ガラスの雨の螺旋律

syu.

ガラスの雨の螺旋律

 このガラスでできた世界で、私たちは本物になれる魔法を探していた。



 ぱきり。

 

 日めくりカレンダーの昨日のページは、昨日が終われば存在意義を失くす。私は薄く延ばされたガラスで作られたそれを、小さなごみ箱の上でめくるように手で割った。昨日の欠片は、ごみ箱の中に入っていた一昨日の破片を撫でるように滑り落ちる。

 昨日にひびを入れて孵化ふかした今日は初月忌だ。カレンダーの数字は、兄が死んだと伝えられたとき、視界の隅に映った数字と確かに同じだった。

 胸元のペンダントを握る。小さい筒状の透明なガラス容器に入っている白い粉は、兄の欠片だった。そして、私の罪の象徴でもあった。

 その罪悪感と兄への未練を首からぶら下げて、もう一か月が経った。

 

「誰かが死んでしまったら、その死体のガラスは海に還しましょう」

 

 というのは宗教的儀式よりもおまじないに近いものだった。

 イキモノの始まりは融解したガラスでできた海だった。海の一部がゆっくりと冷え固まることでこの世に生まれ落ちた。だから、全ての死体を海に還さないといけない。そうしなければ、再び生まれ落ちることができないから。

 そんな伝承を聞かされたのは、二年前、祖母が亡くなったときだった。祖母とは大して交流があった訳でもなく、顔に至っては葬式で初めて見た。そんな関係性だった。

 葬式が終わると、ただのガラスになった祖母が溶けやすくなるように親族皆で砕いた。

 ぱりん。ずずっ。ぱりん。

 軽やかな音の中に時折鼻をすするじっとりとした音が混ざっていた。

 そして全てが粉になったら、取り残しがないように丁寧に集めて海に流した。中学生になったばかりだった私は、親族の気遣いで祖母の死体を砕かなかった。けれど経験だと言われて、ガラスの粉を一掬ひとすくいして海に落としたことは、鮮明に覚えている。表面のほうにあった粉が、風にさらわれて消えていった儚さを、その寂しさを、私は忘れられないでいる。

 だから、祖母と同じように砕かれた兄の欠片を少し、ほんの少しだけ攫ってしまったのかもしれない。

 初めの頃は偽りの幸福感でいっぱいだった。兄が一緒に居るような気がしたから。でも、段々それだけじゃ足りなくなって、なんでって、一緒にいるって約束したのにって。そう考えて気付いた。


 ああ、兄はきっとこの欠片のせいで生まれ変われないんだ。


 体の中が搔き乱されて、嘔吐を催した。吐いてしまえば楽なのに、どれだけ喉に指を差し入れても、一向にせり上がってくる感覚は襲ってこない。

 だから決めていた。もう一度あの数字が訪れる日に海に行こう、と。これ以上兄の欠片をけがすのは耐えられなかったから。

 

 ガラスの雨が地面に落ちて砕ける音がする。

 しゃらら。しゃらら。

 澄んだ高音で純粋さと少しの悲しみを包み込んだような音。きっと涙を砕いたら同じような音がするのだろう。

 私はガラス繊維でできたセーラー服を身にまとい家を出た。

 外の傘立てに置かれている傘を一つ手に取る。大きめの黒い傘。それを差して出発しようとすると、目の前にネコがいた。

 曇りガラスのネコ。瞳は苺のように甘やかで、胸元にはめ込まれたハートはほんのり青い。

「おまえも一緒に来る?」

 気が付けば、そんな言葉が口から零れ落ちていた。

 ネコは傘の下に入るように、私に寄り添った。

 


