【完結】夕凪(作品230822)

菊池昭仁

夕凪

第1話

 静かな月夜の海だった。

 上質なエクストラ・バージンオイルのように、滑らかな海に月の道が現れ、私はひとりで漁に出ていた。


 「燃料代にもならねえな?」


 今日の漁は不漁だった。

 私は潮風に湿気ったタバコを咥え、オイルライターで火を点けた。

 好きで漁師になったわけではない。この島で暮らすために漁師になった。

 私は都会での生活に疲れ、この島へ逃れて来た「負け犬」だったのである。

 


 答案用紙に漢字で名前さえ書けれ

ば合格出来るような三流私大を卒業し、私は財務官僚だった親父のコネでメガバンクへ就職した。

 カネ、カネ、カネの毎日に、私は反吐が出る思いだった。


 私の仕事は倒産寸前の「瀕死」の会社から、銀行が貸付けた金を回収することだった。

 そう、「貸し剥がし」が私の仕事だった。



 回収先の会社を訪れると、従業員たちの怨みの籠った鋭い視線が突き刺さる。


 「社長、業績の改善が見られないようですね? 今までは当行としましても、なんとか御社に立ち直っていただきたいと、元本はそのままに、利息のみのお支払いを容認して参りました。ですが当行も限界です。

 名ばかりの経営再建計画書など、もう見る気にもなれません。

 本意ではありませんが、貸付金の全額返済をお願いします」

 「そんな無茶ですよ! 私に死ねというのですか? 八代さん!

 息子も大学を中退させ、娘にも大学進学を諦めてもらいました。

 八代さん、どうかお願いです! あと半年、いや3か月でいい、猶予をいただくわけにはいきませんか?」


 あまりにも身勝手なこの男の態度に、私はキレた。


 「俺は何度もアンタに言ったはずだ!

 余剰人員を解雇し、展示場を2店舗に減らして宣伝広告費を削れと!

 今まで建てた顧客を一件一件訪問し、紹介依頼をするようにと!

 そんな基本的なこともせず、アンタは未だにレクサスに乗り、社員のクビも切れないじゃないか!

 展示場も今だに5店舗のままだ!

 アンタは何もしなかった! 経営者として失格なんだよ!」


 私は机をバンバン叩いた。


 「自業自得なんだよ! アンタは無能な経営者だ! 社会のゴミなんだよ!」




 私は毎晩のように街へ出て酒を飲み、女を抱いた。

 私は完全に悪魔の手先に成り下がっていた。




 三日後、社長は住宅展示場で首を吊って死んだ。



 「八代君どうした? 君らしくもないじゃないか?

 私はカネを回収しろとは言ったが、「殺せ」とは言ってはいないぞ?

 今回の件は常務が火消しをして下さったおかげで表には出ないで済んだが、私も大目玉を喰らったよ。

 八代、君は働きすぎなんだよ。どうだい? 少し休養してみては?

 ウチの取引先の新潟の運送会社から要請があってね? 君のような#優秀__・__#な人材を求めているそうだ。

 八代、今、新潟は燃えているぞ!

 人事から正式に辞令が出るだろうが、栄転だよ栄転。

 営業部長だ。

 そこでゆっくり頭を冷やすんだな? 八代代理」



 一週間前、支店長の栗原は朝礼でこう檄を飛ばしていた。


 「いいか回収だ! 命よりも大切なカネを引き上げて来い!

 銀行はカネを預けに来るところだ! カネを借りに来るところではない!

 カネを借りなければ経営が出来ないような社長は経営者ではない! そんな無能な経営者に大切なカネを1円たりとも貸すな!

 今月の回収目標はいくらだ? 加茂課長!」

 「はい! 4億3千2百万円です!」

 「必ず達成しろ! 言い訳は許さん!」


 

 私は銀行を辞めた。



第2話 

 「銀行、辞めて来たよ・・・」


 いつものように泥酔して帰宅した俺は、吐き捨てるように女房の沙織にそう告げた。


 

 「そう? いいんじゃない? それで。

 このまま銀行員をしていたら、あなたは人間じゃなくなる。あなたは人じゃない、悪魔よ!」


 私はキャビネットからジャックダニエルを取出すと、そのままラッパ飲みをした。


 「沙織の言う、通りだ。俺は、悪魔だ、吸血鬼だ。

 毎日、毎日、大量出血して、いる、瀕死の、人間から、さらに血を吸い取るのが、俺の仕事だ・・・。

 「お父さんを返せ!」「主人を、返して」と、泣き叫ぶ経営者の遺族たち・・・。それよりも、恐ろしい、のは、その悲惨な状況に、何も、何も感じなく、なりつつある、自分だ。

 こんな、仕事は、悪魔のやる、仕事だ。人間のする、仕事じゃ、ない・・・」


 そして女房は言った。


 「ごめんなさい。私、もう限界なの。私は悪魔の妻にはなれない。

 渚は私が育てます、離婚して下さい」


 別に酔っていたからではないが、私は女房の沙織のその申し出に正直、安堵した。

 私はすでに、人間としての感情を失くしていたからだ。


 翌朝、妻は小学5年生の娘を連れて家を出て行った。





 3日後、私は家の近くの喫茶店に沙織を呼び出した。


 「またお酒を飲んでるの?」

 「それはもう、お前には関係のないことだ。俺があのマンションから出て行くから、そこでお前と渚が暮らせばいい。

 生活費については俺の口座から引き落としてくれ。

 一括だと夫婦間贈与になるおそれがあるからな? 渚は元気か?」

 「元気よ、渚はいつも私の味方だから。あなたこそこれからどうするの?」

 「俺のことは心配するな、ひとりなら何をしても食ってはいける。

 今までと同じように、適当に暮らすさ」


 私はキャッシュカードとクレジットカードをテーブルに置くと、背広の内ポケットから離婚届の入った茶封筒を取り出し、沙織に渡した。


 「サインはしてある。今まで苦労をかけてすまなかった。 

 君はいい女だ、今度はまともな普通の男でも見つけて人生をやり直してくれ」

 「もう結婚も男もたくさん。私は渚と静かに暮らすわ」


 目の前の珈琲がどんどん冷めていく。

 まるで俺たち夫婦のように。


 女房の沙織は離婚届の入った封筒をそのまま握り締め、俯き泣いた。


 私は席を立ち、振り返らずに店を出た。

 清々しい気分だった。

 それは家族から自分が解放されたという喜びではなく、悪魔となった自分から、女房を解放出来たからだった。

 私はそのまま、夜の雑踏へ紛れ込んでいった。


 雨の中を傘も差さずに。



第3話

 俺は東京を離れることにした。

 このカネで薄汚れた東京から逃げることにしたのだ。

 


