14話・女子会 前編

  前編




 透き通った青空を忌々しく見上げる。

 怒りで視界が赤くなる……――――と表現された創作物を齧った記憶を頭の片隅から取り出す。

 ストレスによる交感神経の作用だったか、顔に血が上る比喩表現だったか。

 初めて読んだものが小説であったか漫画であったか、アニメか映画か。それすらも覚えていない。

 実際はこんな脳が沸き立つほどの怒りを腹で押し殺している状態でも、視界が赤く曇ることはないようだ。

 雲一つ無い冬の寒空は、一点の淀みなく暴力的なまでの青で頭上を覆っている。

 

 あまりにも美しくて歯を噛みしめる。

 

 いっそ雨でも降ってくれるなら、涙を流すことが出来たかもしれない。

 いくばくかの悲しみがこの煮えたぎる怒りを押し流してくれたに違いない。

 空すら、私が友の死を惜しむ時間を許してくれない。


 私は町外れの小さな葬式会社の入口に垂れ下がる鯨幕を、これでもかと睨みつけながら荒い息を繰り返す。

 頬を撫でる冷たい冬の風すら、心地よさを覚える。

 まるで運動場を10週した後のように呼吸が長続きをしない。

 落ち着こうと深呼吸を繰り返すも、口から出るのは獣の唸りのような蒸気ばかりだった。

 

 ――――――よくも。


 吉川静江が亡くなったと知らせを受けたのは三が日が明けた後のことだった。

 自宅にやってきた警察から告げられた言葉は、どこか現実感を欠いた。

 嘘だ、嘘だと頭の中で繰り返す。応じられるがまま、署に赴く。

 

 汚物まみれの部屋で変わり果てた彼女。

 今もこうして彼女の顔を思い出そうとして、あの痩せこけた骸骨のような出で立ちしか頭によぎらない。

 凛として高潔たろうとした、気高く美しかった私の友人。

 思い出が黒く塗りつぶされていく。

 その上から赤く、垂れる血のように縦縞が入り真ん中がぱっくりと割れる。

 何度も首を横に振る。スマホの画面に映る彼女の写真をスクロールさせながら必死に本来の彼女を脳に刻み込もうと試みる。

 優しく微笑む彼女が、あの日の見窄らしい姿に塗り替えられていく。

 瞳を閉じると割れた縦縞から覗く1つ目が「だから言ったのに」と言わんばかりにこちらを見つめている。

 

 ――――もう大丈夫だと、油断をしていた。

 すがりついて謝る彼女を、他でもない彼女の側にいた私が許したので、もう禍津物も諦めただろうとたかをくくっていた。まさか一度手を引いたように見せかけて再度襲うなど、それほど飢えていたとは思ってもよらなかった。

 悔しさで奥歯を強く噛みしめる。そろそろ抜いたほうが良いと言われた親知らずどうしがガリガリ音を立て擦れ合う。





 警察から聞かされた話では、彼女が死ぬ当日に会ったのは私の他に二組いたそうだ。

 一組目は彼女の親友で村上が起こした事件以降、カルト教団に入信し大学をやめてしまった女。もう一組は遠くに住んでいた彼女の兄家族で、正月の挨拶と調子がそぐわなかった彼女を気遣い、その様子を伺いに訪れたようだった。

 その時の彼女はまるで憑き物が落ちたように晴れやかだったと、私を取り調べていた刑事の女が話す。


「死ぬ前の人間って明るくなるそうよ。だから兄家族も心配して、翌日兄嫁と姪がもう一度家を訪ねたの。」

 荒れ放題だった部屋は3分の1程片付けられていたらしい。夜通し寝ずに掃除していたと隣人から証言があったと続ける。

「部屋の真ん中で仰向けで事切れていた。死因は心臓発作よ。気の毒に。」

 女刑事は大げさにため息を付きながら頬杖をついた。その言動も仕草も全てが妙に芝居がかっていて癪に障る。


「貴方が会った時の様子はどうだった?」

 そう尋ねられたので、私は素直に話した。

 村上が起こした事件の後、一方的にブロックをされてしばらく連絡が取れなかったことと、彼女が村上に怪しいアカウントを紹介しその所為で凶行を犯したのではと罪悪感から気を病み幻覚まで見ていたこと、話し合いの後に症状が少し改善する兆しが見えたこと。


