【完結】恋愛方程式(作品231118)

菊池昭仁

恋愛方程式

第1話

 毎年、東大に数十人の生徒を輩出しているこの有名公立高校に於ける教師の役割は、名門進学校としてのブランドを維持することだ。

 厳密には「維持」ではなく、「傷を付けないこと」と言えるかもしれない。


 そして今、私の数学の授業を真面目に受けていている生徒は、長野紘一と大島由佳のふたりだけだった。

 他の生徒たちは別の教科の受験勉強をしたり、イヤホンを付けて予備校のオンライン授業を見ている者、大学レベルの学術書を読んでいる者や小説を読んでいる者など、様々だった。

 そして三割の生徒は机に伏して堂々と眠っている。

 もっとも、この生徒たちからすれば、高校で教える微積分などは、参考書を1冊読めば大体理解してしまう。

 校内テストをすれば殆ど90点以上はザラだ。


 あのドラマで武田鉄矢が訴えたように、私は腐ったミカンや機械を作っているのだろうか?



 終業のチャイムが鳴った。


 「それでは今度の期末試験の範囲は、教科書113ページから135ページとします。以上」

 「起立! 礼。ありがとうございました」


 何が「ありがとうございました」だ? 私の授業など何も聴いてはいなかったくせに。

 確かにこの子たちは学力的には優れているかもしれない。偏差値で測るならばだ。

 しかし、この精神の未発達な生徒たちがやがて医者や弁護士、官僚や政治家になっていくのかと思うと、暗澹たる思いがした。

 始まったばかりの競争の中で、彼らはすでに他人を蹴落とす#術__すべ__#を学んでしまっている。

 私たち教育者としての使命とは一体何だろう?

 この子供たちに知識を詰め込み、受験戦争に勝たせるだけなら、優秀な講師陣を擁する予備校にでも丸投げすればよいではないか?

 大人と子供の狭間にあるこの時期にこそ、生徒たちの心に火を灯すべきなのではないのか?


 そんなことを考えながら廊下を歩いていると、絵具で汚れたスモックを着て、美術室から水島優子先生が出て来た。

 

 「#東野__とうの__#先生、一体どうしたんですか? 世界の不幸を自分ひとりで背負っているような顔して?」

 「いいですね? 水島先生は。いつも楽しそうで」

 「楽しくなんかないですよ、ただ自分で楽しくしているだけです。

 他人に楽しくしてもらおうなんて、虫が良すぎますよ? あはははは

 好きな絵が描けて、生徒たちに美術の楽しさを伝える。

 こんな素敵な仕事はありません。

 そう思わないと美術教師なんて務まりませんよ、東野先生!」


 水島先生は少女のように笑った。

 彼女は私より2つ歳上の30才、「ゆうこりん」の愛称で生徒や教職員からも慕われていた。

 笑顔がチャーミングな、ちょっと女優の波留に似た美人だった。

 美大を出てパリにも留学経験があるらしい。

 ただ残念なことに、彼女は人妻だった。



 私たちが職員室へ戻りながら話していると、女子生徒たちから冷やかされた。


 「何だか東野先生とゆうこりん、すごくお似合いなんですけど~、先生たち、不倫してんの?」

 「エロい! やっちまったなあ。あはははは」

 「バカね? あんたたち。こんなイケメン先生にはもっと美人な彼女さんがいるのよ」

 「だよねー? 東野先生、イケメンだもんね? 授業はつまんないけど。アハハハハ」


 それだけ言うと彼女たちは離れて行った。

 

 「僕の授業なんて誰も聴いていませんよ。

 もっとも学校で教える数学なんて、彼らには物足りないようですが」


 私はそう言って溜息を漏らした。


 「たとえ誰も聴いていなくても、一生懸命に自分の想いを生徒たちに伝えようとすればいいんじゃない?

 だって私たちの仕事って「辻説法」のようなものでしょう?

 100人に1人、いえ1,000人に1人でもいい、そのたった一人の生徒に自分の教育者としての想いが、理想が伝わればそれでいいんじゃないのかなあ?

 先生はすべての生徒にそれを伝えよう、わからせようとしているんじゃないの?」

 「たったひとりでもいいんでしょうか?」

 「凄いじゃない? 一人でもそんな生徒がいれば。

 ひとりでも自分の想いを理解してくれる生徒がいたら、それで私たち教師の役目は果たせたんじゃないかしら?

 その子の未来を変えるんですよ? 凄いじゃないですか?

 教師って、白いカンバスに絵を描くのと同じだと思うんですよ。

 夢のある、しあわせな人生の絵を」


 私は教師としての理想を真剣に語る、この美しい油絵具の香るゆうこりんに#眩暈__めまい__#がしそうだった。

 いつの間にか笑顔になっている自分がいた。


 「そうですよね? 私はあまりにも自分の理想に拘りすぎていたのかもしれません」

 「あまり深刻にならず、もっと楽しみましょうよ、教員生活を」


 

 ゆうこりんと話したことで、私は少し気分が軽くなった。




第2話

 学校から帰ると、私のベッドで明美が寝ていた。

 パリからのフライト帰りらしい。

 明美は大学時代の同級生で、エアラインのキャビンアテンダントになって6年になる。

 CAというと優雅なイメージがあるが、実際の業務はかなりキツイようで、


 「CAなんて英語が話せる土日の大忙しのファミレスのウエイトレスと同じよ。

 お尻も触られるしクレームの嵐。もう最悪。

 殆ど立ちっぱなしで足も浮腫し太くなるし。

 それに昔と違って待遇もかなり落ちてるしね? 今では憧れの「花形職業」ではなくなったわ」

 「だったら辞めればいいじゃないか?」

 「でもね~、パリやロンドン、ロスにニューヨークはかなり魅力なのよね~。

 それにCAって世間体もいいじゃない?」


 だが、明美はいつも肝心なことは言わない。

 CAは男にモテるということを。

 明美が頻繁に合コンにもちゃっかり参加しているのを私は知っている。

 明美は学生の時からそうだった。いつも誰かに見られていたい、「綺麗だ」と言われていたい女だった。

 大学のミスコンでは3位だったこともある。表彰式では笑っていた彼女だったが、帰って来ると荒れた。


 「香菜がグランプリでどうして私が三位なワケ?

 せめて準グランプリでしょう! 三位なんてダサ!」


 彼女が親と同じように教員にならなかったのも、男にちやほやされたいからだった。

 それに教員である両親を見て育った明美は、それがいかに割に合わない仕事なのかもよくわかっていたからだ。

 そんな小悪魔的な彼女だが、私を惹きつけるだけの魅力は十分に兼ね備えていた。

 私は明け透けな明美を可愛いい女だと思っていた。

 

 「ううーん、お帰りー、今日パリから戻ったの、疲れた~」

 「お疲れ様、もう少し寝るといいよ。起きたら食事に出掛けよう」

 「ねえ、こっちに来て」


 私がベッドに行くと私の首に腕を回し、明美がキスをした。


 「ただいま」

 「お帰り」

 「相変わらずいい男ね? 惚れ惚れしちゃう」

 「明美もキレイだよ」

 「当たり前でしょー、国際線キャビンアテンダント、会社のカレンダーにもなった北野明美様だぞ。うふっ」

 「そんなアイドルが、このように狭いマンションへようこそ」

 「苦しゅうない、良きにはからえ」

 「ハハハ、じゃあおやすみ、着替えて来る」

 「ねえ、しよ」

 「フライトで時差ボケ、そして疲れているんだろう?」

 「大丈夫、もう結構寝たから。

 睡眠欲が満たされたらあとは食欲と、性欲でしょ?

 フライト終わりと生理前だから、かなりヤバイの。

 ねえ、いいでしょ?」


 それはいつものフライト後のルーティーンでもあった。




 彼女の性欲が満たされると、今度は食欲だった。

 私たちはいつものように歩いて行ける、近所の焼肉屋へやって来た。


 明美のいいところは食べ物に好き嫌いがないことだった。

 なんでも美味しそうによく食べ、よく飲んだ。


 

 「帰りのフライトはシップがかなり揺れてね? 機内が少しざわついたの。

 それはそうよね? 350トンもあるあんな大きな機体が空を飛ぶんだもん。

 慣れているとはいえ、今日はちょっと私も怖かった」


 そう言いながらカルビを食べ、ビールを飲む明美。


 「いつまで続けるの? CA?」

 「誰かさんが私をお嫁さんにしてくれるまで、かな?」


 芸能人を見ていると思うことがある。


 「前に付き合っていた彼とは浮気されて別れました」


 こんな美しい女優と付き合いながら浮気? テレビだからどうせ台本があるのだろうが、こんな女優に振られることはあっても、振ることはないのではないだろうか?

 つまり、人が愛し合うことはすでに神様が決めているということではないだろうか?

 誰が見てもお似合いのカップルでも結ばれるとは限らない。

 私もこんな美しいCAを目の前にして、モーションを掛けられても即答出来ない自分がいた。


 「結婚しよう」


 そのの一言が、何故か言えなかった。

 こんなにいい女が私と結婚したいと言ってくれているのに。

 

 「生、お替りする?」

 「もちろん!」


 明美はその時、少し寂しそうな表情をした。




第3話

 明美のマンションまで彼女を送って来た。


 「今日もごちそうさま。これからお掃除しなくっちゃ。

 洗濯物も溜まってるし。家、寄ってく?」

 「今日は遠慮しておくよ、明美も忙しいようだし」

 「明日はお休みなんだけど、ちょっと実家におみやげを持って行こうと思って・・・」


 明美の嘘はいつも分かり易い。私の目を見ずに話すからだ。

 明日はおそらく、CA仲間と若き剛腕実業家たちとの合コンだろう?

 だが、私はそれを咎めることはしない。

 愛していないから? いやそうじゃない、彼女を信じているからだ。

 明美は男にちやほやされたいが、それ以上の関係を望む女ではない。

 ドキドキ感が欲しいだけなのだ。

 外見は派手に見えるが、誰よりも寂しがり屋だということを私がいちばん良く理解している。

 明美は常にアイドルでいたい女なのだ。


 だがそう思う一方で、自分のようなしがない高校教師と付き合うよりも、ITベンチャーの社長などと付き合った方が明美にとってしあわせではないかとも思うこともある。



 「明後日はスタンバイ(待機)で土曜日は成田。日、月はロスを往復して火曜日には成田だから夜はウチにおいでよ。何か作ってあげるから。

 来月のスケジュールは祐一のカレンダーに書いておいたから、帰ったら確認しておいてね?

 それじゃあ、おやすみなさーい」


 明美は背伸びをして私にキスをした。

 マンションのエントランス・ホールということもあり、それは短いキスだった。


 「おやすみ、明美」

 「おやすみなさい。祐一」





 明美を送った帰り、夜の電車の車窓に映る自分に問いかけてみた。


 (そろそろ結論を出す時ではないのか?

 これ以上、明美とダラダラと付き合うのは罪だ)


 なぜ私が明美との結婚に踏み切れないのか? その理由は分かっている。

 それは明美があまりにも美し過ぎるからだった。

 大学を卒業して航空会社に就職した明美は世界中を飛び回り、どんどん美しくなっていく明美と、方や高校の数学教師の自分では、彼女を輝かせ続けていく自信がなかったのだ。

 明美は一輪でも美しく咲く、大輪のインペリアル・ローズだから。






 翌日もいつものように学校へ出勤し、また誰も聴かない授業をした。

 美術室の前を通り掛かった時、3年B組の大野由紀子がイーゼルに向かい、その絵を指導しているゆうこりんがいた。



 「もう少し青のトーンを強くしてみたらどう?」

 「なんだかドキドキします」

 「でもさあ、それでこの大野さんの自画像の存在感がグッと増すと先生は思うんだけどなあ」

 「わかりました。ゆうこりん先生、やってみます」

 

 彼女は青と黒の絵具をパレットに溶いて絵に筆を入れた。

 

 「うん、いいと思う」

 「ホントだ! 断然強い印象になった!」


 鮮烈なまでに彼女の絵に神秘性が高まった。

 それはまるで、フェルメールの絵のラピスラズリのように。


 「すごい! 先生、すごいよ!」


 大野は興奮気味に言った。


 「いいわ! とてもいいわ大野さん!

 あなたは天才よ!」

 「照れちゃうよ、ゆうこりん。そんな天才だなんて本当のことを言われちゃうと。あはははは」

 「ううん、あなたは本当に天才よ!

 ご両親はやっぱり美大進学には反対なの?」

 「ウチの親は美術に理解がないから仕方ないんです。

 しょうがないよ、一人娘だし、親の病院を継ぐしかないもん」

 「そうかあ、やはり医学部かあ?」

 「ごめんね先生、心配してくれて」

 「ううん、でも絵は続けてね? そして先生にも見せて頂戴、大野さんの作品を」

 「えーっつ、卒業してからもですか?」

 「当たり前でしょう! 私とあなたがヨボヨボのお婆さんになってもね?」

 「いやだなあ、お婆さんだなんて。でも凄くうれしいです!」

 「もちろん先生も一生描き続けるわよ!」

 「じゃあライバルだね?」

 「そうよ、私と大野さんはライバルよ」

 「アハハハハ」

 「あはははは」

 

 (これが教師という仕事の素晴らしさなのか?)


 私が呆然として美術室を覗いていると、ゆうこりんが私に気付き、ドアを開けた。


 「東野先生、東野先生!

 見て見て! 大野さんのポートレイト!

 彼女、天才でしょう!」

 「凄いですね? このブルーが大野自身をよりミステリアスに表現しているようだね?」

 「東野先生って数学にしか興味がないと思ってたけど、絵も分かるんだ?

 ゆうこりん先生のアドバイスなんだよ、この青を添えるアイデアは」

 「ルーブルに飾らないといけないな?」

 

 大野は笑ったがゆうこりんは笑わなかった。

 

 「ルーブルよりメトロポリタンの方がいいんじゃないかしら?」


 そう言って華奢な顎に手を添える彼女は、まるでルノワールの絵画のようだった。




第4話

 「起立、礼、お願いします」

 「出席を取ります、阿部」

 「はい」

 「井上」

 「ハーイ」

 「大賀・・・」


 面倒臭そうに返事をする生徒たち。

 出席を取り終えると、早速彼らたちの「内職」が始まった。

 私は黒板に白チョークで大書した。



        How to Live?


 

 すると、それに気付いた数人の生徒が、私の次の言葉を待った。

 


 「みんな、ちょっとでいい、少し先生の話を聞いて下さい」


 今度はクラスの半分以上の生徒が私に注目した。


 「みんなは何のためにいい大学に行きたいのかな?」


 私は教壇から生徒たちをゆっくりと見渡して質問した。



 「そりゃあ、いい大学に入っていい会社に入って、キレイな嫁さんを貰って金持ちになっていい暮らしをするために決まってんだろう?」

 「貧乏な生活はしたくありません」

 「俺は東大法学部を首席で卒業して財務官僚になって政治家になる。

 そしてこの日本を変えるんだ」

 「よっ 井上総理!」


 クラスに笑い声と拍手が響いた。


 「私は医者になって病気で苦しんでいる人たちを助けたい」


 様々な意見が出て、数人を残してみんなが議論に参加して来た。



 「そもそも俺たちはいい大学に入るためにこの学校を受験したんだ。人生の「勝ち組」になるために、勝利者になるために!」

 「そうよ、自分の志望する大学に入れなければ勉強なんてする意味がないわ」

 

 私は静かに話を始めた。


 「先生は数学の研究者になりたかった。

 数学はね、哲学であり宗教であり、そして芸術、美学でもある。

 そして数学には無限の宇宙が広がっているんだ。

 高校の時、初めて『フェルマーの最終定理』に出会った。

 私はそれを証明してみたいと思った。

 東大は落ちたけど早稲田に入り、大学院で数学の研究をした。

 専門は統計学だったが、その後『フェルマーの最終定理』は1995年にアンドリュー・ワイルズによってフェルマーの死後、330年を経て完全に証明された。



       X^n + Y^n = Z^n



 3以上の自然数は定数Xのn乗と定数Yのn乗の合計は、定数Zのn乗になるという、極めてシンプルな数式だ。

 先生はこの数式に魅了され、数学者への道を選んだ。

 この数式はとても美しい、そう思わないか?