 小笠原の離島行きのフェリーが今、竹芝桟橋を離岸して行こうとしている。

 岸壁で見送る人たちと、乗船者たちの間の5色の紙テープに徐々にテンションが掛かり、やがてちぎれた。

 その紙テープは、お互いの手元で手を振るかのように潮風にたなびいていた。


 飛行機や列車の別れとは違い、船の別れは残酷だ。

 それは別れの悲しみの時間が長いということにある。

 船の別れは切ない。



 俺はひとり、デッキでその光景を眺めていた。

 負け犬の俺を見送る者はなく、そしてそんな東京に未練はなかった。





 東京湾を出て太平洋に出ると海の色が変わった。

 心臓を鷲掴みにされるようなブルーの海。

 トビウオが船と並走し、長い時間、波の上を滑空していた。





 1日をかけて、ようやくフェリーは島に到着した。

 この島で生活することを選んだ理由は2つ。

 ひとつは誰も知り合いがいないこと。そしてもう一つは美しい海があることだった。

 そして私はこの小さな島で、悪魔から人間に生まれ変わるつもりだった。



 

 とりあえず、島の民宿に滞在して仕事を探すことにした。

 予約していた民宿に着くと、老婆が応対に出て来た。


 「お客さん、東京からの観光かい?」

 「いや、この島で暮らそうと思ってやって来たんだ」

 「何もねえ島だよ、ここは?」

 「何もないからいいんだよ」


 老婆と俺は笑った。



 民宿で軽い食事を済ませ、島の役場へと向かった。 

 島の役場は人も疎らで、閑散としていた。



 「この島に東京から移住しに来た者ですが、どこへ相談に行けばいいですか?」

 

 すると面倒臭そうに、メガネをかけた30代くらいの職員が私を手招きした。

 その役人は私を舐め回すように見ると、近くの相談コーナーへ案内し、開口一番こう言った。


 

 「どうしてこの島に移住しようと思ったんですか?」

 「東京が嫌になったからです。

 駄目ですか? そんな理由じゃ?」


 その役場職員は眼鏡の位置を整えて言った。


 「そうですか? 東京がイヤになったと?

 島としては人口が増えるのはありがたいことですが、殆どの場合、あなたのような理由でこの島においでになった方は早くて1週間、長くても1年も経たないうちに本土へ帰ってしまいます。

 何もありませんよ? この島には」

 「私もその人たちと同じではないかと仰るわけですね?」

 「はっきり申し上げると、そう言うことです。

 あと、調べればすぐにわかることですが、まさか法に触れるようなことはしてはいませんよね?

 気分を害されたらすみません、その手の話も多いもので」

 「もし私がそうだとしたら、こんな人口の少ないところへ逃げては来ません。

 人の多い東京に留まるか、大阪などの大都市に身を隠します。

 森の中に木を隠すようにね? その方が安全ですから。

 ここではすぐに分かってしまう、よそ者ですからね? 私は」

 「とりあえず、この転入届にご記入をお願いします。

 それからこれが島の求人票です。ご参考までに。

 賃金は本土よりもはるかに安いです。

 この島は家賃は安いですが、日常の生活用品は高い。

 船で運ばれて来るからです」

 「覚悟はして来ました。

 どうせ私ひとりですから、食べていければそれでいいんです。もうガールズBARに行きたいなんて思いませんから」

 「この島にはそんな洒落た物はありませんよ」


 その役人はやっと笑った。

 



 俺は役場を出るとレンタカーを借り、ドライブに出掛けた。

 抜けるような青空とラピスラズリの海。

 海岸沿いにクルマを停め、俺は大きく背伸びをした。


 この島でなら人生をやり直すことが出来るかもしれないと思った。



第4話

 ぼんやり海を眺めていると、一台の軽トラが停まった。


 「見かけねえ顔だな? おめえさん、本土の人かい?」


 その老人はジャイアンツの帽子を被り、首にタオルを巻いていた。

 肌は赤銅色に焼け、ランニングシャツからは白い胸毛が覗いていた。

 軽トラの荷台には、網などの漁具が積まれている。

 おそらく、この島の漁師だろう。


 「いえ、東京からこの島に引っ越して来ました」

 「おめえもそんなことを言って、すぐに本土に尻尾を巻いて帰る口だな?

 東京で暮らしていた奴が、何もねえこんな島でやっていけるわけがねえ。

 あんた家族は?」

 「いません、家族に捨てられました」

 「まさかおめえ、ヤバい事してここに逃げてきたんじゃねえだろうな?

 この前もアンタみたいに暗い目をした奴が本土からやって来てよ、そいつ、人を殺して指名手配になっていたらしいんだ。

 たまにいるんだよ、そんな奴が」


 老人は怪訝そうな目で私を見た。

 私は大声で笑った。


 「てめえ何が可笑しい? お前、本当に犯人なのか?」

 「いえ、そうじゃありませんよ、何処に行ってもそう言われるのでつい、またかと思っただけです。

 でも、当たっているかもしれません、私は悪魔のような銀行員でしたから」

 「悪魔の銀行員? 使い込みとか横領とかしたのか?」

 

 真剣な顔で俺に質問するその老人に、俺は笑いが止まらなかった。


 「そうじゃありませんよ、そんな度胸は私にはありません」



 彼は徳次郎さんという地元の漁師だった。

 私たちはすぐに打ち解け仲良くなった。



 「そうかい、銀行はおっかねえところなんだな? よく頑張ったな? 八代。

 どうだ、この島で俺の弟子にならねえか?」

 「漁師にですか?」

 「そうだ、おめえみたいな眼光鋭い奴に、土産物屋の店員や、民宿の手伝いは無理だからな?」

 「そうですね? 漁師になれば魚には困りませんからね?」

 「それに親方は俺だけだ。

 銀行みてえに面倒な人間関係もねえ。

 いいぞ、海は。

 腹の中に溜まった、ドロドロした汚ねえ物が洗い流されちまうからな?」

 「私に出来ますかね? 漁師?」

 「馬鹿野郎!「出来ますか?」じゃねえ、やるんだよ、出来るかどうかはお前次第だ! あはははは」


 徳次郎さんは豪快に笑った。


 「俺について来い、まずは見学させてやる」



 

 5分ほどクルマで走ると魚市場に着いた。


 「これが俺の船だ、乗れ」

 「はい」


 私は徳次郎さんと、さっそく沖へ出た。




 出港して間もなく、私は船酔いでダウンしてしまった。

 胃に吐く物がなくなるほど吐いた。

 酸っぱい胃液が込み上げて来る。


 「だらしねえなあ、そんなんじゃ漁師にはなれねえぞ。沖の水平線を見ろ、そのうち慣れる」


 徳次郎さんはイワシを付けたテグスを投げ始めた。

 するとすぐにアタリが来た。


 「よし、でかいな?」


 とても老人とは思えない鮮やかな手捌きで、徳次郎さんはテグスを手繰り寄せた。

 徳次郎さんはタモを左手に構えると、素早く魚をタモで掬い上げた。

 5キロはありそうなさわらだった。

 

 「どうだ? うまそうだろう?

 今日のところは見学だ、明日からは本番だからな? いいな?

 取り敢えず今日はこの鰆で八代の歓迎会をしてやる!」



 その夜、俺は徳次郎さんたち漁師と酒を飲み、歌い、仲間に入れてもらった。

 

 俺の漁師見習いとしての島民生活が始まった。



第5話

 翌日から徳次郎さんの特訓が始まった。


 「八代、もたもたすんな! いいか、海はいつも真剣だ! 絶対に手を抜くことはねえ!

