【完結】哲学犬『ソクラテス』(作品230506)

菊池昭仁

哲学犬『ソクラテス』

第1話 しゃべる犬

 大好きだった姉ちゃんが死んだ。


 葬儀の間、僕は泣いてばかりいた。

 悲しくて悲しくて、涙が止まらなかった。


 幸子姉ちゃんと僕、幸一は8つ歳が離れていたこともあり、姉というよりは母親のような存在だった。


 姉ちゃんは僕にとてもやさしかった。

 そしていつも姉ちゃんは僕の味方だった。



 「ウチには幸一を大学に行かせられるような余裕はない」


 という父に対して、姉ちゃんは言ってくれた。


 「いいわ、幸ちゃん。お姉ちゃんがなんとかしてあなたを大学に行かせてあげる。

 だから安心して受験しなさい、大学」



 幸子姉ちゃんは高卒で地元の自動車ディーラーへ就職していた。

 姉ちゃんは進学校に通っていたが、大学へ進学しなかったのは姉ちゃんだけだった。

 僕は姉ちゃんのお陰で大学に進学することが出来たのだった。



 そんな姉ちゃんが死んだ。

 交通事故であっけなく、28歳の若さだった。

 まだ結婚もしていないのに・・・。



 親父は僕と姉ちゃんが幸せになるようにと、幸福の「幸」という字を取り、幸子と幸一と名付けた。



 「どこが幸なんだよ! ちっとも幸せじゃないじゃないか! 俺も姉ちゃんも!」


 僕はそう言って父親を責め続けた。

  

 「すまん・・・」


 父親は葬儀を抜けて、どこかへ消えてしまった。





 姉ちゃんの葬儀も終わり、姉ちゃんの飼っていた犬をどうするかという話になった。


 「うちは団地だから犬は飼えないしね? 雅子おばさんは犬がダメだし、誰か貰ってくれる人はいないのかしら?」


 と、ソクラテスを撫でながら母が言った。

 

 「かわいそうだが、保健所に連れて行くしかないだろう」

 「親父! 姉ちゃんの大切にしていたソクラテスを保健所だなんて、そんなこと出来るわけがねえだろう!

 いいよ、俺がソクラテスの面倒を見るから!

 俺のオンボロアパートはペットも問題ないから、俺が飼うよ」



 

 ということで、その日から僕とソクラテスの共同生活が始まった。


 ソクラテスは犬好きだった姉ちゃんの唯一の贅沢だった。

 1年前、姉ちゃんは冬のボーナスで血統書付きのコーギー・ペンブロークを買った。

 それがソクラテスだった。


 エリザベス女王の愛犬としても知られ、背中には「妖精のサドル」があり、妖精を乗せている犬としても有名だった。

 短いがしっかりとした足。

 足先は白い毛で覆われ、まるで白いソックスを履いているような犬だった。

 しっぽはなく、ぷりっとしたお尻はどのグラビアアイドルのお尻よりもチャーミングだった。



 「さあ、ソクラテス、今日から僕とお前が暮らす家だよ、よろしくな?」



 僕はソクラテスの顔をもみくちゃにして抱き締めた。



 「痛い痛い、そんなに強く抱きしめんといてくれ、ホンマ、死んでまうわ」

 「・・・。」

 「しかしまあ、きっちゃない部屋やなあ? 豚小屋より酷いやないか?

 幸ちゃんはきちんとしとったでえ、それなのに何やの? それでも幸ちゃんの弟かいな、ホンマ」

 「い、犬がしゃべった・・・、しかもヘンな関西弁で!」

 「あたり前や! ワシら犬も猫も、動物はみんなしゃべれるんや。でもな? よう話さへんのんは人間が驚いてしまうやろ? だからワザと喋れんフリをしておるんや」

 「じゃあどうしてしゃべってんのさ?」

 「幸一、お前は特別や。幸ちゃんに頼まれたさかいな、「ソクラテス、幸ちゃんを、弟をお願いね」ってな?

 ホンマ、天使やで、アンタの姉ちゃんは。

 それなのに弟のお前はロクデナシや、文句ばーっかりゆうてからに。たいしたことも出来へんくせに偉そうに」

 「姉ちゃんがそんなことを?」

 「ああ、天国に行く寸前にな。

 まあ、しゃあないわ、ワシも危うく保健所送りになるところやったんやからな?

 それには感謝しとるで、幸一。

 それからな、ワシはご飯は「プロフェッショナル・バランス」しか食べへんからな?

 そしておやつはドギーマンのほれ、あのさつま芋を鳥のささみで巻いたやつ、アレが好きやねん」

 「俺より贅沢」

 「ワシ、女王陛下の犬やさかい、丁重に扱ってや」



 僕は夢を見ているようだった、まさか犬が喋るなんて。


第2話 How to Live

 「どないしたん? 幸一、ぼっーとしてからに」

 「別に」

 「お前、女のことで悩んでおるんとちゃうの? 見たらわかるで」

 「そんなんじゃないよ」

 「じゃあなんやの? 言うてみい、ワシに」

 「だから何でもないよ」


 僕は思っていた、どうせ犬のソクラテスに話しても仕方がないことだと。


 「幸一、お前、ホンマにわかり易いやっちゃなー?

 違うんやったら別のことを言うはずや? なのにお前は具体的にその悩みを言われへん」

 「どこの人間に、犬に恋愛相談するヤツがいるんだよ」

 「ほれみい、やっぱ女のことやないかい? 言うてみ言うてみ、相談に乗るでえ」

 「大学の同級生に沙織ちゃんって凄い美人な女の子がいるんだよ。頭も良くてスタイル良くてさ、髪もサラサラ、オッパイも小さくて、とてもいい女の子がいるんだけど、沙織ちゃんはみんなのアイドルでマドンナなんだよ。僕じゃどう見ても沙織ちゃんとは釣り合わないんだ」


 ソクラテスは幸一の脛をガブリと齧った。


 「痛い! 何すんだよソクラテス! 離せコラ!」

 「離さへんで! もっと齧ったろか! 

 幸一、それでもチンコついとんのか? ボケ!

 そんな女々しい奴に恋愛なんて語る資格はないで!

 ホンマにお前は幸ちゃんの弟かいな?

 イラつくわー、ホンマ!」

 「だって僕、イケメンじゃないし貧乏だし、成績は中の上で、運動オンチで、それからそれから・・・」

 「だって、だって、だって、だって!

 言訳ばかりやないかい!

 ホンマ、イラつくわー! 今度それを言うたら頭、齧ったるで!