 金持ちになることは悪い事じゃない、医者や政治家になることも同じだ。

 問題はその後なんだ。何のために金持ちになり、何のために医者になり、何のために政治家になるかということを、絶えず自問自答しながら君たちには生きて欲しいと思うんだ。

 確かに君たちは優秀だ。私の教える高校数学などは参考書を読めば理解出来るだろう。

 すると私の数学教師としての役割がなくなってしまう。私は給料以上の仕事がしたい」

 「お値段以上のニトリかよ、先生!」


 教室がドッと湧いた。


 「そこで先生は今日から大学レベルの授業をすることにしようと思う。

 少しでも君たちに数学の奥深さ、美しさを知ってもらうために。

 では今日の授業のプリントを配ります。

 受験に役立つかどうかはわかりませんが、知りたいとは思いませんか? 数学の神秘を。

 人類に火が与えられ、言葉が与えられ、文字が与えられた。

 この世に人類が発明した物は何ひとつない。

 すべては天からのひらめきなのです。

 そしてそれを支えたのが数です。

 これからそれを紐解いていきましょう。美としての数学の世界を」



 私は授業を始めた。

 数名を残し、みんな私の講義に目を輝かせていた。

 彼らは思っていたんだ、大学受験の数学がいかにつまらない物かを。




 その話を教室の廊下で水島優子が聞いていた。

 彼女はうれしそうに笑っていた。


 「やるじゃない、東野先生」


 学校の廊下から見える、中庭の泰山木に白い花が美しく咲いていた。




第5話

 「東野先生、ゆうこりん先生。今度の金曜日、みんなで飲みに行きませんか?

 日頃のストレス解消のために」


 古典の五十嵐先生に飲み会に誘われた。


 「たまには息抜きしないとね? いいでしょ? 優子」


 音楽の田村恵子先生がゆうこりんに言った。

 彼女たちは仲が良く、お互いをファーストネームで呼び合う、家族ぐるみの付き合をしていた。


 「もちろん行くわよ! そう言えば最近、飲みに出掛けてないもんね?」

 「カラオケしようよ、JUJUとか西野カナとかさ」

 「また朝までコース? 喉が枯れちゃいそう。

 東野先生も行くでしょう?」


 明美は今度の金曜日は待機で土曜日も成田、日曜日からはロサンジェルスへのフライトだと言っていた。


 「いいですよ」

 「よし、じゃあ金曜日、この7人でいつもの居酒屋、『会津娘』に集合ということで」

 「はーい!」


 私は正直、嬉しかった。

 ゆうこりんと酒を飲みながら話せるからだ。

 金曜日の夜が待ち遠しかった。




 当日、授業を終えて職員室に戻ると、田村先生とゆうこりんが私を待っていてくれた。


 「東野先生も一緒に行こうよ、 『会津娘』に」

 「他の先生方は?」

 「一時間ほど遅れるから先に行って飲んでいてだって」

 「そうですか?」

 

 私たち3人は居酒屋へと向かった。



 田村先生とゆうこりんは歳も近く、まるで大学の親友といった感じだった。


 「ねえねえ、昨日の唐沢寿明のドラマ見た?」

 「見た見た! もうティッシュが無くなる無くなる、涙が枯れちゃうくらい号泣しちゃったわよ」

 「私もハンカチを握りしめて見てたわよ。良かったなあー、唐沢」

 「次回が楽しみよね?」

 「ああ、早く木曜日にならないかなあ」



 私たちの飲み会は、いつも『会津娘』からスタートして、2次会はスナック『ルパン』が定番のコースだった。


 「すみませーん! とりあえず生3つくださーい!」

 「みなさん、すぐにお揃いになりますか?」

 「ううん、まだ掛かるみたい。先にやっててって。

 だからもう始めてもらっていいわよ」

 「かしこまりー! 生ビール300杯! いただきましたあ!」

 「店長、いっつもあっりがとね~!」

 「好きよ、そのノリ」

 「あざーす!」


 私たちは3人で乾杯をし、飲み始めた。


 「東野君、ところで結婚は?」


 田村先生のいつものお決まりが始まった。

 それは落語の枕のようなもので、若い教師を肴に話を広げてゆくのだ。

 そして私たち教師は飲み会では「先生」を付けないで呼び合う。どこで誰が見たり聞いたりしているかわからないからだ。


 「さあ、いつになるんでしょうねえ?」

 「CAさんだったわよね? 早くしないと盗られちゃうわよ~、ヒルズ族に。

 何しろ男性の憧れだもんね~、スッチーは?

 うちの旦那なんてCAさんモノのAV、大事に隠してるのよ、キモイったらありゃしない。

 生徒の前では偉そうにしているくせに。バッカみたい! あはははは」

 「CAさんって大変よね? 私たちは土日は休みだけど、CAさんはシフトもバラバラなんでしょう?」

 「今日はスタンバイといって、クルーの欠員やアクシデントに備えて待機しているようです」

 「結婚したらCAは辞めるの?」

 「どうでしょうか? ただ、専業主婦という選択肢は無いようです。彼女の性格からして」

 「早く結婚しちゃいなさいよ~」

 「でも東野君はまだギリ20代だもんね? いいんじゃない? 男の人はゆっくりでも」

 「ダメよー、ゆうこりん。相手はCAさんよ、そんな悠長なこと言っていたらすぐにさらわれちゃうわよ」

 「大丈夫よ、東野君はやさしいし、それに彼女さんも今は仕事が楽しいんじゃないかしら?

 世界中を飛び回って。

 いいなあ、私もまた、パリで絵の勉強をやり直したいなあ」

 「彼女さんって大学の同級生なんだよね? だったら出産とかを考えると今がいいんじゃない? 今でしょ!」

 「でも仮にその彼女さんと別れることになったとしても、それはそれで縁がなかったってことじゃないかしら?」


 いつも明るいゆうこりんは、今まで見せたことのないような哀しい顔をしていた。

 その時、残りのメンバーが合流してきた。


 「遅いぞー、コラー、幹事長!」

 「ごめんごめん、部活を持っているとどうしても遅くなっちゃってね?

 県大会、いつも初戦敗退なのにね? アハハハハ」


 私はようやく田村先生から解放された。




第6話

 「東野君、この前の授業、凄くカッコ良かったわよ」

 「聞いていたんですか? 偉そうにすみませんでした」

 「ごめんなさいね? こっそり廊下で聞いていたの。「何のためにそれをするのか?」って人生で大切なことよね?」

 「何のためにそれをやるのか? 私も思い悩むことはあります」

 「それは私も同じよ。何のためにそれをしているのか? わからなくなる時ってたくさんあるもの」

 「ゆうこりんでもそんなこと、あるんですか?」

 「あるに決まってるじゃないの。

 というより、「何のために」なんて考えもせずに生きて来たわ」

 「私はよくわからないんです。何のために結婚をするのかが?」

 「だったらしなくてもいいんじゃない? そんな気持ちのまま結婚したら、彼女さんがかわいそうだもの」

 

 ゆうこりんは酷く哀しそうな顔をして、カシオレを飲んだ。


 「僕もゆうこりんのような円満な夫婦になりたいです」

 「円満な夫婦? ウチが?」

 「だって毎日、ゆうこりんは楽しそうだから」

 「東野君は私たち夫婦のことなんて何も知らないくせに・・・」

 「ごめんなさい」


 (ゆうこりんの夫婦はうまくいっていないのか?)


 「私、何のためにこの人と結婚したんだろうって東野君の授業を聞いて、考えちゃった。

 結婚する前、すごく好きな人がいてね? その人のことばかり考えていたの。

 でもね、私は彼から選ばれなかった。

 彼は別な人と結婚したの。

 そんな時、私をやさしく慰めてくれたのが今の夫。

 私は何のためにこの人と結婚するのかも考えずに結婚した。

 何のために結婚したんだろう? 私たち夫婦って・・・」


 彼女は優雅に1本のフライドポテトを摘まむとそれを少しずつ、つまらなそうに口に入れた。


 「何のためにって、それをやる前に考えることが理想ですけど、とりあえず始めてみて、何のためかは後で探してもいいんじゃないでしょうか?」

 「じゃあ祐一はCAの彼女さんと結婚したら?

 後でもいいんでしょ? 何のための結婚かの目的を探すのは?」


 次第に酔いも回り饒舌になったゆうこりんは、いつの間にか私を「祐一」と呼び捨てにしていた。


 「・・・」

 「ほらね? 出来ないでしょう?

 出来るわけがないわよ、祐一は彼女さんとの結婚に納得していないんだから。あはははは」

 「それは彼女に僕がふさわしくないと思うからです。

 彼女は僕には眩し過ぎる存在なんです。増々綺麗になって彼女の世界がどんどん広がって行く。 

 別に僕じゃなくてもいいんじゃないのかなって思うんです」

 「愛って奪うものじゃないの?」

 「それは彼女の人生をしあわせにする自信があって出来ることだと思います。

 今の自分にはその自信がない・・・」

 「祐一はやさしすぎるのよ。そんなの結婚してから努力すれば? 自信が持てるように。

 自信がないんじゃなくて、彼女さんへの愛情が足りないんじゃないの?

 そんな美人な彼女さんに祐一は怖気づいているのよ。

 でも興味あるなあ、そんなに美人なの? 祐一の彼女って?」

 「かなり・・・」

 「芸能人で言うと誰に似てる?」

 「米倉涼子・・・」

 「そりゃヤバイわ! そうかあ、ドクターXかあ、「私、失敗しないので」あはははは」


 そこに田村先生が割り込んで来た。


 「ナニナニ? 米倉涼子がどうしたって?」

 「この祐一の彼女さんがね? 女優の米倉涼子に似てるんだってさ」

 「えっー! 見たい見たい! 写真とかないの? 携帯の待ち受けにしてるとか? ハメ撮りしてる動画とかは?」

 「私も見たーい! 見せてよ祐一」

 「イヤですよ」

 「祐一のケチ!」

 「いいじゃない、減るもんじゃないんだからさあ」

 「減りますよ」

 「アハハハハ」




 2次会のスナック、『ルパン』でも大いに盛り上がった。

 カラオケのマイクは休むヒマもなかった。

 田村先生がママに訊ねた。


 「ねえ? ママはどうしてこのお店の名前を『ルパン』にしたの? まさか「恋を盗んじゃうぞ」って意味じゃないわよね?」

 「そうだけど」

 「えーっつ! もっと深い意味があるのかと思ったってたー」

 「あら、あるわよ、私の片思いだった人に私のハートが盗まれたまんまだからよ。

 だからいつも想っているの、いつの日か、彼のハートは私が盗んじゃうぞってね? だから本当は『峰不二子』にしたかったんだけどさあ、スナック『峰不二子』って言うのもちょっとねー。

 それで『ルパン』にしたって言う訳」

 「素敵なお話じゃないの? いつの話?」

 「ずっと昔の話よ、もう忘れちゃったわ。

 その人、東野君みたいなイケメンだったのよ」

 「それはかなりのイケメンですねー?」

 

 カラオケのリモコンを操作しながらゆうこりんが笑っていた。

 

 「そうなのよー、どう? 東野君、今夜私とお泊りデートしない? 私、こんなおばさんだけどテクニックには自信はあるわよ。うふっ」

 「ダメダメ、ぜっーたいダメーっつ!

 この人、米倉涼子に似た美人CAさんと付き合ってるんだから! あはははは」

 「あら残念、じゃあ別れた時はお願いね?」

 「私の方が先ーっつ! あはははは」

 「ゆうこりんには素敵な旦那がいるでしょう! あんなにやさしいダーリンが! 不倫は駄目よ! ダメダメ、ダよダメダメ、ぜえーたいダメーっ! あはははは」

 「あっ、忘れてた。アハハハハ」


 田村先生もかなり上機嫌だった。



 明日も部活があるからと、他の4人の先生たちはまた一人、そしてまた一人と帰って行った。

 そして私とゆうこいりん、そして田村先生の3人が残った。

 私は田村先生も早く帰らないかと期待していたが、帰る気配は一向になかった。


 「ちょっとオシッコして来る」

 「いってらっしゃーい」


 手を振るゆうこりん。

 田村先生がトイレに立った時、カウンターの下でゆうこりんの膝頭が私の太腿のあたりに当たった。


 「どうしてもっと早く、祐一に出会えてなかったのかなあー」


 ゆうこりんは私の顔を見て首を少し傾げて微笑むと、私の手に自分の白い手を重ね、キスをした。


 私はこのまま、田村先生がずっとトイレから戻ってこなければいいと思った。




第7話

 トイレから戻って来る田村先生の靴音で、ゆうこりんは私の手に乗せていた手をすぐに引っ込めた。


 

 「旦那からLINEが入ってたみたい。「そろそろ帰って来たら?」だって。

 あと一曲ずつ歌って帰ろうか? もう2時だし。

 ごめんねママ」

 「ウチなら大丈夫、朝まで居て貰っても構わないわよ」

 「私たちはもういいから聴かせてよ、恵子のいつものエンディングテーマ、MISIAの『逢いたくていま』を」

 「悪いわね? 今日は「夫婦生活」の日だからさあ」

 「それはそれはお熱いことで。ウチなんかもういつだったか思い出せないわよ」

 「たまにはエッチな下着でも着て、誘ってみれば?」

 「ユニクロしか持ってないもん」

 「私ので良ければ貸してあげるわよ。あそこが穴の開いたやつだけど」

 「遠慮しとくわ、風邪を引きそうだから。穴の開いたパンティなんて」

 「あはははは」


 田村先生がマイクを取った。

 さすがは国立音大で声楽を学んだだけのことはある。


 ゆうこりんも田村先生の唄に、うっとりと目を閉じて聴いていた。

 そして頬に伝う一筋の涙が流れていた。

 それは別れた彼との日々を思い出しての泪なのだろうか? それとも・・・。



 田村先生が歌い終わると、私たちは拍手を贈った。


 「凄く良かった! 高校の音楽の先生にしておくには勿体ないくらい。

 ママ、タクシーを2台お願いします。

 私と東野君は同じ方向だから」



 店の前に一台目のタクシーが着いた。


 「恵子、ダーリンが待っているんでしょ? お先にどうぞ」

 「悪いわね? じゃあお先に。

 ダメよ、ふたりでラブホなんかに行っちゃ」

 「それはどうかなあ、ねえ、東野君?」

 「校長に言いつけちゃうぞ。おやすみさーい、ははははは

 大丈夫、私、口は硬いから~♪」


 田村先生はミュージカル女優のように歌いながらタクシーに乗って帰って行った。

 そして間もなく私たちのタクシーもやって来た。


 タクシーに乗り込むと、ゆうこりんが言った。


 「ねえ、飲み直さない? 祐一の家で」

 「僕は構いませんけど、旦那さん、待ってるんじゃないですか? 心配しませんか?」

 「大丈夫、あの人、私には無関心だから」


 彼女は私の手を握ると、軽くキスをした。

 私は運転手に自宅の住所を告げた。


 


 「へえー、いいマンションじゃない? 何階なの?」

 「10階です」


 エレベーターでまたキスをされた。

 今度はかなり濃厚なフレンチキスだった。


 今夜は多少酔っていたこともあり、私はそれに素直に応じた。

 全身から力が抜けてしまいそうなキスだった。

 何しろ相手は憧れのゆうこりんだ、タクシーの中からずっと私の股間は膨張したままだった。



 部屋に入ると、すぐに彼女に押し倒された。


 「ねえ、しようか? 浮気」

 「浮気と不倫ってどう違うんですか?」

 「浮気は1度だけの出来心。不倫はずっと罪を重ねる恋愛の事よ。

 祐一は彼女さんがいるでしょ? だから1度だけでいい、今夜だけ私を抱いて。

 お願い、今日だけ私を女にして」

 

 ゆうこりんはそう言って泣いた。

 私は彼女をやさしく抱き締めた。


 「泣いている女性を抱く趣味はありませんが、あなたの涙が渇くまで、こうしています、ずっと」

 「泣いてなんかいない・・・」

 「じゃあ、これは何ですか?」


 私は彼女の涙を指で拭ってそれを彼女に見せた。


 「それは月の雫よ」

 「今夜は月は出ていませんよ」

 「お酒ある?」

 「ハイボールでいいですか?」

 「うん」


 私たちはソファに並んで座り、ハイボールを飲んだ。



 「さすがに祐一の部屋は綺麗にしているわね?