 晴れの日も、嵐の夜もいつも真剣だ!

 海に出たら360度に気を配れ! そして常に冷静でいろ!

 それが仲間の命と自分の命を守ることになる!

 海を舐めちゃいけねえ!

 それは死に繋がる!」

 「ハイ!」

 

 私は必死だった。

 海は少しうねりがあったが快晴だった。

 青く果てしない海、だが舟板一枚隔てた底には地獄があるのだ。



 沖のブイが見えて来た。

 魚群探知機に魚影が映っていた。

 

 「よし、仕掛けた延縄はえなわを引き上げるぞ! よく見ておけ!」


 徳次郎さんはウインチドラムのスイッチを入れ、手際良く仕掛けを巻き上げ始めた。


 様々な種類の魚が掛かっていた。

 ビンチョウマグロにシーラ、カジキ、サメも掛かっていた。

 徳次郎さんは銛を構え、それをカジキマグロに突き刺した。

 金属バットでカジキの脳天を叩いて気絶させ、角を切り落として血抜きをした。

 売物になる魚だけを船倉に放り込み、外道はそのまま海に投げ捨てた。



 漁を終えると徳次郎さんは言った。


 「今日はツイていたが、こんなのが毎日あるわけじゃねえ。焦らずじっくりとやるこった」


 徳次郎さんは満足そうに笑った。 



 まだ慣れない早朝からの漁で、俺はヘトヘトだった。


 「腹減ったなあ? 朝メシを食いに行くぞ」

 「はい」

 

 徳次郎さんと俺は、島で唯一の飲食店、『港町食堂』で朝食を摂ることにした。


 ハムエッグにシーラの刺身と糠漬、そしてネギとワカメの味噌汁。

 俺たちは生ビールも飲んだ。


 「仕事が上手くいった後の朝のビールはうめえなあ」

 「親方みたいに出来るようになれるか? 漁師って大変ですね?」

 「なれると思えばなれる。なれねえと思えばなれねえ。

 心配すんな、最初っから出来る奴なんていねえよ。

 俺だってあんたら銀行員みてえに札を数えられねえのと同じだよ。

 あとは慣れだ、そのうち何とかなる」

 


 港町食堂は漁協から歩いて10分のところにあり、窓枠とトタン屋根が空色で、壁は白いペンキで塗られていたが、塩害で屋根も錆びて、ペンキも所々剥がれていた。


 大きな椰子の木があり、店の前には白い砂浜とセルリアンブルーの遠浅の海が広がっていた。

 そこはちょっと洒落た「海の家」だった。


 

 オーナーの幸子ママは30歳のシングルマザーで、かいという小学4年生のひとり息子と暮らしていた。

 旦那は元ヤクザで、今は服役中だという噂だった。

 幸子は色白のスレンダー美人で、いつも栗毛の髪をポニーテールにして、ローライズのジーンズを履いていた。

 バイトの絵里は東京出身の金髪の22歳、独身。

 高校時代は全日本のバレーボールの選手だったそうだが、怪我をして辞めたという話だ。

 身長178センチの長身美人で、島の男たちにも人気があった。


 この店は日の出からオープンし、日没になるとカラオケスナックに変わる。

 そして21時には閉店した。

 漁師たちの朝は早く、深夜の営業は不要だからだ。

 定休日は水曜と日曜日。水曜日は幸子ママのための休みで、日曜日は幸子ママが息子の快と過ごすための休日だった。

 メニューも変わっていた。

 基本的には幸子ママの気まぐれだ。


    本日の定食  1,000円(税込)

    お料理 一皿 1,000円(税込)

    お飲物 一杯 500円(税込)


 料理はその日の魚市場のハグレ物の魚介類と肉、そして島で採れた新鮮な朝採れ野菜がメインだった。

 カレーと中華そばだけは定番メニューで、ファンも多かった。

 そんな大雑把な店だったが料理はもちろん、幸子ママと絵里の人柄によって、店はいつも島民と観光客でいっぱいだった。



       人生には休日が必要だ。



 俺にも人生の休日が必要だった。

 その意味でもここは俺のオアシスだった。



 「いい天気ねー? 泳ぎたくなっちゃう」


 幸子ママが唐揚げとトウモロコシを持って、テラス席の俺たちのところへやって来た。


 「幸子ママのビキニ姿、見てみてえよ」

 「徳さん、私の水着姿、高いわよ」


 幸子は私の隣に腰を降ろした。


 「このトウモロコシはサービス。島の人から貰ったお裾分け。

 どう? 八代さん、何もないこの島の生活は?」

 「何もないのがいいね、ここは。

 東京は何でもあるが、俺の欲しい物は何ひとつなかった」

 「私もこの島が大好き。何もないけどやさしい人情とこの海と空があるもの。

 八代さんは東京で何をしていたの?」

 「冴えない銀行員だよ、落ちこぼれの」

 「あら、エリート君じゃない?」

 「ただの背広を着たヤクザだよ」

 「じゃあ私の旦那とおんなじね? もっともウチの旦那は本物のヤクザだったけど。

 三か月後に出て来るから、友だちになってあげてね?」

 「旦那が俺を嫌いじゃなければな?」

 「大丈夫よ、八代さんは旦那と同じ匂いがするから」

 「そうかもしれねえなあ。

 八代は銀行員の目じゃねえ。極道の眼だからな? あはははは」

 「銀行員の目ってどんな目ですか?」

 「おめえみてえな目じゃねえやつだよ。上ばっかり見ている目だ。あはははは」

 「そうかもね? うふふ」


 幸子ママと親方は笑ったが、俺は笑えなかった。

 俺は茹でたてのトウモロコシにかぶりつくと、冷えたビールでそれを追いかけた。


 俺は沖を見詰め、この島に来て本当に良かったと思った。



第6話

 この島に移り住んで三カ月が過ぎた。

 南国のリゾート地のようにのんびりとした穏やかな暮らしに、俺は東京での記憶を消失していた。



 部屋を掃除していると突然、携帯が鳴った。

 美佐子からだった。

 電話に出ることを一瞬躊躇った。

 俺は美佐子に何も言わずに東京を出て来た。

 ダブル不倫だった。

 美佐子とは銀行の日本橋支店で一緒だったが、渉外の俺と内勤の美佐子とはあまり接点がなかった。

 俺は厳しいノルマに追われ、それを紛らすため、渋谷や新宿、池袋のミニシアターに通い、よく独りで映画を観ていた。


 その日は土曜日だったがイヤな得意先を回った後で気分を変えようと、池袋のミニシアターに立ち寄った。



 上映後、ロビーで声を掛けられた。



 「八代さん? 八代さんですよね?」

 

 振り返るとそこに美佐子が立っていた。


 

 「スーツを着て映画ですか? 土曜日なのに?

