失われた資料と武運長久の夢の果て 後編

「峠の標高は260メートル。逃げた先も崖だから、角に松明を付けた牛の大群に襲われたらひとたまりもないな……」


 さっきの会話から数時間後。

 夕暮れにさしかかった、とある山の峠で俺は山頂を見上げながら呟いた。

 歴史国道として整備され、今は人気ハイキングコースとなっている峠を歩きながら、隣の稲坂も頷いて見せる。


「有名な、『俱利伽羅(くりから)峠の戦い』だね。七万の平氏軍のほとんどがここで失われたって話。流石に、ゾッとするね?」

「そ、そうだな。具体的に数字を言われると更に背筋が寒くなる」


 俺は背中に寒気を覚えながら、改めて周囲を見渡し、稲坂との会話とここに至る経緯を思う。


『見に行こうよ、兵たちの夢の跡を』


 急に何を言い出すのかと思ったのもつかの間、彼女は図書室を飛び出し、スマートフォンで新幹線の予約をしながら廊下を突っ走った。

 驚く生徒、注意の声を上げる教師、目を白黒させる俺を尻目に環状線から新幹線乗り場、そして地元のローカル線とバスを乗り継ぎ、今に至る。

 正直、この無鉄砲な行動力はどこから来るのか……? と呆れる他ない。


「『夢の跡』なんて言うから、壮大なイメージ持っちゃったけど意外と来れるもんだなあ……」


 そうして、思わず呟いた俺へ稲坂は峠の上へ視線を投げながら、「あの辺りかな? あの辺りから牛を放ったのかな? 角度あるねー、殺意高いねー」などとテンション高く物騒なことを言っている。

