その日の放課後。


 みのりはいつものように陸上部の部活に参加していた。


 先日、県大会を終えた彼女は次なるステージである地区大会に向けて調整中である。



 みのり

「(よし、イケる――!)」



 みのりはゴールラインを全速力で駆け抜け、徐々にスピードを落としていく。


 まだ膝に少し痛みは残っているが、走りに影響するほどではない。


 みのりは呼吸を整えながら、顧問のところに向かった。



 ???

「どうした、柳瀬? フォームが乱れているぞ」



 顧問の吉沢が手元のストップウォッチを見ながら鋭く指摘した。



 吉沢

「……タイム自体に問題はない。だが重心がブレて手足に力みが生じている。スムーズに体重移動が出来ていない証拠だ。――――まさかとは思うが、どこか痛めたのか?」



 みのり

「いえ、問題ありません」



 みのりは吉沢に嘘を吐いた。


 このタイミングでケガのことが知られれば、出場を辞退させられてしまう。


 吉沢は手元のノートにストップウォッチの数字を書き込んだ。



 吉沢

「そうか……。今日はもうあがれ」


 みのり

「え……?」



 吉沢

「今から病院に行って〝膝の〟診断書をもらってこい。明日すぐに提出してもらう」



 吉沢はみのりの右膝に貼り付けられた四角い絆創膏をあごで指した。


 激しい運動により絆創膏の内側から血がにじみ出している。



 みのり

「これは帰り道に電柱で少し擦りむいただけで……。さすがに大げさですよ、先生」



 吉沢が眉をひそめ、ペンの動きを止めた。



 みのり

「本番まで時間がないんです。今からフォームの修正を――――」



 吉沢

「柳瀬。俺はお前たちに口酸っぱく言ってきたはずだ。〝ケガだけは絶対に隠すな〟と」



 顧問の吉沢はとても優秀な指導者である。


 学生時代に数々の功績を残し、将来を期待された有望な選手だった。


 しかし、当時のスパルタ教育や周囲からの期待が重圧となり、彼は陸上選手として二度と再起できないケガを負ってしまった。


 引退後は母校の指導者として教職に就き、今は生徒の育成に尽力している。


 しかし、彼の心には当時の傷跡が今も残っていた。


 そのため教え子のケガに関して非常に敏感なのだ。



 吉沢

「お前は俺と同じ目に遭いたいのか?」



 みのり

「…………」



 みのりは返す言葉がなかった。


 吉沢は間違ったことを何一つ言っていない。



 吉沢

「恨むなら好きなだけ恨め。それで教え子の未来を守れるなら本望だ」



 みのりは悔しさで頭が一杯になり、拳を固く握り締めた。


 吉沢が悪くないことは重々承知している。


 悪いのはむしろ彼の指示に従わなかった自分自身だ。


 それでも今だけは彼の優秀さが恨めしい。



 みのり

「……失礼します」



 みのりはがっくりと肩を落とし、陸上部のロッカー室にトボトボと歩いて行った。






 ――――――――――――






 みのり

「はあ……」



 みのりは溜め息を吐きながら家の玄関の扉を開けた。


 靴を脱いで階段で二階に上がり、自室で制服から学校指定のジャージ服に着替える。


 病院は学校からは遠いが、自宅からはわりと近い場所に存在している。


 しかし、そこに行くには例の河川敷を通らなくてはならない。


 今日もいるとは限らないが、みのりは昨日の気まずさゆえに少年と顔を合わせたくなかった。


 車で送ってもらえれば気にする必要はないのだが、あいにく彼女の両親は仕事で不在だ。


 そして自転車は、昼間は母が仕事で使っているため、徒歩で病院に向かうしかない。


 みのりは繰り返し溜め息を吐きながら家を出た。






 ――――――――――――






 みのり

「っ――!」



 みのりが河川敷の道に差しかかって間もない頃、彼女の右膝に激痛が走った。


 絆創膏を中心に青あざが広がっており、今朝よりも患部が腫れ上がっている。



 みのり

「(うわ~、これマジでヤバいヤツじゃん……)」



 彼女のケガは本人が思う以上に深刻だった。


 一旦休憩を挟もうと考えたとき、みのりは休憩所で煙草を吸っている不良少年の姿を発見した。


 そのまま素通りすることも考えたが、膝が休めとズキズキ訴えてくる。


 みのりは頭の中で謝罪と言い訳の言葉を考えながら、休憩所のベンチに腰を下ろした。