 もしかして今日もお仕事? 大変ですね? 折角のお休みなのに」

 「ああ、篠原さんか? 君も映画? 良く来るの?」

 「ええ、モヤモヤした時とかに時々」

 「君でもそんな時があるんだな? 俺なんかいつもそうだけど」

 「まだお仕事中なんですか?」

 「いや、これから飲みに行くんだけど、どう? 篠原さんも軽く一杯?」


 俺はどうせ断られるだろうと、期待もせずに美佐子を誘った。

 彼女も俺も既婚者だったからだ。

 営業としての習性なのか、俺はすぐにセールストークで話し掛けてしまう。

 そんな自分がおかしかった。

 すると彼女から意外な返事が返って来た。

 

 「いいですね? でも軽くじゃイヤだなあ。

 飲んで暴れたい気分なんです。今夜は」



 その夜、俺たちはよく飲みよく食べ、そして歌った。



 「キアヌ・リーブスを誘うシャーリーズ・セロンが良かったなあ。「私の11月の恋人にならない? 不幸な男を誘うのが私、得意なの」ってあのセリフ、私も言ってみたい。

 『スウィート・ノーベンバー』 私、大泣きしちゃいました」

 「俺はシャーリーズが街の部屋の灯りを見て、「このひとつひとつの灯りにそれぞれの人生があるのね? 素敵」って言ったシーンにグッと来たけどな?」

 「うんうん、あそこも良かったですね?」


 そろそろ終電の時間だったので、私は美佐子に言った。

 

 「篠原さん、そろそろ門限じゃないの? ご主人に叱られるといけないから駅まで送るよ」

 「全然平気。どうせ夫は今頃女といちゃついてますから。

 そんなことより八代さん、クラブに行って踊りません? 今日は私、最高に幸せなんです! あはははは」


 そう言って美佐子は千鳥足でクラブへと歩いて行った。




 クラブの爆音と、欲望が渦巻く汗と様々なフレグランスに包まれ、俺たちは狂気乱舞した。

 

 「好きよ、八代さんのことが大好き・・・」

 

 美佐子が踊りながら俺の耳元でそう呟き、キスをした。

 俺たちはその日、『スゥイート・ノーベンバー』をベッドで演じた。



 それから3年間、俺たちの関係は続いた。


 いい機会だと思った。

 俺はそろそろ彼女を開放してやるべきだと考えていた。

 彼女には責任ある仕事もあり、子供はいなかったが浮気者の旦那もいたからだ。

 これ以上、美佐子を俺の人生に付き合わせるわけには行かないと思った。

 



 再び携帯が鳴った。俺は5回のコールでやっと電話に出た。 


 「もしもし・・・」

 「良かったあ、携帯番号変えられちゃったかと思った」

 「ごめん、連絡もしないで。

 俺、東京を出たんだ、離婚して・・・」

 「ちょっと酷いんじゃない? セフレの私に何も言わずに消えるなんて?」

 「今、仕事中じゃないのか?」

 「私、銀行を辞めたの。だから今は無職。

 そして奥さんも卒業したからあなたと同じよ」

 「今、どこだ?」

 「きれいな海の見えるところ。

 いいところね? この島は?

 お店のないハワイみたい」

 「島に来ているのか!」

 「早く迎えに来てよ、フェリー埠頭にいるから」


 俺はすぐにバイクに飛び乗り、埠頭へと向かった。




 美佐子が海風にワンピースの裾を靡かせて立っていた。

 彼女の美しい巻き毛が風に梳かれ、美佐子は微笑んでいた。


 「ただいま、智久さん」

 「美佐子!」


 俺たちはきつく抱き合い、そして泣いた。

 すべてを失くした俺たちではあったが、愛だけが残されていた。


 岸壁を舐めるようさざ波が打ち寄せていた。



第7話

 美佐子の大きなスーツケースを2つ、フェリーターミナルに預け、俺たちはバイクで二人乗りをして海岸沿いを走り、風になった。

 美佐子は私の背中にしっかりと抱き付き、島の景色に見惚れていた。



 「凄く綺麗な空と海ねえー! ズルいわよーっ! あなたばっかりこんなところで生活するんなんてーっつ!

 好きよーっ、あなたのことが大好きーっつ!」

 「聞こえないよー! 何だってーっ!」


 美佐子はそれに答える代わりに、私の腰に回した腕に力を込めた。

 俺は海岸通りにバイクを停めた。



 俺たちはヘルメットを脱ぎ、口づけを交わした。

 それは忘れていたキスの味だった。

 美佐子のそれはミントの香りがした。

 空はどこまでも抜けるように青く、そして海面はダイヤモンドをばら撒いた様にキラキラと輝いていた。

 

 「良かったあ。あなたをここまで追いかけて来て」

 「何もないぞ、この島には」

 「あなたがいるじゃない? それだけで充分」

 「いつまでいれるんだ?」

 「いつまで? ずっとここで暮らすつもりよ。あなたと一緒に」

 「相変わらずバカな女だ」

 「だってあなたの女だもの」


 俺と美佐子は強く抱き合って笑った。

 心地良いシーブリーズ。

 頭の中で山下達郎の『Ride on Time』が鳴っていた。




 俺は親方から軽トラを借りて、荷台に美佐子のスーツケースを載せて家に向かった。

 助手席に美佐子を乗せて。



 「魚臭いだろう?」

 「気にしないわよ、そんなこと」

 「頼もしいな? まあ、ここでは原始人になったつもりで生活するようなものだからな?」

 「それを言うならアダムとエヴァでしょ?」

 「そうだな? あはははは」

 「智久さん、笑えるようになったのね? 良かった」


 そう言って美佐子は俺に頬を寄せた。




 家に着くと美佐子はシャワーを浴びた。

 俺はトウモロコシと枝豆を茹で、魚を捌いて刺身を造っていた。


 そろそろ美佐子が風呂から上がって来る頃だったので、俺は天ぷらの準備に取り掛かった。

 美佐子にアツアツの天ぷらを食べさせてやりたかったからだ。



 美佐子はTシャツと短パンに着替えて来た。

 ノーブラだった。


 「ああ、さっぱりしたー。

 あなたも入って来たら? あとは私がやっておくから」

 「じゃあシャワーだけ浴びて来るよ、冷蔵庫にビールがあるから適当に摘まんで飲んでいてくれ。

 後で俺が天ぷらをご馳走するから」

 「私も髪の毛を乾かすから待ってるわ。それにスッピンだし」


 美佐子は両手で顔を隠して笑った。


 「美佐子はスッピンでもいい女だよ」

 「ありがとう、お世辞でもうれしいわ。

 でも私、もうオバサンよ」

 「俺はジイサンだよ」


 俺たちは互いの顔を見詰めて笑った。




 風呂から上がると俺は天ぷらを揚げ始めた。

 その傍で、美佐子がビールを片手に揚げたての天ぷらを立ったまま摘まんでいた。


 「おいしいーっ! 揚げたての天ぷらと冷たいビール、最高!」

 

 美佐子は自分のビールを私の口に運び、私も同じように揚げたての海老天を齧り、ビールを飲んだ。


 「美味しいでしょう?」

 「それはそうだ、俺の揚げる天ぷらは最高だからな?」


 俺たちは軽くキスを交わした。


 


