sideB_灰色の狼
カランカラン――。
軽快なベルの音が店内の人々に来客を告げる。カウンター内のバーテンダーだけが、来訪者に目を向けた。全体的に丸みを帯びた壮年の男だった。
「待ち合わせだ。グランドスラムを2つ」
「かしこまりました。奥のテーブル席にお持ちします」
かなりアレンジの効いたショパンの幻想即興曲が流れている。男は半個室になっている奥のスペースへと向かった。一瞬だけ、ピアニストと視線が交差する。
芸術ほど人の本質を魅せるものはない。静かにゆったりと奏られているピアノだが、青白い炎のような激情が見え隠れする。歪んだ情熱は一向に消えないようだ。
カクテルが届けられてから間もなく、ピアノを弾いていた青年が男の席にやって来た。腰まである長い髪をマントのように揺らし、薄く色の入った丸メガネで目元を隠している。ネオンの街を歩けばホスト、裏路地を歩けばヤクザと思われそうだ。
「お久しぶり、刑事さん」
「……もう少し、その殺気を隠せ。繋いでしまいそうだ」
男は懐から手錠を覗かせる。青年はおっと目を見開いて、目尻を下げた。
「あぁ、ごめん。新しい情報が入ったって聞いたら……つい」
青年が色眼鏡を外すと、張り詰めた空気の糸が解けていく。役に入ってた、と申し訳なさそうに頭を掻いた。
「7年経っても天才は健在か……」
「俺は天才なんかじゃない。スキャンダルに消えた高校生俳優なんて、誰も覚えちゃいないさ」
「そんなもんか?」
「そんなもん。昔でさえ75日だったんだ。今の時代は、1週間でも長いくらいだよ」
刑事は眉を歪ませながら、カクテルを飲む。アルコールの苦味が、目の前の彼が子どもでないことを主張しているようだった。
「新たな情報は2つ。いい情報か、悪い情報か、それはお前が判断してくれ」
前置きして刑事は話を始める。薄く開いた目の奥で、ダークグレイの虹彩が覗いていた。獲物を捕捉したフクロウのように。
1つ目、容疑者Xの有力候補。
7年前にピタリと止んだ連続窃盗事件があった。偶然にしてはできすぎだと思ってな、似た手口の前科者を探したんだ。
名前は"鴇修一"。今は足を洗って小さな会社を経営しているらしい……が、仕事でもプライベートでも胡散臭い噂が絶えないやつだった。
「この名前に聞き覚えは?」
差し出された証明写真を見た青年は、顎先に手を添えて記憶の箱を漁る。人を見下しているような三白眼、緩く上がった口の端、整えられているのに左右で角度の違う困り眉。写真の男は人間以外が相手だと、本性を隠すのが下手なようだ。
「ない……けど、こいつは黒いね。目的のためなら手段を選ばない奴だよ」
「お前が言うなら確かだな。徹底的に調べよう」
青年は残り少なくなったカクテルを舐めるように味わう。五感のどこかを動かさないと、理性を失いそうだった。
2つ目は、奇妙なサイト。
『ウミガメのスープ事件簿』という、実際の事件を推理したり考察したりするタイプのサイトだな。水平思考クイズの形式で運営されている。
質問を投稿すると、ゲームマスターであるサイト主が“Yes”か“No”で答えてくれるらしい。
さて、私の言いたい事はわかるか?
「何故、サイト主は真相を知っているのか?」
「そう。実際の事件が解決する前にサイトで答えが出ていたり、警察しか知りえないような情報も絡んでいる。奇妙だろ?」
「サイト主は警察の関係者か、よっぽどの推理力を持った人物」
名探偵なんているわけないのに。
青年は音にせず、口の動きだけで言った。言霊を恐れたのだ。なんとなく。
「7年前の……姉貴の事件もあるんだよね?」
「あぁ、これだな」
『八重樫議員秘書強盗殺人事件』と書かれたページ。スマホの小さな画面を2人で覗き込んだ。サイト内でもまだ未解決のようで、推理するための質問が飛び交っている。当事者である青年ですら“Yes・No”の判別ができない問いもあるのに、サイト主は澱みなく答えていた。
「画面の向こうに神がいるって言われても信じそう……」
「まぁ、気持ちは分かる」
「調べてみるよ。サイトの推理も手掛かりになりそうだし」
犯人に辿り着けるなら、俺はどんなものでも利用する。
ふと、刑事は青年と初めて会った時のセリフを思い出した。迫る復讐鬼の影。どっちもいい情報だよ、と笑う彼はまだ呑まれていないはずだ。
「道だけは踏み外すなよ、狼牙」
「嗚呼……気をつけるよ、叔父さん」
その帰り道、狼牙は雨の中で血の匂いを嗅いだ。
「皮肉なものだね……」
声も笑顔も思い出せないくせに、赤く染まった最後の姿だけははっきりと覚えているのだから。雨音と鮮血のフラッシュバック。
過去の自分を追うように、匂いの元へと駆けた。着いた先は路地の奥。若い男が脇腹を押さえて崩れ落ちていた。ネオンを反射した刃物がキラリと光る。
呼吸は浅く、必死に意識を繋ぎとめ、かろうじて生きているような状態だった。狼牙は傘で雨を遮り、耳元で尋ねた。
「生きてるの?」
――まだ、生きてる。
「生きたい?」
――生きたい。
「俺があなたを助けたら、あなたは俺を助けてくれる?」
――嗚呼……もちろん。
死にかけだというのに爛々と光る漆黒の瞳、警戒を標準装備しているようなオーラ。俳優時代に培われた勘が、こいつは只者でないと叫んでいた。
*** *** ***
7年前、敬愛していた人を失い、俺の時間が止まった。進めるためには狩るしかない。黒い羊を食い殺す。
俺はもうスポットライトの下に立つことはない。闇に落ちる覚悟はとうにできた。
今はただ……白と黒の間でこの身が染まるのを待っている。
群れを追い出された灰色の孤独な狼は、雨の夜、望みを剥き出しにした同じ色の羊を拾ったのだ。
羊と狼のスープ 紅野かすみ🫖💚 @forte1126
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