 ―――――食い殺されたのだ。


 その一言が喉を通らない。

 

 ―――――だから彼女は。


 脳裏に浮かぶのは村の端々に設置された祠の中で鎮座する、漆で塗り替えられた招き猫。


 あの招き猫が、彼の声色で私を見つめ続ける。

  


 見殺しにしてしまった。

 心臓発作などではない。

 化け物に食い殺されたのだと叫んでしまいたかった。

 私はそれを見て見ぬふりをした。

 もう一度彼女のところに見舞って化け物を威嚇すればよかった。

 出来たはずなのに、しなかった。


 そう告げたところで、警察に信じて貰えるかわからない。

 信じて貰えたところで警察にあの化け物を捕まえられるとも思えない。


 広島にオカルト方面に強い山上という警視がいる。

 昔兄が散々迷惑をかけた相手だ。彼の事をよく気にかけていた。もっとも彼自身からは大好きな父親から引き剥がそうとした敵として認識されており、蛇蝎のごとく嫌われていた。

 もし今正直に化け物に殺されたと告白をして、女刑事を通じて彼の耳に届くならあるいは―――……


「吉川さんは村上容疑者と随分仲が良かったようだけど、貴女から見て特別な関係に見えたかしら?」

 後悔の渦に飲まれ黙り込んだ私に、回りくどく聞くより直接聞いたほうが良いと判断したのだろう。女刑事は態とらしく話題をすり替えた。

 宮比と名乗った女刑事は最初から村上の情報が目当てだったのだろう。吉川の事は二の次といった所で、この機会を伺っていたのかもしれない。


「……友人以上の関係ではありませんでした。」

「なるほどね、貴女自身は吉川さんとは?吉川さんはホの字だったと伺ってるけれど……」

「友人ですよ、高校が同じの。」

 そこまで調べているなら私から聞き出す事などなにもないだろうに。

 俯いたまま視線だけあげて彼女を睨むと、宮比はわざとらしく眉を潜めて笑う。真っ赤な唇が肌の色に不釣り合いで、厚化粧感を底上げしている。

「あなたはどうだった?村上くん、やっぱりかっこよかった?」

「どうとも……私は友人ですらありませんし……彼氏もいますから。」

 あらまあ、とため息を付きながら、宮比はまるで不貞を働く阿婆擦れを見るかのような視線で舐め回す。

「随分お友達が多いのね。多聞くんもその一人かしら。」


 ここまでの警察の様子から、兄はあの日料亭におらず私は多聞と二人きりで会食をした事になっていた。

 流石に日頃頭から爪の先まで反社会に浸かっているだけに、あいつは存在の痕跡を記録に残さない。

 白状しても良かったが、あんな兄でも唯一の身内だ。

 それに今捕まると折角射止めた役もまた白紙に戻される可能性がある。この期に及んでも、私は自分の身が可愛い。


「でも村上はあなたのアカウントをフォローしていたのよね?りゅうくび…?」

「たつかべ、です。”龍首瀬織”と書いて”たつかべせおり”。それについては以前警察の方にお話した通り、私は何も知りませんし何も覚えていません。毎日返信してくるフォロワーの一人で記憶にも残っていません。」

「こなかけられたりしたんじゃないの?あんな男に口説かれたら舞い上がってしまいそうだけど……」

「何度も申しますが、私には彼氏がいますので。」

 そもそも村上と一対一で会ったことがない。

 村上の隣には斎東がいて、その周りは常に誰かしら人とつるんでいた。

「村上くんとは吉川さんと一緒にいた時でしか話をしたことはありません。これも前に別の担当の方にお話をいたしましたが……」

「その時の吉川さんの態度は?」

「別に、変わった様子なんてなかったですよ。」

 それは嘘偽りがない。

 村上と話をしていても目に見えてわかる嫉妬の態度を吉川は見せてはいない。

「吉川さんの様子がおかしくなったのは、村上が事件を起こした後です。自分が原因じゃないかって気に病んで……」

「あの変なアカウントを紹介したから……ねえ。」

 宮比は机に肘をついていた状態から身を起こしてパイプ椅子の背もたれに体重を預ける。懐から真新しいピンク色の電子タバコを取り出した。一言いい?と尋ねる。軽く頷くと紅にまみれた唇で咥え深く吸い込む。