 小さな卓袱台ちゃぶだいには沢山の料理が並んだ。


 「豪華な夕食ね? こんなにたくさん!」

 「この島で採れた新鮮な物ばかりだ。

 特別な調理は何もしていない。茹でて切って揚げただけだ。

 東京では味わえない最高の贅沢だ」


 トウモロコシに枝豆、冷えたトマト、魚介の刺身に天ぷら・・・。



 「これからの俺たちの第二の人生に乾杯」

 「素敵。あなたとこうしていることが」

 「まさか俺も美佐子とこの島で暮らせるなんて思わなかったよ。

 離婚してから半年だっけ? 入籍出来るのは?」

 「えっ、私と結婚してくれるの?」

 「イヤなのか? でもここには指輪は売ってないぜ、取り敢えず観光土産のサンゴの指輪でもいいか?」


 美佐子は何度も頷き、涙を零した。

 俺はそんな美佐子を強く抱き締めた。

 窓に吊るした風鈴が涼しげに鳴った。

 穏やかな夏の夕暮れの風が、この部屋を吹き抜けて行った。


 遠くからは波の音、夕暮れ近くのヒグラシの鳴く音が聴こえていた。


 俺たちは回り道した時間を埋めるかのように、激しく愛し合った。

 

 ビールの泡は消え、温くなっていった。



第8話

 翌日、俺は美佐子を連れて徳次郎さんのところへ挨拶にやって来た。


 「徳次郎さーん、おはようございまーす」


 すると徳次郎が家の奥から返事をした。


 「おう、あがれー!」


 徳次郎さんと奥さんが朝食を食べているところだった。


 「八代、そのべっぴんさんは誰だ? 網にかかった人魚か?」

 「美佐子です。俺たち結婚して島で暮らすことにしました」

 「初めまして美佐子です。どうぞよろしくお願いします」

 「八代、おめえも隅におけねえ奴だな?

 漁師としてはまだ半人前のくせに、そっちの方の段取りは出来てんだからよ。あはははは」

 「よかったじゃないかアンタ、またこの島に人が増えて」

 「そりゃそうだ」


 俺たちは嬉しそうに笑った。

 まるで自分の実家の父と母に、結婚の報告に訪れたような気分だった。


 「朝ごはんまだでしょう? 何もないけど食べて行きなよ」

 「ありがとうございます、それじゃ遠慮なく」


 俺と美佐子は徳次郎さん夫婦と家族のように食卓を囲った。




 徳次郎さんたちが美佐子の歓迎会を港町食堂で開いてくれた。



 「よしみんな! 乾杯するぞ!

 島へようこそ、美佐子ちゃん! あんたも今日から俺たちの仲間だ!

 困ったことや、分からないこと、それから八代に虐められたらいつでも俺たちに言え!

 俺たちが八代をしばくからな! あはははは

 それじゃあ、乾杯!」

 「かんぱーい!」



 美佐子はすぐに島のみんなと打ち解けた。



 「えらい美人じゃねえか? 八代、おめえもやるなあ!」


 島で一番仲のいい三郎が、ビール片手に俺と美佐子の傍にやって来た。

 三郎とは同じ歳だったこともあり、何かと島での俺の世話をしてくれていた。

 今の家も三郎の紹介だった。



 「サブちゃん、よろしくな?」

 「美佐子ちゃん、ウチのコウとも仲良くしてやってくれ。

 女房は中国人だ。困ったことや、わからないことがあればいつでも相談してくれ」

 「ありがとう三郎さん。よろしくお願いしますね?」


 美佐子は三郎のグラスにビールを注いだ。



 幸子ママと絵里も話に加わった。


 「こんにちは美佐子さん。ここの店主の幸子と絵里でーす。

 これで島の美人トリオが誕生ね?」


 そう言って幸子たちは笑った。


 「この島には何もないけど、このきれいな海と、この島の人たちの優しい人情があるわ。

 それだけは東京には負けない。

 ね、絵里?」

 「それだけは何処にも負けませんよ。

 私も結婚してこの島でずっと暮らすつもりです」

 「絵里、島の誰と結婚すんだよー!」


 酔った登が言った。


 「安心して、他から連れてくるから。

 島以外のイケメン君をね?」

 「おめえまで島の外からイケメンかよ? そのうち島はかわいい子供たちでいっぱいになっちまうなあ?」

 「そうだ美佐子さん、ウチのお店を手伝ってくれないかしら?

 絵里と私ではもう限界なのよ、よかったらどう? 時給は850円で安いけど、余った食材は持って帰っていいからさあ。現物支給。あはははは」

 「えーっ、いいんですか? 私も何かしなくっちゃって思っていたんです。

 是非雇って下さい」

 「幸子ママ、人使い荒いですよ」

 「こら絵里、余計なことは言わないの」


 みんなが大笑いをした。

 この島は俺たちにとってパラダイスだった。 



第9話

 美佐子は幸子の港町食堂で働き始めた。

 初日を終え、店では幸子と絵里、そして美佐子の三人の女子会が始まった。


 「初日だから疲れたでしょう? 徐々に慣れてくれたらいいからさあ、気楽にやってね?」

 「ありがとうございます。

 私、こんなお店で働くのが夢だったんです。お料理するのも好きだし。

 本当に素敵なお店ですね?」

 「私ね、飲食で人をしあわせにしたいの。

 だって美味しい物を食べて怒っている人なんかいないでしょう?

 そしてこの美しい空と海。私、この島が大好き」


 そう言って幸子はレモンサワーを美味しそうに飲んだ。

 絵里が美佐子に訊ねた。


 「美佐子さんはどこで八代さんと知り合ったんですか?」


 絵里はシーラの刺身をポン酢を付けて食べていた。

 シーラの刺身はワサビでは旨くはない。


 「同じ職場だったの。でもあまり話をしたことはなくてね。

 ある日、私がひとりで映画を観に行ったら、そこで彼とばったり。

 私、その時結婚していてね、旦那には他に女がいたの。 

 私は自棄やけになっていた。

 だからって誰でもよかったわけじゃないのよ、あの人の背中にグッときちゃったの。

 寂しい背中に」

 「背中に?」

 「そう、凄く寂しそうな背中だった。

 なんだか後ろから抱き締めてあげたくなるような悲しい背中。

 彼の銀行での仕事はね、「貸し剥がし」といって、不良債権になりそうな会社から資金を引き揚げて来ることだったの。

 その頃の彼は酷く荒れていたわ」

 「じゃあ不倫してたってこと?」

 「実はね」

 「でも美佐子さんなら許してあげる。

 だって美佐子さん、いい人だから」


 絵里が言った。


 「ありがとう絵里ちゃん。でも不倫はいけないことよ、正当化するつもりはないわ。

 そして私たちはいつの間にか自然消滅・・・」

 「でもこの島に八代さんを追いかけて来たんですよね?

 旦那さんは?」

 「夫とは離婚して銀行も辞めた。

 本気で彼を愛していたから」

 「すごい行動力ですね?」

 「賭けだった。だって彼、この島に来るなんて一言も言ってくれなかったのよ。

 それでもどうしても彼に会いたかった。

 色々考えたわ、電話番号変えられたり、着信拒否、あるいは私の電話に出てくれないんじゃないかとも考えた。

 そして会えても拒絶されたらどうしようとかね」

 「もし、そうだったらどうするつもりだったんですか?  