 ウチよりキレイになってる。

 彼女さんが掃除してくれるの?」

 「掃除は自分でやっています。

 あまり物がないので掃除はラクですから」


 私はCDコンポのスイッチを入れ、カーペンターズを掛けた。

 無難な選曲だと思った。『super star』



 「このカレンダーの印が彼女さんのスケジュールなのね?

 ホントだ、土曜日と日曜日はロサンジェルスかあ、いいわね? サンタモニカとか私も行ったなあ。

 ねえ、こっちが寝室?」

 

 ゆうこりんは静かに戸襖を開け、ベッドに横になった。

 そして書斎机に飾ってある、私と明美のフォトスタンドを眺めると、


 「本当だ、米倉涼子にそっくり。

 ううん、米倉涼子よりも綺麗。

 こんな美人に愛されて、贅沢な悩みね? 自信がないなんて」


 私は書斎のフォトスタンドを伏せた。


 「ねえ、こっちに来て私に添い寝してくれない?

 私、壊れてしまいそうだから・・・」


 私はベッドに腰を降ろし、ゆうこりんの背中をやさしく撫でた。

 ゆうこりんは自分の隣に私を引き寄せ、私に寄り添った。


 「私、どうしたらいいと思う?」

 「何のためにどうしたいのですか?」

 「自由になりたい」

 「自由になるということは、孤独になるということでもありますよ?」

 「それでもいいの。寂しくなってもいいから自由になりたい・・・。今の生活を続けるくらいなら、孤独になる方がマシ」


 彼女はそう言って嗚咽した。

 私は彼女を強く抱き締めた。


 「・・・お願い、キスして」


 私はゆうこりんにキスをした。

 だが私たちはそれから先へ進むことはなく、いつの間にか朝を迎えていた。



 「おはよう、祐一」

 「おはようございます」


 ペッティングすらしてはいない、だがそれは浮気ではなく、あきらかに不倫だった。

 私たちはこの日から、茨の冠を被り、十字架を背負うことになってしまった。




第8話

 「ねえ、お風呂貸して。それとも一緒に入る?」

 「遠慮しておきますよ、うちの風呂、狭いんで」

 「明美さんとは一緒に入るくせにー」


 どうやらゆうこりんは書斎机の上に置いてあった、Akemiと刻印された銀のブレスレットを見つけたようだった。

 


 「朝食はパンでいいですか?」

 「ベーコンはカリカリに焼いてね。目玉焼きも白身はカリカリで黄身はトロリが好きだから、油は多めでお願い」

 「わかりました」

 「それからさー、オレンジマーマレードってある?」

 「アプリコットでもいいですか?」

 「しょうがないなー、今度、私、専用に買って置いておくわね? やっぱり朝はオレンジ・マーマレードじゃないと」

 「ご主人に叱られますよ」

 「夫? 何それ?」


 ゆうこりんは後ろから私に抱きつき、私の肩に顎を乗せて甘えた。

 学校では想像出来ないゆうこりんの態度に、私は心地良い色香を感じていた。



 「お風呂入ってきまーす」


 ゆうこりんはバスルームへと消えた。

 



 ゆうこりんは髪を整え、きちんとメイクをして出て来た。

 ゆうこりんの髪から、明美と同じトリートメントの香りがした。

 それは明美のお気に入りのトリートメントの香りだった。

 私は急に罪悪感に襲われた。

 セックスをするよりも、それは背徳感に満ちたものだったからだ。

 「愛のないセックス」と「愛のある会話」

 後者の方が罪は重い。




 日曜日。マンションの隣の公園からは幼い子供と遊ぶ若夫婦の声と、小鳥のさえずりが聞こえていた。

 朝日に輝く食卓の食器やグラス。

 これらはすべて、明美が海外から買い揃えた物だった。

 土曜の朝のFMラジオから流れて来る、懐かしいエア・サプライのメロディ。

 爽やかで楽しいゆうこりんとの食事に、心が軋んだ。

 それはとても自然で、以前からずっとこうして暮らしていたような気がした。



 「ベーコンも目玉焼きも最高の焼き加減だわ! アプリコットのマーマレードも意外といけるのね?」

 「美味しくないジャムってありますか?」

 「ウチは朝は御飯とお味噌汁なの。

 私はパンの方が好きなんだけどね?」

 「それならゆうこりんだけ、パンにすればいいじゃないですか?」

 「だって面倒臭いじゃない」


 ゆうこりんはトーストにたっぷりとバターとアプリコットジャムを塗った。


 「ねえ、今日、ヒマ?」

 「特に用事はありませんけど」

 「ランチに海で「しらす丼」を食べに行かない?」

 「いいですけど、家に帰らなくても大丈夫ですか?」

 「いいの、どうせ夫はもうゴルフに出掛けたはずだから・・・」


 ゆうこりんはまた、夕べと同じ、さびしい顔をした。


 「じゃあ海までドライブしますか?」

 「うん、行こうよ海へ!」


 ダイニングテーブルから身を乗り出して、瞳をキラキラさせるゆうこりん。

 私はいつの間にか、明美のことを忘れていた。




 クルマを海沿いの駐車場に停め、私は窓を全開にした。


 「あー、気持ちがいいー。

 海はいいわねー、特に太平洋は最高!

 イヤなことなんてみんな忘れちゃいそう。

 ほんとはね、海が見たかったの。しらす丼も食べたかったんだけど。

 ねえ、何してるの?」

 「この波のトロコイドを数式にするとどうなるのかを考えていました」


 私は広告の裏にその数式を書きなぐっていた。


 「好きなのね? 祐一は数学が」

 「数学にはロマンがありますからね? 美があります」

 「海よりも?」

 「もちろん」

 「じゃあ私とはどう?」


 「それはもちろんゆうこりんだよ」と答えるかわりに私は彼女に微笑んで見せた。


 「どうやら海よりは私みたいだけど、数学には負けたみたいね?

 明美さんとはどうなの? 数学より米倉涼子? あはははは」


 彼女は私にやさしいキスをした。

 リップの甘い味がした。


 潮騒の音と、カモメの鳴く声が聞こえていた。

 彼女は私の手を取り、自分の胸に導いた。


 「この心臓のドキドキも数式に出来る?」

 「ダメです、あまりにも心臓の鼓動が早過ぎてかわいくて、数式が浮かんで来ません」


 今度は自分からゆうこりんにキスをした。

 彼女の熱い吐息が漏れた。


 「しらす丼、無くなっちゃいますよ」

 「しらす丼なんか、もうどうでもいいわよ・・・」


 彼女は私を見詰め、私の耳元で囁いた。


 「祐一のことが好き、たとえ明美さんがいても・・・」


 規則正しい波の音。遠くから雷鳴が近づいて来ていた。

 どうやら通り雨が来るようだ。


 リクライニングシートを倒して再び唇を重ね、お互いをまさぐり合った。

 クルマに打ち付ける激しい雷雨が、私たちの抑え切れない感情を掻き消してくれていた。




第9話

 駐車場の私たちの乗ったクルマに、大粒の雨と雷が轟いていた。

 稲妻が光り、雷鳴が鳴り響く度に彼女は私にしがみつき、怯えた。


 「優子、怖くはないよ。にわか雨だからもうじき止むから」


 私は彼女をゆうこりんとは呼ばずに名前で呼んだ。



 長い口づけと抱擁の後、いつしか積乱雲は遠ざかり、午後の海空に虹か架かった。


 「虹が出てるよ」

 「ホントに?」


 上半身を起こして虹を見る優子。


 「ダブル・レインボーじゃない! 初めて見た!」


 優子は乱れた服を整えるとクルマを降り、砂浜へと駆け出して行った。

 私もクルマを降り、ゆっくりと彼女の後を追った。


 優子はパンプスを脱いで両手に持ち、ストッキングのまま波打ち際まで行って、楽しそうに笑って波と戯れていた。



 「祐一も早く早くー!」


 手を振る優子。

 私もスニーカーと靴下を脱ぎ、靴下をスニーカーの中に入れ、ズボンの裾を折り上げ、優子に近づいて行った。


 「恋愛映画のワンシーンみたいね?」


 少しだけ波を掬って私にかける優子。彼女は主演女優のようにはしゃいでいた。

 波に反射する太陽の照り返しが、より一層彼女を輝かせていた。


 「海はまだ冷たいわね?」

 「だから海水浴場の駐車場がタダで、ガラガラなんだよ」

 「ねえ、この近くに高校ないかなあ?

 そしてここで暮らすの、私たちふたりで静かに」

 「職場なんてどこでもいいんじゃないか?」

 「ダメよ、この海の近くじゃないと。

 祐一、私、本気で言っているのよ」


 私はそれには答えず、明日、この海の向こうにあるアメリカ西海岸にフライトする明美を想った。

 これは愛じゃない。これはタダの浮気なのだ。明美が合コン相手としているようなひと時の戯れなのだ。

 「不倫ではない、決してこれは不倫なんかじゃない」と、私は自分に弁解をした。



 「あー、お腹空いたー。しらす丼、食べに行こうよ」


 私たちは手をつないでクルマへ戻った。

 私はトランクに積んであったハンドタオルを思い出し、助手席のドアを開けた。

 

 「そのまま助手席に座ってごらん」


 私は海水で濡れた優子のストッキングの砂を丹念に払った。

 

 「くすぐったい、なんだか女王様になった気分。

 あっ、今、私のパンツ見たでしょう?」

 「見てないよ」

 「絶対見た。何色だった?」

 「薄いパステルピンク」

 「ほらー、やっぱり見たじゃない、祐一のエッチ!

 何だか砂が取れないなあ、新しいストッキングをコンビニで買うから後で寄ってね?」

 「うん」



 優子はストッキングを脱ぐと、それを私に渡した。


 「はいプレゼント。今晩の「おかず」にどうぞ。

 それともパンティの方がいい?」

 「ありがとう、これで十分「おかず」になるよ」

 

 私は優子の脱いだストッキングをズボンのポケットに入れた。

 それはまだ、彼女の肌のぬくもりが残っていた。



 「しらす丼、まだやってるかしら?」

 「2時だからまだやってるんじゃないかな? とにかく行ってみよう、折角来たんだから」

 



 幸いにも店はやっていて、行列も少なくなっていた。


 「うーん、どうしようかなー、生しらすにするか、それとも釜茹しらすにするか?」

 「ハーフ&ハーフもあるみたいだよ?」

 「祐一は決まったの?」

 「獲れたてが食べられるんだから、僕は生しらすにするよ」

 「そうか、じゃあ私も祐一と同じ生しらすにしよーっと。

 すみませーん、生しらす丼を2つお願いしまーす!」



 艷やかな生しらす丼がやって来た。


 「ちょっと苦みがあって美味しいー! 初めて食べた!

 卵黄と大葉、それにショウガがベストマッチよね?」

 「優子は食レポも出来るんだね? 女子アナみたいに」

 「それを言うなら女子アナ#より__・__#でしょう?」

 「ごめん、優子は女子アナよりもきれいだよ」

 「ねえ、その優子って呼び捨てにするのさあ」

 「ごめん、つい呼び捨てにして」

 「ううん、それ、好き。

 そう私を呼ぶのって、両親とおばあちゃんくらいだから。

 なんだか凄くうれしい」


 そう言って美味しそうに生しらす丼を頬張る優子。

 私はそんな優子に見惚れて箸が遅れた。




 楽しい時間はあっという間に過ぎて行った。

 帰りにコンビニに寄り、ストッキングとジャスミン茶、それからハーゲンダッツのラムレーズン・アイスを買った。


 「ハーゲンダッツのラムレーズンって大好き! 超ラッキー! 最近コンビニでは中々見掛けないのよねー」


 助手席で新しいストッキングに履き替える優子。


 「ねえ、私のパンツまた見たい?」


 優子は一瞬だけスカートをめくり上げ、私に下着を見せた。


 「はい、おわりー」

 「良く見えなかったよ」

 「しょうがないなあー。ほら、写メ撮ってもいいよ、なんなら脱いじゃおうか? パンティー」

 「あはは、そんなことしたら警察に捕まるよ」

 「あはははは」



 私たちはコンビニの駐車場でアイスを食べた。


 「やっぱりアイスはハーゲンダッツのラムレーズンよねー? チョコミント味なんて信じらんない。

 あれって歯磨き粉のアイスを食べてるみたいだもん」


 優子はアイスを口に含むと、そのまま私にキスをした。


 「ラムレーズンのキス、どう? 美味しい?」




 別れの時が近づくにつれ、私たちは無口になっていった。

 優子が私の肩に寄り添い、運転している私の手にそっと触れた。

 カーステレオから流れる西野カナは、優子のリクエストだった。


 「何のために人は出会うのかしらね?

 どうせ別れてしまうのに・・・」


 私は片手で優子の肩を抱き寄せ、彼女の手の甲にキスをした。

 それが私の答えだった。

 西野カナは歌う、


     

      会いたくて 会いたくてふるえる 

      君を想うほど 遠く感じて・・・



 長いようで短い一日が終わろうとしていた。




第10話

 学校に出勤すると、優子がひとり、授業の準備をしていた。

 優子とふたりだけの職員室。

 土日の事が思い出された。


 そこに田村先生が歌うようにやって来た。 


 「ラララララララア~♪ おっはよう~♪ 不倫カップルさ~ん♪」


 彼女はまるでミュージカル女優のように上機嫌だった。



 「おはよう田村先生。朝から随分ハイテンションじゃないの?」

 「朝、ダーリンと2回もしちゃった! 夫婦生活って最高!

 おかげでスッキリ爽やかで、喉の調子も絶好調!

 ところであの後、ヤッたの? アンタたち」

 「うん、3回ほどね。

 東野先生、意外とテクニシャンでもうメロメロにされちゃった。ねえ東野先生?」

 「止めて下さいよゆうこりん先生。ヘンな噂になるじゃないですか。

 あの後、ひとりで真っすぐマンションに帰りましたよ」


 私はウソを吐いた。

 優子がクスッと笑っていた。


 「あれれれ? 東野先生、赤くなってるぞ~。

 さてはゆうこりん先生に惚れたなー?」

 「私、CAさんなんかに負けないんだから」

 「アンタその前に人妻さんでしょう?

 クンクン、怪しいなあ。匂うぞ匂うぞ。

 絶対チューくらいはしたはずだ。

 でも大丈夫、私、『ハマグリの田村』って呼ばれているから安心んしてね? あはははは」

 「そこが怖いのよ、酒蒸しされたらすぐに開きそうで」

 「あはははは、下のお口は緩いけど、上のお口は堅いから大丈夫。

 確かにお酒には弱いかもねー」

 「今度はさ、3人で飲もうよ。東野先生の家でCAさんがフライトでいない時を見計らって」

 「それいい、それいいかも。

 そして3Pしよう!」

 「バカなこと言わないで下さいよ、じゃあ僕はこれから授業なので失礼します」

 「かわいい、東野先生。

 不倫は駄目だけど、1度だけの浮気は許されるわよー。がんばってねー!」


 週末の出来事が忘れられない。

 私の優子への想いは置き去りのまま、その恋に手をつける勇気は私にはなかった。


 


 授業は順調だった。生徒たちは数学の面白さや神秘性に目覚めたようで、質問も多くなり、かなり白熱した授業になっていた。




 授業を終え、廊下に出ると学年主任の佐々木先生に呼び止められた。


 「東野先生、ちょっと」


 私は佐々木先生の化学教室につれて行かれた。

 様々な化学薬品の匂いがしていた。


 「東野先生、保護者からクレームがありましてね? なんでも正規の授業をせずに大学の数学を教えているとか?

 先程、先生の授業を覗かせていただきましたが、確かにいい授業でした。ですがここは有名進学校なのです。

 我々には教育要綱に乗っ取った授業をする義務があるのはご存じですよね?」

 「はい、それは存じております。私はただ、彼らに数学を学ぶことの楽しさを教えてあげたいのです。

 彼らはすでに高校数学のレベルを超えています。校内テストでもそれは証明されているじゃありませんか?」

 「確かにウチの生徒たちは優秀です。

 毎年東大に30名前後の現役合格者を輩出しているわけですからね?