「村上はどうだった?あのアカウントを知る前から”ああ”だった?」

「”ああ”とは?」

「カルト宗教の教祖じみたことをしていたかどうかよ。」

「は?」


 それは完全に初めて聞く話であった。

 斎東の口からも、兄の口からも、村上がヤクザから薬を買い取りそれを弟を始めとした教団の関係者に配っていたとは聞いたが、その事についてなのだろうか。

「よく……わかりません。どんなことを?」

「懺悔部屋を作って、サークル内外の人間から相談を受けていたんでしょう。」

「ああ、あの……相談部屋。」


 相談部屋というのは、村上のグループがまともなオカルト研究活動を行おうと取材のネタを探す目的に、部内外の人から話を聞くために借りていた一室のことだ。

 吉川曰く、最初は何人かのグループミーティングの形式を取っていたらしいが、話しにくいネタでも話しやすいようにと次第に一対一の対面式に変わったそうである。


「最初はみんな選りすぐりの怖い話を持ってきていたのだがね、結局今はただ駄弁っているだけだよ。村上がまた聞き上手なもんだから、最近ではお悩み相談みたいになってきているね。人気になってあまりにも時間を奪うもんだから、多摩のやつ『お金取ろうかな』って軽口叩いていたよ。」

 そう言って吉川は笑っていた。

 言葉は思い出せるのに、その笑顔を思い出せない。


 単なる雑談をするための部屋だ。

 カルトの教祖らしいところなど一切なかったはずだ。


「ただ怖い話を持ち寄るだけの雑談部屋だったと聞いていますが。」

「貴女にはそう見えたの?」

「そこで何をしていたか詳しくは存じません。私も一回吉川に誘われましたが、一度も赴いたことはありません。村上はともかく、多摩のノリが合わなかったので。」


 多摩は絵に書いたような明るい……所謂、陽キャ男で、はっきりとした目鼻立ちをしたイケメンだ。こちらも絵に書いたようなギャルの氷見の恋人で、本当にオカルトに興味があるのか疑問を抱くほどだった。

 オカルト研究サークルは暇を持て余した学生が多く在籍していたが、その中でも多摩はそれを体現したような若者だったと記憶している。

 不躾に思いついた意見をズカズカ言ってくるタイプで、私はどうも苦手だった。

 物静かな村上とはなぜかウマがあっていたようだ。吉川曰く「根は一緒」だったらしいが、私がなるべく近寄らないようにしていたので詳しい彼の実像を知らない。その為こちらは村上以上に話をしたことがなかったので、それ以上の印象は特にない。