 だって島に着いてから八代さんに電話したんですよね?」

 「帰りのフェリーで海に身を投げて死のうと思った」

 「えっ、本当に!」

 「ウソよ」


 美佐子はそう言って絵里に笑って見せたが、幸子はそれがウソではないと感じていた。



 「私の旦那はね、元ヤクザなの。

 私が六本木のお店で働いていた時、知り合ったの。

 組長の命が狙われて、その犯人を殺して服役。

 模範囚でもあり、刑期が短くなったの。

 三か月後にここへ帰って来るわ」

 「凄い話ですね?

 早く会いたいですよね? 旦那さんに」

 「ここは狭い島だからね? あの人の為を思えば薄汚い東京で暮らす方がいいのかもしれないけどね?」


 幸子は自分自身に話し掛けるようにそう呟いた。


 「なんだか高倉健さんの『幸せの黄色いハンカチ』みたいな話ですね?

 飾るんですか? 黄色いハンカチ」

 「ハンカチじゃなくて、黄色いパンティにしようかなあ?」


 三人の美女たちは笑った。

 それがしあわせになるかどうかも分からずに。




 俺は学校から帰った幸子ママの息子、快と砂浜でサッカーに興じていた。

 

 「よしいいぞ快! 思いっきりオジサンにパスして来い!」


 煌めく海に抱き込む波音。快は自分の息子のようだった。


 「八代さーん、いくよー!」

 「思い切り蹴るんだぞ、思いっ切りな!」


 快がボールを蹴ると、海の中にボールが入ってしまった。


 「あーあ、ごめんなさーい!」

 「しょうがねえなあ」


 俺はシャツとズボンを脱ぎ捨て、パンツ一丁で海へ飛び込みサッカーボールを捕まえた。


 「快っつ! オマエも来いよー! 気持ちいいぞー!」

 「うん!」


 快もパンツになって海へ入って来た。

 俺は快の両腕を引きながら、快は嬉しそうに顔を上げ、バタ足をした。

 俺は娘の渚の幼い頃を思い出していた。

 プールで浮輪をした渚の手を、こうして引いたあの日の事を。



 俺たちはびしょ濡れのまま、港町食堂の裏口へと回った。


 「どうしたのあんたたち? ふたりともそんな恰好で!」

 

 幸子と美佐子は笑っていた。


 「なんか拭く物を貸してくれ」


 幸子がタオルをそれぞれに渡すと、俺は快の身体を拭いてやった。

 その光景を、幸子と美佐子は目を細めて見詰めていた。



第10話

 刑期を終えた幸子の亭主、銀次郎が島に帰って来る日がやって来た。

 フェリー埠頭には幸子と息子の快が銀次郎を迎えた。

 アコモデーション・ラダーを降りてくる乗船者の中に、かなりほっそりとした坊主頭の銀次郎の姿があった。



 「お帰りなさい、銀ちゃん・・・。

 快、この人がお父さんよ」


 幸子は銀次郎に縋って泣いた。

 快は戸惑っていた。


 「世話を掛ける」

 「何言ってんの、世話だなんて。

 銀ちゃんのこと、ずっと待っていたのよ」

 ほら、見て、黄色いハンカチがないから、黄色のワンピにしたの、どう? いいでしょう?」

 「似合っているよ」


 快はじっと銀次郎を上目遣いに見ていた。


 「快、大きくなったでしょ?」


 快は黙ったままだった。


 銀次郎は膝を屈め、快と目線を合わせたが何も言わなかった。

 銀次郎は快に触れようともしなかった。

 人を殺したこの手で、このけがれのない息子に触れることを躊躇ったのだ。


 「これからはこの島で静かに暮らしましょう。

 私たち親子三人、水入らずで」


 この日から幸子と銀次郎、そして快の三人の家族の生活が始まった。




 銀次郎が帰って来たという噂はすぐに島中に広まった。


 「幸子ママの亭主がムショから戻って来たらしいぞ」

 「よく7年で出て来れたよな?」

 「なんだかわかんねえけどよ、模範囚だったんじゃねえの?」

 「人殺しに模範囚もクソもあるかよ」

 

 銀次郎が帰って来たということで、港町食堂に来る島民は減ってしまった。



 「レバニラとビール!」

 「いらっしゃい徳さん!」


 徳次郎が店にやって来た。


 「なんだ? 今日は空いてんな? 俺の貸し切りじゃねえか?」

 「みんな今日はきっと忙しいのよ」

 「馬鹿野郎、この島に忙しいやつなんているかよ、暇なやつしかいねえよ、この島には。

 銀次郎、帰って来たんだってな? 良かったじゃねえか?」


 幸子は徳次郎の思い遣りに泣いた。

 

 「何、泣いてんだ? いいから早くニラレバとビール!」

 「ハイハイ ごめんなさいね、すぐに作るからね!」


 幸子は調理場へと消えた。



 


 仕事を終え、店から帰って来た美佐子が俺に言った。


 「幸子さんの旦那さん、戻って来たみたいよ」

 「そうか」


 それで俺も店に顔を出すことにした。




 「こんにちはー」

 「いらっしゃい八代さん、生でいい?」

 「ああ、あと唐揚げ。

 旦那さん、帰って来たんだって? これで快も寂しくないな? 良かったじゃねえか?」


 幸子は少し寂しそうな顔を見せた。


 「そう言ってくれるのは徳さんと八代さんだけ・・・」


 俺は幸子を気遣った。


 「最初はしょうがねえよ、俺もこの島に来た時はよそ者扱いで白い目で見られていたからな?

 そのうち分かってくれるよ、この島の人たちなら」

 「ありがとう、八代さん。

 でも覚悟はしていたから大丈夫、地道にやっていくつもりだから」

 「そうだな? ゆっくりやるしかない、焦らずに。

 旦那さんは?」

 「二階にいるわ、何処にも出ないで」

 「じゃあちょっと挨拶してくるよ、それまで唐揚げと生は待っていてくれ」

 「わかったわ」



 俺は仕事柄、ヤクザには慣れていた。

 ヤクザも色々だ。アホな奴、賢い奴、凶暴な奴、優しい奴・・・。

 奥の階段から二階へと上がって行った。

 

 「こんにちはー」


 銀次郎は本を読んでいた。

 銀次郎は本から顔を上げて俺を見たが、すぐに視線を本へと戻した。

 坊主頭がやや伸び始めた、眼光鋭い男だった。


 (これが人殺しの目なのか?)