 なんで幸一はそんなに卑屈なんや? 何でお前は自分に自信が持たれへんの?」

 「だって僕・・・」

 「ほら、またゆうた!「だって」って!

 今度またそれ言うたらワシ、ホンマに耳食い千切るで!

 ウソやない、本気や! ワシはいつも本気の哲学犬や!

 いいかよく聞け、女が一番嫌うやつは誰や?」

 「イケメンじゃない人? バカでスケベで、足の臭いやつ?」

 「このアホんだら! アンポンタン! イケメン好きの女は要注意や!

 お前が仮にイケメンだとするわな? それで彼女が出来たとしよう、20年経ってお前が40のオッサンになって禿て腹も出てしまってみい、そしたらお前、あっさり浮気されてまうで!

 女が一番嫌うヤツはな? 自分に自信のない奴や! お前みたいにのう!

 どうしてだかわかるか?」

 「わかんないよ」

 

 ソクラテスは前足でコケた。


 ガクッ


 「吉本の芸人はんならここでコケなあかん。

 そんなこともよう分からんで、よく大学生しとるな? ワレ!

 自分に自信がないということはやで、それは弱い男に見えるからや。

 女はな? 多少強引な男に惚れるもんや! お散歩の時にグイグイとリードを引っ張るワシのようにな!

 女は強い男に憧れるんや!

 それは長州力やマイクタイソンになれということやない、意志の強い男になれという意味や」

 「僕は優柔不断だからなあ」

 「ボケ! そんなことでは一生、彼女なんか出来へんで! 幸一は一生チェリーボーイ、童貞のままや!」

 「そん時はそん時だよ」


 ソクラテスは今度は僕の尻を齧った。


 「痛たたたた、止めろよソクラテス!」

 「お前、メス犬と交尾もせんと、一生オナニーばっかりして暮らすんか! たまに風俗とか行って!

 情けない、ホンマに情けないやっちゃで! お前という奴は!

 人間ちゅうもんはな? ワシら犬より賢いんとちゃうんか?

 人間はどうして生きとるんや? 何のために生きておるんや! ゆうてみー! 幸一!」

 「どうして生きてんだろうね?」


 ソクラテスは寝っ転がってお腹を見せた。


 「あんなあ? 生きるということはやで? もっともっと勉強して、色んなことを経験して、たくさん泣いて、笑ろうてそして成長して、そしてその遺伝子を子孫に残す。

 つまり自己の進化したDNAを子孫に残し、命を継承してゆくことなんや。

 中村天風はんも、天風会の杉山彦一会長はんも言うてはった。

 

   

        How to Live 



 人間として「いかに生きるべきか」とな?

 ええか幸一、人生はまずそこからや。

 女も金も追えば逃げる、それらがぎょうさん向こうから寄ってくる男になるこっちゃ。

 幸一、沙織ちゃんがホンマに好きなら、沙織ちゃんが惚れるような男になってみなはれ。

 物陰に隠れてストーカーみたいな真似だけはせんとけよ。石川ひとみの『まちぶせ』みたいなマネはすな、情けないよってな?」

 「そんなことしないよ」

 「ワシはこれでもイギリス生まれの血統書付きの哲学犬や。

 幸ちゃんもワシの名前を迷うとった。ソクラテスにしようか? カントにしようかとな?

 ワシはショーペンハウエルの考えが好きやったから「ショーペンハウエルはどうでっしゃろ?」言うたら、長いと却下されてしもうた。

 それならキェルケゴールはどうやと提案したが、舌を噛みそうだからダメと言われてしもうた。

 まだデカルトはんの方がええと思ったが「デカルト! おいで」というのも照れるしな? そこでソクラテスゆうええ名前になったというわけや」


 ソクラテスは、よくしゃべる犬だった。


 「ちなみにワシ、イングランド生まれやさかい、英語もしゃべれるんやで? 正統派のQueen’s Englishをな。

 まあ幸一のTOEICスコアの英語レベルではワシの英語は理解でけへんやろけどな?

 ボンジュール、ムッシュー」

 「それ、フランス語だろ?」

 「いいツッこみやないかい、15点!」


 僕とソクラテスは笑った。


 「犬でも笑うんだね?」

 「当たり前や、犬だって楽しい時やうれしい時は笑うし、悲しい時は泣く。

 幸ちゃんが死んだ時みたいにな」

 

 ソクラテスは姉ちゃんのことを想い出したようで、悲しく遠吠えをした。


 「わおーん、おんおーん」


第3話 お散歩

 「なあ、幸一。悪いんやけどワシな、ウンコしたいから散歩に連れてってくれへんか? もう限界やねん」

 「ああ、ゴメンゴメン、もうそんな時間だね?」

 「すまんなー、バイトと大学で疲れとるのに、ホンマ申し訳ない」

 「そんなことないよ、待っててね、いまウンチ袋用意するから」




 幸一とソクラテスは川の土手を散歩していた。

 気持ちの良い夕暮れだった。

 川面には時折、魚が跳ね、夕陽が反射してキラキラと輝いていた。


 もちろん、外に出たらふたりに会話はない。

 そんなことが他人に知れたら大変なことになるからだ。

 すぐにあのゲス番組、サンジャポが取材に来てしまう。

 もちろん取材拒否だけど。


 ちょうど向こうから3人の可愛い女子高生たちがやって来た。



 「うわー、ちょっとヤバいんですけど! このワンちゃん、チョーかわいい!」

 「見てみてこのお尻、メッチャ栗饅頭みたい!」

 「可愛すぎてマジ卍でヤバ過ぎー!」


 そう言って彼女たちはソクラテスを撫でまわしていた。

 喜ぶソクラテス。ここぞとばかりに女子高生を舐めまわしていた。


 ぺろぺろ ぺろぺろ


 手や腕、そして顔までも。


 (いいなあ、ソクラテスの奴、めっちゃうれしそにしているよ)



 「名前、何ていうんですか?」

 「ソクラテスだよ」

 「なにそれー、シュール!」

 「なんだっけ、ソクラテスって? あの温泉の映画に出て来た人?」

 「それはテルマエロマエでしょ。ソクラテスって、ブラジルのサッカー選手ですよね?」

 「まあ、そんなもんだね?」


 ソクラテスは白いお腹を見せていた。

 お腹はソクラテスの性感帯だった。


 「あー、おちんちんがついてるうー、かわいい! オスなんですね?」

 「うん、ソクラテスだからね?」

 「じゃあメスだったらガガだね? レディー・ガガ」

 「あはは、ウケる~」




 しばらく行くと、今度はデブのおばさんが近づいて来た。


 