 東野先生、この進学校における私たち教師の役割とは何でしょう?」

 「彼らの能力を最大限に引き出してあげることです」


 佐々木先生は少し下がった銀縁メガネを指先で整えると、

 

 「1人でも多く、生徒を東大に入れることです。

 授業中に大学受験の勉強をしてどこが悪いのですか? 彼らには限られた時間しかないのです。

 一日48時間でも足りないでしょう、全国から優秀な生徒が東大受験を目指しているわけですからね?

 甲子園に行くような高校が、プロ野球の予備校であるように。この高校も東大に入るための予備校なんです。 

 無駄なことはお止めなさい。これは学年主任としての忠告です」

 「それでは高校教育は何のためにあるのですか?

 私たち教師の存在意義は?

 この学校のブランドと校舎だけあれば、教師なんて必要ないんじゃないですか!」

 「要りますよ、教師は。

 私たちもブランドの一部なのです。一流大学を出た教師としてね?

 もしそれが不服であれば、もっと偏差値の低い高校へ移動を申し入れればよろしい。

 この学校で働きたい教師は山ほどおりますから。

 話は以上です」


 佐々木先生は化学実験室を出て行ってしまった。

 私は数学を学ぶことのすばらしさを生徒たちに教えるために数学教師になった。

 佐々木先生の言うことは間違いではない。いや、むしろ正論だ。

 この学校の数学の授業は数学の楽しさを教えるためにあるのではなく、いかに東大に多くの生徒を合格させるかに存在する。

 私には何もせず、ただお飾りの数学教師でいろというのか?

 学問とは単なるクイズではない。どれだけ知っているかではなく、それについて如何に考えるかが大切なはずだ。

 それが学問ではないのか?




 職員室に戻ると、優子が珈琲を淹れてくれた。


 「ありがとうございます」

 「東野先生、どうしたの? 明日、隕石が地球に衝突するような顔して?」

 「さっき、私の頭に隕石が落ちて来ました」

 「あら大変、でもどこも陥没していないみたいだけど?」


 優子は私の頭を撫でまわし、お道化て見せた。


 「あはははは 東野先生、頭がボサボサ。アインシュタインみたい」


 私は家に泊まった時の優子を思い出し、つられて笑ってしまった。


 「悩みがあるなら訊いてあげるわよ」

 「ゆうこりん先生、教師の役目って何でしょう?」

 「それは生徒の可能性を引き出してあげることじゃない?

 だってあの子たちは無限の可能性を秘めているのよ、それを見つけて磨いてあげるのが私たちの仕事でしょ?」


 私と同じ意見だった。

 私は驚いたように優子の顔を見た。


 「どうしたの? 私、何かヘンなこと言った?」

 「いえ、僕も同じ考えだったので、つい嬉しくなってしまって」

 「だってさあ、そうじゃなきゃ教師なんてつまんないじゃない?

 決められた授業だけするなら、ペッパー君で十分でしょう?」

 

 私はそんな優子を本気で愛してしまいそうになった。




第11話

 「おかえりなさーい、私に会えなくて寂しかったでしょ?」


 明美は私が玄関に入るとすぐに、私に飛び付きキスをした。

 それはフライトから戻った明美の定番の行為だった。


 「すごく会いたかった」ではなく、「私に会えなくて寂しかったでしょう?」と言うのが明美らしい。

 そう、彼女は女王様だから。

 今日は先週約束した通り、明美のマンションで過ごすことになっていた。



 「グラタンを作っていたの。もうすぐ焼き上がるからワインでも飲んでいて。

 おつまみにホタテのアヒージョとガーリック・バゲットを用意しておいたから食べてね?

 そうだ、この前ハワイで買ったビーフジャーキーもあるわよ」

 「ありがとう、疲れているのに悪いな?」

 「疲れてなんかないよ、祐一の顔を見たらフライトの疲れも時差ボケもどこかへ行っちゃうもん」


 私はダイニングテーブルの椅子に座り、ワインクーラーから白ワインを取り出した。

 どうやらロスで買ったカルフォルニア・ワインのようだった。

 


 「ごめん、先に開けて飲んでた。

 お料理しながら飲むお酒って最高よね?」


 明美は私にワイングラスを掲げて見せた。

 テレビでは関西のお笑い芸人が、何が面白いのかいつものように下品に喚いている。


 「面白いよね? そのお笑いの人」

 「なんていう芸人さん?」

 「知らない」

 「適当だな?」

 「しょうがないでしょー、知らないんだから」


 無意識に優子と明美を比較している自分がいた。

 優子ならテレビはつけないはずだ。そしてこんなくだらないお笑い番組は見ない。


 優子なら白ワインではなく、最初はビールだろう。

 優子ならグラタンではなく、すき焼きだ。

 優子なら・・・。


 

 「さあ、焼けたわよー。明美ちゃん特製のCA風グラタンの出来上がりー!

 どうぞ熱いうちに召し上がれ」


 グツグツと音を立てた熱々のグラタンが目の前に置かれた。

 私はマカロニを含んだ少し焦げ目の付いたチーズを口に入れた。


 「はふはふ」


 私は冷えたワインで口を潤した。


 「どう? おいしい?」

 「うん、すごく」

 「でしょー? 結婚したら毎日作ってあげるからね?」

 「毎日グラタン?」

 「じゃあ火曜日だけグラタンにする。うふっ」


 私は話題を変えた。


 「ロスはどうだった?」

 「すごくいいお天気だったわ。でも帰りのフライトでイヤなお客さんがいてね、しつこくLINE交換しようって言うからやんなっちゃった」

 「交換したの? LINE?」

 「まさか! するわけないじゃない、私は祐一だけの物よ」


 そう言って明美は私のグラスにワインを注いだ。


 「何か学校であったの? 今日は何だか沈んでいるみたいだけど?」

 「学年主任からお小言を言われたんだ」

 「どんな?」

 「自分勝手な授業をするなってさ。この学校の教師の役割はいかに多くの生徒を東大に入れることらしい」

 「しょうがないんじゃない? 祐一の学校は有名進学校なんだから」

 

 優子ならそんなことは言わない。

 明美は現実的で、優子は理想を追い求める女だった。


 「俺はあの子たちに数学の魅力を教えたいんだ。数学教師として」

 「祐一は熱血教師だもんね?

 でもね、組織で働くって本音と建前を使い分けないと。

 航空会社なんて特にそうよ、偉い人が決めたらそれが正論だもん。

 「勝てば官軍」、勝たなきゃ意味がないのよ」

 「勝たなきゃ意味がない?」

 「だってそうでしょう? 生きて行くためには自分の信念を曲げることも必要じゃないの?」

 「勝つって金持ちになることか?」

 「豊かな生活をするにはお金は必要だわ。

 子供が大学に行きたいって言ったら、「ウチはお金がないからダメよ」なんて言いたくないじゃない。

 エステにも美容院にも行きたいし、お洋服だって欲しい。

 だって私、いつもきれいでいたいもの、あなたのために」

 

 もちろん明美には贅沢をさせてやりたいし、彼女の望みは叶えてやりたい。

 でも私はそんなことは求めてはいない。所詮、カネは道具に過ぎない。必要な分だけあればそれで十分だ。

 物欲が満たされたしあわせに私は興味がなかった。

 優子ならそんなことは絶対に言わない。

 私は急に黙ってしまった。


 「私、何か嫌なこと言った?」

 「いや、明美の言う通りだと思うよ。ただ俺には金持ちになることは無理かもしれない」

 「大丈夫、私が稼ぐから」




 食事が終わり、私と明美はいつものように一緒に風呂に入った。

 

 「最近、オッパイが小さくなっちゃった。ほら」

 「僕は小さい方が好きだけどね?」

 「でもお洋服を着た時には少し大きい方がシルエットが綺麗なのよねー」

 

 明美が湯舟の中で私のそれを握った。


 「祐一のここは大きいままね?」

 「やっぱり大きい方がいいのかな? 女は?」

 「私は大きい方が好き。祐一のこれみたいに」

 


 風呂から上がり、私は義務的に行為に及んだ。


 「なあ? どうして人は働くんだろう?」

 「お金を稼ぐためでしょ。あんっ」

 「カネのために働くのか? だったらさびしいな? 働くのって」

 「みんなそうじゃないの? だって働くって辛いことでしょ? うんっつ

 人の出来ないことや、やりたくないことをその人に代わってあげるわけだから。もっと強く噛んで」

 「そうかなあ、遣り甲斐を持って働くべきじゃないのか? 人間として」


 私は明美に自分を激しく打ち付けた。

 のけぞる明美。


 「それは理想じゃないの? はうっつ」

 「理想?」

 「あっあっ そんなこと考えて働いている人なんているのかしら? あんっ うっつ」


 明美は私の胸に頭を乗せ、果てた。

 私はこれ以上、彼女と議論するのを止めた。

 明美は避妊具をティッシュに包んでゴミ箱に捨てた。

 

 「寝ようか?」

 「うん」


 すぐに明美の寝息が聞こえて来た。

 疲れていたんだろう。掃除をし、私のために食事を作り、ロスからのフライトでクタクタだった明美。


 明美も一生懸命に生きている。

 私は明美にキスをしてやさしく髪を撫でた。

 美しい寝顔だった。


 私の心は揺れていた。




第12話

 朝を迎えた。

 明美は余程疲れていたのか、まだグッスリと眠っていた。

 私は彼女を起こさないように、そっとベッドから降りた。


 冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、グラスに注いだ。

 明美がロスから買って来たであろう、Newsweekを拾い読みしていると明美が起きて来た。



 「おはよー、あー、良く寝たー。

 今、珈琲淹れるね?」

 「おはよう、僕が淹れようか?」

 「そう? じゃあお願い。オシッコして来る」

 「ああ」



 明美が戻って来ると、

 

 「いい香り、どうして祐一の淹れるコーヒーはこんなにいい香りになるんだろう」

 「僕は珈琲を十分蒸らすからね?」

 「どうやって?」

 「簡単なことだよ、フィルターを二枚重ねにするだけさ」

 「へえー、今度やってみよう」

 「トアルコトラジャなんて珍しいね? どこで買ったの?」

 「いただき物なの」

 「そう・・・」



 その時、明美は先週のセレブ・パーティーの夜を思い出していた。

 それは都内のホテルのプール付きロイヤルスイートで行われた、CAやモデルたちと医者や弁護士、IT企業の経営者らの参加するパーティだった。

 その中には芸能人も数人、混じっていた。


 同僚のCA、紀子に誘われ、明美はそれをふたつ返事でOKした。



 「行く行く! もちろんイケメンも来るんでしょ?」

 「そんなこと言ってもいいの? あのイケメン教師君にバラしちゃおうかなー?」

 「たまには私も刺激が欲しいのよ。ただのお遊びよ」

 「お遊びで終わらなかったりして」



 確かに金持ちの集団ではあったが、メガネ豚ばかりだった。

 高学歴で不細工な男は話が鼻につく。

 話題の殆どは自分の自慢話ばかり。いかに自分が優れているかのオンパレードに、明美は辟易していた。


 紀子はうまく話しを合わせ、彼女の周りには男たちが群がっていた。

 流石は慶応のミス準グランプリだけのことはある。

 本当は局アナになりたかったらしいが採用されず、仕方なくCAになったと言っていた。



 「せっかく美人に生まれたんだもん、なるべく高く売らなきゃ損でしょ?

 年収1,000万なんてザラにいるから、億は狙わないとね?」

 「でもイケメンでそんなに稼ぐとなると限られてくるんじゃない?」

 「バカねー、どうせそういう男はひとりの女で我慢出来るわけないじゃない。

 私もイケてる#セフレ__・__#を作るのよ。

 そして揉めたら離婚して、慰謝料ガッポリ貰えばいいじゃない? 向こうの浮気の証拠はしっかり集めておいて」

 「怖い女」


 

 プールサイドでシャンパンを飲んでいると声を掛けられた。


 「ここ、いいですか?」

 「ええ、どうぞ」

 「私は青山達郎と言います」

 「北野です、今夜はお招きいただき、ありがとうございました」

 「いえいえ、こちらこそこんなに美しい女性と楽しいお酒が飲めるなんて最高ですよ。

 モデルさんですか?」

 「いえ、ただのCAです」

 「ただのってことはないですよ、CAさんは我々男性にとっては憧れだ」


 年齢は40才代後半だろうか? イケメンではないが、やさしいインテリ・オジサンと言った感じだった。



 「都内でクリニックをやっています」

 「お医者さんなんですか?」

 「はい、美容整形の医者をしています」

 「豊胸手術って大変なんですか?」

 「ここだけの話ですが、あまりお勧めはしません。

 いずれ皮膚は弛んできますから。

 これは内緒でお願いします。一応、商売なので」

 「そうですか? するとまたそのための手術が必要になるというわけですね?」

 「女性は永遠の美の求道者です。

 たとえば瞼を二重にすると、今度は少し鼻を高くしたくなる。

 そして鼻が高くなると口元をセクシーにと思うわけです。

 つまり美容整形をすると、もっともっとと欲が出て来る。

 整形など、余程の生まれつきのコンプレックスでもない限りはしない方がいい。

 医者の私が言うのもヘンですが。ハハハハハ」


 青山は不思議な男だった。

 その心地良い声質に、明美はいつの間にかやさしく包まれていた。



 「どうです? ここはうるさいので下のバーで飲みませんか?」

 「ええ、そうですね?」


 明美は紀子にLINEをした。



   下のバーで飲ん

   でるね


           良さげなダンデ

           ィじゃないの

           がんばってね


   そんなんじゃな

   いよ

   私 オジサンは

   圏外だもん


           ハイハイ

           私も適当にあし

           らってそっちに

           行くね


   ラジャー



 

 明美はあまり強いカクテルは避け、キールを注文した。



 「CAさんの仕事は大変ですよね?

 うちのクリニックにもCAさんがおいでになりますが、別に整形しなくてもという美人さんでも顔やカラダへのお悩みはある物なんですね?

 男性からすればチャーミングに見える部分でも、女性にはそれがコンプレックスになることもある。

 CAさんの場合は立ち仕事と気圧の関係で足や顔、カラダがむくみやすい。

 重労働ですよね?」

 「結構歩きますからね、機内を。

 あれが欲しい、これを持って来い、お酌しろ、現地ではどこのレストランがお勧めかなんて。

 私たちは何でも屋さんですよ、CAは」


 青山は祐一とは全く違うタイプの男性で、少し頭頂部が薄く、お腹も出ていた。

 抱かれたいとは思わないが、なぜか話をしていてホッとする。



 「北野さん、彼氏さんは?」

 「ずっと募集中なんです。いたらこんなパーティーに参加しませんよ」


 明美はウソを吐いた。

 こんなシーンで「彼氏はいます」という場合は、余程その男が嫌いか、その彼をすごく愛しているかのいずれかだ。

 もっとも愛していたらこんなところへは・・・。

 明美はその想いを途中で打ち消した。


 (祐一が悪いんだからね? プロポーズもしない祐一が)


 「良かった、それじゃあ僕にもチャンスは残されているというわけですね?

