第8話「アイドルマスター」
「やあ月野さん、さっきぶり」
「言っておきますけど、貸し一つですからね」
「高い貸しになりそうだ。ともあれ、ありがとう。助かったよ」
そう言うと、月野さんは鳩が豆鉄砲食らったような顔を見せた。常人なら間抜けになってしまうその表情。しかし月野さんは絶妙なバランスで美人を維持してみせた。
「意外ね。貴方、ちゃんとお礼が言える人だったのね」
「僕は礼儀正しい人間だよ?」
「そうは見えないけど。まあいいわ、私とその女にあったことだったわね」
言って、月野さんは真衣華をキッと睨んだ。
「この女はいきなり私に斬りかかってきたばかりでなく、その後も行く先々で私の邪魔ばかりしてきたのよ」
「言うにことかいて邪魔とは。邪魔をしてきたのはあなたの方でしょう?」
「はい? 記憶力に乏しいようだから説明するけど、私がエゴの保護をしようとしているのに、一方的に私を敵視してきたのは貴方でなかったかしら?」
「私の記憶ではイドと戦っている私に攻撃してきたのがあなただったように思うのだけれど?」
「あれは攻撃じゃありません。保護活動です」
「イドの眼前で身動き取れないようにネットを張るのが保護? そのせいで私は怪我をしたのだけれど?」
「うぐっ……! そ、それはたまたまよ。狙ってやったわけじゃないわ」
「よくいうわ。敵の眼前でそんなことをすればどうなるかくらい火を見るよりも明らかでしょうに」
「だからっていきなり斬りかかっていい理屈にはならないでしょう」
キャットファイトの再来だ。このままではいつまでも言い争いを続けそうだったので、
「二人共、その辺で頼むよ。僕が思うに、二人には悲しい行き違いがあった。だけどそれは誤解だった。だからお互いに謝って終わらせよう」
二人は互いの瞳をジッと見つめて、ややあって「悪かったわね」とお互いに謝罪した。
「うんうん、仲良きことはよきことかな。仲直りもできたところで、僕としては少し真面目な話をしたいんだけど、いいかな?」
さっき溢したジュースのせいでパンツがビチャビチャになっている。
不快感が限界を突破しているから一刻も早くシャワーに入って着替えたいところだけど、この機会に所属する陣営について話さなければ、またぞろさっきみたいな事が起こらないとも限らない。だから、ここは真面目パートだ。
「いいでしょう。貴方達もさっきの出来事で私の言っていた意味が理解できたでしょうし」
「うん。それでなんだけどね、僕としては月野さんの陣営に所属するのはやぶさかじゃないと思っている。ただし、これだけは守ってほしいという条件がある」
「聞きましょう」
「まず第一に、天音の安全の確保。これには、天音が今までと変わりない生活を送れるって意味が含まれてる」
「そうくると思ったわ。まあ、善処しましょう」
「善処じゃ困る。僕が欲しいのは確約だ」
「……貴方の考える今までと変わりない生活は正直難しいと思う。貴方がその子を大切に思っていればいるほど、彼女の重要度は上がるもの」
「それは理解しているよ。その上で、だ。月野さんが天音にできることを聞いているんだ」
「護衛はつけるわ。それから、万一誘拐されてしまった場合、交渉にはシチュエーションAを適用する。これでどう?」
「シチュエーションAっていうのは?」
「陣営同士の戦争以外の手段全てを用いるってことよ」
「なるほどね。天音、どうかな?」
「ふぇ? まあその、いいんじゃないでしょうか?」
「本当に? 君は完全に巻き込まれた側の人間だ。要求する権利がある。今の内に言っておいた方がいいぜ?」
「そう言われても……わかんないよ」
天音には不安なく日常を送ってほしい。そのために出来る事は全てしなければならない。それが彼女を巻き込んでしまった僕の責任だ。
「シチュエーションAの場合、想定しうる最悪のパターンは?」
月野さんにそう尋ねると、彼女は思案する素振りを見せた後、
「まずないとは思うけど、人質としての価値がないと判断された場合、過激な陣営なら処分される可能性はある」
彼女はあえて「処分」なんていう優しい言葉で誤魔化したが、つまるところ天音の命にかかわる話ってことだ。
「そうならないために出来ることは?」
「一番簡単なのはゴタゴタが済むまでウチで預かることね」
「それなら安全が保証される?」
「ウチが潰れない限り」
今までと変わりない生活と天音の身の安全。正直僕からすれば比べるまでもなく安全の方が大事だが、最終的な判断は天音に仰ぐべきか。
「天音。護衛付きの日常と月野さんのところに軟禁されるの、どっちがいいかな?」
「言い方に悪意を感じるわね……」
「えと、月野さんのところに行く場合、司はどうなるの?」
「そこが問題よ。ウチとしては解剖してまで調べるつもりはないみたいだけど、それでも検査はさせてほしいと思ってる。それに、イドとも戦って欲しい」
「基本的人権は確保されると思ってもいいんだよね?」
「それは保証します」
「なら、僕は歓迎だ。後は――」
真衣華の方を見る。彼女は苦々しい顔をしていた。今までの流れを考えれば当然だろう。彼女の嫌っている月野さんの陣営につこうとしているのだから。
「私はコントラクターの決定に従います」
「あら意外ね。てっきりゴネるかと思っていたのに」