 電車に揺られていた。

 透明な車両は底面だけが擦りガラスになっていて、それが僅かな安心感をもたらしている。外ではガラスの雨が屋根に当たって星が瞬くように散っていく。

 先頭車両には私以外誰もいない。平日の昼前に下り線に乗る人はごく少数だということを、このときになって初めて事実として確認した。

 そんな座る席なんて山ほどある中で、贅沢にも私は六、七人用の座席の真ん中に座っている。

 右隣にはネコが丸くなって寝ていた。座席に置かれた私の手の上に、尻尾を乗せて。

 チャームポイントだろう瞳とハートは隠れてしまっている。ハートを確認するようにネコの腕を持ち上げると、ネコはぼんやりと瞬きを一つ、二つする。それから腕を持ち上げられた力を利用してネコはころりと転がった。目の前にさらされたハートをなぞると、つなぎ目を感じないほど綺麗にはめ込まれている。悪戯にしては精巧で、本物にしては瞳の色とかけ離れていた。

 けれど、そのガラスのハートは確かに温かさを持っていた。

 

 この世界には一つ、誰もが知っている御伽話がある。

 ガラスの雨が降っている時、極稀にハート型のガラスが降ってくることがある。それはこの世界の誰かのハートで、全てのイキモノには胸元の穴にぴたりとはまるハートが存在する。ハートは自分の色をしていて、自分だけのハートを見つけた時、私たちは「本物」になれる。

 そんな御伽話を頼りに私と兄がハートを探しに行ったのは祖母が亡くなって数日後のことだった。

 ハートを見つけ、本物になれたら長生きもできる、という噂を聞いたのは私だった。中学校でまことしやかに囁かれていた根拠のないものだった。しかし、祖母の死を目の当たりにして、ずっと兄といられないことを感じ取った私は、兄にハートを探しに行こうと誘った。兄は仕方ないと笑いながら私の手を握った。僕も一緒に居たいから、と言って。それが小さな旅の始まりだった。

 雨の降る日、私たちは傘を持って家を出た。ガラスの雨を集めるためにお椀型になっている傘を私たちは持っていなかったから、母の白い傘と父の黒い傘を借りて差していた。

 数分歩いて、集まったガラスの雨を確認し、ハートがなかったら近くの雨収集ボックスに寄付する。ということを繰り返しながら私たちは駅に向かった。そして今と同じように電車に揺られて海を目指した。今と違うのは身長と繋いで離さなかった右手くらいだった。

 海に到着すれば、あとはただひたすら海を眺めながら、集めたガラスの雨にハートがないか探した。ガラスの雨を集める場所に海を選んだのは至極単純な理由で、海からイキモノが生まれてくるという伝承があるからだった。

 結局、空に暗闇が混ざるまで粘ってもハートは見つけられなかった。けれどあの時私と兄が欲していたのは、きっとハートなんかじゃなくて、後ろ向きな気持ちを前向きに変える魔法だったのだろう。


 降りる予定の駅がアナウンスされる。私はネコを揺すり起こして電車を降りた。



 ガラスの道を歩いていた。

 しゃらん。しゃらん。

 傘にはガラスの雨が溜まっていく。一歩歩くたびにガラスのローファーが硬質な音をたてる。ネコは尻尾を優雅に揺らしながら私の隣を歩いていた。

 空を覆う雲は吹きガラスのように緩やかな曲線を描いている。周りを見渡せばわずかに陰る透明な若葉が生い茂っていた。私はあの日の記憶を頼りに無臭無音の海を目指した。広大なガラスの畑の横を打ち過ぎ、ガラスの植物のトンネルを通る。

 不思議と胸のあたりが熱くて、そこに手を当てる。きっと心が無意識に兄の死んだ日を思い出していた。その日も私はここに来ていたから。


 一人だけの小さな旅。

 その日も雨が降っていた。雨が降ったら兄のハートを探しに行くと、兄の体に罅を見つけてしまった日から決めていた。

 だから兄との小さな旅をなぞるように海に向かった。けれど朧気おぼろげな記憶では中々海に辿り着けなかった。歩いて、歩いて、足がただのガラスのようになったとき、傘が揺れた。明らかに雨よりも重いものが降った感触がした。私が慌てて傘の中を見ると、そこにはハートの形をしたガラスがあった。私の好きな苺みたいな色をしたハート。それは兄の瞳に似ていた。

