第3話
「……置くスペースは買ってから考えるって……実際問題どうするつもりなんだ? この前、君の家に寄った時だって本の山が倒壊しかけていたじゃないか。もう上に積むことはできないよ。ベッドだって枕元も足元も本だらけだ。あんなの生活スペースと言えないよ」
「ごちゃごちゃと人の心配をして……」
「だって、まさかこの本を実家に持って帰るとか言わないだろう? それならどうしようも……」
僕がそう口にした瞬間、普段は眠そうな目が大きくパッと見開かれ、汚れのないメガネの表面がきらりと輝いた。
しまった。
必要のない入知恵をしてしまったかもしれないと思うと頭痛がしそうだった。
「――『その手があった』みたいな顔をしないでもらえるかな?」
「いやはや。まったくの盲点だった。良いことを言ってくれるじゃないか、東雲祥貴」
彼にしては珍しく「はっはっはっ」と快活に笑い声を上げて手まで叩き出す。僕は本当に余計なことを言ってしまったのだ。
「いやいや……君の実家は物置じゃないんだから……」
「自分の親はもう本家の方に戻っていて、そもそもあの家は既に自分のものなんだ。それをどうしようと自由だろう」
「まあたそういうことを言う……お手伝いさんが困るよ、それ。ただでさえ素人には手の出しにくい代物ばかりの家に古書を増やすなんて、得策じゃない」
「うるさいうるさい。自分の勝手にさせろ」
「うるさいと言われるようなことをしているのは君じゃないか」
「お前さんのドーナツを突っ込んでそのうるさい口を黙らせてやろうか」
「へえ、やれるものならやってごらんよ」
数秒の沈黙ののち、どちらが早いか、ドーナツの奪い合いになると思った。僕の手がドーナツを乗せた皿を引っ掴んだ瞬間には有奇くんは僕の左肩を引っ掴んでいた。先に逃げ場をなくそうとしたのだろう。だが口に突っ込むためのドーナツがなくなればどうしようもない。
「……本当にドーナツを口に突っ込もうとする人間があるか!」
「やれるものならやってみろと言ったのは東雲祥貴、お前だろ」
「買い言葉を真に受けないでくれよ」
「売り言葉を買った人間が悪い。ほら、口を大きく開けてそのドーナツをよこせ。お望み通り突っ込んでやる」
「こんなにロマンスのない『アーン』なんかされたくないよ、僕は!」
なるべく邑神有奇の手の届かない位置へドーナツを遠ざけるが、左肩をがっしり掴まれているため膠着状態が続く。元々武道の鍛錬を重ねていただけあってその力強さは見た目以上だ。しかし身長差があるため自ずと腕の長さも僕の方が長い。男も肩を掴んだままなんとかドーナツを手に入れようとしている様子だったが物理的に叶わない。
そうして何秒も揉み合いのような、しかしまったく状況に変化が見えない状態が続いている中、背後に人の気配を感じた。その瞬間には僕も有奇くんも椅子に座り直して何事もなかったかのように後ろを振り返る。完璧な笑顔を浮かべてシックな制服を着こなした女性店員がそこには立っていた。
「お客様方、もしよろしければお飲み物の追加はいかがでしょうか?」
胸元にはきらりと黒いプラスチックに金字が光るバッジ。それが何を示すものかわからないが、おそらくこのスタッフは店の管理者か何かだろう。平日昼下がりの喫茶店、しかも所謂『映え』スポット。周りを見れば多くの女性客が――ある人は面白そうに、ある人は訝しげに――こちらを見ているのがわかった。
全自動管理の喫茶店とは違い、すぐに警察に通報されないのはオールドスタイルの店の良いところだと……いや、命拾いをしたと言うべきだろう。
「ああ……お騒がせして申し訳ない。アイスティーのおかわりをもらおうかな。ね、有奇くんも、そうするだろう?」
お詫びに当然そうするだろうと言う意味を込めて隣に座る友人に目を向ける。邑神有奇は注目を浴びるのが死ぬほど苦手だ。本当はすぐにでも退店をしたそうな表情の男が苦々しい顔のまま口を開く。
「――自分も同じものを、無糖で」
未だ食べていなかったドーナツを、速やかに提供された二杯目のアイスティーで食道に流し込み、再び大量の荷物を抱えて僕たちは喫茶店から少し離れた通りの端で一息ついていた。
中心地から少し離れると、途端に人が少なくなる。地面を埋め尽くしているコンクリートにも少しヒビが走っている程度には寂れている。シャッターで閉ざされた店ばかりの通りの軒下には、もう点灯しないだろうホロ投影機が何個もぶら下がっていた。
「もう少しゆっくりしたかったが……」
「君があんなことするから」
「お前があんなこと言うからだろ」
これ以上は不毛だと思い、反論するのはやめた。
――不毛というよりも――。
「子どもみたいだな……」
脳内を読まれているものかと一瞬ぎくりとするが、この感覚もいつものことでくすぐったかった。たっぷりとレースのあしらわれた日傘に隠れて見えないが、友人の顔にはきっと呆れたような、でも穏やかな笑顔が浮かんでいるに違いない。
