紫陽花
成阿 悟
紫陽花
部屋の掃除を終え、窓を開けると、お隣の庭先で夏美さんが傘をさし、
お隣とうちの境には、毎年この時期になるとたくさんの紫陽花が花ひらく。
「今年も綺麗ね」
わたしも傘をさして庭に出る。
群れ咲く紫陽花が、そぼ降る雨に濡れて輝いている。
「……花の中で紫陽花だけは、晴れてるよりも雨が降っている時の方が、より一層美しく見えますね……」
今年は青色の花が多く咲いているのを、じっと見つめながら夏美さんが言う。
「ほんとにそう」と、わたしは応えた――。
この辺りは新興住宅地で、緑も多く、ご近所付き合いも楽しかった。
ところが二年前、夏美さんの夫、和弘さんの勤めていた会社が倒産してしまった。
それからは夏美さんがパートをいくつも掛け持ちして働いていた。
和弘さんも懸命に再就職先を探したけれど、不景気の只中でまったく見つからず、そこから次第に酒に溺れるようになった。
そして――DVが始まった。
和弘さんは夏美さんだけにではなく、幼い娘にまで暴力を振るい、毎日のように怒号と悲鳴や泣き声が聞こえ、ご近所さんの通報で何度も警察沙汰になった。
そんなこともあって夏美さんは、ご近所からは同情されつつも避けられるようになってしまった。
そうして半年ほど前、夏美さんが「和弘さんが帰ってこない」と、うちに相談に来た。
飲みに出たまま、一日二日帰ってこないことは、たまにあったらしいが、今回は一週間も帰って来ないという。
「いなくなったのは子供じゃないんだから、もう少し様子を見たら?」
その時はそう言って返したが、結局それから一週間後、わたしも付き添って、警察に「行方不明者届 」を出しに行った。
夏美さんは、夫が行方不明になって最初の頃は「いつ帰ってくるか分からないから」と、まだ怯えた様子だったが、三ヶ月くらい経った頃から、少しは落ち着いて過ごすことができるようになったようだった。
そして半年近く経った今では、本当に笑顔が素敵になった。
「ただいまぁ」
下校してきた、夏美さんの小学生の娘、秋菜ちゃんが赤い傘をひらひらさせながら庭先をこちらに駆けてくる。
「おかえり、秋菜ちゃん。今年も紫陽花が綺麗に咲いたね」
わたしが言うと「うん。青いお花がいーっぱい」と嬉しそうに返す。
半年前までは、秋菜ちゃんの笑顔なんてほとんど見たことがなかった。
「あっ、ママ、かたつむり!」
「わぁ、ほんとね」
夏美さんは、やさしく微笑む。
これが夏美さんと秋菜ちゃんの本来の姿。
二人とも口にこそ出さないが、きっとDVの夫、DVの父親は帰ってこない方がいいと思っているに違いない。
濡れて美しく咲き誇る紫陽花の向こう側、笑顔で楽しそうに話す
夏美さんと秋菜ちゃんには、ずっとこのまま明るく穏やかな日々を過ごして欲しいと願っている——。
決して知らない方がいい、今、わたしが立っているこの土の下に、和弘さんが埋まっていることは――わたしは、実の息子の和弘さんに殴られ、まだ消えない痣を押さえながらそう思った。
紫陽花 成阿 悟 @Naria_Satoru
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