 相談部屋を仕切っていたのは多摩だった。

 廊下を通りすがるときに大きな笑い声を耳にしたのを思い出す。

「私は村上や吉川と同じくオカルトに詳しい方ではなかったので、私が知る限り、怪しいことをやってるようには見えませんでしたけど。」

「それだけ?」

「はい。」


 ―――――いや、もしかしたらそこでも薬を配っていたのだろうか。

 ふと思い至る。

 あの相談部屋はリピーターが多かったと聞く。


 話すべきなのだろう。

 しかし話してしまえば確実に兄の話題へと繋がる。

 今日中に帰れなくなるだろう。下手すれば通夜にも葬式にも顔を出せなくなるかもしれない。喪服を調達しなければならないのに、そんな時間がないかもしれない。

 ―――――吉川のために話すべきなのに、保身ばかり考える。


 宮比は怪訝な表情を浮かべながら蒸気を吐き出した。

 机の上に方手をつく。椅子から腰を浮かせ、身を乗り出して私の方へと近づく。


「……もう一度聞いてもいい?貴女は村上のことがどう見えていたの?」


 どう、と言われても。

 てっきり薬のことをほのめかすかと思いきや、宮比は再度村上個人について私に訪ねてきた。


 吉川の視線の先にいた黒い男のことを思い出す。

 顔は整っている方だが、兄や晦、多摩に比べると地味だった。

 男性の中では高い方かもしれないが、いつも接する男たちに比べては低い。

 真っ黒な服を好んできていた。派手にピアスを開けていた。

 表情が乏しく、いつも能面のような薄ら笑みを浮かべていた。

 村上と話した会話の内容を覚えていない。本当にどうでもいい話しかしていないのだろう。

 ただはっきりと言える事がある。


「普通の人間、としか。」


 一つ一つ特徴を挙げれば、ミステリアスな男なのだろうと思う。

 実際、彼はミステリアスな雰囲気を常に身にまとっていた。

 だが、私は「普通」の域を脱した面を一切見た記憶がない。

 吉川も「あいつは俗物だ」と雰囲気からくる人物像を笑って否定していた。

「オカルトに興味ありません、彼女が欲しいのでサークルに入りました。」

 新入生の歓迎会でそう宣った姿を思い出す。ウケ狙いだったのか、本心だったのか。そんな事を臆面もなく口にする程度には俗物だったのではないだろうか。


 宮比は怪訝な表情を崩さないまま首を傾げる。

「普通…普通ねえ……」

 そう呟きながら再びパイプ椅子に深く座り直す。普通ではないのだろう。それはそうだ、ヤクザから薬を盗んで弟に盛り、弟の同級生を食い殺すなど。

 鬼畜の所業だ。人でなしだ。

 しかしそこに至るまでの村上は……あのアカウントを知るまでのやつはどこにでもいる普通の男だったはずだ。


「彼と一対一で話したことがないからかしら…でも……ねえ、西さん。」

 宮比は電気タバコの電源を落とすと懐に仕舞った。

「私には、魅力的に謎めいた男に見えたわ。」

 私から視線をそらし、部屋の隅を眺める。

「底が知れないのよ。事件を反省した素振りは一切ないわ。罪悪感を抱いている様子もね。それでも紳士的で、捜査にとても協力的なのよ。聞き上手すぎて気がつくと私ばかり話してしまうの。話していると本当に心から安堵しそうになる。……あの手のやからは、長く接していると危険だわ。」

「それは、その……好みの問題では?」

「いいえ、いいえ。そりゃあそこまでイケメンではないわよ。顔の良さだけなら貴女のお兄様のほうがよっぽど美形だわ。」


 突然兄の事を持ち出され目を見開く。

 宮比から見えないように服の袖を握りしめる。

 不自然に見えないよう装うが間に合わず口元がピクッと痙攣した。


 やはり、この目敏そうな女刑事は兄の事を知っている。

 私の兄が関東八幡会の本部長だとも。

 父の兄―――亡き叔父が前の組長であったことも。

 今まで切り出さなかったのは、今日聞きたがっている村上の情報は兄関連のものではないのだろう。私はあくまで「吉川の不審死」の参考人としてここに座っているのだから。


「私からあの男の所在を捕まえるのは難しいかと思いますよ。あの男はしょっちゅうスマホ名義を変えるので、向こうからじゃないと連絡できないんです。今手元にあるこの番号は私がここに来た以上、もう通じないと思います。それに……」

 早口でまくし立てた私に、宮比は、ああ、違うのと両手を振って見せた。

「お兄様については今日はいいの。今日はあくまで吉川さんの様子についてね。事件を疑うのが仕事だから。でも、事件性はなしで片付けられそうねえ……そうね、村上くんの話はついでの雑談。」

「それが吉川の死と関係があるのでしたら続けてください。」

「つれないわね。ただねえ、あんな魅力的な男がファンだったら……彼女が嫉妬に狂っちゃうのはしょうがないわよね。」

 宮比は机に片肘をつき手のひらに顎を乗せ、いやらしく微笑んだ。香水の匂いが鼻にまとわりつき、思わず顔を顰めてしまった。


「吉川が、嫉妬していたと?」

「じゃなかったら、貴女のお兄様の事を舞台の監督に垂れ込んだり、掲示板に悪口を書き込んだりしないでしょう?」



 ギクリと背筋が震え、汗が流れる。



 ――――わかっていた。


 私と兄のことをリークしたのは、吉川だと。


 私のアカウントを掲示板に晒し、村上と繋がりがあったと書き込んだのも。


「唆されたのかもしれないわね。」

 宮比は足を組み直し赤い唇で三日月のように弧を描く。

 この女の動作は言動は大げさだが、瞳だけは氷のように冷めていた。


「わかりません……なぜ。」


 ――――禍津物に食われたのか。


 溢れ出た声は酷く震えていた。

 視界が滲む。

 生暖かい液体が机の上にこぼれ落ちてシミを作る。

 あらあら、と宮比は新品のポケットティッシュを取り出すと私に差し出した。

 震えた手で受け取りながら、疑問が喉からこぼれ落ちる。


「何故、彼女は死ななければならなかったのでしょうか?」


 宮比は、恐らく全てを知っている。

 村上の事件の動機も、村上を襲撃したのは兄とその部下だということも、教団つきはじめも、朔日村で続く因習も、禍津物の存在も。

 縋り付いて全て吐き出したい。

 殺された、食われたのだと叫んでしまいたかった。

 だが、この女にそこまでの信頼はない。


「だって、妬むことがそんなに許されない事なんですか?誰だって嫉妬ぐらいするじゃないんですか。私だって同じ役を狙っていた同期が憎くて恨めしくて仕方がない……陰口を叩いたことだって何度もある。なんで彼女は死ななければならなかったんですか!?彼女は……―――謝っていたのに!」