 「いつも家内がお世話になっている八代です。

 銀次郎さんですよね? 今後ともよろしくお願いします」


 銀次郎からの返事はなかった。

 俺はそれだけ言うとそのまま下へと階段を降りて行った。



 「幸子ママ、それじゃ作ってくれ、生は唐揚げと一緒で」

 「はーい」


 


 アツアツの唐揚げとギンギンに冷えた生ビールが運ばれてきた。


 「お待ちどうさまー。旦那、どうだった?」

 「なんだか本を読んでたから、またそのうち飲みにでも誘うよ」

 「ごめんなさいね、ウチのひと、愛想がなくて」

 「作り笑いされるよりはマシだよ」

 

 俺は熱い唐揚げを注意しながら口に入れ、それを冷えたビールで追いかけた。

 

 「暗いでしょ? うちの旦那」

 「まあ、明るくはないな? でも俺と同じように、この島の海と空が笑顔にしてくれるよ。多少時間は掛かるだろうがな?」

 「ありがとう、八代さん」

 「俺も銀行員という背広を着たヤクザだったから同じだよ」

 

 そう言って俺と幸子は微笑んだ。


 「ママ、生、お替り」

 「ハイハイ」


 そんな銀次郎と打ち解けるには、少し時間がかかりそうだった。



第11話

 沖にはスコールを降らせている積乱雲が浮かんでいた。

 銀次郎が防波堤で独り、缶ビールを飲みながら釣りをしているのが見えた。

 俺は彼の隣に腰を降ろし、話し掛けた。


 「釣れるか?」


 銀次郎は敢えて私を無視しているようだった。

 波が防波堤を洗っている。

 カモメが数羽、海面を低く飛んでいた。

 銀次郎はクーラーボックスから缶ビールを取り出すと、私の隣にそっとそれを置いた。


 「ありがとう」


 俺は缶ビールを開け、喉を鳴らして飲んだ。

 海で飲む昼のビールは格別だった。

 俺はタバコを取出し、銀次郎にも勧めた。

 銀次郎はそれを受け取り口に咥えた。

 ライターで火を点けてやった。


 俺たちは何も言わずにタバコをふかし、缶ビールを飲んでただ水平線を眺めていた。

 穏やかな時間が流れていた。

 男同士の場合も恋人同士のように、無駄な会話は不要だ。

 すると銀次郎が俺にやっと話し掛けてくれた。

 


 「アンタ、東京で銀行員をしてたんだってな?

 ウチの奴が言ってたよ」

 「昔の話だ。俺はヤクザじゃなくて悪魔だったけどな?」

 「俺は人殺しのヤクザだよ」

 

 俺は話題を変えた。

 

 「俺、ここで漁師見習いをしてんだけどどうだ? 一緒にやらねえか? 漁師」

 「漁師かあ、俺にも出来るか?」

 「俺も親方に同じことを言ったよ」

 「そうか? 銀行員のお前に出来るなら簡単か?」

 「言ってくれるじゃねえか?」


 銀次郎が少しだけ笑った。

 その日から俺と銀次郎は一緒に漁に出るようになった。

 俺たちは不思議とウマが合った。



 「銀ちゃん! タモ、タモ! 早く早く!」

 「おう、まかせとけ!」


 お互いに新米漁師だから、徳さんに叱られてばかりだった。

 

 「おめえら、本当に兄弟みてえだな?

 抜けてるところも同じだぜ。あーっはっはっはっつ」


 そして俺と銀次郎は、徳さんと親子のように笑った。

 俺たちは家族だった。



 

 港町食堂にも客が戻り始めた。

 銀次郎と俺は毎日のように酒を飲んだ。



 「銀、たまには快と遊んでやれよ。お前、親父なんだから」


 銀次郎は何も言わず、塩辛を肴に酒を飲んでいた。


 「俺の代わりに八代が遊んでやってくれ、俺は人殺しだからな・・・」


 俺はこの時初めて、銀次郎の深い悲しみを見たような気がした。

 銀次郎は誰よりも快を愛していた。

 だからこそ、自分の息子に近づくことを避けていたのだった。


 「銀・・・」

 「今でも忘れられねえんだ、忘れることができねえ。

 今もその時の感触が、しっかりとこの手に纏わりついて離れねえんだ。

 そんな俺が快や女房、そしてお前にも触れることは出来ねえ。

 俺の手は血で汚れてんだよ」


 俺はそっと銀次郎の右手を握った。


 「止めろ!」


 銀次郎はすぐに俺の手を振り解いた。


 「銀、お前は好きで人をあやめたのか?

 俺がお前だったら俺も同じことをしたはずだ。

 銀次郎、もう過ぎたことだ。

 お前は十分償った。いつまでも過去を見るな。

 俺も人殺しなんだよ。

 金を貸した経営者を自殺に追い込んだ。

 さんざん言われたよ、その家族たちから。「人殺し!」とな。

 俺もお前と同じだ」

 「八代・・・」

 「どうせ俺たちは死んだら地獄行きだ。せめてこの世では楽しませてもらおうぜ」

 

 俺と銀次郎は盃を交換して飲んだ。

 俺たちは義兄弟の契を交わした。



第12話

 その男は#極めて__・__#普通の男だった。


 彼は観光客を装い、地味なサングラスに白いボルサリーノを被り、黒のシャツ、そしてクリーム色のチノパンとグレーのジャケットを羽織っていた。

 この常夏の島に、そのジャケットは不似合いだった。



 絵里が生ビールと刺身の盛り合わせをその男のテーブルに置いた。


 「お待ちどうさまでした。お客さん、この島には観光ですか?」

 「仕事ですよ、観光ではありません」

 「何のお仕事ですか? うーん、映画関係のお仕事とか?

 たまに来るんですよねー、ロケの下見とかに」

 「いい線いっていますよ、お嬢さん」


 その男は不適な笑みを浮かべて生ビールを飲んだ。


 「えー、凄いじゃないですかー?

 どんな映画ですか?」

 「つまらない復讐の映画だよ」

 「有名な俳優さんたちも来るんでしょう? 楽しみだなあ」

 「主役はすでにこの島に来ているはずだよ」

 「そうなんですか? ロケ、早く始まるといいなあ」

 「すぐに始まりますよ、すぐにね?」

 

 その時、その男の醸し出す独特の雰囲気に、絵里は背筋が凍った。





 その日は快晴だった。

 銀次郎と快、そして俺の3人は、島の小学校のグランドでサッカーをしていた。



 「よし快、俺のところに思いっきりシュートしてみろ!」


 銀次郎と息子の快は、少しづつだが会話も増えていき、銀次郎も次第に笑うようになっていた。


 少し照れながら、快が銀次郎がキーパーを務めるゴールにボールを蹴ろうとした。

 俺はそのボールを快から横取りしてドリブルを始めた。

 必死になって俺を追いかけてくる快。

 俺はドリブルを止めると、快からボールが奪われないようにボールを巧みに操った。


 「ほら快、こっちだこっち!」


 快はするりと俺をすり抜け、俺からボールを奪うとそのまま銀次郎のいるゴールへ走り、シュートを放った。

 ボールはゴールポストに当たり、はじき返された。


 「惜しいぞ、快!」

 「あー、もう少しだったのになあ」

 「だいぶ上手になったじゃないか? 快。

 あと少しでお父さんのゴールを破れたのになあ」

 「八代さん、もう一度やろうよ」

 「いいよ、何回でも付き合うぜ」


 俺は空高くボールを蹴り上げた。

 サッカーボールを追って、思い切り駆け出す快。

 快のその後ろ姿を見て、銀次郎も目を細めていた。





 俺と美佐子が海沿いを散歩していると、そこへ幸子がクルマで通り掛かった。


 「いいわねー、相変わらずいつもラブラブで」

 「今日は休みだろう? 銀次郎と釣りにでも行けばいいじゃないか?」

 「今夜は嵐になりそうだからってあの人、店の周りを修理したり補強したりしてくれているのよ」

 「幸子ママ、お買い物ですか?」

 「うん、明日の買い出し」

 「俺たちも手伝いに行くか?」

 「大丈夫、もう終わる頃だから」

 「そうか? 銀と快によろしくな?