 僕はバツイチで、今は独身なんです。

 恋人募集中です。

 妻とは8年前に死別しました。子供はおりません」

 「さあ、どうでしょう? 私、我儘ですよ」

 「我儘な女性かあ? 最高じゃないですか! 僕は好きですよ、わがままな人。

 満足させてあげたくなる」

 「どんな満足です?」


 明美は少し青山を挑発してみた。


 「大人の満足です」


 すると明美はキールを飲み干し、席を立った。

 

 「友人と待ち合わせているので帰りますね?」


 明美は財布から2,000を出してカウンターに置いた。


 「誘ったのは僕ですから、これは仕舞って下さい。

 連絡先、交換してもいいですか?」

 「不規則な勤務なので、通じないことが多いかもしれません」

 「それでも構いません。

 北野さんに一目惚れしてしまいました。

 そうだ、珈琲はお好きですか?」

 「好きですけど」

 「よかったらどうぞ。このパーティの主催者からのいただき物ですが、僕は紅茶しか飲まないので」


 青山はビジネスバッグから珈琲豆の袋を取り出し、明美に差し出した。



 紀子からLINEが入った。


    ごめん お持ち

    帰りになっちゃ

    った

            どうぞお楽しみ

            下さい


    後で結果報告す

    るね

            いらない(笑)




 これがその時の珈琲豆だったのだ。

 実家に行くと嘘をついたが、ただの飲み会だったので明美には罪悪感は左程なかった。


 だが、それに続きがあることなど、その時の明美は知る由もなかった。




第13話

 「ご飯食べたら銀座にお買い物に付き合ってくれない?」

 「いいよ、何を買うの?」

 「色々。お洋服とか祐一が喜びそうなセクシー・ランジェリーとか。うふっ」


 私は横顔で笑った。



 「シャワー浴びてくる。祐一は?」

 「俺は後でいいよ」

 「そう、じゃあお先でーす」


 明美は自分の食べた食器をシンクに沈め、脱衣場へ行った。

 女は身支度に時間が掛かる。

 先に明美を風呂に行かせ、彼女が化粧をしている間に私が風呂に入る。

 効率的だった。




 平日だと言うのに昼間の銀座は混雑しており、喧嘩腰のように興奮した中国語が多く飛び交っていた。

 私の両手は明美の買った品物で塞がっていた。



 「ごめんなさいねー、たくさん持たせちゃって」

 「ジョージ・クルーニーやトム・ハンクスにでもなった気分だよ」

 「あとは下着売り場だから一緒に選んでね?」

 「イヤだよ、恥ずかしい」

 「なんで? 結構カップルで来てるよ? 平気平気」



 明美には不安があった。


 (私のカラダにもう飽きているのかしら?)


 という焦りから、少しでも刺激を与えようという策略だったのだ。



 「ねえ、これなんかどう?」

 「それじゃお尻が丸見えだろう?」

 「それはそうよ、だってTバックだもん。

 制服の時には下着のラインが見えるのがイヤだから、TバックはCAにとっての必需品なのよ」

 「男からするとTバックってあまり好まれないんだけどなあ」

 「えっ、そうなの?」

 「黒とか赤もあまり好きじゃないと思うよ。綿の物もキライだなあ。

 いちばん萎えるのは今流行りのスポーツ下着。あれはやる気が失せる」

 「じゃあ祐一はどんなのが好きなの?」

 「普通のやつ」

 「普通のやつってどんな?」

 「白とか淡いパステルカラーとかがいいかなあ。

 それから化学繊維の光沢がある生地で、足の付け根の周りのところがギザギザになっているやつがいい」

 「ふーん、そうなんだ?

 じゃあこんなやつ?」


 明美はマネキンが着けている下着を指差した。


 「そうそう、これこれ」

 「わかった、色は何色がいい?」

 「白」

 「それじゃ祐一のリクエストにお応えして白にするね?

 今夜はそれを着けてあげる」

 「ありがとう、楽しみにしているよ」


 その時何故か、明美は言い知れようもない不安を感じていた。


 (いつもの祐一と違う・・・、好きな女でも出来た?)


 「せっかく銀座に来たんだからさあ、天ぷらでも食べに行かない?」

 「うん」

 「どうしたの? 今日は天ぷらの気分じゃないの?

 祐一、天ぷらにビール、好きだよね?」

 「そんなことないよ。いいね? お昼は天ぷらにしよう」


 


 その天ぷら屋は目の前で揚げ立てを食べさせてくれる、カウンターだけの店だった。



 「梅のコースを2つお願いします」

 「お飲み物は?」

 「生ビールでいいよね?」

 「うん、大ジョッキでお願いします!」

 「少し大き目のグラスしかないのですが? それでよろしいですか?」

 「ではそれを2つ下さい」

 「かしこまりました。大ジョッキだとすぐに温くなって炭酸が抜けてしまうので」

 「私はすぐに飲んじゃいますけどね? あはは」



 店内にはいい胡麻油の香りが漂い、小気味の良い天ぷらが揚がっている音が食欲をそそる。



 「カンパーイ、あー、美味しーい!

 どうして昼間に飲むビールってこんなに美味しいのかしらね?」

 「それは昼間に酒を飲むことに罪悪感があるからだよ」

 「そっかー、罪悪感って快感だもんね?」

 

 (罪悪感が快感?)


 私は持っていたビールをカウンターに静かに置いた。


 「アスパラガスです、お塩でどうぞ」

 「はふはふ サイコー! アスパラってこんなに美味しいんですね?」

 「ありがとうございます。

 熱々の天ぷらとビールは相性がいいですからね?

 昼間のビールは特に」

 「そう、それそれ。昼間の平日に銀座でお買い物して美味しい天ぷらに彼氏と生ビール、最高の背徳感だわ。

 みんなが一生懸命お仕事している時にこの贅沢、ああ、生きてて良かったー。

 大将、生ビールお替りー。祐一も早く飲んじゃいなさいよ」

 「ああ、うん」



 私はその時、優子との海辺のデートを想い出していた。

 激しい驟雨の中、優子のやわらかな唇、切ない吐息・・・。


 服の隙間からも伝わる、少し汗ばんだ肌の温もり。

 今になって明美への背徳感、罪悪感が蘇って来た。


 

 「どうしたの? 食べないの? 天ぷら、冷めちゃうわよ」

 「ああ」


 私は天ぷらを食べ、少し温くなったビールを飲んだ。

 それは気怠い罪の味がした。




第14話

 「あー、疲れたー。もうお腹いっぱい! ビール5杯も飲んじゃったもんねー」

 「これ、どこに置けばいい?」

 「そこら辺に適当に置いといて。ありがとう、重かったでしょう?」

 「だいぶ買ったね?」

 「女子のストレス解消はお買物と美味しい物を食べること、そして気持ちのいいセックスをすることだもん。

 ねえ、一緒にお風呂、入ろうよ。薔薇の入浴剤も買っちゃったんだー」


 明美は紙袋の中から入浴剤を取り出して笑って私に見せた。


 靴に洋服、下着とアクセサリーにバッグ。

 今日だけで50万円近くは使っているハズだ。

 明美の金遣いは益々派手になっていた。


 華やかな女たち中にいればおのずと対抗意識も芽生えて来るのも分かる。

 所詮、明美の稼いだカネだ。私がとやかく言う筋合いではない。

 だが、このまま結婚すればお互いの金銭感覚にズレが生じて来るのは時間の問題だ。

 私はその懸念を明美に打ち明けることにした。


 買物して来た物を並べてご満悦の明美。

 

 「素敵でしょう? このバッグ、新作なの。

 前から狙ってたのよ。

 それにどう? このジャケットとスカート、いいと思わない? ちょっと着てみるね?」

 「僕の給料だけじゃ、そんな贅沢はさせられないよ」

 「心配しないで、自分のお給料の範囲内で買うから。

 祐一には迷惑は掛けないから大丈夫」

 「君に僕は相応ふさわしくないんじゃないか? 明美の結婚相手として。

 明美ならもっと金持ちと結婚出来るし、その方が明美にとって幸せなんじゃないかな?」


 明美から笑顔が消えた。


 「どうしてそんなこと言うの! 私が働いたお金なのよ! どう使おうと私の勝手じゃない!

 私、今まで祐一に何か買ってなんておねだりしたことある?

 祐一は私と結婚したくないわけ?

 私がお買物するのがイヤなの? それとも他に好きな女でも出来た?

 浮気なんかいくらでも出来るもんね? 私はフライトで世界中を飛び回っているんだから!

 私たち、付き合ってもう8年よ! それなのに結婚の「け」の字も言ってはくれない!

 私、もう28なのよ! 祐一はいいでしょう? 男だから。

 でも私はもう限界なの。子供も欲しいしCAにだって限界はある。将来のことだって毎日悩んでいるわ!

 それなのに祐一は何もわかってくれない!

 そんなに私と別れたい?」

 「僕は自信がないんだ。明美をしあわせにする自信が。

 君はどんどん美しく、華やかになっていく。僕の手が届かぬほどに。

 だが僕は高校のしがない数学教師、君に今のような贅沢をさせてあげることは出来ない。

 君が遠くに感じるんだ。

 明美をもっと輝かせてくれる相手は他にたくさんいる筈だ」

 「イヤよ! そんなの絶対にイヤ!

 絶対に別れないから!

 8年よ8年! こんなに待たせて私を捨てるの!」

 「捨てるんじゃない! 君を開放してあげたいんだ! その方が明美のためだと言っているんだ! わかってくれ!」

 「それを#捨てる__・__#っていうのよ!

 綺麗になったですって! それはあなたのためでしょう! 祐一を愛しているからこそ、綺麗になれるし綺麗でいたいの!

 女が美しくなれるのは愛する男がいるからよ!

 それは私と別れたい、祐一のただの詭弁よ!」


 明美は私にしがみついて泣いた。


 「祐一のバカ! 絶対に別れないから・・・。

 祐一のお嫁さんにしてよ・・・、祐一の嫌なところは直すから。

 お買物なんてもうしなくてもいい! ううううう」

 「ごめん・・・、明美」


 私はその場しのぎに明美を優しく抱き締めた。


 「ゆっくり風呂に入って休もう。また明日からお互いに仕事だから」

 「うん」


 彼女は頷き、キスをせがんだ。


 「仲直りのキスして」


 私は無言で偽りのキスをした。

 「偽る」とは、「人の為」と書く。私はこれ以上、彼女を傷付けることが出来なかった。




 その夜、明美は別人んのように私を求めた。



 「ねえ愛してる? 私を愛してる? 私の事、明美のこと愛してるって言って!」

 「明美、愛してるよ、とても」

 「もっと言って! 「明美、愛してる」って100回言って!

 そしてお願い、もっと強く抱いて! いっぱいキスして! 私に触って! 私を滅茶苦茶にして!

 お願い、もっと激しく!

 祐一が私から離れて行きそうで怖いの! 心配なの! 不安なの!

 あなたのいない人生なんて考えられない! 結婚して! 私と結婚して!」



 私はそれに答える代わりに強く明美を抱いた。

 そして明美を強く抱けば抱くほど、優子の顔が頭から離れなかった。

 

 私は自分の気持を偽ったまま、明美の寂しさを受け止めようとした。

 私は自分が情けなかった。


 軋むベッドのように、私の心も軋んでいた。




第15話

 それは月曜日の夜の出来事だった。

 日曜日の祐一とのことが忘れらなかった優子は、学校で沈んでいる祐一を見て、遂に夫との離婚を決意した。

 中途半端な穢れた不倫関係など、優子は決して望んではいなかった。

 優子は祐一との愛を真剣に考えていた。


 夫の陽介はテレビのクイズ番組に熱中していた。


 「あー、鎌倉幕府じゃなかったのかー」

 「ちょっと話があるんだけど」

 「これが終わってからにしてくれ」



 クイズ番組が終わった。

 勘の鋭い夫は言った。


 「俺たち、離婚しようか?」

 「えっ?」

 「いるんだろう? 惚れた奴が?

 大方、職場の同僚ってところか? 他に出会いはないもんな?

 マッチングアプリをやるほど、優は落ちぶれちゃいないしね?

 わかっていたよ、最初から。

 結婚した時から。いや、その前から俺じゃダメだとわかっていた。

 俺は優ちゃんが俺を好きになってくれるのをじっと待っていたんだ。

 お前の心の扉に隙間が出来るのをじっと待って、失恋したお前を慰めるふりをしてその扉を無理やりこじ開けた。

 優ちゃんのダメージは相当だったようで、あっさり俺を受け入れてくれた。

 わかっていたんだ、俺じゃダメだということは。

 お前は誰でも良かったんだよ、そうだろう?」

 「あなたはやさしくしてくれたわ。

 でも、私はあなたに何もしてあげられなかった。

 ひどい女よね? あなたのやさしさに付け込んで・・・」

 「悪いのは俺の方だよ。優ちゃんと俺では月とスッポンだから。

 身の程も知らずに、お前に惚れた俺が間違っていた。悪いのは俺の方だ。

 いつかこうなることは始めから分かっていたのに。

 俺たちは正反対だからな?

 俺は焼酎で君はワイン、俺はクイズ番組が好きだが君はドラマが好き。

 俺はドラマは見ない、まどろっこしい恋愛ドラマなんてイライラするだけだ。

 それに初回を見ただけで、だいたいの結末は想像がつくしね?

 俺は洋食が好きで君は和食が好き。

 僕はアウトドア派で君はインドア派。

 僕はうどんが好きで優ちゃんは蕎麦が好き。

 それにセックスの相性も悪く、レスが続いている。

 俺は君に感じたフリをされて、昔の男を想い出している優ちゃんを見るのが耐えられなかった。

 今まで君を閉じ込めておいて、本当にすまなかった」

 

 優子はソファーテーブルに離婚届を静かに置いた。


 「ペンと印鑑を持って来てくれないか?」


 優子はペンと印鑑を夫の前に置いた。


 「へえー、離婚届って本当に緑色なんだね?

 テレビで見たのと同じだ。

 緑色って癒しの色だからね? 手術着も昔はグリーンだったもんなあ。

 人は自然の中で生活していたからなのかなあ? 緑色はやさしい色だね?」


 夫は離婚届にスラスラと躊躇うことなくサインをし、捺印した。

 心の中から追いかけてくる罪悪感、だがもう後戻りは出来ない。


 「僕は職場に近い賃貸に引っ越すことにするから、君はこのままここに住めばいい。

 もう別の男と暮らすのが決まっているなら君たちがどうするかは自由だ。

 賃貸で良かったよ、これが俺たちの共有名義だったら面倒だったから。

 取り敢えず、不動産屋に名義の変更をしておこう。

 俺が使っていた物は要らないだろうから俺が貰っていくことにする。

 ソファとかダイニングテーブル、洗濯機とか、それとベッドも。

 テレビはもっと大きい物を買いたいから、ここへ置いていく。

 後は要らない物は処分してくれ」

 「ごめんなさい、わがままを言って・・・。

 あなたが悪いんじゃないの、悪いのは私だってわかってる。

 わかっているけど、私は自分の気持ちに正直でいたいの。これ以上自分の気持ちに嘘は吐きたくないから。

 あなたには本当に申し訳ないと思っている。でも駄目なの、心が、心が追いついていかない・・・。ううううう」

 「大丈夫だよ、夫婦なんて服や帽子、靴みたいなものさ。

 所詮僕たちはサイズやデザインの合わない服を着て、靴擦れしたまま、血を流して歩いていたようなものだったんだ。

 優ちゃん、今度はしあわせになりなよ。俺が言うのもヘンだけど」

 「許して欲しいなんて思わない、私を憎んでくれていい。

 私はずっと罪を背負って生きていくことにする。ううううわああああーーーー!」

 

 テーブルに放置されたままの離婚届が、晩秋の夕暮れの道に落ちた落葉のようだった。




第16話

 離婚届を役所に提出した時、手が震えた。


 結婚する時よりも離婚する時の方が精神的重圧は大きい。


 結婚してすぐに、夫の陽介は子供を望んだが、私はそれを拒否した。



 「ごめんなさい。子供はもう少し仕事が落ち着いてからにしたいの」


 夫はそれを承諾してくれた。

 私は無意識のうちに離婚という可能性を感じていたのかもしれない。

 だがそれが結果的に救いではあった。

 子供がいると、子供の将来を危惧して妥協することにもなりかねなかったからだ。

 子供は嫌いではないが、子供によって自分の人生を変えることはしたくなかった。

 

 私は自分の人生に、まだ迷いがあった。


 子供はやがて親元を離れ巣立ってゆく。そして愛のない仮面夫婦だけが残されるのだ。


 愛する人の介護であれば献身的にも尽くせるが、義務としての介護は地獄だ。

 とても下の世話など出来るはずもない。


 人生100年時代、人は死ななくても衰えていく。

 健康なまま、意識がはっきりしたままの100才ではない。


 

 私は気分を変えるために映画でも観ようと思ったが、さほど興味を引く映画もなかった。

 ひとまず近くのカフェでお茶をすることにした。



 白と水色、そして金モールを基調としたそのカフェには女性客が殆どだった。

 私はチーズスフレとカフェオーレを注文した。


 思いの他スフレが甘かったので、キリマンジャロにすれば良かったと後悔した。


 (一体結婚って何だろう?)