 

 あの時、彼女はひたすら謝ったのだ。

 村上にきっかけを与えたからではない。


 悪意を持って、私を陥れようとした。

 だから……―――


「でも彼女はごめんなさいって謝った!恥もプライドもなにもかも飲み込んで私に向き合った!私は……それを許した!ちゃんと許した!なのに…ッ!」


「反省してなかったのかもしれないわ。」


 宮比は今までの大げさなふるまいとは真逆に、静かな声色で呟いた。

 彼女は立ち上がると私の背後に立ちそっと両手を肩に置く。その仕草はとても静かで優しかった。


「どういう、ことですか。」

「此処から先はオフレコよ。記録されないわ。」

 宮比は顎で扉の向こうに合図を送ると、身をかがめて私の耳元に唇を近づけて囁く。

「貴女は私が知りうる情報を、大方知っているわね。これからはその前提で話すけど構わない?」

「はい。」

 正直、今までの聴取はまどろっこしかった。

 生来、私は短気な方だ。

 保身ばかり考えて、兄に対して白を切り続けるのも限界が近づいていた。


「ツイタチの御使いと呼ばれる化け物どもは、罪を犯した人間を襲って食べる。全ての罪人じゃない、ツイタチ信仰を齧った人間の”知り合い”に限る。」

 晦とツイタチ曰く、御使いはその化け物とは全くの別物だ。

 しかし神に人間の区別がつかないように、人間も神の区別などつかない。

 訂正しようかとも思ったが、話が進まないのでそのまま「はい。」と頷く。


「化け物に知性はないけど彼らなりのルールは在るわ。罪を反省して謝って、それを側にいた誰かが赦すと結界のようなものが張られて獲物に手が出せなくなるのよ。」

 それは……目を見開いた。

 斉東に送られたツイタチからのDMの内容とは大きく異なる点だった。


『罪悪感で揺らいだ精神に付け入るように入り込み、その人の最も深い欲を増長させます。耐え難いほどの欲求を抱かせて、罪を犯させるのです。』


 あのDMはデタラメばかりだと彼が呆れていた。

 デタラメというより、本当と嘘を交えて順番を変え本質をさとられないように巧妙に伏せているのだろう。


 罪悪感は人を守る結界。

 宮比が言う仕組みに納得がいく。

 順番が違うのだ。

 見つかるのが先だ、罪悪感は後から生まれるのだ。


「私は、その理に倣って彼女を許しました。」

 本来なら、ルールに……縛りに則って手を出してはいけないはずだ。

 それなのに彼女は食い殺された。


「反省してなかったのよ、彼女。」

 振り返る私を宮比は見下ろす。

 貼り付けられた厚化粧は、能面のように表情は読めない。

 恐らく宮比の素はこの顔だ。

 私と同じ、道化を演じるタイプの女だ。


「心から、謝罪をしていなかった。そこを付け込まれたんじゃないかしら。」

「馬鹿な!」

 悲鳴に近い、金切り声が口から漏れる。


 壁一面に書かれた謝罪の言葉。

 やせ細りアルミホイルを頭に巻いて、掃除をせず荒れ放題な部屋の中で、汚れた衣服のまま風呂にも入らず、ただ一心に頭を下げ続けた彼女。


「謝っていました、後悔していました。なのに――――ッ」

「後悔と反省は違うわ。」


 私を見下ろすその氷のように冷たい瞳に、ほんの僅かに憐れみが宿る。


「貴女は許したのでしょう。ええ、それも本心から。そこまで恨んでもなかったんでしょう?わかっていてもあえて言及しない程度にはね。でも彼女は反省してなかったのよ。」


 そうなのだろうか。

 あのやせ細った背中は、本当に反省をしていなかったのだろうか。


「身を滅ぼすほど反省していると装って、上辺だけの謝罪で、貴女に赦されようとしたのよ。自分は悪くないと、貴女が悪いと、最期の瞬間まで貴女を責めたんじゃないかしら。」