  「あらカワイイ、コーギーね? 高かったでしょう?」


 するとソクラテスは猛烈に吠え唸った。さっきの女子高生の時とは大違いだった。

 そしてそこで力むと、長いウンコをした。


 おばさんはそのまま捨てセリフを残して通り過ぎて行った。


 「ただのバカ犬なのね? ふんっ」


 おばさん、ソクラテスはおばさんよりも遥かに賢い犬だよ。

 





 アパートに帰えると、幸一はソクラテスの足を洗い、お尻とチンコを拭いてあげた。


 「おおきにな、これですっきりしたで。

 いや~、あの女子高生の姉ちゃんたち、むっちゃかわいかったのう、ええ匂いしとったわ。

 思わずワシ、全力で舐めてもうた。

 それに引き換えあのおばはん、噛み殺したろうか思ったわ。

 100万年早いちゅうねん、ワシに触れようなんて!」

 「良かったね? 女子高生に触られまくって、うらやましいよ」

 「ところで幸一、その後沙織ちゃんとはどないなっておるんや?

 交尾は済ませたんか? このドスケベが」

 「まだ話もしてないよ」

 「ホンマお前はじれったいやっちゃなあ、ワシならすぐにマグわってしまうけどな」

 「人間がそんなことしたら即、逮捕だよ」

 「人間は大変やのう、好きなメス犬ともやれんのかいな?」

 「せめて話が出来たらいいのになあ」

 「そんなん簡単やろ、「月がきれいですね?」とか言うたれよ」

 「夏目漱石じゃあるまいに」

 「とにかくや、相手から話し掛けられるんを待ってちゃあかん。

 こちらから攻めていかんと。

 そんなことしてたら他のオス犬に寝取られてまうで」

 「わかってるよ、そんなこと」

 「バーバラ・デ・アンジェリスというアメリカの心理学者もゆうとったで、

    


       愛することによって失うものは何もない

       しかし 愛することを怖がっていたら

       何も得られはしない



 とな?

 まあ、ダメで元々や、何もせんより当たって砕け散る方がええやろ?」

 「砕け散るのはイヤだけどね?」

 「そうならんためにも幸一、女にモテるような男にならんと」

 「どうやって?」

 「アホ、お前なんのために大学に行ってるんや? 幸ちゃんが泣くでホンマ。

 まずは読書や、本を読め! 知性は人の顔を変えるもんや、ソクラテスはんもこう言うてるで、

 

      

     本をよく読むことで自分を成長させていきなさい

     本は著者がとても苦労して身に付けたことを 

     たやすく手に入れさせてくれるのだ



 とな。 

 そやけど読んだだけではダメや、それを実践せな。

 知識は実践して初めて知恵に変わるもんやで。

 知っとるだけではただのクイズ王や」


 ソクラテスはそう言うと、ガブガブと水を飲んだ。


 「あー、しゃべり過ぎて喉が渇いてしもうたわ」


 ソクラテスは僕のとなりに寄り添い、すぐに寝てしまった。


 安心したその寝顔がとてもキュートだった。


第4話 バイト先のジャイアン

 姉ちゃんが残してくれた保険金には手を付けず、僕は学費や生活費を稼ぐためにバイトに励んでいた。



 「幸一、よう精が出るなあ? 大したもんやで。

 でもホンマ、幸一は偉いやっちゃ。

 幸ちゃんの保険金には頼らずにバイトしてからに。

 あんまり頑張り過ぎてカラダ、壊わさんようにな? 無理したらあかんで、大概にしいや」

 「うん、でもがんばらなくっちゃ、姉ちゃんが僕を大学に入れてくれたんだから。

 姉ちゃんも本当は進学したかったんだよ、大学に。

 僕よりも姉ちゃんの方が頭も良かったし」

 「そやな? 幸ちゃんのためにもがんばらなあかんな?

 実はな、幸一。幸ちゃんは大学で勉強すんの諦めてなかったんやで」

 「えっ、そうだったの?」

 「ああ、ホンマや。

 幸ちゃんな、お前の学費を払いながら、生活をギリギリまで切り詰めて、オシャレもせんと、彼氏も作らず会社が終わるとすぐにアパートに帰って、受験勉強を続けてたんや。

 あんなええ子、おらんで! それなのに・・・、ウォーン」


 ソクラテスは悲しそうに遠吠えをした。


 「そうだったんだ、姉ちゃんが・・・」

 「だがな幸一、落ち込むことはあらへん。

 幸一が大学で勉強していることが幸ちゃんの励みでもあったんや」

 「ソクラテス、僕、姉ちゃんの分まで頑張るよ」

 「そや、そのいきやで、ワシも応援するさかい、わからんことはなんでも訊いてや」

 「ありがとう、ソクラテス」

 

 幸一はソクラテスの背中を撫で、ソクラテスは幸一の手の甲をペロペロと舐めた。



 

 幸一は家庭教師とファミレスの調理補助のバイトをしていた。

 家庭教師をしている高校生はカワイイ女の子でご両親の待遇も良く、楽しいバイトだった。


 「ねえ先生、彼女いるの?」

 「いないよ」

 「へえー、そうなんだ、結構イケメンなのにね?」

 「ありがとう。じゃあこの前の続きからやろうか?」

 「もし私が先生と同じ大学に入ったら、私が先生の彼女になってあげるね?」

 「えっ?」


 幸一は動揺し、赤面した。


 「先生ってわかりやすいねー、今、エッチな事考えたでしょ?」

 「バ、バカなこと言ってないで、ほら、始めるよ、今日は211ページからね?」


 僕は完全に彼女にしてやられていた。

 だが問題はファミレスの方だった。


 「おいバイト! グリルから目を離すなってあれほど言ったよな!

 俺のせっかく作ったハンバーグが黒焦げじゃねえか! ボケ!

 大学生のくせにこんな簡単なことも出来ねえのかよ?

 いいよなあ、そんなドン臭いやつでも大学生なんだからよー。

 少しは気合入れてやれ! 遊びじゃねえんだよ! 俺たちの仕事は!」


 するとコックの郷田はケチャップを掴み、幸一のコックコートにそれを掛けた。


 「死んだなお前、血だらけだぜ? あはははは」


 幸一は何も言えなかった。

 郷田は幸一よりも2歳年下だったが、高校中退してからこの店でバイトして、バイトから正社員になった奴だった。この店も今年で4年目になり、職場では誰も逆らえない存在になっていた。

 郷田は幸一のような大学生のバイトをいつも目の敵にしていた。





 「ただいまー」

 「おかえり、どないしたん? なんやしんき臭い顔してからに。

 ファミレスでまたアイツにいじめられたんやな?」

 「いいんだよ、僕のミスだから仕方がないんだ」

 「幸一、どこへ行ったかてイヤな奴はおるで。

 でもな、それはしゃあない事や、それはお前がどこまでがんばれるかと、神様がお前を見て下さっておるんやからな? 「この子なら必ず上手くやれるはずや」と、ご褒美を用意してお待ちになっておられるんや。

 ゲーテはんも言うとるがな、


  

      人間の最大の罪は不機嫌である 



 とな?