 少年

「……」



 少年は既にみのりの存在に気付いている。


 しかし、以前のように話しかける気配はない。


 それどころか彼女の存在を完全に無視しようとしていた。


 しかし、それは仕方のないことである。


 厚意で接した人間にあれだけ邪険にされたら怒らない方がおかしい。


 みのりはすぐにでも謝るつもりが、存在を無視されたことで話しかけ辛くなってしまった。


 だからといって自分の過ちをうやむやには出来ない。


 今日を逃せば謝罪する機会を完全に失ってしまう。


 みのりは意を決して彼に話しかけた。



 みのり

「いつもここにいるんですね?」



 少年はみのりに一瞥をくれるが、返事を返すことなく煙草を吸い続けた。


 自分が悪いとわかっていても、声をかけて無視されるのはさすがにショックだ。


 みのりはめげずに謝罪の言葉を口にした。



 みのり

「昨日はすいませんでした……。その……、色々と言い過ぎました……」



 少年

「……」



 少年は内心かなり驚いていた。


 一晩の間に何があったのか……。


 昨日までの彼女とはまるで別人である。


 彼女に対する下心は既に失せていたが、彼女の心境の変化には少しだけ興味があった。



 少年

「何でだろうな……。気付いたらいつもここに来てる」



 みのり

「え……?」


 少年

「これ、質問さっきの答え、な」



 そう言って少年は休憩所に設置された灰皿で煙草の火を消した。


 会話が成立したことでみのりはホッと胸をなで下ろす。



 少年

「……で、わざわざそれを言いに来たのか?」



 今度は少年の方からみのりに話しかけた。


 一度付いたイメージは簡単には変えられない。


 しかし、普通に話し合う程度には彼女は許されていた。



 みのり

「あ、いえ……。昨日のケガが思ったより悪化しちゃって……。今から病院に……」



 みのりが腫れた右膝を撫でながら説明した。


 少年は休憩所の柵に背中を預け、意地の悪い笑顔を浮かべる。



 少年

「なるほど……。つまり、そっちが本命で俺はその〝ついで〟か……」



 みのりが彼の皮肉の効いた言い回しに慌てふためく。



 みのり

「ち、違います……! いや、違わないんですけど……。その……、すいません……」



 みのりはさっきから謝ってばかりだ。


 頑固なのか素直なのか……。


 彼女の性格はよくわからない。


 少年は不覚にもそんな彼女が少しだけ可愛いと思ってしまった。



 少年

「ははっ! 面白れえな、お前……」



 みのりに対する印象が彼の中で少しずつ変わり始めていた。



 少年

「……で、大丈夫なのか、その足?」



 みのり

「え……?」



 少年

「今から病院に行くんだろ? 昨日は結構派手にすっ転んでからな」



 少年がみのりのケガの心配をした。


 みのりの中でも少年に対する印象が徐々に変わり始めていた。


 彼は不良という概念に属しているものの、案外悪い人ではないのかもしれない。


 みのりは自分の心境や現在の状況について少年に語り始めた。



 みのり

「悔しいですけど、次の大会は出場を辞退すると思います」



 少年

「……次の大会? もしかしてアンタ陸上部か?」



 みのりが少年の言葉に無言で頷いた。



 みのり

「このケガは三日やそこらで治るモノじゃありません。コーチの指示に従わなかった私のミスです」



 おまけに自分の不注意によるケガのイライラを人様にぶつけてしまった。


 本当に恥ずかしい限りである。


 少年は彼女の話から、おおよその流れを把握した。



 少年

「大会前だから学校以外での練習は控えろって言われてた。けどアンタはその指示を無視して自主練でケガをしちまった――――そういうことか?」



 みのりは少年の質問に対して首を縦に振った。


 少年の言う通り、彼女は顧問の吉沢に部活以外での個人練習を控えるよう指示されていた。


 その結果、知り合いに見つからないよう慣れないコースを走っていたことが裏目に出てしまったのだ。


 少年は溜め息を吐いたのち、新しい煙草に火を点けた。



 少年

「俺はスポーツのこととかよくわかんねえけど……。本気でプロ目指してるヤツは体調管理とかも徹底するもんなんだろ? 何でコーチの指示を無視してまでトレーニングしたんだよ?」