 ガラスでできた私たちの体の中で唯一色が付いているところ。あの御伽話に出てきた自分の色は瞳の色だった。

 けれど、それを届ける前に兄は死んでしまった。

 葬式が終わり、兄の死体を海に流して、気が付くとそのハートは私の胸に収まっていた。その時から私は温度を感じられるようになった。そして、感情が複雑に分岐し始めた。

 他の人のハートでも本物に近づけるのだということを、この時初めて知った。


 向こう側に光を穏やかに反射する透明な海が見えた。逸る気持ちを抑えてゆっくりと近づく。そこには記憶と寸分の差もない海が広がっていた。


 

 舟を漕いでいた。

 オールをゆっくりと動かした。ガラスが融解した海は高温で、ネコには危険だ。溺れたとき、ヒトは体が多少柔らかくなるだけで済むが、融点が低いネコはそうもいかない。

 舟を漕ぎながら傘を差すことはできなくて、頭にガラスの雨が当たっては砕け散る。ネコは雨が当たる度にびくりと体を震わせていた。私は傘を自分の向かい側に開いたまま置いて、足で傘の柄を押さえた。ネコは傘の下に入ってお礼を言うように一鳴きする。

 舟は緩やかに岸を離れていく。海の中心とまではいかなくとも、できるだけ深海に行きやすい場所に流してあげたかった。静かな場所で、眠ってほしかった。ただ、会いたい気持ちも本当で、酷い矛盾を抱えていた。

 

 兄の葬式は兄が死んでから二日後に恙無つつがなく行われた。

 私よりも二回りほど大きかった兄は、あっさりと車に轢かれて死んだ、らしい。道路に飛散した兄の破片をかき集めてくれたのはその場にいたヒトたちだったそうだ。というのも私が兄の死体に初めて会ったのは葬式が始まる少し前だったのだ。兄の死体には繋ぎ目や欠損が至るところにあり、辛うじて形を保っている状態だった。普通はこんなに粉々にならないから、疲れていて壊れやすくなっていたのかもしれない、と親戚の誰かが言っていた。私は、手の震えが止まらなくなった。冷房が効きすぎなんじゃないか、という冗談の皮を被せた何かは、母が私を抱きしめた僅かな衝撃で霧散していった。

 でも、ほんとうにさむかったのだ。

 そんな私の気持ちに呼応するように雨が降り始め、そのまま葬式が始まった。

 心地の良いはずの雨の音は、お経と混ざり合って私の三半規管をおかしくした。床が天井になって、天井が床になったかと思えば、視界の端から黒が侵食し始めた。なんとか瞬きで世界を修正して、長い、長い時間を耐えた。

 その後の流れは一度私が経験したものと同じだった。唯一違うのは私がガラス割りに参加したことだった。初めてのガラス割りが兄になるなんて誰が想像していただろうか。私は震える両手でガラスのつちを持って兄の死体に振り下ろした。しかし、うまく力が入っていないせいか面で叩けずに滑ってしまった。私はもう一回振り下ろした。うまくいかない。もう一回振り下ろした。割れない。もう一回。もう一回。もう一回。

 それは母が止めるまで続いた。私はとうとうその場で崩れ落ちてしまって、大きな声を上げた。

 叫びだった。

 願いだった。

 兄が死んだ日から眠っていた私の世界は、この時ようやく目醒めた。


 岸は見えなくなっていた。

 私は舟を漕ぐ手を止めた。首からペンダントを外し、それを持った手を海の上に突き出す。

 この手を離すだけ。はなす、だけ。それなのにどうしても手が動かない。

 これを手放しても、兄は帰ってこない。けど、ペンダントを持っていればずっと一緒にいられる。ずっと、いっしょに――

 そのとき、ネコがペンダントをはたいた。

 衝撃で手から離れる。


 とぷん。


 ペンダントが落ちた。

 波の揺らめきに攫われていく。

 取りに行かなきゃ。はやく。

 私は海に飛び込んだ。融解したガラスを掻き分ける。海が透明なおかげでペンダントはよく見えたけれど、ガラスが重くて思うように進めない。じんわりと体が熱を持ち始めた。早くしないと、と思えば思うほど体が重くなっていく。