 そういう奴は最大の罪を犯しているんやから、耐えるしかない。ほっておくこっちゃ。

 そして努力する、そいつに負けんとな?

 そやけどな、幸一。がんばってがんばって、それでもダメならそんな店、辞めてまえ。

 逃げるが勝や」

 「ありがとう、ソクラテス。僕、もう少しだけやってみるよ」

 「あまり無理せんとき、明日も早いんやろ?」

 「うん」


 そう言うと、ソクラテスは僕に寄り添い目を閉じた。


 「幸一、チーズハンバーグのええ匂いがするでえ」

 「今日もたくさん作ったからね? おやすみソクラテス」

 「おつかれさん、幸一」


 僕はそのままソクラテスと眠った。 


第5話 青年と成犬よ 大志を抱け

 「幸一、俺、大学を辞めることにした」

 「えっ、お父さんの会社、そんなに大変なのか?」

 「ああ、遂に銀行からも見放されたらしい」

 

 幸一と親友の大沢健一は、いつものように学食で280円のうどんを啜っていた。



 「学費なら俺が貸してやるよ、姉ちゃんが残してくれた保険金があるから」

 「ありがとう幸一。お前はいい奴だな? でもいいんだ、金の問題だけじゃないから。

 妹も大学受験を諦めた、家族がみんな大変な時に俺ばっかり大学に行ってる場合じゃないんだよ」

 「でも、健一は裁判官になるのが夢だったじゃないか?」

 「まあな? でももういいんだ。

 裁判官になるのは夢だったが、その夢が消えたからって絶望はしないよ。

 また新しい夢を探せばいいからな?

 まずはこの現実を受け入れるよ。幸一、俺は逃げないぜ、必ずこの窮地を乗り越えてみせる。

 俺はこの受け取った酸っぱいレモンをレモネードに変えてやる。

 大学を辞めても、親友でいてくれるか?」

 「当たり前じゃないか、俺たちは親友だろう?」

 「ありがとう、幸一」


 ふたりは泣きながら学食のうどんを食べた。




 

 幸一は家に帰ると今日の話をソクラテスにした。


 

 「そうか? それはかわいそうやな?

 でもな、アンタらはええ勉強をしたで。



    涙と共にパンを食べた者にしか 人生の味はわからない



 これはゲーテはんの言わはった言葉や。

 つまり幸一と健ちゃんは泣きながらうどんを食べた、それが人生の味ちゅうもんや。

 またひとつ大人になったやないの? 幸一。

 ええか幸一、人生は思うようにはいかんもんや、だからオモロイ。

 なんでもかんでも思い通りの人生なんて、気色悪いで。

 人生はハンデを抱えた勝ち負けのない障害物競争や。

 いろんな問題がぎょうさん起きる。

 でもそれが自分が主人公のドラマを輝かせるんや。

 悲しみ苦しみを乗り越えてこその人生やで。

 健ちゃんは確かにええ奴や、ここに来ると必ずワシを撫でてくれる。

 犬好きに悪い奴はおらへん!

 裁判官になれんでもな? 人生にはたくさんのチャンスがあるもんや。

 ようは目的を持って生きるこっちゃ、人生という名の時間を無駄にしたらあかん。何の目的もなく人生を浪費してはいかんのや。

 人生も犬生もあっという間やで。

 そして成功は人それぞれや。

 東大に入って、財務省に入って、国会議員になって、金と権力を持って国民や国犬を蹂躙じゅうりんするのが成功者やない。

 成功とは人からどれだけ「ありがとう」を集めたかや。

 「どうも」ではダメやで、「ありがとう」と「どうも」では感謝の重さが違うさかいな?

 つまり、どれだけ人の笑顔を見ることが出来るかが成功のバロメーターや。

 この世にはいろんな職業がある、そやけどそれは本当は自分が選ぶもんやない、職業は呼ばれるもんなんや。 「はい、あんさんはおまわりさん、アンタはりんご農家、あんたはんは小学校の先生とかな?

 医者や弁護士、社長や官僚、大臣だけの世の中やったら困るで、ホンマ。

 誰が泥棒捕まえるんや? 誰がラーメン作ってくれるんや? 誰が電気を供給してくれるんや?

 この世はいろんな人の「おかげさん」で成り立っておるんや、それを忘れたらあかん」

 「僕はまだ自分の夢が見つからないけど、その夢が見つかるようにいろんなことを学んでみるよ、ソクラテス」

 「そうや幸一、アンタはまだ若い、それは何よりの宝や、財産やで。

 あのクラーク博士の「青年よ大志を抱け」は本当はこう続くんや、



      青年よ大志を抱け!

      それは金銭に対してでも、

      自己の利益に対してでもなく、

      また世の人間が名声と呼ぶあのむなしいも 

      のに対してでもない。

      人間が人間として備えていなければならぬ、

      あらゆることを成し遂げるため、

      青年よ大志を抱け!

    

           ウイリアム・スミス・クラーク

             (札幌農学校 初代教頭)



 幸一、ワシは期待しとるで。

 青年も成犬も、共に大志を抱こうやないか!」

 「そうだね? ソクラテス」


 幸一はソクラテスをやさしく抱きしめた。


 「幸一」


 ソクラテスは満足そうに僕を見つめていた。


第6話 沙織ちゃんと哲学犬

 今日はバイトも大学も休みだった。


 「ねえソクラテス、公園にお散歩に行こうか? 天気もいいし」

 「久しぶりやな? あの公園、ワシ、大好きや。

 なあ幸一、フリスビーやろう! あれは楽しいで、犬には最高や」

 「じゃあ出掛けようか? ウンチ袋も持って」

 「交尾したいようなメス犬もおるやろか?」

 「いるんじゃない? 今日は日曜日だから」





 サンデーパークは家族連れや恋人同士でいっぱいだった。

 幸一たちはなるべく他の人の迷惑にならない芝生を選び、フリスビーを楽しんでいた。


 「いくよ、ソクラテス!」

 「ワン!」(はよ投げんかワレ!)