 これはあくまで外野の意見である。


 少年はスポーツ経験がほとんどないゆえ、実際に活動している者の心情がわからない。



 みのり

「私は別にプロを目指してるわけじゃないんです。――っていうか、全ての選手がプロになれるわけじゃない」



 少年

「……」



 みのり

「高校生にもなれば、自分に才能があるかどうかぐらいわかります。私の力じゃインターハイどころか地区大会の決勝にも届きません。――プロ以前の問題ですよ」



 これは努力うんぬんの話ではない。


 同様の理由で陸上の世界から弾かれる者はごまんといる。


 みのりは自分の実力が県大会レベルだと自覚していた。



 みのり

「でも走るのは好きですから、大学に行っても陸上は続けると思います。――けど就職のこととか考えたら、本気で陸上を楽しめる時間はほとんど残されていません」



 いつまでも子どものままではいられない。


 いずれ大人になり、現実と向き合う瞬間がやって来る。


 それは彼女に限った話ではない。



 みのり

「だから残り少ない陸上人生を精一杯楽しみたいんです」



 以上が、みのりが無理を通してまで走りたがる理由である。


 少年は彼女の話に完全に聞き入っていた。


 今の話をもう少し早く聞けていれば、自分の人生も少しは変わっていたのかもしれない。


 少年は白煙と溜め息を同時に吐きながら、そう思った。



 少年

「なあ。今回のことでアンタが得たものって何だ?」



 少年が空を見上げながら、みのりにそうたずねた。



 みのり

「どういう意味ですか?」



 少年

「次を目標に頑張れっつ~のは簡単だけどよ……。素人の俺から見てもアンタはもう頑張ってる。神様はアンタにケガさせてまで何を伝えたかったんだ?」



 みのり

「…………」



 少年

「そうでも思わなきゃ割に合わねえだろ?」



 そう言って少年は煙草の灰を灰皿に落とした。


 彼はみのりのケガを悪い方には考えず、次に繋げるための教訓にしようと言っている。


 この一件から何かを学ぶことが出来れば、みのりが失った時間は決して無駄にはならない。


 みのりは少年の前向きな考え方に感化され、自分なりに今回の一件を振り返ってみた。


 すると目の前の少年の顔が真っ先に頭の中に浮かび上がった。



 みのり

「(いやいやいやいや……。何でこの人が最初なのよ……)」



 彼女は頭をブン回して脳内の映像を消し飛ばした。


 しかし、真面目に反省するなら――――


 不良という肩書きだけで人を判断してしまったのは間違いだったと今では思う。


 初対面の不良に警戒心を抱くのは仕方がないことだが、肩書だけでその人の全てが決まるわけじゃない。


 顧問の吉沢の指示に従わなかったことについても大いに反省すべきだろう。


 彼が個人練習を控えろと言ったのは、何も肉体調整だけが目的ではない。


 今回のようなケガのリスクを防ぐためでもあったのだ。


 もっと吉沢の意図を深く理解していれば、出場辞退などという最悪の事態だけは免れたかもしれない。

 

 みのりが頭の中で自分の過ちを反省していると、彼女は耳元で少年に話しかけられた。


 少年

「…………い……。――――おいっ!」



 みのり

「っ――⁉」



 みのりはハッとした表情を浮かべ、少年の顔が間近に迫っていたことに驚いた。


 彼女はその拍子にベンチから転げ落ちそうになり、少年が慌てて彼女の腕を引っ掴んだ。


 みのりは少年の手を支えにしてバランスを取り戻す。



 少年

「お前、さっきから何ぼ~っとしてんだ?」



 みのり

「すいません……」



 少年がベンチにドカッと腰を下ろした。



 少年

「――ったく、それ以上ケガしたらどうすんだよ?」



 彼はみのりを助ける際に煙草を落としてしまい、新しい煙草を箱から取り出した。


 しかし、彼女が隣に座ったのを見て、火を点けるのをためらった。



 みのり

「……吸わないんですか?」



 少年

「……ああ。気分じゃなくなった」



 少年は口にえていた煙草を箱に戻し、それを内ポケットの中にしまい込んだ。



 みのり

「あなたも変な人ですね? そういう気づかいは出来るのに、何で不良やってるんですか?」



 少年

「……別に理由なんてねえよ。中学ん頃のダチがそういうノリだったから俺も合わせただけだ」



 みのり

「え……?」



 みのりは少年の答えに呆然とする。


 不良になった理由があまりにくだらなさ過ぎたからだ。



 みのり

「それだけですか?」



 少年

「ああ、それだけだ。――っていうか、どんな理由を期待してたんだよ?」



 みのりは少年が複雑な家庭環境に置かれているなど、そういった理由を抱え込んでいるものだと思っていた。


 しかし、蓋を開けてみれば、理由はただの悪ふざけ。


 漫画のキャラに影響された子どもと同じレベルだ。


 みのりは変な期待を抱いたせいで肩透かしを食らった気分になった。



 みのり

「私、そろそろ行きます……」



 彼女はベンチから立ち上がり、足の状態を軽く確かめた。


 痛みはあるが、歩けないほどではない。


 足が回復した以上、彼女がここに長居する理由はない。



 少年

「病院に行くのか?」



 みのり

「はい。予約の時間が結構来てるので」



 今、出発すれば、ゆっくり歩いても十分に間に合う。


 みのりが少年に向かって頭を下げた。



 みのり

「それじゃあ失礼します」



 少年

「ああ、気をつけてな」



 二人はその場で挨拶を交わし、そして別れた。


 少年はみのりが離れた後も、しばらく彼女の後ろ姿を眺めていた。


 タイミングを見計らって新しい煙草を取り出し、口に咥えて火を点ける。


 みのりに距離を置かれた気がして彼は少しだけ寂しくなった。



 みのり

「(はあ……。少しは見直してたんだけどな……)」



 みのりは病院を目指しながら、少年のことを考えていた。


 人として学ぶべき点は確かにある。


 しかし、やはり尊敬は出来ない。


 彼は生きる目標が見つからず、ただフラフラしているだけなのだ。



 みのり

「(根は良い人なんだろうけど、これ以上は関わらない方がいいかも……)」



 少年から感じる不思議な空気に毒される前に距離を置くのが賢明だと、彼女は思った。

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あの夏のキセキを忘れない アサギリナオト @tuchinokotaro

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