 結婚することに意味はあるだろうか?

 結婚しなきゃいけない法律もないのに・・・。 


 結婚して子供を産み、育てる。

 そのためだけに結婚するの?

 それとも一人じゃ寂しいから?

 老後の心配もある。人の世話にならないとも限らない。

 相手が好きだから? 愛しているから結婚するの?


 そうじゃない。結婚とはお互いを法律的に所有する権利だ。



     あなたは私の物 他人には渡したくない



 要するに法律的に配偶者の所有権を主張し、他人からその関係を脅かされないための約束事なのだ。

 

 だが、愛があれば結婚に拘る必要はないと私は思う。

 愛があれば結婚せずとも相手に尽くすことも、愛されることも出来るはずだ。

 世間からの非難を覚悟すれば子供だって作ることは可能だ。

 現にフランスではそうだった。

 つまりそこに真実の愛があれば、彼らは結婚に拘ることはない。

 事実婚で十分だからだ。

 そしてそのための法整備もなされている。



   結婚しているんだから当然そうするべき



 という常識はおかしい。


 (結婚とは義務なの?)


 掃除をして洗濯をして、食事の用意に子供や夫の世話をする。そんなの家政婦と同じじゃない。

 妻とは公認された娼婦なの?


 女はどうして結婚すると苗字が変わるのだろう?

 夫婦別姓でなぜいけないの?

 子供も好きな姓を名乗ればいいじゃない?

 親からもらった名前と自分で選ぶ姓、それはおかしなことなの?

 私は旧姓の上野に戻り、なぜかホッとした。


 両親には相談していなかったので事後報告になる。

 娘が傷物になったと嘆く親ではなかったが、両親はいつも私の意見を尊重してくれた。

 パリへの留学もそうだった。



 「あらパリなんて素敵じゃないの? ママとパパも遊びに行けるわね?」



 それは娘の私を信頼してくれているからだ。

 おろらく今度もこう言うはずだ。


 

 「優子が決めたならそれでいいんじゃない? ねえパパ?」

 「ああ、優子の部屋はそのままにしてあるからいつでも帰っておいで。

 優子はいくつになっても僕たちの子供だからね?」



 祐一には明美さんという恋人はいるが、彼女はまだ祐一の奥さんではない。

 そして私も今日、人妻ではなくなった。

 つまりそれは条件的には同じになったということだ。   

 私も明美さんも祐一を愛する資格は同じなのだ。もう不倫ではないのだから。


 そして祐一は今、明らかに迷っているはず。

 薔薇のような華やかな明美さんと、秋風に揺れるコスモスのような私。どちらを選ぶべきかと。


 祐一が私と交わることをしなかったのは、明美さんを愛していたからではない。

 それは、#けじめ__・__#がつけられていなかったからだ。

 祐一は誠実な男だ。

 ただ肉欲に任せて女を抱くような男性ではない。


 たとえ彼が彼女を選んだとしても後悔はない。

 対等の立場で祐一を愛することが出来る、それだけで私は幸せだった。

 結ばれることよりも、愛せることが悦びなのだ。


 私は結婚指輪を外し、カフェオーレを飲んだ。


 奪う恋も恋は恋。

 店内で聞こえるヴィバルディは、今の私にはミスマッチだった。





 職員室でデスクワークをしていると、田村先生に空いている教室に引き摺り込まれた。


 「ねえねえ、東野先生。ゆうこりんから聞いた?」

 「何をです?」

 「そっかー、その顔はまだ知らないということね?」

 「何ですか? もったいぶらずに教えて下さいよ」

 「タダで? どっしよっかなー? 

 じゃあさ、じゃあさ、『えびや』のうな重の特上でどう? もちろん肝吸とお酒付きで? それから奈良漬もね?

 お酒は久保田の『万寿』でどう?」

 「わかりましたよ、それでどうしたんですか? ゆうこりん先生?」

 「彼女、水島優子じゃなくなったのよ。場合によっては「東野優子」になったりして。このスケベ!」

 「それは水島先生が離婚したってことですか?」

 「実はね、ゆうこりん、前から悩んでいたの。

 私はいい決断だったと思う。だって彼女、まだ30よ、あなたと2つしか違わないじゃない?

 好きなんでしょ? ゆうこりんのことが?」


 優子が離婚・・・。


 「ゆうこりんはなんて言っているんですか?」

 「なんだか五月晴れみたいだったわよ。スッキリした顔してたもん。あはははは」




 放課後、私は職員玄関で優子が出て来るのを待った。


 「水島先生」

 「あら、東野先生。今帰り?」

 「ちょっとお時間いいですか?」

 「田村先生から聞いたのね? どこが口の堅いハマグリなのよ。

 私も電話しようと思っていたところ、少し話しましょうか? お酒でも飲みながら」


 その夜、私は優子に対する遠慮が消えた。




第17話

 イタリアン・ダイニング・バーにやって来た。


 「お洒落なお店ね? よく来るの? 明美さんと?」

 「この店は僕の隠れ家なんだ。

 一緒に来たのは君が初めてだよ」

 「そう、ならいいけど。

 彼女さんと来るお店には来たくはないから」

 「何を飲む?」

 「祐一と同じ物で。でもちょっとメニュー見せて」


 私は優子にメニューを渡した。


 「メニューがごちゃごちゃしていないのがいいわね? シンプルで。

 あれも出来ます、これも作れますって言うお店って信用出来ないじゃない?

 内科も産婦人科も皮膚科もやってるクリニックみたいで。

 んー、サラダはゴルゴンゾーラと小松菜とジャコのサラダがいいかなあ? それからハニーピザとイカのフリッター。へえー、アンティチョークとボッタルガもあるんだ? じゃあそれも」

 「それ、俺のいつもの定番メニューだよ。

 じゃあ最初はモルツの生でいい?」

 「生がモルツなんだ? モルツの生って大好き。

 中々ないんだよねー、アサヒとかキリンが殆どで」


 どうやら私と優子は、飲食の好みが合っていたようだ。

 それがうれしかった。



 私たちは静かにグラスを合わせた。


 「素敵なグラスね? 私、グラスは薄ければ薄いほど好きななの。飲み口がいいから」

 「俺もそうなんだよ、居酒屋のジョッキはあまり好きじゃない。

 特に大ジョッキはすぐに炭酸が抜けて温くなるからね? 一度に大量に飲む場合は別だけど」

 「それにお客から厨房が見えない居酒屋って、グラズが臭いお店も多いわよね? 食器と一緒に洗うからなのかなあ?」

 「食洗器が汚れているのが多いよね? カビとかヘンな酵母菌が繁殖したままだったり、ここはちゃんと別にグラスの洗浄機があるから安心なんだよ。そうだよね? マスター?」

 「小さなクッチーナ(台所)ですからね? それくらいはやらないと。

 それに私が酒好きで、パスタも毎日食べても飽きませんから」

 「締めはいつものアレをお願いします」

 「かしこまりました」



 この店はマスター夫婦と女性スタッフが2名の小さなダイニングバーだったが、店は多くの常連たちでいつもいっぱいだった。


 「近くに大きなホテルがあるから、たまに芸能人もここにやって来るんだよ。

 この前は昔、一世を風靡した大物司会者タレントがひとりで飲んでた。

 サインを貰おうか悩んだけど、止めた。

 静かに飲んでいたいようだったから」

 「やさしいのね? 祐一は」

 

 (何なんだろう? この自然体で話せるカンジは?)


 いい気分だ。気を遣うこともなく酒を飲み、食事が出来る幸福のひと時。

 こんな暮らしが出来たならどんなにしあわせだろう。


 明美とはフレンチや高級割烹が多かったせいか、優子とは気取らず落ち着いて食事をすることが出来た。



 「恵ちゃんから聞いたとは思うけど。私、昨日離婚したの」

 「・・・そうなんだ」

 「特に揉めることもなく、すんなりとサインしてくれた。円満離婚。

 ホントはね? ビンタされたりグラスを投げつけられたりされるのかと思ったんだけど、拍子抜けしちゃった。

 そうされたら少しは夫を恨むことが出来たのにね?

 自分が120%悪いことを思い知らされちゃった」


 私は愚かな質問をした。


 「どうして別れたの?」

 「それを訊く? あはははは」


 優子は私をジッと見つめ、そしてグラスのビールを一気に飲み干した。


 「お替わり」

 「そうだよね? 僕が君を愛してしまったばかりに。ごめん・・・」

 「何で謝るの? それ、間違ってるから」

 「えっ?」

 「僕が君をじゃなくて、私があなたを愛してしまったからよ」

 

 ゴルゴンゾーラの香りと優子の潤んだ瞳に私は欲情した。

 きれいな白い手で摘まんだハニーピザから淫らに滴るハチミツと蕩けるチーズ。それをぷっくりとした唇で、カラダをのけ反らせて受ける優子。

 とてもセクシーだった。



 「私、決めたの、祐一と結婚したい。

 明美さんにはあなたを渡さない。

 もう愛に妥協したくないの。私は全力であなたを愛することにした。

 明美さんを泣かせてもいい、周りからどんなに非難されてもいい。だって愛は奪うものだから」



 ビールからテーブルワインの白に変えた。

 あっという間にワインボトルが空になった。


 優子は緊張が解れ、家に帰る必要もなくなったこともあり、時間も気にせず饒舌だった。



 「ねえ、私のこと愛してる? 私の事、好き?」


 私はグラスに残ったワインを空けると、まっすぐに彼女の目を見詰めてこう言った。


 「もう君を愛さずにはいられない」

 「私も」


 私はマスターに頷いた。

 それはいつもの〆のパスタの調理開始の合図だった。



 「お待ちどうさまでした」

 「これ、ペペロンチーノじゃない? これが特別なパスタなの?」

 「ペペロンチーノとは「鷹の爪」のことなんだ、本当は「アーリオ・オーリオ・ペペロンチーノ」というべきなんだ。

 つまり、ニンニクとオリーブオイル、そして鷹の爪だけを使ったシンプルなパスタ料理だ。

 だからこそ難しい。パスタとは本来、麺を楽しむものだからね?

 さあ、食べてごらんよ」


 スルスルッとフォークにそれを巻き取り、口に入れる優子。

 喉越しを楽しむように、うっとりとした表情で彼女は言った。

 

 「こんな美味しいパスタ、初めて食べた!」

 「良かった、気に入ってくれて。

 僕たちもこんな飾らぬ愛を育てて行こう」

 「・・・うん」

 

 優子は泣きながらパスタを食べた。




 私たちは私の家に一緒に帰り、初めてお互いの愛を確かめ合った。


 それは私たちが忘れていた、本当の愛の形だった。

 私たちは何も考えず、ただひたすらお互いを労るように愛の行為を続けた。


 かつてアダムとエヴァがそうであったように。




第18話

 フライトを終え、明美は羽田から祐一のマンションへ直行した。

 合鍵で玄関を開けると、ブラウンのパンプスがすぐに目に入った。


 (女?)


 煮こみ料理のような匂いがしている。

 部屋の中に入って行くと、キッチンには若くて綺麗な女がいた。


 「あのー、どちらさまで?」

 「私、祐一さんの愛人です」


 ニッコリ微笑む優子がそこに立っていた。

 かわいいフリルのついたメイドのような白いエプロンを着け、チラリと明美を一瞥すると、そのまま料理の手を休めようとはしなかった。


 「愛人ですって! ふざけないで! なんでアンタがここにいるのよ! どうやってここに入ったの!」

 「窓から入るわけないじゃないですかー? ここは8階ですよ、鍵を開けてちゃんと玄関から入りました。

 祐一さんから預かったこの合鍵で」

 「祐一があなたに合鍵を?」

 「ええ、ほら」


 優子は食器棚に置いてあった、ダッフィーのキーホルダーの付いたマンションの鍵をひらひらと振って見せた。

 明美はすぐに震える手で祐一に電話を掛けた。


 「もしもし祐一? 何なのこの女! 説明して!」


 優子は興奮を隠せない明美を見て笑っていた。


 「間もなく着くよ」

 「すぐに来て!」



 明美はベッドルームに入ると言葉を失った。

 カーテンもベッドカバーも、そして枕もすべて交換されていたからだ。

 それどころかベッド自体が変わっていた。

 

 「私が選んだカーテンやベッドカバー、枕はどうしたの! ベッドまで変わっているじゃない!」

 「捨てたわよ、選んだのはあなたでも、お金を出したのは祐一だって聞いたから。

 だって、明美さんの匂いが染みついたベッドなんて気持ち悪いから。

 あなたたちふたりがエッチしたベッドでなんか出来ないじゃない? うふふ」




 私が部屋に入ってすぐ、明美に拳で殴られた。

 1発、そしてもう1発と、明美は泣き喚きながら私を殴り、蹴った。

 もちろん私は抵抗せず、されるがままになっていた。それは覚悟の上だった。



 「信じらんない! どうして! どうしてこんな、こんな酷いことをするのよおおおおおー!

 何が気に入らないの! 私のどこがダメなのよおおおおー!」

 「明美は何も悪くないよ、悪いのは僕だ。

 僕は君を満足させることが出来ない、別れて欲しい」


 私はその場に手を付き、土下座した。



 「イヤ! 絶対に別れない! 別れないって言ったわよねえ! 死んでも別れないから!」


 すると今度はその矛先が優子に向けられた。


 「出て行きなさい! 今すぐ!」


 パアアーン


 明美は優子に平手打ちをした。

 だが優子は怯むことなく笑っていた。


 明美はそれでは収まらず、両手でエプロンを掴むと優子を強く引き倒し、エプロンの肩紐が切れた。

 それでも優子は抵抗せすに笑っていた。


 「やめろ明美! その人は関係ない、悪いのは俺だ。やるなら俺を殴れ!」


 私が優子を庇ったことで、明美の理性は吹き飛んでしまった。

 明美はキッチンに置かれていたペティナイフを手に持つと、


 「あなたたちを殺して私も死ぬからあー!」


 すると優子が明美の前に静かに立った。


 「あなたは恋人で私は愛人、ラ・マンよ。

 祐一はあなたのことが好きなの。明美さんのことを愛しているからこそ、あなたを自由にすることに決めたのよ。

 あなたは祐一の手の届かない、華やかな大輪の薔薇になってしまったから。

 私たちのような高校教師のお給料ではあなたをしあわせにすることが出来ないって、いつもこの人は悩んでいた。

 明美さんの気持ちはわかる、私も女だから。

 でも大人の恋には好きだからこそ、愛しているからこそ別れなくてはいけないこともあるんじゃないかしら?

 あなたの美しさは私の比じゃないもの。私も今日あなたに会ってびっくりした。

 「負けたな」って思った。

 あなたはもっとセレブになるべき女なのよ。

 私のように焼酎の似合う女じゃなくて、あなたはロマネコンティが似合う女。

 刺したければ私を刺せばいい。

 私は夫と離婚したの、祐一を真剣に愛するために。

 私もこの恋に命を賭けているのよ。

 だから死ぬのなんて怖くない」


 明美はナイフをシンクへ放り投げた。



 「冗談よ、あんたたちがどんな顔をするのか? 試しただけ。

 あなたも本気なのね? バカみたい、たかが恋愛じゃない?

 私が祐一と付き合って何年になると思う? 8年よ8年!

 その間、私は祐一に何も強請ねだることはなかった。

 バッグも服も靴も時計も、みんな自分の稼いだお金で買った。

 あなたにはわからないかもしれないけど、CAの世界はファッション業界と同じなの。

 ダサいカッコをしていたら、すぐに舐められてしまう。

 おしゃれは武装なの、私たちCAにとっては鎧なの。

 そして私は結婚してCAを辞めても働くつもり。祐一になんか頼らないわ!」

 「それって、結婚する意味ってあるの?」

 「別にいいでしょう? 奥さんが旦那より稼いだって何が悪いのよ?」

 「いくら俺でもそれはイヤなんだ」

 「どうして?」

 「僕は自分の稼ぎの範囲内で君をしあわせにしてやりたいんだ。

 君はブランド品が好きだし似合うと思う、でも僕はユニクロで十分なんだ。

 生活についての考えが違うんだよ、僕は君にふさわしくない男なんだ」

 「さっきからごちゃごちゃ言ってるけどさあ、結局私のことが嫌いなんでしょう?