 幸一の投げたライトグリーンのフリスビーが、真っ直ぐに飛んでいった。

 ソクラテスは耳を寝かせ、空気抵抗を極力抑えてフリスビーを追いかけ、それをフライングキャッチすると、喜んで幸一のところへ戻って来た。


 ソクラテスの満足そうなドヤ顔。


 (どや幸一、ワシも中々やるやろう?)



 その時、幸一の背後から聞き覚えのある声が聞こえた。



 「そのワンちゃん、幸一君の犬?」

 「沙織ちゃん・・・」


 幸一は驚き、ソクラテスは思わずチンチンをしてしまった。

 なんと、そこにいたのは幸一のマドンナ、沙織ちゃんが微笑んで立っていたのである。


 (幸一! これがあの沙織ちゃんかいな? えらいべっぴんさんやないけ!)



 幸一は完全に固まってしまった。

 ソクラテスは沙織ちゃんの足もとに、白いお腹を見せて寝そべった。


 (沙織ちゃん、はよ撫でてえなあ)


 「かわいいー、撫でてもいい? お名前は?」

 「ソ、ソクラテスだよ。沙織ちゃん、犬、好きなの?」

 「だーい好き! 猫よりもワンちゃんが好き。

 特にコーギーは憧れだったの。いいなあ、幸一君は」


 ソクラテスは沙織ちゃんにメロメロだった。


 (なんやこのいい香り、そしてこの白くきめ細やかなお手て。

 あー、交尾したーい!)



 「私もフリスビー投げてもいい?」

 「うん、どうぞ、どうぞ」


 幸一はフリスビーを沙織ちゃんに渡した。

 彼女の投げたフリスビーはとんでもなく遠くへ飛んで行き、ソクラテスは必死にそれを追いかけて行った。

 ソクラテスは諦めなかった。走った走った、思いっ切り走った。


 フライングキャッチこそ出来なかったものの、芝の上に落ちたフリスビーをソクラテスは咥え、猛ダッシュで沙織ちゃんのところへ戻って来た。


 (ドヤ、すごいやろワシ? 褒めてんか、沙織ちゃん!)



 ソクラテスが仰向けに寝そべると、沙織ちゃんはソクラテスの白いお腹を撫でた。


 「すごいわね、ソクラテス。じゃあまた投げるわよ、それーっつ!」」



 

 それが何度も繰り返されると、さすがにソクラテスもヘトヘトになっていた。



 (沙織ちゃん、物事には限度ちゅうもんがあるんやで、何事も中庸が大切や、ゼエゼエ)



 「いつもこの公園で散歩してるの?」

 「今日はバイトも学校も休みだったからね? 久しぶりにやって来たんだ」

 「そうだったんだ? ねえ、今度お散歩する時、教えて。私も一緒にソクラテスとお散歩したいから」

 「うれしいなあ、沙織ちゃんとソクラテスのお散歩が出来るなんて」

 「じゃあLINE、交換しようよ」


 幸一はいつ死んでもいいと思った。




 

 家に帰るとソクラテスが言った。


 「あれが沙織ちゃんかいな? なかなかええメス犬、じゃなかった女の子やなあ。

 幸一が惚れるのも無理ないわ。ホンマ、ええ匂いしとったでえ」

 「ありがとうソクラテス、君のお陰だよ」

 「幸一、はよう一緒に暮らそうや。ホンマ楽しいでえ、ワシ、沙織ちゃんの膝枕で寝たい!

 幸一、恋愛はすばらしいで、あの作家の太宰治はんも言うておったわ。


 

      恋愛は、チャンスではないと思う。

      私はそれを意志だと思う。



 流石は恋愛に命をかけた作家さんや。

 幸一、早う交尾せい、ワシ、見て見ぬふりしてやるよってな?」



 余程、疲れたのか、幸一もソクラテスもそのまま折り重なるように眠ってしまった。


 沙織ちゃんの素敵な夢を見ながら。


第7話 平等について

 幸一は自分のバイトの仕事を完璧にこなすために、1時間早く出勤し、1時間遅く帰って調理の練習をしていた。

 もちろんタイムカードは押さない。


 最近ではミスも少なくなり、スタッフからの評判も良くなっていた。


 「幸一君、バイトなのによく働くね?

 どう? ウチの会社に就職しない?」


 幸一は店長から入社を勧められるほど、お店の戦力になっていた。


 


 皿洗いでボロボロになった手に薬用クリームを塗っていると、休憩室にあの意地悪な郷田が入って来た。

 また何か嫌味でも言われるのかと思っていると、


 「洗い物も半端な量じゃねえからな? 俺もそうだったよ。手はいつもボロボロだった。

 でもな? コックになると切り傷や火傷はしょっちゅうだ、ほら」


 郷田は腕をまくって見せた。

 無数の火傷と手は傷だらけだった。


 

 「おまえ、最近よくがんばってるな? 意地悪して悪かったな?

 俺、お前の事が羨ましかったんだ。

 俺ん家は母ちゃんと俺、そして妹の母子家庭でさ、高校も金が続かずに中退したんだ。

 だから幸せそうなチャラついた大学生のバイトを見ると腹が立った」

 「僕はそんな裕福な大学生じゃありません。親からは大学を諦めるように言われました。  

 でも、姉が私の学費を出してくれたんです。

 少ないお給料から僕を大学に行かせてくれました。

 でも、その姉も亡くなりました。

 郷田さんの気持ち、わかります」

 「あーあ、金持ちの家に生まれたかったなあー。

 小さい頃からいつも腹を空かしてた。

 給食費も払えず、それでも給食を食っている自分が惨めだった。

 小学校の時、担任から言われたよ、「給食費も払わないのにタダ食いか?」って笑われた。

 俺は我慢出来るが、妹は本当にかわいそうだった。

 大人は誰も助けちゃくれなかった。

 俺はここでバイトすれば、残り物を貰って帰ることが出来たんだ。

 その残飯を妹と母ちゃんが喜んでくれた。

 だから俺は人一倍働き、そして社員にしてもらえた。

 おかげで暮らしも楽になり、妹も今、高校三年生だ」


 そして郷田は自分のロッカーを開け、塗り薬を幸一へ渡してくれた。


 「これ、結構効くぜ」

 「ありがとうございます」


 その日から幸一は、郷田と友だちになった。






 ソクラテスにその話をすると、


 「幸一、その郷田君って、そんなにええ奴やったんやなあ?

 良かったなあ、仲良くなれて。

 それは幸一の一生懸命さが彼の心を開かせたからや。

 ええか幸一、人は口では動かん、人はその一生懸命さに感動するんや。

 軽やかに走るウサギよりも、誠実にどん臭く歩くカメの方が人を感動させるもんやで」

 「ソクラテス、どうして人は平等じゃないんだろうね?

