羊と狼のスープ

紅野かすみ🫖💚

鴇狩りとミネストローネ

プロローグ

side A_灰色の羊

 青年にとって運命は呪いで、神は邪神だけだった。

 それでも信じていたのは、ほんの僅かでも希望を期待していたからかもしれない。

「それでも僕は救われないんだ。最低で最悪のまま人生を終えるんだ」

 夏の終わり、秋の初め。夜の雨は冷たく、動けない彼の体温を奪っていく。ドクドクと流れ続ける血と、ナイフが刺さったままの脇腹だけが熱を持っていた。

 

 つい10分ほど前だ。

 青年に依頼をしてきた人物は、街の中心部にある建物を待ち合わせに指定した。隠れ家のような喫茶店でも、会員制のバーでもない。いつ崩れ出してもおかしくないような廃ビルだった。

 人目を気にしなくて良いという点ではポイントが高い。

 依頼人は、得意先のジジイから紹介された中年の男。肩書はベンチャー企業の社長となっていたが、どうせ黒いことをしているだろう。同族の匂いがしたから、詐欺事業の相談事かもしれない。

 いずれにせよ……なぜか、依頼内容は会って話すの一点張りだった。ジジイも本意ではないという顔で連絡してきたし、関わりは最小限に浅く済ませた方が良さそうだ。

 彼は煙を吐き出しながら考える。仕事前にミントの香りを身体に含んで吐き出すのは、スイッチを入れるための儀式だ。爽やかな風味と共に思考がクリアになっていく。

「なんだろーな……変な感じが消えねぇ」

 視界にモヤがかかっているような、誰かの手のひらで転がされているような感覚が残る。曇天の空を見上げて、青年は頭を振った。

 考えすぎか。憂鬱に引きずられて過去を思い出してしまったのだ、きっと。

 割れたガラス窓に映る自分と目を合わせる。相手の記憶に残りすぎないように、かといって意志の弱い印象を与えないように……創意工夫を凝らした顔は少々固い。じっと浮かぶ表情を読み取った。

「僕は、怯えているのか」

 

 どうやら、建物の前で感じたものは間違っていなかったらしい。

 血が抜けていく身体は、いよいよ立つことも困難となった。崩れ落ちるように壁に凭れる。

「一緒にアイツ祟ってやろーぜ、おっさん」

 青年は意識を繋ぎ止めるために思考を続ける。

 待ち合わせのフロア。4階。ぺトリコールに紛れて、錆びた鉄の匂いを嗅いだ気がした。

 半開きになった扉の奥で、1人の男が仰向けに倒れている。取引するはずの相手だった。一目瞭然。心臓から血を出して生きている人間なんているわけない。男は死んでいた。

 首元に触れて感じた僅かな温もり。

 その意味に気づいた時にはもう遅かった。人の気配に振り返った瞬間、左の脇腹に激痛が走る。小さなナイフの柄が見えた。これ以上深く刺されないように、拗って肉を抉られないように、青年は素早く身を引いて逃走する。薄闇の中で、犯人がしかと笑ったのを聞き逃さなかった。


「顔さえ見ていれば……」

 知り合いか、赤の他人か、それだけでも刺された理由は大きく変わる。怨恨か、快楽か。組織の刺客か、その場限りの口封じか。

 ふと、死んでいた男の顔が脳内に浮かんだ。彼が死ぬ直前に見たもの。刺された瞬間に見たもの。それによって、あの表情は作り出された。

「驚愕、予想もしていなかった出来事。恐怖、犯人か死そのものに対する情」

 自分に凶器を向けられるとは思っていなかったのだろう。顔見知りによる犯行の可能性。

 居場所を僕以外の人物が知るとは思っていなかったのか。異分子が現れた可能性。

「いずれにせよ……"鴇修一"から調べるべき、だな」

 雨の音が消える。視界も霞んできた。四肢の力どころか、感覚がなくなっていく絶望。

 は、はは……ははは。

 笑いが溢れる。かろうじて声は出せるらしい。


 炎が見えた。真正面には哀愁の笑みを浮かべた少年がいる。走馬灯だと瞬時に理解した。

 「ハッピーバースデー、これで君は自由だ」

 人の記憶は声や顔から消えていくというのに、彼の囁きと表情は鮮明に覚えている。きっと、一生忘れないだろう。もはや呪いだ。あいつに定められた運命。

 途端に抗いたくなった。

 28年間のメモリーレコードに碌なものがなかったからかもしれない。他人に決められた運命が癪に障ったのかもしれない。

 

 まだ死にたくない。


 音のない叫びだった。

 自分のことも、あの人のことも、あいつのことも、何も知らないままなんて……嫌だ。

 暗い夜、寒い雨、入り組んだ路地。幸にも不幸にも人の目はない。

 耳元で声が聞こえる。12年前と同じだ。誰かが囁いてきた。あの日とは真逆で、今はとても寒いのに。

 

 ――生きてるの?

「まだ、生きてる」

 ――生きたい?

「生きたい」

 ――俺があなたを助けたら、あなたは俺を助けてくれる?

「嗚呼……もちろん」

 

 焦げた砂糖のように濁った瞳、大通りから漏れたネオンの明かりで色付く金髪。死神とも天使ともつかない顔が目の前にあった。



 *** *** ***


 

 16歳の誕生日、僕に残されたのは、空の右手が証明する孤独と左腕の爛れた肉、そして燃え盛る赤色への異常な恐怖だけだ。

 僕は影に隠れることも、光を浴びることもできない。

 ただ……黒と白の間を探して彷徨うだけ。


 群れることもできない灰色の迷える羊は、雨の夜、ひどく濁った同じ色の狼に出会ったのだ。

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