「まったく同じことを考えてたよ。いつの間に僕の思考をリンクさせたんだい」
「何年の付き合いだと思っているんだ」
「……何年だろうねえ」
クラッチバッグから煙管ケースを取り出し、電子煙管にカートリッジを挿入する。数秒もしないうちに喫煙可能のサインが灯り、吸い口を唇で挟んだ。
「少なくともお前が煙をヤりだす前からの付き合いだな」
日傘から顔を覗かせた友人は意地悪そうな笑顔でこちらを見上げていた。くだらない悪戯を指摘する子どもの笑顔もまた、くだらない悪戯をする子ども同様に悪い顔つきになるものだ。その子どもっぽい表情に誘われて、笑い声を上げながら煙を吐き出す。
「ははっ……そうだね。しかし君は意地でも吸わないね」
「たばことコーヒーだけは理解できん。臭い上に苦いだけだろ」
「それ、いろんな人を敵に回す感想だからやめておいた方が身のためだよ」
「臭いし苦いのは事実だろう。敵などいるもんか」
「ああ言えばこう言うねえ……」
彼は歯に衣着せぬ物言いをするが、それは相手を選んでやっているわけではない。出会ったときから邑神有奇は邑神有奇だった。そんな彼を不器用だと思っていた。己の友人にはなるべく苦労のない人生を送ってほしくて、横から色々と口を出すこともあった。しかしそれはある意味で無駄な行いだったと、僕たちの思い出を振り返る。良くも悪くも彼は彼で、僕は僕だ。
「小うるさいのは相変わらずだな」
「……君も失礼な物言いは変わらないね」
「小うるさいではなくて、やかましいが正解か。お前は高校の頃から本当にやかましい男だったな」
友人の笑顔の、なんとまあ嬉しそうなことか。脳の片隅にずっと居座り続ける幼い頃の記憶がその笑顔に呼び覚まされる。もう戻ることはできない日々と、変わらないものがある安心感と停滞への不安。大人になるという表現があるが、人間は本当に大人になどなれるのだろうかと、この男と再会するたびに思う。
僕たちはずっと、あの日々と今を行き来しているだけにすぎない。
煙管から煙を吸い込み、ゆっくり吐き出す。そして左腕に装着しているデバイスを起動させた。近辺の店を検索する。
「――少し早いけど、もう飲みに行こうよ。こんなに荷物があってはこれ以上買い物も無理だろう」
そう提案をして再び隣を見ると、男がぎくりと一瞬だけ固まって、そして表情を苦笑いに変化させる。
「ちょうど……自分もそう提案しようと思っていたんだ」
「……結局、僕たちの考えることは同じか」
「茶が酒に変わっただけだな……」
「成長がないな。僕自身、呆れるよ」
「成長……?」
邑神有奇の苦笑いが一変、怪訝な顔つきでこちらを見上げる、もとい睨む。
「そんなことを考えていたのか」
「おっと……こればかりは君にも見抜けなかったか」
今度はこちらが笑う番だ。相手の意表を突くというのは気持ちの良いものだ。
だが、本当に意表を突かれたのは僕の方だった。
「――お前はお前のままで良いんだ」
「えっ……?」
こちらを睨んでいると思っていたが違った。真剣な真っ黒の眼差しがこちらの目を奥底までじっと見つめていた。
――僕はこの目を知っている。
初めて会ったとき、初めて話したとき、そして再び出会ったとき。この目は邑神有奇なりの『対話』の瞳だ。物の真価を見定める、自身の価値感覚と照らし合わせる『対話』。人を品定めする無礼な眼差しは今までごまんと浴びてきた。だが、彼は真摯だ。だから僕は、邑神有奇の瞳を受け入れることができる。
「むしろ丸くなりすぎだ。お前はお前のままで良い。成長など、考えなくてもしてしまうものだろう」
「……それはどうだろう。人は意識しないと成長できるものではないと思うが」
「それはお前に当てはまらない。考えすぎるな。お前の良さが損なわれる原因になる」
「――買い被りすぎだね」
「……この邑神有奇の審美眼を疑うのか?」
にんまり。真っ黒な瞳はこちらの心の奥底を見つめたまま、瞼同士がくっつきそうになるくらいに嬉しそうな笑顔。
こちらに問いかけているくせに、答えをひとつしか用意していない。意地の悪い質問だと思った。
「……目利きの美術商を説き伏せるほどの言葉を、僕は持ち合わせていないね」
「回りくどいな」
「はいはい。君の目が優れていることくらい知ってるよ――五分ほど歩いたところに良さそうな居酒屋があるけど、そこで良いかな?」
優しきあの日々と現在を行き来するだけの僕たちは、それでも少しずつ変化しながら。根底は変わらないまま、それを良しとしてくれる友人の存在がどれほどセーフティーゾーンとなっているか。きっと君の慧眼をもってしても見抜くことなどできない。
終
たわむれ AZUMA Tomo @tomo_azuma
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