 せめて生まれた時くらい、同じスタートラインだといいのに。

 大金持ちの子、貧乏な家の子、親は選べないもんね?」


 するとソクラテスは幸一のお尻をガブリと噛んだ。


 「何をするんだよ! 痛いじゃないかソクラテス!」

 「幸一のアホンダラ! お前は今までワシから何を学んでいたんや?

 神様の前では皆、人間は平等なんや!

 時間も太陽も水も酸素も同じやぞ! そしてチャンスも平等に与えていただいておるのに、それを活かし切れないだけの話やないかい!

 親を選べないやと? ふざけるんやないで! 根拠はないがな、ワシは子供は親を選んで生まれて来る思うとるんや。何が毒親じゃ!

 周りを見てみい、身体の不自由な子の親は優しい人が多いやろ?

 あれはな、おそらく虐待するような親の元ではすぐに殺されてしまうからやないやろか?

 歴史に名前が刻まれた偉人さんたちを見てみい、順風満帆な人生の人など誰もおらんはずや。  

 ハンデやコンプレックスがあるから頑張れるんと違うんか?

 甘えた事ぬかすな!ボケ!」

 「ごめん、ソクラテス」


 ソクラテスは後ろ足で耳の裏を掻いた。


 「ワシもさっきはつい噛んでしもうて悪かったな? 

 でもな? 幸一。人間は自分の環境に左右されるようではアカンのや。環境は自分で変えなあかん。

 そして愚痴や不平不満は絶対に言うたらあかん。

 それはせっかく人間として、この世に出していただいた、神様を侮辱するのと同じことや。

 幸一、何事も「ありがとう」やで。

 でもな、感謝するだけではダメや。感謝して「努力」するこっちゃ。

 あのガンジーはんも言うとる、



    重要なのは行為そのものであって、結果ではない。

    行為が実を結ぶかどうかは、自分の力でどうなるもの 

    ではなく、生きているうちにわかるとも限らない。

    だが、正しいと信ずることを行いなさい。

    結果がどう出るにせよ、何もしなければ何の結果もな

    いのだ。


         ガンジー(インドの首相、弁護士、宗教家)


 


 文句は言わず、愚直にやり続けるこっちゃ」


 ソクラテスは大きなあくびをして言った。

 

 「ワシのご飯まだか?」

 「ごめんごめん、今、用意するからね?

 今日は新しいドッグフードの袋を開けるから、美味しいと思うよ」

 「そうか? 楽しみやな、涎が垂れそうや」


 幸一はソクラテスの餌皿に、袋を切ったばかりのドッグフードを入れた。


 「いっただっきまーす!」


 夢中で食べているソクラテスを見て、幸一は目を細めた。


第8話 初めてのデート

 沙織ちゃんと2回目のお散歩デート。

 ソクラテスはリードを持った沙織ちゃんをグイグイ引っ張った。


 (沙織ちゃん、沙織ちゃん、ワテ、めっちゃ思いっ切り走りたいねん、いっしょに走ってくれへんかあ!)


 「こらこら、ソクラテス、そんなに引っ張らないでよー。結構チカラあるのね?」


 幸一はソクラテスの気持ちが分かっていたので、沙織ちゃんにそれを伝えた。


 「ソクラテスはたぶん走りたいんだと思うよ、公園で思いっきり走らせてあげようよ」

 「そうなの? じゃあこの前の公園に行きましょうか?」


 ソクラテスは幸一を見詰めた。


 (幸一、ようゆうてくれた、おおきにな!)




 公園に着いてリードを外すとソクラテスは競走馬のように走り出した。

 

 「幸一君の言ったとおりね? ソクラテス、すごく楽しそう」

 「今日も天気がいいから良かったよ」

 「でも大丈夫なの? リードを外しても?」

 「ソクラテスは大丈夫なんだ、だってソクラテスは僕と話が・・・」

 「えっ、ソクラテスは幸一君と話が出来るの!」

 「僕と話が出来るような関係だと言う意味だよ。でも、犬と話が出来たらいいけどね?」

 「そうね? ソクラテスと話が出来たら楽しいだろうなあ」

 

 幸一は危うくソクラテスと話が出来ると言いそうになった。



 ソクラテスも気が済んだようで、軽やかに幸一たちのところに戻って来た。


 「おかえりソクラテス、楽しかった?」


 沙織ちゃんはソクラテスの顔をもみくちゃにした。

 そんなデレデレのソクラテスに幸一は嫉妬した。


 (僕も犬になりたいよ、いいなあソクラテスは)




 帰り道、沙織ちゃんが言った。


 「今日も楽しかったなあ、ねえ幸一君、今度、一緒にご飯にいかない?」


 幸一とソクラテスは思わず立ち止まり、ソクラテスは緊張のあまり、すぐに近くの電柱にオシッコをしてしまった。


 「い、いいね? いいねご飯、沙織ちゃんは何が食べたいの?」

 「そうだなあ、お好み焼きとかはどう?」

 「うん、お好み焼きにしよう! どこかお勧めはあるの?」

 「特にないけど幸一君はいいお店知ってるの?」

 「調べておくよ、美味しいお好み焼きの店」

 「じゃあよろしくね? いつにする?」


 少し前かがみになって微笑む沙織ちゃん。

 ヤバイ、胸の谷間と水色のブラジャーが浮いているのが見えている!

 キュート&セクシー!



 「明後日だと助かるんだけど、バイトが休みだから」

 「じゃあ明後日、講義が終わったらね?」


 幸一は夢を見ているようだった。

 一緒に散歩するだけでもしあわせなのに、沙織ちゃんとお好み焼きデートだなんて!

 クリスマスと誕生日とバレンタインとハロウィンが一緒に来たような気分だった。





 家に帰ると幸一は、ソクラテスに前足で肩をポンポンされた。



 「良かったやないか? 幸一。

 憧れの沙織ちゃんと遂に交尾出来る日が来たやないか! このスケベ!」

 「交尾はまだ早いよ。でもうれしいな、沙織ちゃんと初デートだよ? ソクラテス!」


 幸一はソクラテスの背中を撫でた。



 「ホンマに良かったな? はよう店を決めんといかんな?」

 「調べてみるよ」

 「何でも物事は最初が肝心や、しっかりとした、交尾までのシュミレーションを考えなあかんで?

