしまって会話も弾まない。ひとりぼっちでダンボールに包まって寝る、スミレのことが頭から離れないのだ。

 突然、スナがバーボンのグラス片手に、想いのたけを語り始めた。

「私ね、本当は今日のような福祉の仕事がしたいのよ。確かに日本政府の監督という仕事も大事なんだろうけど、人のために働いている実感が持てるのはこういう福祉の仕事なんだもの。私、やっと自分の生き甲斐を見つけたわ」

 いいんじゃないか? 君らしくて。

「それにね、このボランティアを通して、子供たちが何に困って何が必要なのかが、私なりにだんだんわかってきたの。だから私ね、公衆衛生福祉局への転属願いを出したんだ。そこで思いっきり働いてみよう、そう思って……でも、局長が面倒くさがって放ったらかしにするもんだから、いつまでたっても転属が実現しないの」

 気分がクサクサしてきたのか、スナは突然立ち上がるとホールに備え付けのピアノに歩み寄り、椅子に座って高さを調整しはじめた。一部の客が彼女に気付き、拍手をしたり声をかけたりしたが、スナは意に介さなかった。

 お尻が適当に収まると彼女は次に、ものすごい勢いでスケールの上昇と下降を繰り返し、指慣らしを始めた。まるで指を鍵盤上で左右になぞるかのよう、滑らかに。そのとたん会話を中断した客たちの視線が一斉にスナに集まり、驚いた店員はBGMを止めてしまった。

 静まり返った店内…… 

 しばしの沈黙の後、スナは一転して静かな曲を、情感豊かに奏ではじめた。か弱いアルペジオのリフレインがたどたどしく始まり、やがて次第に早く、うねるように大きくなっていく。まったりとタメを利かせながら、時に激しく時に優しく……時にはジラすようセカすよう……その指先からは次々とメロディーが紡ぎだされていった。

 アップテンポのジャズ・ナンバーからクラシックへの転換は場違いでもあり、やや唐突な感じもした。しかし、その美しい旋律に魅了され、それまで声高に会話を楽しんでいた客たちが一人、また一人とスナの演奏に惹きこまれてゆく。

 切なくも美しく、物悲しい、何とも言えず狂おしいその調べは、僕の心を激しく揺さぶった。ためらうような主題に続いて深い絶望のテーマが訪れたかと思うと、それはやがて明るい希望へと姿を変え、再び大いなる苦悩が訪れたかと思うとそれは無上の悦楽へと変化していく。そんな「身悶えする魂」のような音のうねりを聞いているうち、僕は自然と涙が止まらなくなってきて、スナの姿が遠くにかすんでしまったほどだ。スナも目に涙をいっぱいため、陶酔したような表情で無心にピアノを弾き続けた。 

 それはほんの十分ぐらいの出来事だったろうか。やがて演奏は静かに終わり、今度はスタンディング・オベーションの波が客の間を広がった。そしてその波は次第にアンコールのリクエストとなり、店内にコダマした。

 しかしスナがそれに応えることはなかった。彼女はハンカチで目頭を押さえつつ、手を差し伸べる客一人一人に丁重に断りを入れながら、ゆっくりと席に戻ってきた。

「すばらしい! 感動しちゃったよ」 

 まだ動揺が収まらない店内。拍手をしながら僕がそうほめたたえると、スナは涙をふいて照れくさそうに笑った。

「君ってすごいね! 音楽を聴いて涙を流したことなんて生まれて初めてだ。ミュージシャンになるべきだったね」

「ありがと……大したことないわ、このぐらい。世間にはね、ものすごい才能あふれる演奏家がわんさかいてシノギをけずってるの。私ごときの居場所なんてないわ」

「ちぇ、ご謙遜だねえ。かっこ良すぎだよ……ときに何て曲?」

「ああこれはね、マーラーの交響曲……アダージェットのピアノ編曲よ」

 その時、店のバーテンダーがカクテルを差し入れてくれた。ステキな演奏をありがとうございます、という言葉を添えて。

 スナは微笑みながら彼に目礼し、こう続けた。

「そう、悲しいぐらいに美しい曲ね。史上最も美しい音楽の一つだ、と私自身は思っているわ……ジャンルは違えどバッハのアリアと並ぶような。まあ、不器用なマーラーの生涯を知ったうえでこれを聞けば、より一層もの悲しい気分にさせられるんだけれど……」

 スナのこの演奏のおかげで、僕はその夜をなんとか綺麗な心持ちで終えることができた。

 結局、ツヨシは治療の甲斐なく病院で死んだ。内蔵疾患が直接の死因だという。スミレは施設に収容されたらしいが、その後のことはもう心を鬼にして聞かないことにした。

 暦の上ではもうとっくに春。

 そろそろ暖かい日差しが待ち遠しくなってきた。

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シシュフォスの相続人 @JohnLee

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