 明日には嵐も止むだろうから、また飲みにお邪魔するよ」

 「うん、みんなで飲もうね? じゃあね」

 「気を付けて」


 そして幸子は言い忘れたかのように、クルマの中から言った。


 「あの人ね、昔、私が惚れた頃の旦那に戻って来たみたい。

 快もすっかり懐いているわ。八代さんのお陰よ、ありがとう」

 「俺は何もしてねえよ、銀が昔の銀ちゃんに戻ったのは、あんたがあいつを支えているからだ。

 よかったな? 家族団欒が戻って」

 「今度、快のお誕生日会をやるの、一緒に来てね?」

 「もちろん行くよ、プレゼントをかかえてな?」


 俺と美佐子はまるで自分の甥っ子のように快をかわいがっていたから、我が事のようにうれしかった。

 幸子はそのままクルマを走らせて行った。

 西の空が灰色の雲に覆われ始めていた。


 「俺たちもそろそろ戻るとしよう」

 「そうね? お洗濯物も取り込まないと」


 俺たちは家路を急いだ。

 



 酷い嵐の夜だった。

 台湾付近で発達した低気圧が島を襲った。

 銀次郎は嵐の中、店の周りを点検して回っていた。

 そんな土砂降りの雨の中、銀次郎は背後から声を掛けられた。


 「村上銀次郎だな?」

 「誰だお前は!」

 「悪いが死んでもらう」


 男はサイレンサーの付いたトカレフの引き金を3回弾いた。


 額に一発、そして心臓に二発。

 銀次郎は即死だった。


 男は冷静に右手の黒革手袋を口に咥えて外し、銀次郎の首の頸動脈に手を当て、絶命したことを確認すると、嵐の中を走り去って行った。



 中々戻って来ない銀次郎を心配して、幸子が外に出て銀次郎を探した。

 幸子は倒れている銀次郎を見つけ、持っていた傘を投げ捨て銀次郎に駆け寄った。


 「銀! 銀ちゃん! しっかりし・・・」


 銀次郎の頭と胸から、雨と一緒に血が流れていた。



 「いやあああああああ!」



 幸子の悲鳴が虚しく響いた。


 銀次郎が死んだ。



最終話

 警察の現場検証や事情聴取も終わり、銀次郎は荼毘だびに付された。

 

 銀次郎を殺害した犯人は、島中を捜索したが発見することは出来なかった。

 警察の話ではおそらく、予め用意していた漁船を使って島を出て、貨物船に乗り換え、国外逃亡を図ったのかもしれないということだった。




 火葬場で快は言った。


 「大きくなったらお父さんを殺した奴に復讐するんだ!」


 俺は快の小さな肩を抱いて言った。


 「快、お前の気持ちはわかる、大切なお父さんを殺されたんだからな?

 でもな快、憎しみからは憎しみしか生まれない。

 お父さんにはお父さんの事情があった。だからその相手を憎まず、忘れることだ。

 人はいずれ死ぬんだ。

 それは俺も同じだ。

 仮にお前がお父さんを殺した相手を殺しても、決してお父さんは喜びはしない。

 快、お前はこれからお父さんの代わりにお母さんを守ってやれ。それが天国に行ったお父さんの一番の願いだ」

 「八代さん、だってボク、お父さんを殺した奴が許せないよ・・・」


 快は小さな拳を握り締め、肩を震わせて泣いた。


 「快、今日から俺がお前の父親代わりだ。だから忘れろ、何も考えるな。自分の人生を決めるのは自分なんだ。

 いいか快、人生をどうするかは自分次第なんだ。

 楽しいと思えば人生は楽しいし、悲しいと思えば人生は悲しくなる。

 人は自分が考えた通りの人間になるんだ。

 人を憎んで人生を無駄にするな。

 今日からお前は俺の息子だ。

 どんなことがあっても俺はお前を守る。

 守ってみせる!」


 俺は快を強く抱き締めた。


 「今はわからなくてもいい、お前が大きくなって、俺がなぜそう言ったのか、必ずわかる時が来る、絶対にだ!

 快、お前はひとりじゃない、お母さんも俺も美佐子おばさんもいる。それに島の人たちも。

 だからお前がこれからこの家の小さなお父さんだ、わかるな? 快」


 快は泣きながら頷いた。




 喪服を着た幸子が、港町食堂のテラスの椅子に座り、タバコを燻らせていた。

 俺と美佐子が幸子の傍に寄り添った。

 美佐子は彼女に掛ける言葉も見つからず、ただ泣いていた。



 「これから家族水入らずって時になあ? 俺も、一番のダチを亡くしちまった」

 

 幸子はゆっくりとタバコの煙を吐くと、


 「私、この幸子って名前、嫌いよ。

 父親が付けたのよ、この名前。

 自分が不幸な生い立ちだったから、娘の私にはしあわせになってもらいたかったんですって。

 それなのに、苦しいことや辛い事ばかり。

 どこが「幸せな子」よ。

 やんなっちゃう・・・」

 「でもな? それでも生きなきゃならねえ、与えられた命が尽きるまで。

 銀次郎は覚悟していたんだと思う。それが任侠の世界だから。

 やられたら遣り返す、そしてまた復讐する。

 恨みの連鎖が続くんだ。 

 でも銀次郎はしあわせだったと俺は思う。

 幸子ママや快と会えたんだからな?

 銀ちゃんが俺によく言っていたよ、「俺は人を殺めた時に俺も死んだんだ」ってな?

 俺にはその気持ちがわかる。

 俺のせいで自殺した経営者もいたからな?

 幸子ママ、そう簡単に悲しみは癒えないかもしれないが、あんたには快という希望がまだ残っているじゃねえか?

 快と幸子ママが幸せに笑顔で生きていることが、銀次郎への一番の供養だと俺は思うぜ」


 幸子は俺と美佐子に縋って号泣した。



 こんな時でも海は波音を刻み、空は悲しいくらいに晴れ渡っていた。

 俺と美佐子はそれ以上何も言えず、夫を失った悲しみに沈む幸子をふたりで強く抱き締めて泣いた。


 俺の頭の中で、バリー・マニロウの『コパカバーナ』が鳴っていた。 


       

                                   『夕凪』 完



 【作者あとがき】


 本当はこれも長編なのですが、ダイジェスト版になっています。

 これもいつか上下巻で本にしたいものです。

 そして映画化したいと思っています。自分が脚本、監督。

 八代には中井貴一で銀次郎は佐藤浩市、美佐子は沢尻エリカで幸子は麻生久美子とかで。

 夢は広がるばかりです。

 最後までお読み下さり、ありがとうございました。


                           菊池昭仁




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【完結】夕凪(作品230822) 菊池昭仁 @landfall0810

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