 ええか幸一? まずは場所や、どんなプロセスで交尾まで進むかや。

 ようするに交尾をするホテルまでのルートを頭に叩き込んでおけっちゅうこっちゃ。

 お好み焼きを食べながらする会話も重要やで。

 その点、幸一は話題も豊富やし、何よりもあんさんのええところはしゃべりすぎないところや。

 アホな奴ほど自分ばーっかり話しをしてけつかるよってな? これは最悪や。

 ええな幸一、いかに相手と気持ちよく話しをするかが勝負や!

 人は心を開いた人間には自分をもっと語りたいもんや。自分をもっと知って欲しいという心理が働く。

 ここまで来れば交尾は50%成功したも同然やで。

 話が盛り上がり、酒も入ればあとはそのままベッドインや。

 だが気を抜いたらあかんで、沙織ちゃんの貞操は固いさかいな?

「それならしょうがないわね?」と自分自身を納得させられる「大儀名分」が女には必要なんや。

 まあその辺はその場の雰囲気でアドリブしかないけどな?」

 「明後日が楽しみだなあ」





 そしてデート当日がやって来た。

 大学のキャンパスを出ると、すぐに沙織ちゃんが訊いて来た。



 「どうする? エッチしてからご飯? それともご飯食べてからエッチがいい?」


 幸一はその場に倒れそうになった。

 ソクラテスの心配は杞憂に終わった。


 

 「ど、どっちでもいいよ」

 「そう、じゃあまずホテルでやってからにしようか?

 その方がお腹も空いてご飯も美味しいから」

 「いいの、僕でも?」


 幸一は童貞だったので、つい余計な事を口走ってしまった。

 幸一は女心を読めない奴だった。


 「あたり前でしょー、私、幸一君のこと好きよ。

 幸一君と結婚して、ソクラテスと一緒に暮らしたいと思っているの。

 だってヤリたいんでしょう? 私と?」


 沙織ちゃんはクスッと笑った。

 その仕草がとてもキュートだった。




 その日、幸一は沙織ちゃんのご指導の元、無事、童貞を卒業することが出来た。



      男のしあわせは「われ欲す」

      女のしあわせは「彼欲す」である


             ニーチェ(哲学者)


第9話 哲学者 沙織ちゃん

 もちろん幸一は童貞だった。

 

 「緊張しなくてもいいわよ、私がちゃんと教えてあげるからね。

 セックスをあんまり特別なものとして考え過ぎなのよ、みんな。

 男はやりたい、女はやられたい、ただそれだけのことでしょう?

 手は平気で繋ぐのに、チ〇ポとマ〇コは繋いだらいやらしいと思う方がどうかしているのよ。

 アラスカのエスキモーとか、ゴーガンのいたタヒチなんかは「何もありませんが、よかったらウチの妻でもどうですか?」と男性客をもてなす風習があったそうよ。

 だって人間は自己が進化し、子孫を残していかなければならないようにプログラムされているの。

 セックスは人間の本能なのよ。

 それが単なる猥雑な行為だとすれば、そこに知性も教養も愛情もないからよ。

 確かに愛のないセックスは空しいわ、だから誰でもいいとはいわない、でも私は幸一君が好き。だからやらせてあげる。だってそこには愛があるから。

 裁判官をしている父の書斎に「教養辞典」という本があってね、なんだか偉い先生たちがご託を並べているんだけど、いちばん笑えたのは「性交」の記述。


   

    「子孫を残す以外はみだりに性交をしてはならない」



 こんな人間が増えたら人類は滅びるわよ。

 そもそもこの世の女性が満足なセックスをしていると思う?

 ほとんどの女性は本当のオルガスムスを知らないで死んでいくわ。それって清らかなこと?

 男は射精すれば目的が達成されるかもしれないけど、女はどうなるの?

 本当の女性解放とは性の解放にあるのよ。そうは思わない? 幸一」



 幸一はすっかり萎えてしまった。

 それは沙織ちゃんの性に対する理論にコメント出来ない自分が情けなかったからだ。


 (ああ、こんな時、ソクラテスがいてくれたらなあ)


 「とにかく、始めましょう、お腹も空いたし」


 沙織ちゃんのプライベート・レッスンに、幸一はメロメロにされた。





 大阪のお好み焼きの店に入ろうとした時、沙織ちゃんがそれを制した。


 「幸一、まさか私にこの何の芸術性もないソース掛けのビタ焼きを食べさせようというんじゃないでしょうね?」

 「えっ、だって沙織ちゃんがお好み焼きが食べたいっていうから・・・」

 「お好み焼きって広島に決まってんでしょ!

 いいわ、私が本当のお好み焼きを食べさせてあげる。ついて来て」



 セックスの後の沙織ちゃんは別人だった。

 幸一のことも呼び捨てになり、どことなく関東言葉ではあるが、しゃべり方もソクラテスにそっくりだった。

 物事を決して曖昧にしない、まるで裁判官のようだった。

 沙織ちゃんもソクラテスも「白か黒か」、「All or Nothing」だった。




 沙織ちゃんが連れて来てくれたお店はすでに長蛇の列が出来ていた。

 1時間ほど並んで、ようやく入店することが出来た。

 幸一は驚いた、広島のお好み焼きを初めて見たからだ。


 「幸一、これこそがお好み焼きよ。よく見てご覧なさい、この素晴らしい人類の英知の結集を!

 鉄板も決して温度は均一じゃないわ、だから微妙に調理の場所を変えているでしょ?

 そこら辺のシロウトでは真似できない職人技が広島お好み焼きにはあるの。

 広島風ですって? 冗談じゃないわ! これは芸術なの!

 まず滑らかに溶いた薄力粉を薄く敷き、その上にどっさりと千切りキャベツを乗せる。

 そしてそこにイカ天や生姜、豚バラを乗せ、すぐに山盛りのままの具材をひっくり返す。

 心配しなくても大丈夫、すぐにキャベツは沈んでいくわ。

 そしてタイミングを計るように焼きそばを炒め、そして先程のしんなりした本体をそのまま焼きそばの上に乗せる。

 そしてここからがクライマックスよ、今度はそこに乗せる目玉焼きを作るの。

 ほんの少しだけ崩すスタイルの方が多いわね。

 そして本体を目玉焼きに乗せて再度ひっくり返す。

 そこにオタフクソースをたっぷりとかけて青のり、鰹節、そして九条ネギをどっさり載せて出来上がりよ。

 すごいでしょ? これがお好み焼きよ、さあ食べましょう」

 「美味そう! いただきまーす!」


 

 幸一が割り箸に手を伸ばそうとした時、沙織が幸一の手をピシャリと叩いた。


 「まさか箸でこの作品を食べるつもりじゃないわよね?