 そうじゃなければ彼女に合鍵なんて渡さないもんね?」

 「鍵を下さいと言ったのは私よ」

 「いいわ、仮に100歩譲ってそうだったとして、別れるにしてもこんな残酷なやり方ってある?

 祐一に1秒でも早く会いたくて、羽田からそのままここに直行して来たのよ? そうしたら知らない女がエプロンを着て食事の用意をしているなんて、普通ならあり得ないことでしょう?

 物事にはプロセスがあるじゃない? 別れることをお互いに納得するプロセスが?

 レストランとかカフェテリアとか、クルマの中でとかさあ?

 いきなりこんなの酷いわよ。しかも2対1で」

 「ゴメン」

 「ごめんなさい」

 「なんだか何もかも嫌になっちゃった。

 私、バカみたいじゃない・・・、ううううう」

 「わかったわ、今日は3人でとことん朝まで飲みましょうよ。

 そしてお互いの想いをぶつけるの。それでどう?」

 明美さんは私のことが嫌いかもしれないけど私は嫌いじゃないわ、明美さんのこと」

 「どうして? ビンタしたのに?」

 「私だったら刺してたもん。躊躇うことなくね?

 私は明美さんのことは好きよ、恋のライバルだけどね?

 だって祐一が惚れた人だもん、学校でもいつも自慢してたのよ、あなたのこと。

 ねっ? 祐一?」

 「・・・」

 「なんだかいっぱい怒ったら、お腹空いちゃった。

 それじゃ、一時休戦ということにしましょうか?

 でも、まだ別れると決めたわけじゃないわよ」

 「さあ、今夜は飲みましょう、食べましょう! そして語り合いましょう!」


 そして奇妙な宴が始まった。




第19話

 「私、あやまらないわよ。

 不倫してたのはアンタたちの方なんだから。

 信じらんない! いきなり家に上がり込んで手料理まで作るなんて!

 この泥棒ネコ!」

 「謝って欲しいなんて思わないわ。だって殴られて当然だもの。

 キックされるかと思った。

 でも不倫じゃないわよ、明美さん結婚してないじゃない?」


 明美は3本目の缶チューハイを開けた。


 「じゃあ浮気、浮気よ! 私という最高の彼女がいながらアンタなんかと!

 いつから浮気してんのよー、アンタたち」

 「ずっと前からよ」

 「えっ! 何それ! キックするからお尻出しなさいよ!」

 「ずっと祐一のことを想っていたってことよ。

 私の片想い。

 明美ちゃんが浮気だっていうなら、愛情を持って想っただけでも浮気でしょ?

 たとえ手を握らなくても」

 「それはそうよ、何もしなくても相手に好意を持ってランチをしたら浮気だもの。

 わかったわ、それじゃあ質問を変える。いつ祐一とやったの?」

 「夕べ」


 優子は普段は吸わないタバコに火を点けると、そう言って気怠そうに煙を吐いた。

 年上の女の色香が美しく、それに明美は嫉妬した。


 「夕べ? 昨日ってこと!

 1回やっただけでもう同棲! ありえない!」

 「そうよ、「善は急げ!」って言うでしょ?」

 「善じゃないし! 最悪」


 明美は哀しそうな目をして、優子の作ったロールキャベツを口にした。


 「何このロールキャベツ? 塩味が足りないじゃないの! 不味まずっ」

 「そうよ、だってケチャップを掛けて食べるから。ハイどうぞ」


 優子は明美にケチャップとマスタードが添えられた小皿を渡した。


 「祐一はね? そんなの掛けないの!

 私のロールキャベツの方が好きなんだから! ねえ祐一?」


 私は料理には手を付けず、ジャックダニエルのハイボールを飲んでいた。

 とても食べ物が喉を通る状況ではない。

 私は無言のオブザーバーに徹していた。

 頭の中でビートルズの『The fool on the hill』がエンドレスで鳴っていた。


 

 「どうせ罰を受けるなら、早い方がいいと思ったからよ」


 優子が水割りを飲んだ時、グラスと氷の触れ合う音がした。


 明美もチューハイを飲み、ロールキャベツを食べた。

 優子が置いたケチャップとマスタードを付けて。


 

 「祐一、どうしてこの女と付き合うことにしたの?」

 「ラクだから」

 「何、そのラクだからって? 何がラクなのよ!

 エッチがラクなの!」


 私はくだらない弁明をした。


 「こうしなきゃ、ああしなきゃって思わなくていいからだよ。

 明美といると、あれもしなきゃ、これもしなきゃ、あれもしてあげたい、これもしてあげたいっていつも考えてしまう。

 だけどそれが叶えられない自分にストレスを感じていたのも事実だ。

 君はどんどん輝いて、僕の手の届かないところへ行くような気がした」

 「それはただの言い訳でしょう? この女とやりたいだけじゃない、バッカみたい!」


 明美は自分のチューハイを飲み干し、私のバーボンを飲んだ。


 「私にも言わせて、祐一のあなたに対する愛情は今も変わっていないと思う。

 好きだから、大切にしたいから別れようとしたの、明美ちゃんと。

 少なくとも私にはそう思えた。

 だから私はそこにつけ込んだだけ。

 どう? このロールキャベツ、美味しいでしょう?」

 「微妙。どこの世界に自分の彼の浮気相手が作った料理を誉める本妻がいるのよ!」

 「愛人が作った料理を食べる彼女もいないけどね? あはははは」

 「それもそうね? あはははは」

 「でも良かった、食べてくれて。

 明美ちゃんにも食べて欲しかったから。お詫びの印として」

 「ちょっと、毒なんか入れてないでしょうね?」

 「あは、その手があったか? 思いつかなかった」

 「だってしょうがないでしょう、怒ってお腹空いてたんだもん。

 何も食べないで羽田から直行して来たのよ、祐一に早く会いたくて」


 明美は私を睨み付けた。

 だがそれは悲しく、慈愛に満ちた物だった。


 明美はまた、ロールキャベツを食べた。

 美味しそうに。



 自分を愛してくれる女性が目の前でお互いの想いを話している。

 まるでメスの虎とライオンが話をしているようで、どちらも美しい獣のようだった。

 女は強いものだ。特に恋愛については。



 「私ね? 好きじゃない人と結婚したの。

 好きな人から裏切られてボロボロだった私に、夫はすごくやさしくしてくれた。

 私はそのやさしさに縋ったの、とても辛かったから。

 そんな時、彼からプロポーズされた。私は何も考えずにそれを受け入れた。

 今思うと誰でも良かったのかもしれない。大好きだった彼を忘れるために。

 いい人だとは思う、でも好きじゃない。心の底から愛せなかった、夫のことが。

 夫も私のそんな気持ちをわかっていたと言ったわ。

 そのままズルズルとルームシェアみたいな生活を続けた。

 だからね? もう妥協したくないの。何を失ってもいい、たとえその想いが叶えられなくても。

 私は自分が納得出来る人生を生きることにしたの。

 自分の人生に後悔したくないから」

 「後悔のない人生なんて、あるのかしら・・・。

 だって人生って殆ど辛いことばかりでじゃない。今のこの状況みたいに・・・」

 「ごめんなさい。でも私は諦めないわよ、祐一のこと。

 だってそれが自分の本心だから。

 世間体がどうとか、常識とか明美ちゃんのことも考えない。

 そんなこと考えてたら何も出来なくなってしまうから。

 だって愛は勝つか負けるかでしょ?」

 「ヘンな人。

 世の中にはね? ルールってものがあるの!

 人の彼氏は盗らないっていうルールが!」

 「彼に捨てられた時、思ったの。

 彼が誰と付き合おうと、私と別れるのは決まっていたんだろうなあって。

 たとえ祐一が私を選ばなかったとしても、あなたとの別れはもう決めているんだと思う。

 あなたと祐一は合わない。

 明美ちゃんは女優さんみたいに綺麗だから」

 「アンタも美人じゃないの!」

 「明美ちゃんには負けるわよ。男性の憧れ、CAさんだもの」

 「おバカな優子。だから祐一が惚れたのか? バカだから。あはははは」

 「ありがとう。良かったバカで」

 「少し考えさせてよ。ハイそうですかってわけにはいかないから。

 もうこの話は止めましょう。さあ飲もう飲もう。

 祐一も飲みなさいよ、こんな美人たちと飲めるなんて、このしあわせ者!」

 「男冥利に尽きるわね? 祐一」



 明美と優子はまるで姉妹のようだった。性格が正反対の。


 私たち三人がただの兄妹だったら、どんなに良かっただろう。



 酒宴は朝方まで続き、いつの間にか優子と明美はそのまま眠ってしまった。

 ふたりとも眠れる森の美女のように。


 私はふたりにキスをしたい衝動を抑え、彼女たちを起こさぬよう毛布を掛け、静かに後片付けを始めた。




第20話

 「あー、あったま痛いー、飲みすぎたー。

 優子があんまり飲ませるからよー」

 「何言ってるのよー、自分で飲んでたくせに」

 「だってあんたの話が面白すぎて、つい飲んじゃたからよ、あたたたた、珍しく二日酔いしたーっつ」

 

 私は炭酸水にライムを絞り、鉢植えからミントの葉を摘み、氷を入れたロンググラスにミントを乗せ、彼女たちの前に置いた。

 

 「こういうところなのよねー、祐一のニクイところは。

 女みたい。普通の男はしないわよ、このタイミングでこれを出すイケメンなんて」

 「朝食、食べられるか?」

 「食べるに決まってるでしょ」

 「私、作ろうか?」

 「大丈夫だよ、フレンチトーストにするから。

 もう漬け込んでおいたから、あとは焼くだけなんだ」

 「祐一のフレンチトーストってね、お店みたいなんだよ」

 「それ以上だよ」

 「へえー、そうなんだあ」

 「成分調整していない牛乳にバニラアイスを入れるんだよ、それにグラニュー糖とバニラエッセンス、焦げ目が綺麗に出来るんだ。それに卵を溶いてきめ細やかな食パンをそこに漬けるだけ。

 それをバターで焼いて、お好みでハチミツかメイプルシロップをかける」

 「なんだかかなり甘そうだけど」

 「それに合わせてブラック珈琲かエスプレッソがいいのよー」

 「そうか、フレンチトーストというよりケーキなのね?」

 「タマゴはどうする?」

 「私は目玉焼き!」

 「私はスクランブルで」

 


 シーザーサラダと卵料理、それにフレンチトーストの朝食が食卓に乗った。


 「食べ終わったらふたりとも帰ってくれないか?

 話がつくまでどちらとも会わない方がいいと思うんだ」

 「そう、その方がいいかもね?」

 「わかったわ、私もこれからどうするか考えてみる」

 「ごめん、自分が悪いのに」

 「ホントだよ、あなたがやさしすぎるからこうなるんだよー、まったくもー!」

 「でも、祐一のそういうところが好きなんだけどね?」




 明美と優子は祐一の家を後にした。


 「ねえ、ちょっとお茶していかない?」

 「いいけど大丈夫なの? 二日酔い?」

 「大丈夫、大分良くなったから」


 ふたりは近所のカフェに入った。


 

 「アンタたちってズルいわよ、ふたりして芝居じみたことして」


 明美はそう言って、キュウイスムージーのストローを口に咥えた。


 「別にお芝居じゃないわ、だって私、祐一のことが本当に大好きなんだもん」

 「それにしては思い遣りのあるやり方だったけどねー」

 「私、諦めないわよ、祐一と付き合うために夫とも離婚したんだから」

 「それってさあ、祐一と付き合うためじゃなくて、旦那が嫌いだったからでしょう?」

 「ううん、だってそのままでも夫婦じゃなかったもん。ずっとレスだったし。

 私ね、コソコソ付き合うのがイヤなの、不倫は絶対にイヤ。堂々と付き合いたい。

 離婚するのって色々大変なのよ」

 「離婚した人たちがよく言ってるもんね、結婚より離婚の方が体力的にも精神的にも疲弊するって」

 「明美は祐一のことが本当に好きなの?」

 「好きに決まってるでしょ、そうじゃなかったら優子のこと、ぶったりしないわよ」

 「それはどうかしら? 昨日、一緒に飲んでいて分かったことがある」

 「何よ、それ?」

 「あなたも祐一との結婚に迷っているんだなあってこと」

 「占い師みたいなこと言わないでくれる?」

 「怒らないところを見ると図星なんだ?」

 「やめてよ、人のこと勝手にプロファイリングするの」


 優子の読みは当たっていた。

 同僚のCAたちが次々に裕福な男性と結婚してCAを辞めていく。

 スポーツ選手に起業経営者、芸能人、老舗旅館や和菓子の総本家の御曹司、医者や弁護士。

 たとえ離婚したとしても金銭的な不安は少ない。

 それは昨夜、優子と祐一に指摘された通りのことだった。


 付き合いが長くなって、いつの間にか明美は世の中の仕組みに気付き始めていた。

 いくら自分で稼ぐといっても、そんなに甘いものではないことも十分分かっている。

 かと言って今の生活レベルは落としたくはない。

 自分がスーパーの特売やバーゲンに並ぶなど、想像すらしたくなかった。



 「もちろん祐一のことは愛しているわよ。でもね、本当は結婚となるとちょっと考えるようになったのも事実。

 先日、ロスから帰国したら祐一に別れ話を切り出されたの」


 あの日曜日のデートの後だと優子は思った。


 「「絶対に別れたくない! 結婚して!」って言ったわ。

 でもね、夕べ、あなたたちを見ていて、そして優子と話しているうちに、アンタなら祐一を任せてもいいかなあって思った。

 だってアンタ、嫌いじゃないもん、女として。

 初めて会ったのに、ずっと友だちだったみたい」


 優子はレモンティーのレモンをスプーンでティーカップに沈めながら微笑んだ。



 「私も明美が好きよ、同じ男に惚れた女同士として。

 私も明美にあって色々話したら、片想いのままでもいいかなあって思っちゃった」

 「月曜日までには結論を出すわね、それまで少し待っていて」

 「ねえ、どんな結果になっても友だちでいてね」

 「うん、今度はふたりで女子会しようよ」

 「いいよ、ありがとう、明美」


 その時、明美の気持ちは既に決まっていた。

 優子と祐一のことを祝福してあげようと。


 

 優子と別れて店を出るとLINEが入った。

 この前のセレブパーティーで知り合った、青山医師からだった。



     今 日本ですか?

     今度、一緒に食事

     をしませんか?