「ゴネて状況が好転するならいくらでもするわ。けど、そうもいかないでしょう?」
「冷静な判断ができているようで何よりだわ」
僕は「さて、そうと決まれば」とベンチから立ち上がった。しかし、それが間違いだった。
月野さんは尚もベンチに座っている。彼女の顔の前には僕のズボンがあった。そう、先程股間にジュースを溢し、濡れジミがある状態で、だ。
「え……? 嘘でしょう?」
「待ってほしい。何か大きな誤解があると思うんだ」
「誤解も何もそういうことでしょう。信じられない……まさかさっきのでビビっちゃったの?」
「違う。断じて違う」
月野さんは打って変わって真衣華を気の毒そうな顔で見た。
「貴方も大変ね……こんなのがコントラクターなんて」
「だから違うって! 話を聞いてくれ」
「何よ? ビビってチビッちゃったんでしょう? チビッたって量じゃないけど……」
「これはジュースを溢したんだ! 呑み口の目測を誤ってだね――」
「はいはい、そういうことにしてあげるから近寄らないでもらえるかしら」
「信じてないな? 匂いを嗅いでくれよ。オレンジの芳醇な香りがするはずだから!」
「いやよ! 何が悲しくて臭いを嗅がなきゃいけないのよ!」
「二人からも言ってやってくれ! 僕は無実だと!」
「あの、月野さん。司がジュース溢したのは本当だよ?」
「そうね。コントラクターの名誉に関わるから言うけれど、彼は本当にジュースを溢しただけよ?」
「本当?」
「なんで疑うんだ!」
「だって、ねえ?」
「ねえじゃないよ! 僕は無実だ!」
「はいはい疑ってすみませんでした。これでいい?」
とても釈然としない気持ちだったけど、いつまでも言い争いを続けていてもしょうがないので、仕方なく、本当に仕方なく謝罪を受け取った。
「じゃあ話を戻すとして、月野さんのところの……あー、なんて名前だっけ?」
「健全保護育成協会アプローチ?」
「そう、健全……なんだっけ?」
「健全保護育成協会アプローチ。覚えづらいならアプローチって言いなさい」
「アプローチね。そこにはいつ行けばいいんだい?」
「今日から」
「ずいぶん急な話だね」
「また陣営のいざこざに遭いたいなら後でもいいわよ?」
「それは困る」
「でしょ。とは言っても、親御さんへの説明をしたいでしょうし、少しの時間は設けるわ」
「それなら大丈夫。僕の両親は全国飛び回ってていつも家にいないから。問題は天音だね」
「あらそ」
天音を見ると、彼女は「うへ……」と苦々しい顔をしていた。
彼女の親御さんは天音のことを目に入れても痛くないほどに猫可愛がりしている。そんな愛娘が親元を離れようというのだ、説得には骨が折れるぞ。
「自慢じゃないけどウチの親説得するのは大変だと思うよ?」
天音がそう言うと、月野さんは顎に手を当て「ふむ」と思案する様子を見せた。その格好が絵になりそうなくらい様になっている。本当に美人で目の保養になるなあ。
「親御さんを説得するためのカバーストーリーを用意しましょう。ウチからそれっぽい職員も派遣するわ」
「カバーストーリーってどんなの?」
「そうね、アイドル養成事務所にスカウトされたとか?」
「なるほどね。全寮制だとか日夜レッスンするためだとかで家を空ける理由が色々つけられそうだ」
「そういうこと」
「しかしそのカバーストーリー、天音が可愛いから幸いにして使えるけど、とんでもないブスだったらどうするつもりだったんだい」
「その時はその時考えるわよ。ちょっと電話してくるわね」
言って、月野さんはスマホ片手にどこかへ行ってしまった。その後ろ姿を見送っていたら、不意に服の袖をつままれた。
「司、あたしのこと可愛いと思ってくれてたの……?」
うるうるとした瞳で上目遣いがちにそう尋ねてくる天音は誰が見ても可愛いと評するだろう。
「うん。天音は可愛いだろ」
「ほんと?」
「本当さ。具体的には醤油をかけて食べたいくらいだね」
「意味わかんないよ……でも、嬉しいな」
「そういえば言ったことなかったっけ?」
「うん、初めてだよ。いつもぞんざいな扱いばかりしてくるから、あたしのことそーゆー風に思ってくれてたなんて知らなかった……」
な、なんだこの砂糖を吐きそうなピュアラブムード……はっ! そうか、そういえば僕は天音ルートに入っていたんだった。とすればこれは好機。今の内に好感度を上げなければ。
僕はゆっくりと天音に近づき、彼女の耳元でこう囁いた。
「天音、可愛いよ」
果たしてその効果は……。
「うへへ……そ、そうかなあ?」
こうかはばつぐんだ! 顔を真っ赤にして毛先を指でクルクルとしだした天音に気を良くした僕は、更にこう囁いた。
「天音、足を舐めさせてくれ」
渾身のイケボが決まったぜ。この声、この流れ、彼女が断るはずもない。
しかしそんな僕の思惑とは裏腹に、僕を待ち受けていたのはボディブローだった。
「あんたあたしのことからかってるでしょ?」
「ぐぅ……そ、そんなことはないよ」
「絶っ対からかってる! ひどい! あくしつだよ!」
否定するも、ぷんすか怒ってしまった天音に僕の言葉は届かなかった。
「おまたせ……何かあったの?」
戻ってきた月野さんの言葉に、真衣華が肩をすくめて答えた。
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