 コテで食べるに決まってんでしょ!」



 幸一は慣れない手つきでコテを使い食べた。

 すごく美味しかったが、アツアツのお好み焼きで唇を火傷してしまった。


 「アチっつ!」


 それを見て笑う沙織はいつもの沙織ちゃんに戻っていた。



 「美味しいね? ところで幸一、将来はどうするつもりなの?」

 「まだ決めてないんだ。沙織ちゃんは?」

 「裁判官になるの、私。

 子供の頃から裁判官の父の仕事に憧れてね? それで法学部に入ったの。

 ゆくゆくは最高裁の判事になるつもりよ」

 「すごいなあ、沙織ちゃんは。人生をしっかりと計画しているんだ」

 「そうよ、大学院を出たら司法試験に一発合格。判事になったら1年後に弁護士と結婚、29歳で男の子を出産して3年後には女の子、それから家は・・・」

 「わかった、わかった、そこまででいいよ。

 僕はどうしようかなあー」

 「どうしようかじゃないでしょう? 幸一は弁護士になって私の夫になるのよ。

 今日から幸一は私と子供たちをしあわせにするために生きるの。しっかりしてよね!

 分かった? もちろんソクラテスも一緒よ」

 「弁護士かあ」

 「そうよ、幸一ならできる! 一緒にがんばりましょう!」


 どうやら幸一の将来は沙織ちゃんに決められたようだ。



      過去が現在に影響を与えるように

      未来も現在に影響を与える


            (哲学者)ニーチェ


最終話 惜別

 沙織ちゃんは1年間の司法修習を終え、地裁の判事補になっていたが、幸一は2度目の司法試験に挑戦していた。



 「幸一、今度で終わりだからね? 私の予定よりも2年も遅れているんだからね、これ以上は待てないからね!」

 「わかっているよ、うるさいなあ、僕だって必死に頑張っているんだ! 少し黙っててよ!」


 そんな毎日が続いていた。





 だが、結果はまた不合格だった。


 

 「あなたがそんなにバカだとは思わなかったわ。 私たち、お別れしましょう、さようなら!」

 

 幸一はあっさりと沙織ちゃんからも捨てられてしまった。




 落ち込み、自暴自棄になる幸一。

 ソクラテスは幸一の手の甲を舐めながら言った。


 「あんなに勉強しとったのに残念やったなあ」

 「これが僕の実力だよ、沙織にも振られた」

 「幸一の気持ちはようわかるで。そやけどな? 松下幸之助はんはこう言っとるでえ。



       万策尽きたと思うな

       自ら断崖絶壁の淵にたて

       その時はじめて新たなる風は必ず吹く


         松下幸之助(パナソニック創業者)




 そしてイチローはんもこうも言ってはる。



       壁というのは できる人にしかやってこない

       こえられる可能性のある人にしかやってこない

       だから壁がある時はチャンスだと思っている


                  イチロー(元野球選手)




 とにかくやるんや幸一。

 ワシの目に狂いはない、幸一は必ずやれる男や。あんさんは出来る男や。

 物事にはな? 三度目の正直っちゅう言葉があるやないか!

 簡単にいかへんさかい、人生はおもろいんとちゃうんか?

 難しいからこそ、成功の喜びがあるんやで!

 沙織ちゃんはな、おそらく賭けに出たんや。

 ワテも沙織ちゃんも幸一を信じておるんやで!

 合格せえ、そうすれば必ず沙織ちゃんは戻ってくるさかい、心配はいらん!」

 「ありがとうソクラテス、僕、やってみるよ!」

 「そや、その勢やで!」


 ソクラテスは今度は幸一の顔を舐めまわした。


 「わかったよ、わかったからもう舐めなくてもいいよソクラテス」

 「アホ、これが舐めずにおれるか! ワレ! ベロベロ」



 その日から幸一はまた、猛然と司法試験の勉強を始めた。


 

 「ええか幸一、四当五落やで、人間は眠らんでも死にやせん!

 1日4時間も寝たら十分や!」


 幸一は毎日毎日勉強した。






 そして3度目の司法試験合格発表の日がやって来た。


 

 「あった! あったぞ!」


 幸一は掲示板の前で泣き崩れた。

 すると背中に柔らかい胸の感触と、身覚えのあるいい香水の香りがした。



 「おめでとう、幸一・・・」


 沙織ちゃんは後ろから幸一を抱き締め、泣いていた。


 

 「沙織、待たせてゴメン、まだ間に合うかな、君の家族計画に?」

 「大丈夫よ、予定に変更はつきものですもの」






 幸一はソクラテスの為に神戸牛を買い、家路を急いだ。



 「ソクラテス! 合格したんだ! 合格したんだよ、僕、司法試験に合格したんだ!

 ソクラテスのお陰だよ、ありがとう、ソクラテス! 今日はお礼に神戸牛を買って来たんだ!

 いっしょに食べよう!」


 だが、ソクラテスは横になったままだった。


 「ソクラテス?」

 「よかったなあ、そうか、合格したんか・・・。

 ホンマによかったなあ。おめでとうさん、幸一・・・。

 ようがんばったでー、幸一・・・」

 「具合でも悪いの? お医者さんに行こうか?」

 「幸一、ワシはもうダメや、アカン・・・。

 でもな、ワシは幸一とおって、ホンマに・・・、しあわせやったで。

 幸ちゃんが死んでしもうた時は、ホンマに悲しかった・・・。

 でも、幸一はワシを、かわいがってくれた。

 ワシは毎日が楽しかったで・・・。ハア ハア

 幸一、沙織ちゃんと仲良くしいや、あの子がいれば大丈夫や」

 「ソクラテスー! 嫌だよ! 嫌だよ! 死んじゃイヤだあー!」

 「幸一、男はな、泣いたらあかん。ワテはいつも幸一を見守っておるさかいな?・・・。

 ほな、幸ちゃんも迎えに来てくれたさかい、逝くで。 元気でな・・・、幸一・・・」

 「ソクラテスーーーーーーーーー!」



 幸一はソクラテスを抱いたまま、朝まで泣き続けた。

 朝日が差し込み、ソクラテスの背中から白い翼が生えてきた。

 するとソクラテスは言った。


 「幸一、ワシの最後の言葉や、



      いい犬生やった ワレ 後悔せず


            ソクラテス(哲学犬)



 ほな、さいなら。元気でな? 幸一」

 「ソクラテス・・・」 



 ソクラテスは翼を羽ばたかせ、太陽に向かって飛んで行った。

 それは決して夢ではなかった。

 


                『哲学犬 ソクラテス』完


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【完結】哲学犬『ソクラテス』(作品230506) 菊池昭仁 @landfall0810

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