 記録では源氏軍が牛500頭を平氏軍70000へ峠の上から突撃させると同時に攻めかかり、逃げた兵もその先の崖から転落していったそうだ。

 当然、谷底には多くの死体が積み上がり、今は『地獄谷』と呼ばれているらしい。

 俺は何とも言えない胸の重さを感じながら、頭を掻いた。


「何よりびっくりなのは牛を放って夜襲をかけたのが、富樫泰家ってことだよな。義経を見逃した逸話だけ聞いてたらそんなイメージ湧かないけど……」

「そうだねえ。武士の情に篤い、温厚な人物のように思わせて……というか。まあ、時系列としては戦が先で、義経のエピソードは後なんだけど」

「正直、前後の温度差で風邪ひきそうだ。まさに、『兵たちの夢の跡』だな。でも、だからこそ――」


 俺は話しながらもう一度、周りの風景を見やる。

 そんな苛烈な出来事があったというのに、山林の緑は豊かで瑞々しく、草と土の匂いがもたらすのは痛みではなく静けさだ。

 勝どきを上げた源氏の栄光も、谷底へ消えた平氏の敗北も、時が全てを忘却の彼方へ押し流してしまった。

 そして今、残っているのは山河の緑と青、そして澄んだ空気だけ。


「なんでかな。義経を見逃した富樫泰家の心情の答えが、ここにあるような気がする……」


 その発言に稲坂は少し悪戯っぽい口調で問う。


「へえ、その心は?」

「……人の命って、小さいんだなって。困ってる若者を見逃すくらい、言い訳が立つならしたくもなるだろ」


 俺の返答を聞いた彼女は一瞬目を丸くさせた後、なぜか嬉しそうにクスクスと笑う。

 夕闇に少し冷めた風が吹き、その癖のある髪がふわりと揺れる。

 草原のそよぎの中、なぜか彼女の髪の梳かれる音が響いた気がした。


「あはは、やっぱりわたし、淳の決断の早いとこ、好き。全体を見渡せるのに結局、自分の感情のためにしか生きられないんだ」

「な、なんだそりゃ、普通のことだろ。大体、全体を見てからだと、むしろ遅いんじゃないか?」

「……そんなこと、ないよ。命のやり取りを、即断できる方がわたしはやだ」

「?」


 小さく密やかな声で稲坂は謎めいたことを言うが、意味の分からない俺は首を傾げるしかない。

 微妙な間が流れ、俺の脳裏に再び、『彼女の無鉄砲な行動力はどこから来るのか?』という問いが蘇った。

 少なくとも、今の稲坂の佇まいからその答えを察することはできず、気まずさを覚えた俺が口を開く。


「それに、その……あれだ」

「ん?」

「確かに、こういう感情は記録や資料に残らない。だから後に生まれた俺達は勝手な想像しかできなくて、結局自分の好きな方を選ぶしかないんだ」


 ひどく身勝手な理屈だが、死者のことは死者に任せ、生者は生者の為に生きる他ない。

 その言葉がどう聞こえたのか稲坂は驚いた表情を見せた後、もう一度静かで穏やかな微笑みを俺へ向けた。

 じゃれるような視線のくすぐったさに耐え切れなくなった俺は、そっぽを向きながら彼女に問う。


「そんなの、俺が言うまでもないだろ。稲坂なら分かってると思ってた」

「わたしが? なんで?」

「知りたい! って気持ち一つで新幹線まで乗り継いで、ここまで来たから。俺から見れば立派な才能だ」


 図書室にこもり、課題を見つけ出して、こんなところまで来ることができる。

 それは間違いなく才能と呼んでいいものだ。


「才能……才能かぁ」


 だが稲坂は困ったように笑い、小さく俯くだけだ。


「そんな立派なものじゃないよ。わたしはただ相手を知りたいと思っている間なら、自分を忘れて、だからこそ自分自身でいられる気がするからそうしているだけ」

「え?」


 よく分からない言い回しに、俺は眉根を寄せてしまう。


「自分を忘れられるのに、自分自身でいられるって矛盾してないか?」

「でも今回もそうだったよ? 東京の図書室で資料が見つからなくて、淳と一緒にここへ来るまでのわたしは自由だったから」

「そう……なのか?」

「うん、そしてこの峠で本物の風景と今を見て、答えを得た。……きっと明日からまた勝手な想像をして、図書室にこもるんだと思うけど」


 俺は赤ずんだ夕闇とくすんだ夜闇が描くグラデーションに視線を向けながら、答える。

 不意に今、『彼女の無鉄砲な行動力』の正体が掴めた気がしたから。


「……それもいいんじゃないか? 稲坂は見つからない資料を探して頭を抱えている瞬間が、一番自由なんだから」


 そして、きっとそこから、あの爆発的な行動力が生まれるんだろう。

 その言葉に彼女は驚いた表情でこちらを見上げた後、瞳を閉じて密やかに、「うん」と頷くだけだ。

 周囲に人影はなく、煌めき始めた星々が人間の時間の終わりを告げている。

 やがて稲坂はトーンの落ちた声で、問う。


「あ、あはは、やっかいだなーって思うんだけどね? 自分でも。ほら、現存してない資料なんていくらでもあるし?」

「それは、そんなに気にしなくてもいいんじゃないか?」

「え?」


 頭に疑問符を浮かべる彼女へ、俺は何を今さらと得意げに笑って答えた。


「さっき言った通りだ。俺達は勝手な想像しかできないから、結局好きな方を選ぶしかない。けど、それ以上の自由なんて他にないだろ?」


 そう言い切った俺へ稲坂は、「ぷっ」と小さく吹き出して、笑った。


「あはは、やっぱりわたし淳の決断の速さ、好き。……これからも、迷惑かけてもいいなら助かるんだけど」


 不意に立ち止まり、何かを願う真っ直ぐな視線を彼女は向けて来る。

 癖のある髪が、ぴょんと跳ねて、それが稲坂自身の感情の発露に見えた。

 俺は頭を掻きそうになった手を下ろし、彼女の目を見て答える。


「それくらい、いつものことだろ。決断の速さ……とやらが俺にあったとしても、稲坂のような行動力はないから」


 すると彼女は、ぱっと表情を輝かせて歩み寄り、再び隣に立つ。


「なるほど、お互いにないものを補い合うってこと?」

「富樫泰家と源義経みたいにな。……きっと俺達の進む先にも、『兵たちの夢の跡』はあるはずだから」

「あはは。ならそれは、資料や記録に残らないね?」


 どういうわけか彼女はとても嬉しそうで、楽しそうだ。

 割と、どうしようもない話をしているはずなんだが。

 まあでも、その気持ちは分からないでもないから、俺も頷く。


「それもいいだろ。探したやつだけが見付けられる。そういうものを求めて生きるのが」


 俺は言いながら、かつて大きな戦と栄光と敗北のあった峠へ振り返った。


「探求ってもんだ。いつも形には残らない」

「……うん、そうだね。だから止まることができなんだ」


 こうして、『武運長久の夢の果て』を探した俺達の旅は、密やかに幕を下ろす。

 空を見上げればとっくに日は落ち、いくつもの綺羅星が瞬いていた。

 夜が明ければ、彼女に振り回される毎日が再び始まる。

 同じようで二度とない、かけがえのない日々が続いて行くのだ。


「さて、なら最終の新幹線の時間まで美味いもんでも探すか!」

「おー、日本海の海産はいいらしいよー? どこ行ってみようかー?」


 そんなことを言い合いながら、俺達は一つの夢の果ての跡地に背を向ける。

 資料にない感情を得た足取りは軽く、心も晴れやかだ。

 そしてここから新しい自由と探求の冒険が始まることを願いつつ、俺達は自分自身の夢の果てへ向かい、最初の一歩を踏み出したのだった。

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