「……でも、私が、あの場に留まって赦し続ければ死なずに済んだ?」

「それは……そうかもしれないわ。でも……」

「ああ、やっぱり私の所為だ……」

「西さん。」

「あの時、村上など気にもとめてなかったと言えばよかったのかな……?いや、きっと何を言っても私の言葉は、彼女の神経を逆撫でしてた……」

「西さん、落ち着いて。」


「私が……ちゃんと追っ払わなかったから……――――ッ」


 抜け道を見つけたのか。あの畜生め。

 脳裏によぎるのは1匹のタガメだ。

 東京でも尾道でも、私の顔色を伺い続けたあの虫けら。

 情報の海を漂う実態のない卑しい禍津物。


 ――――してやられた。


 ピタリと涙が止まる。


 湧き上がるのは、怒りだ。


 彼が散々言っていたではないか。

 本来、謝罪など形だけでも構わないと。

 つごもりの設けた理を理解しない畜生のために設けた縛りだったはずだ。

 人の心など理解しても無いくせに。

 それをどうだ。

 ああだこうだと理由をつけて、そこまで人が食いたいか。

 つごもりの情にここまであぐらをかくか。

 恥知らずが。


 畜生は所詮、畜生だ。


 この私が、畜生ごときに。



 目を閉じて息を整える。


「大丈夫?」

 ふーっと粗い息を吐くと宮比は慌てて私の背中を撫でた。

「落ち着いて息を吐いて。まるで、手負いの獣みたいよ。」

 自分がどんな表情をしているのだろうか。うまく想像ができない。

 宮比の表情から察するに、相当ひどい顔に違いない。


「村上にそそのかされた、という可能性はあるんでしょうか?」

 私の問いに、宮比は再び蒸気タバコを懐から取り出すと今度は断りを入れずに吹かし始めた。

「村上はツイタチの御使いに憧れていた。御使いになりたくて、小江あかりさんを食い殺そうとした。ツイタチの御使いに”唆された”人間は、罪を犯す。」

 宮比は机に腰掛けると腕を組んで私を見下ろす。吐き出される蒸気が天井に吸い込まれては消えていく。

「……御使いには、二種類います。」

 宮比は、へえ?と驚いた声を発するとかがんで私の顔を覗き込む。


「ツイタチの御使いには眷属の神と飼育している神の2種類あるんです。御使いという言葉は、本来眷属の方を指します。もう一方の神は人間が動物園で飼育しているように、ツイタチの縄張りで人を滅多矢鱈と襲わないように管理している……神というより獣です。人を襲っているのは獣ですよ。」

「獣……そういえば畜生だと聞いたことがあるわ。抗えない悪意を植え付けるのは畜生の方だと思います。畜生は腹をすかせていますから、ツイタチに許された”食べても構わない”………―――罪人を作ろうとして唆す。」

「その”唆し”から身を守る結界のようなものが、御使いが与える罪悪感ね。」


 禍津物が人間の悪意を増長させ襲う。

 罪悪感は本来ならツイタチが与えるものではなく、増長した悪意から生み出されるものだ。

 罪悪感があれば反省や贖罪の速度が上がり、助かる確率が格段に上がるからだ。

 性善説を信じるなら、大抵の人間が本能的に身に着けている感情だろうがたまに本物の人でなしも現れる。

 つみしろがあえて罪悪感を抱かない子どもに育てるのは、そういった人でなしを人為的に作り上げ、つごもりの加護で守られないようにする為か。

 つくづく、風習というものはよく出来ている。


「御使いも、ツイタチも、みんな人が好きなんです。無惨に食い殺されてほしくない。悔い改めて反省して畜生の魔の手から逃れて欲しい。だから”唆された”、あるいは”これから唆される”人間に、畜生の視線と罪悪感を抱かせようとする。懺悔は手っ取り早い対処法……」

「村上なら、唆すより懺悔を促すでしょうね。」

 村上が……――――村上と今なお繋がりがある氷見が、吉川にどこまで伝えていたのかはわからない。

  吉川が何処まで知っていたのかわからない。

 ツイタチ信仰について村上や氷見と一体何処まで話したのだろう。

 少なくとも対処の仕方は知っていた。

 私が見た限りでは、何も間違ってはいなかった。

 しかし、吉川は反省をしなかった。

 仮に反省していたとして、私の赦しは効果がなかった。

 