 どぷん。


 後ろで何かが落ちた音がした。

 弾かれるように振り向く。その先にはネコがいなかった。この距離なら舟の上にいるネコくらい見えるはずなのに。まさか。

 私は必死に藻掻いた。早く着け、早く着けと祈りながら。

 やっとのことで舟の近くに着くと、溺れているネコに指先が触れた。手を精一杯伸ばしてネコを掬い上げる。舟に乗せ、雨を遮るようにネコの傍に差した傘を置いた。重い体を震える手で支えながら、自分も舟の上に戻った。

 ネコが海に落ちて生き残る可能性は低い。それでも、ハートのようなものを持っているネコなら熱さに強いかもしれない。祈るようにネコを見た。

 けれど、ハートが半分に欠けていた。

 柔らかくなったネコの体はじわじわと形を失くしていく。手で留めようとするも意味をなさない。ネコは生気を失ったように目を閉じている。

 助けようと焦れば焦るほど、焦りの中に疑問が浮かんできた。

 なぜ、焦っているのだろう。たった一日一緒にいただけのネコだ。死んだところでなんだというのだろう。

 ああ、でもあの赤い瞳が失われるのはもったいない。兄の瞳の色。兄の色。

 そうだ、瞳の色は自分の色。そしてハートは自分の色を――

 私はセーラー服をたくし上げて、胸元からハートを取り出した。それをオールで二つに割る。そして、ネコの胸元の半分空いた穴に小さい方を無理やり入れ込んだ。隙間だらけで綺麗にはまったとは言い難い。それでも。私は祈るように手を握りしめた。

 すると、ハートがゆっくりと融解して、体のガラスと溶け合う。そしてハートに引き寄せられるように集まり、ネコの形になっていく。やがて、全てのガラスが動きを止め、形が定まった。

 ゆっくりと猫が目を開ける。そこにはきちんと苺のような瞳が収まっていた。

 花が柔らかく咲くように、私のほんのり青い瞳から涙が零れた。ガラスの輝きを放つ涙は、猫に水となって降り注ぐ。猫がその水にくすぐったそうにしているのを見て、私は驚いて頬を触った。しかし頬の涙は相変わらずガラスのままだった。

 猫に触れてみると、その体は熱を持っている。それは慣れ親しんだ無機質さではなく、この世界に生きているものの存在感だった。

「もしかして、お、にいちゃん……?」

 ――にゃーん。

「やっぱりおに――」

 ――にゃーん。

 それが肯定の返事ではなかったことに項垂れる。猫は一心に一つの方向を見て鳴いていた。その方向を見ると、猫にはまっていたハートの半分が海に浮かんでいる。腕を伸ばしてそれを取ると、猫は座っている私の足を片方の前足で踏んで、私の胸元にもう片方の前足を置いた。

「ハートを入れろってこと?」

 ――にゃーん。

 猫は抑揚の変わらない声で鳴く。私は自分の瞳と同じ色をしたハートの欠片を胸元にはめ込んだ。

 なんだろう。身体が、熱い。胸を抑えると、そこがどくんと跳ねた気がした。湧き上がる熱を、目を瞑り背中を丸めてやり過ごす。

 存在していなかった心臓が鼓動し始める。目を開くと、透明な肌は血の通った色になっていた。

 雨が頬を伝う。頬に触れれば今度こそそれは水だった。降り注ぐ雨が砕ける音は消え、水が地面を跳ねる音だけが聞こえる。五感が敏感になっていて、雨の温度すら感じられる。温かな雨はまるで生まれ変わった私たちを祝福しているようだった。

 

 あの日、私たちが探していたのは後ろ向きな気持ちを前向きに変える魔法なんかじゃなかった。

 これは、きっと世界を変える魔法だ。

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