第24.5話 邪悪は深淵で嗤う。
夜の底のような暗黒の中、アルス・エルロードは石材とモルタルで固められた壁に左手を添えながら、悪臭漂う汚水の脇の歩道をゆっくりと歩いていた。
帝都アシュバイルに複雑に張り巡らされた下水道網を進みながら、アルスは
「お互い、随分ボロボロになっちゃったね」
「……はい。ですが、幸い致命傷は避けられました」
「幸い、じゃないよ。致命傷になるような攻撃、あのカイルができるわけないんだから」
アルスは苦笑してから、折れた歯と折られた右腕の痛みに顔をしかめた。
――まったく、カイルはとことん甘いな。
フワルナフの炎は、当然術者であるアルスの制御下にある。
すべてを焼き尽くす炎といえど、術者自身まで焼いてしまっては意味がない。当然自分や仲間を避けて燃やすように制御することは可能だ。
あの夜、アルスは建物だけに延焼させたあと、カイル達が立ち去ったのを確認してからツムギとともに下水道に逃げた。
下水道への抜け道はバレないように土で隠しておき、偽装用の土までは灰にしないように注意した。
焼け跡を見たカイル達は、建物はすべて灰になってぽっかりと地面に穴が空いているように見えただろうが、実はその裏に抜け道が隠されていたというわけだ。
「……でも、これでよかったんですか?」
ツムギに心配げな顔で問われ、アルスは笑ってうなずいた。
「もちろん、ベストではなかったけどね。でも、これで目的は達成できたよ」
「目的、ですか?」
アルスはうなずいてから続ける。
「ベストは、カイルと一緒にエリシャさんとクラリスが仲間になること。次善が、カイルは死ぬけどエリシャさんとクラリスを駒にできること。それらがうまく行かなかったとしたら、エリシャさんとカイルに人を殺せるようになってもらうこと」
「それに、何の意味があるんですか?」
「わからないかい? カイルの力は絶大だ。あんな力を持っていて、それをまったく権力争いに使わないなんてバカげてる。だから僕は、彼の背中を押してあげたのさ」
そう。これでカイルはあの力を使うことをためらわなくなる。
アルスの死の責任を感じたカイルは、これからエリシャの理想を邪魔するものを容赦なく排除していくだろう。
レヴァイン家はもちろん、自分の父親や兄弟ですら容赦なく殺せるようになるはずだ。
エリシャのほうも、ツムギを見捨てる判断を下したことで、空疎な理想だけではなくより現実的な判断を下せるようになるだろう。
「そうなれば、僕の障害は勝手に消えていくだろうね」
ほくそ笑みながら下水道を進み、帝都の外れあたりまでたどり着く。
歩道の端に設えられたはしごを登ると、夜明け前の空が広がっていた。
帝都の外郭には建物が少なく、魔物の侵入を防ぐための高い城壁が築かれており、常時歩哨が監視している。
アルスとツムギは下水の穴から這い出ると、まっすぐ城壁へ向かった。
前を進むアルスの背中に、ツムギが問う。
「よろしいんですか? このまま帝都を出て」
「構わないさ。ここからしばらくは、カイル達が勝手に暴れてくれる。もちろん、君達『影の部隊』には引き続き、帝都に潜んでもらって状況を伝えてもらうけどね」
「アルス様はどうなさるのですか?」
「これから起こる帝都の動乱に乗じて、エルロード王国領で王国再興の準備でもするさ」
アルスはそう言って笑い――不意に、不気味な気配を感じて足を止めた。
「あれ〜? 君達みたいな若い子が、こんな時間に城壁に何の用だい?」
声とともに、城壁の上に人影が姿を現した。
長く伸びた金色の髪を背中で束ね、藍色の目の下には濃いクマが浮かんでいる。
ひょろ長い手足をした長身を白衣で包んだその男は、登り始めた朝日を背にして立っていた。
眩い朝日を背中で受け、その男の顔にはどす黒い影が刻まれているように見えた。
「君、もしかしてうちの弟と決闘したパーティの子じゃないかな? 弟の言ってた特徴とぴったり合う気がするんだけどな」
――弟と決闘? ということは、この男はクルト・レヴァインの兄、ゼクス・レヴァインか。
アルスはとっさに愛想笑いを浮かべ、話をごまかすことにした。
「……何の話でしょう? 僕達はこのあたりに住んでる、しがない貧民ですよ」
「ただの貧民にしては、妙な格好をしているよね。特に黒装束の彼女。まるで諜報員か何かみたいじゃないか」
「誤解ですよ。日銭を稼ぐためにダンジョンにもぐっているので、動きやすい格好をしているだけです」
「ふ〜ん。そうか。僕の勘違いだったのかな」
ゼクスはそう言って虚空を見上げた後、にやりと口元に笑みを浮かべた。
「な〜んてね。君のことはとっくに調査済みだよ、アルス・エルロード君」
「――っ!」
隠していたはずの本名を呼ばれ、アルスはとっさに拳を構えた。
同時に、隣でツムギが刀の残骸である魔石を掲げ持って
シャドウ・ドールの魔法で、ツムギが一気に八体に分身し――突然吹き荒れた暴風によって、七体の分身が消し飛んだ。
いつの間にか、アルス達とゼクスの間に、ひとりの男が立っていた。
短く切り揃えた赤毛に、傷だらけの
その男の顔には、見覚えがあった。
「暴れ馬のジェイド・セレナイフ……っ! どうして、ゼクス・レヴァインと一緒に……っ!?」
予想外の事態に、アルスは思わず本音を吐き出す。
当然、ジェイドはそんな問いに答えず、手にしたハルバードをこちらに突きつけてきた。
「選べ。黙って従うか、ここで死ぬか」
地獄の底を見てきたような、感情のない赤い瞳を見て、アルスは思わずつばを飲んだ。
――この男はカイルとは違う。殺すと言ったら迷いなく相手を殺す。
それに……当然だが、今のアルスとツムギでは、ジェイド・セレナイフに勝てる見込みは
緊張で固まるアルス達を見下ろしながら、ゼクス・レヴァインは口の端を吊り上げて
「まぁまぁ、そんな固くならないでよ。僕はただ、話を聞きたいだけなんだ。君の友人――カイル・セレナイフって子のことをね」
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