 ふと、彼の愛くるしい顔が脳裏に浮かぶ。

 瞼の裏でニコニコ笑う彼の顔が、突然真っ黒な塗料で塗り潰された。

 赤い縦縞が血のように滴り、顔の真ん中でパックリ割れて大きな瞳が現れる。

 村に12個も設置された祠の中で鎮座した、あの招き猫。

 信仰の賜物、彼の自慢。

 あの中には、彼も御使いもいない。


 ああ、本当だ。よく似ている。

 だが……―――――


「お前の所為じゃないよ。」


 優しい声色で、囁く。

 黙れ。

 お前は彼じゃない。

 ――――ほぼ、直感だった。

 あいつだ。

 あいつが私の瞼の裏から彼の姿を借りて、こちらを見ている。


「彼女は、心から反省していたと思うよ。」


 うるさい。

 お前はただ、私の心をそのまま反射しているだけだ。

 欲しい言葉をただ述べているだけだ。

 縋りつきたくなるような赦しを。


 お前に彼女の何がわかる。

 私にだって、わからなかったのに。


「お前が赦した所で、助からなかったんじゃない?」


 だとするのならば、何故。


「だってお前……――――」






 ――――●●●●じゃないか。





「西さん。」

 宮比に呼びかけられ、はっと意識を取り戻す。

 斉東と会ってから、頻繁に見るようになった白昼夢。

 ツイタチという紛い物が、彼の姿を借りて私の前に現れる。


 村上のきっかけは知らないが、私のファンになり、アカウントをフォローして、もしかして彼女に好意を伝えたのだろう。

 兄と多聞の話を聞いた限りでは、吉川が村上にヒサルキを語る前から村上はあの教団に入っていた。ツイタチ信仰を知ったのはもっと前なのだ。


 ――――――村上の所為にしようとしている自分に気が付き、軽く頭を振る。

 彼女が食い殺されたのは、他の誰でもない、私の所為だ。

 誰かのせいにしてしまいたい。

 自分は何も悪くないのだと。

 誰かに「いいよ」と許されたい。

 吉川も、こんな感情だったのだろうか。


 私の彼氏が村上が傾倒する教団の大元のツイタチ信仰の中心、小江本家の息子だと知っていたのだろうか。

 彼の態度をふと思い出した

 兄や親族、その他大勢に対するそれと、日吉、斉東、山上、高木さん、そして私に対する態度。


 ツイタチは神を裁く神だという。

 禍津物の事も善意で管理しているが、本来の管轄外だという。

 つごもりはどうだろうか。

 晦は裁判官を志して勉強をしているが、鬱により体調を崩し受験に失敗。現在は浪人している。


『”罰の神”だよ。今のところ。』


 それは一体、どういう神なのか。

 その話が本当だとするなら、吉川の死因に信憑性がましていく。


 反省していないと、思いたくない。

 だが、自分が人でないなど、もっと考えたくない。

 彼の妄言に倣うなら、私は彼と同じく神なのだろう。

 そうであるなら、人の心などわかるはずもない。



「もういいわ。」

 宮比は腰掛けていた机から離れると、腕時計を確認して時間ね、と呟いた。

「今日はもう帰ってもいいわ。ご協力に感謝するわね。」



「――――残念だけど、吉川さんの事は心臓麻痺として処理されるわ。今の日本の法律に怪異を裁く法はないの。人間が裁けるのは人間だけなのよ。」

「そうですか……」

 酷く、疲れていた。思えば正月から気が休まった時間がない。

「で、結局貴方は私から何が聞きたかったんですか?」


 この女は私が知りうる情報を大方知っている。

 私が吉川の死因にだったにせよ、人の法では裁きようがないし、私がこうして人としてここにいる以上、獣として駆除もできないはずだ。

 私から聞き出せる事柄は、本当に兄のこと以外なにもないのだ。

 私の問に、宮比は厚化粧にとびっきりの笑顔を貼り付ける。


「ないわ。」

 あっけらかんとした答えに、思わず眉をひそめる。

 宮比は右手の指で、掴んだ蒸気タバコをくるくる回しながら続ける。

「貴女が捜査に協力的なのはわかったし、今これ以上に拘束できる権限が私にはないの。何かと理由をつけたいけれど……みんな得体のしれない化け物に怯えて関わるのを嫌がってるわ。……そうねえ、私がしたいのは注意喚起よ。」

 親指で電気タバコを宙に飛ばすと、落ちる寸前で手のひらで掴んだ。

「もし吉川さんの不審死をはじめ、朔日信仰を調べようとするのなら、それを辞めて欲しい。これ以上、何もしないで。貴女のお兄様に何を唆されても、黙ってじっとして動かないで欲しいの。」

 意外な答えに思わず声が出ないまま口が開く。宮比は続ける。


「あのサークルにいた人間が、次々例の畜生に狙われて死んだり、村上に狂わされている。吉川さんだけじゃないのよ。順番で言うなら恐らく次は貴女の番。」


 宮比は電気タバコを内ポケットにしまうと仁王立ちで私に向き合った。

 窓から差す光が、後光のように彼女を照らす。

 日が傾いている。


 その姿を見て、私は彼女が敵でもなんでもない事に気がついた。

 兄は長年、警察を警戒していた。

『日本の警察は優秀だ。彼らのお陰でこの治安と秩序は守られている。俺は心から警察を尊敬しているぜ。だからこそもう二度と彼らの世話になりたくない。』

 出所した兄を迎えに行った時、聞かされた言葉を思い出す。

 兄の影響をこんな所まで受けている。


「貴女を人質……って言い方はアレね、貴女に協力をお願いすれば芋づる式に藤原くんとそのお仲間を捕まえることが出来るでしょうね。村上が買っていた薬の出どころも、何故事件当日村上があんな怪我を負っていたのか。確証を得ることが出来たでしょう。でも……」

 宮比は態とらしく首を横に振る。

「残酷だけどはっきりと言うわね、藤原くんの中で貴女にそこまでの価値はない。いえ、どれだけ深く愛していたとしても組の為なら容赦なく藤原くんは貴女を切り捨てるでしょうね。それも最悪な形で。」

「………。」

 ごめんなさいね、と謝る宮比を静かに見つめ返した。


 そうだろうな、と納得をする。

 不思議と怒りは湧いてこなかった。

 私がギリギリまであの男の話題を避けたのも、保身からだ。

 唯一の身内に対する愛情はあるものの、我が身以上に可愛くはない。

 私と同じ血が流れているのだから、あの男だってそうに違いないだろう。


「正直言うと、もう少し藤原を泳がせたいの。藤原が狡猾で、私の管轄外ということもあるのだけど……――――だから貴女には今は素知らぬ顔ですっこんでいて欲しいのよ。これ以上首を突っ込まれると、私は貴女を利用せざるを得なくなる。だけど……」

 そこまで言うと彼女は視線で私の目を射抜く。 


「私は、これ以上の被害を出したくない。」


 真っ直ぐ向けられた言葉に、どっと胸が震える。

 芝居ではない、今日始めて聞かされる、彼女の本心だ。


 食い止めたいのだろう。

 心の底から、この奇妙な懺悔と死の連鎖に。

 彼女は腹を立てている。

 彼女は、私と同じだ。

 獣害に迷惑し、腹を立てている。 


「……どうして?」


 声が少し震えた。

 今日初めて会う女に、どうしてそこまで気にかけるのか。


 吉川が死んだのは私のせいだ。


 どう考えても村上の事件を解決したいなら、兄の情報は必要なはずだ。


「あら?当然じゃない。」

 再び泣きそうになる私を見て宮比は微笑む。




「市民を守るのが警察の努めだからよ。」




 はっきりそう告げた彼女は、美しかった。

 容姿ばかりを貶していた自分を、やっと恥じる。 


「忠告はしたからね、西さん。そうねえ、次に会ったらその時は、問答無用で協力してもらおうかしら。」

 ――――だから、二度と会わないように気をつけて。

 彼女と再会するのは、恐らくそう遠くはないだろう。

 人間は私が思っている以上に優しい生き物だ。

 彼女が私を気遣って遠ざけようとしたのは、本心なのだろう。

 兄の弱点である可能性を持った私の身柄は、喉から手が出るほど欲しかったに違いない。 

「ありがとう。」

 善意にただ、感謝を述べる。


 どういたしまして、と彼女は再び媚びる女の仮面を貼り付けた。





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る