     馴染のフレンチの

     店の10周年の記念

     パーティがあるん

     です


              いいですよ、

              日時と場所を教

              えて下さい


 

 明美の胸はときめいた。

 これから始まる恋の予感に。

 




第21話

 そのフレンチレストランは森に囲まれたシャトーのような佇まいをしていた。


 テレビや雑誌で見る政財界の人たちや芸能人など、かなりの有名人が集まっていた。

 先日のロイヤルスイートのメンバーよりも、さらにハイグレードなメンバーだった。



 「北野さん!」


 軽く右手を挙げ、青山が近づいて来た。


 「素敵なロイヤルブルーのイブニングドレスですね? とてもお似合いです」


 私は青山が「女扱いに慣れている」と感じた。

 少し派手かと思ったが、この場の雰囲気には間違ってはいなかったようだ。

 背中のざっくりと空いたカクテルドレスの女性も多かった。

 


 「凄い方ばかりなので気後れしてしまいます」

 「とんでもない、北野さんはここの誰よりもお綺麗です。では参りましょう」


 青山医師と私は周囲の注目を集めていた。



 「あの娘か? 今度の院長の女は?」

 「この前は女優のほら、あの女と付き合っていたもんな?」

 「まあいいじゃないか、離婚しているんだから誰と付き合おうと」

 「まあな」


 そんな囁きも聞こえていた。


 

 フランス人のメートルがやって来て、青山とフランス語で会話をしている。

 かなりの常連のようだった。

 


 「青山先生はフランス語も堪能なんですね?」

 「ボルドーに小さなワイン・シャトーを所有しているんですよ。今度、一緒に行きませんか?」

 「素敵ですね? ワイン・シャトーだなんて」


 私はそれを軽く受け流した。


 「ワイン好きが高じただけですよ」


 私たちは奥の席に案内された。



 ソムリエもフランス人で、分厚いワインリストを携えてやって来た。


 青山医師はワインリストから2つのワインを選び、今日の食事にはどちらが合うかと訊ねているようだった。

 ソムリエの意見を基に、彼はワインを決めた。


 

 「取り敢えずクリュッグで乾杯しましょうか?」


 私は青山とグラスを静かに合わせた。

 このシャンパンだけでも30万円以上はする筈だ。



 コース料理は物語のようだった。

 コンソメは金色に澄んでおり、そのひと匙を口にした途端、思わず溜息が出た。


 このひと匙のスプーンの中に、どれだけ多くの食材と手間が掛けられているか、その労苦が偲ばれる。

 圧倒的な存在感があった。


 キャビアをアレンジしたオードブル、ポワソンはホタテと手長エビにグリーンソースがとても鮮やかだった。

 木苺のソルベで口を一旦リセットさせ、ヴィアンドへ。

 

 ブルーベリーソースが掛けられた、鹿肉とフォアグラ、トリュフ。そして驚愕のデセール。

 マスカルポーネとベルギーチョコ、オレンジピューレの見事なハーモニーに私は日本にいることを忘れてしまった。



 「フランス料理はアラカルトで出て来ます。

 日本料理と似ていますよね? 温かい物は温かいうちに、冷たい物は冷たいうちにということでしょうが、カラダにも十分配慮された順番になっています。

 中世ではテーブルにありったけの料理を載せ、その豪華さと華々しさを競ったようですが」

 「お料理のレベルが違いますね? 日本じゃないみたい」

 「明美さんは世界中を回っていらっしゃるから、お口が肥えておいでだ」

 「どんでもない、私はただのCAですよ」 

 


 「いかがでしたか? 私のお料理は満足していただけましたか? 青山院長」


 オーナーシェフが私たちのテーブルに挨拶にやって来た。


 「ええ、とても。

 美味しいというより、感動しました。シェフの料理はもはや芸術ですよ」

 「そうですか? それは良かった」


 するとそこにひときわ華やかなご婦人が、数人のお供を引き連れてやって来た。



 「青山院長、あなたもいらしてたのね?」

 「これは大槻会長夫人、いつもお美しいですね?」


 その女性は品定めをするように私を見た。



 「こちらの方は?」

 「はじめまして、北野と申します」


 私は立ち上がり、挨拶をした。


 「モデルさん?」

 「いえ、キャビンアテンダントです」

 「ああ、英語が話せるウエイトレスさんね?

 青山さんも離婚したとは聞きましたけど、家政婦が欲しいならおっしゃって下さればいいのに。

 もっと#ちゃんとした__・__#女性をご紹介いたしますわよ。

 では、ごめんあそばせ」


 大槻会長夫人は取り巻きたちと去っていった。



 初めてだった、面と向かって蔑まれたのは。

 陰ではやっかみを受けることはあるが、はっきりと言われたことはない。


 「ごめんなさいね、彼女、そういう人だから。

 少し飲み直しませんか?」

 「ええ」


 

 クルマ寄せには深いワインレッドのロールスロイスが横付けされていた。

 

 運転手が恭しくドアを開けてくれた。

 まるで豪華な応接室がそのまま移動しているようだった。

 メルセデスには何度か乗せてもらったことがあるが、乗り心地がまるで違った。




 クルマはラグジュアリーホテルの前で停まった。

 青山は私をそのホテルの格式あるバーへと促した。



 「ここのオーキッド・バーは葉巻が吸えるんですよ。吸ってもかまいませんか?」

 「どうぞ、私は父がヘビースモーカーでしたので、あまり気にはしませんから」

 「そうですか? それは良かった。煙草が嫌いな女性は多いので。

 これはバニラの香りがするんですよ」


 青山は上物のハバナに火を点けた。

 バニラの甘い香りが広がった。


 「ホント、バニラの香りがしますね?」

 「今日はありがとうございました。

 あなたのような美女と食べる美食は格別でした」

 「なんだかお姫様になったような気分でした」

 「北野さんは私にとってのお姫様ですよ」

 「住んでる世界が違うと思いました」

 「何をおっしゃいます、同じ人間ではありませんか?」

 「私は英語が話せる#ただの__・__#ウエイトレスですから」

 「言いたい人には言わせてあげればいい。

 北野さん」

 「何でしょう?」

 「僕と結婚を前提としたお付き合いをしていただけませんか?」

 

 (来た。)


 ホテルのバーに誘うということは私を要求しているということだ。



 「私でなくともよろしいんじゃありません?

 もっと素敵な女性が青山先生の周りにはたくさんおいででしょうから?」

 「僕は「欲しい物は欲しい」という人間なんです。

 日本人は何でも回りくどい言い方をしますが、私はストレートなんです。

 私はあなたが欲しい」

 「私は高い女ですよ。うふっ」


 少し遊んでやろうと思った。

 

 「構いません、あなたを手に入れることが出来るのであればいくらでも」

 「お金ではありません。ハードルのことです。

 口説かれ難いんです、私」

 「それは燃えますね? 久しぶりにテンションが上がります。

 私は難しければ難しいほど、それにチャレンジしたくなる男です」


 

 私はマルガリータを一口飲んだ。

 グラスの縁に付いたソルトが鮮烈さを醸し出す。


 青山は私から顔を背け、葉巻の煙を吐いた。

 彼はロイヤルサルートを飲み干し言った、


 「では取り敢えず、お互いのカラダの相性を確かめてみませんか?」


 私はそれに答えるために新たにカクテルを注文した。


 「すみません、ジャック・ローズを」


 それは「果敢な冒険者」という意味のカクテルだった。




第22話

 スィートルームに入ると、青山はいきなり強引にキスをして来た。

 その時、青山が明美にかけた魔法が解けた。


 (違う、こんなのキスじゃない)


 明美は祐一のことを思い出した。


 (こんなのキスじゃない! キスとは脳が蕩けるようなもの、祐一がしてくれるキスのように!)



 「んっつ、止めて!」

 「どうしたの?」

 「そんなのキスじゃない!」

 「キスなんて、こんなもんだろう?」


 (こんなもの? キスが?)


 「帰る!」

 「なんだよ! 食い逃げかよ! 今夜、お前にどれだけ金を使ったと思っているんだ!

 たかがCAのくせに!」


 明美は財布から紙幣をすべて抜き出し、青山にそれを投げつけると泣きながら部屋を飛び出した。

 その涙は青山に対する悔し涙ではなく、自分の軽率な行動への怒りの涙だった。




 青山のベッドルームからネットビジネスでにわか成金になった平沢が出て来た。


 「院長、ダメじゃないのー、せっかくの上玉を逃しちゃあー。

 俺たち、もう普通のセックスでは満足出来ないのにさあー。

 カメラだってせっかくいいアングルで準備したのに何をしてくれちゃってんの?

 キメセク用のクスリも用意したのにー」

 「クソっ! あのビッチ、何様だと思ってやがる!」


 青山はハイバックの革張りの椅子に深々と座り、葉巻に火を点けた。



 「いい女だったのになあー。気位の高いCAをオモチャに出来ると思ったのにー。

 しょうがない、今度はボクがいいのをさらって来るよ。

 ナイスボディのインテリブスをね?

 そしたら院長、いつものように顔を変えちゃってよ」

 「どんな顔にしたいんだ?」

 「そうだなあ、さっきのCAみたいな顔がいいなあ」

 「米倉涼子か? いいだろう、俺は優秀な形成外科医だからな? あはははは」

 「あはははは、持つべきものは美容整形外科医だよ。かわいそうに院長の元奥さん、あんな顔にされちゃって、もう表を歩けないじゃん」

 「俺を裏切ってクソホストになんか貢ぐからだ。

 悪いことをしたらお仕置きをしてやらないとな?」

 「おー怖い怖い。

 院長を怒らせると顔をいじられちゃうからね? あはははは」

 「俺は綺麗な顔が好きなだけだ、醜い女はいらない」

 

 青山はルームサービスを呼んだ。


 「このホテルで一番高い酒を持って来い、今すぐにだ!」


 


 明美は自宅に帰ると、何度も激しく口を洗浄した。

 そして冷蔵庫からワインを取り出し、それで何度もうがいをした。

 

 シャワーを浴びボディブラシでカラダが赤くなるまで洗った。

 青山の葉巻の匂のいが付いた髪も丁寧に洗い、トリートメントをした。

 そして浴槽に浸かり、泣いた。

 声をあげて泣いた。



 「私はなんて馬鹿なの? 何を考えているの?

 品性のない、デリカシーもやさしさもない男に抱かれようとしたなんて。

 いくらお金持ちでも、あんな男となんて同じ空気を吸うのもイヤ!

 結婚なんて絶対無理。

 私が欲しいのはお金じゃないの、私が欲しいのは祐一の愛。

 祐一に会いたい、やっぱり諦められない、祐一のことが好き」

 

 明美は湯舟に口まで沈んだ。



 お風呂から上がり、温かいうどんを作って食べていると、また泣けて来た。

 ダイニングテーブルの上に置かれたスマホを手に取り、祐一に電話をしようとしたが止めた。


 「会わないって約束だもんね?・・・」


 明美は箸を置き、しばらく携帯を見詰めていたが彼に電話をかけしまった。

 5回のコールの後、祐一が電話に出た。


 「もしもし・・・」

 「やっぱり無理、祐一のことが忘れられないの」

 「・・・」

 「私、CAを辞める・・・」

 「どうして?」

 「辞めて祐一のお嫁さんになりたい! 私、祐一じゃないとダメなの! 祐一がいないと生きていけない!

 諦めようとしたけど駄目だった!」

 「僕は明美をしあわせにはできないよ」

 「私、気付いたの、女のしあわせはお金でもブランドでもない、好きな男とキスをして眠ることだって。

 今すぐ会いたい、会いたいの!

 すぐ来て、そしてキスして!」



 私はクルマのキーを取り、明美のマンションへ向かった。


 深夜の曲がりくねった首都高を走りながら、私は自問自答を繰り返していた。


  (これはやさしさなんかじゃない、狡さだ。

  俺は一体どうしたいんだ!)




 明美のマンションのドアを開けると、明美は私に激しくキスをした。

 私はそれに応じ、強く明美のカラダを抱き締めた。


 明美の泣き腫らした瞳を見詰め、私は泣いた。


 「すごく会いたかった、来てくれて、本当に、ありが、とう・・・」


 明美は指で私の涙を拭った。

 私は自分の想いとは裏腹に、その夜、また明美を抱いてしまった。




第23話

 優子は学校の廊下で大野由紀子に呼び止められた。


 「ゆうこりん先生!」

 「あら大野さん、どうしたの?」

 「ちょっといいですか?」

 「いいわよ、じゃあ美術室に行こうか?」

 「はい!」




 放課後の斜めの日射がダビデの白い胸像を輝かせている。

 絵具やカンバスの匂いのする美術室。



 「どうしたの?」

 「先生の初恋っていつですか?」

 「幼稚園の時かなー? 悟君っていう髪の毛が外人みたいに金髪の男の子でね、とてもいい匂いがしたなあ。

 どうしているかなあ? 悟君」


 大野は恥ずかしそうに言った。


 「高校生で初恋っておかしいですか?」

 「好きな男子、出来たの?」


 大野はコクリと頷いた。

 優子は自分にもこんな時があったことを懐かしく思った。

 ときめく恋、何も考えず、ただひたすらに「好き」という感覚。

 他には何も見えず、毎日が妄想と現実の中でいつも相手を想っていた。


 

 「どうやって告白したらいいと思います?

 メールやLINEなんてイヤなんです。何だか軽々しいみたいで。

 でもこの気持ちを彼に伝えたいんです!」

 

 今の女子高生の中にも、こんな純情な子もいるのかと優子はうれしかった。


 自分は小6でファーストキスを経験し、初体験は16の夏だった。

 男性経験は多い方ではない。

 今までに付き合った男性は夫の陽介を含めて4人だった。

 そのうち1人はアランというフランス人の画家志望の青年で、パリで絵の勉強をしている時の仲間だった。


 そして今、私は祐一を愛している。



 「先生、どうしたらいいと思いますか?」

 「相手は木村君ね?」

 「ヤダヤダ! 先生なんでわかるんですかあ! もうー、恥ずかしいー!」


 木村達也。女子たちからは「キムタツ」と呼ばれ、イケメンでスポーツ万能、それで成績も優秀という学校一の完璧なアイドルだった。

 いつもの冷静な優等生の由紀子とは違い、かわいらしい表情をしていた。

 恋は女を変える。



 「直には言えないわよね?」

 「無理無理! 絶対無理!」

 「木村君も医学部志望だったわよね?」

 「そうなんです、だから密かに同じ大学の医学部を狙っているんです、私」

 「だったら医学部に入ってからでもいいんじゃない? ライバルも減るし」

 「ダメですよ! 医学部には私よりかわいい子がたくさんいるんですからあ! 

 その前に自分の彼にしておかないと!」

 「それじゃあ手紙はどう?」

 「他の女子もやっています。この前なんかC組の洋子が木村君の下駄箱にあった他の手紙を捨てて、自分のと交換していましたから。

 木村君を狙っている女子は多いから大変なんです」

 「その子たちから恨まれるでしょうね? もし、木村君を独り占めしたら」

 「彼、A組の美穂ちゃんと付き合っているんです。私、美穂ちゃんから彼を奪うつもりなんです。

 先生、「愛は惜しみなく奪う」ものですよね?」


 私はハッとした。

 今の自分がそうだったからだ。


 有島武郎『愛は惜しみなく奪う』



    愛する相手のすべてを奪い、自己の物とする



 それこそが究極の愛だ。

 この子はそれを今、すでにその若さで体得しているというのか。

 この18歳の女子高生が。


 おそらくこの子はまだバージンだろう。男に抱かれたこともない女の子が他の女子から愛を奪う?

 大人でも子供でもない脆弱な年頃のこの子たちがする恋愛とは、クルマの路上運転に出たばかりの仮免許のようなものだ。

 だからこそ、この時期の恋愛は大切なのだ。

 その後の人生の恋愛観の根幹を形成することになるからだ。



 「その子たちにいじめられても平気なの?」

 「それは気にしていません。どうせ卒業ですから。

 それよりも木村君を自分だけの物に出来ない方が辛いです!

 受験も恋も絶対に負けたくありません!」

 「そんなに好きなの? 木村君のことが?」

 「はい、どうしたらいいでしょう? 私、美穂に負けたくない」


 他人事ではなかった。

 自分も今、同じ状況にあるからだ。

 祐一を諦めたくはない。明美には悪いが、もう恋愛に妥協したくはなかった。


 

 「大野さんの強みって何? 彼女よりも自信のあるところって?」

 「美穂ちゃんよりも成績がいい事・・・、かな?」

 「他には?」

 「顔は美穂ちゃんの方がかわいいし、オッパイもGカップだし、性格もいいし・・・」

 「ダメよそれじゃ! 最初から負けてるじゃない!

 もう既に気持ちで負けてる!」

 「そんなこと言われても・・・。

 どうしたんですか? 今日のゆうこりん、熱い」

 「先生もそうだったから。

 愛しているけど自信がなかった、だから大野さんの気持ちが先生には分かるの。

 ごめんなさいね? つい強く言っちゃったりして」

 「ゆうこりん先生もそうだったんですか?」

 「そうよ、その相手はCAさんでね、女優さんみたいに美人で、グイグイ押して来る人だった。

 先生、何も勝っていなかった。

 でもどうして先生は諦めなかったと思う?」


 私は敢えて「過去形」で話をした。


 「何でですか?」

 「それはね、私の方が彼を愛しているという自信はあったから。

 愛は惜しみなく奪うという想いと同時に、



    愛は惜しみなく与えるもの



 という表裏一体の想いでもあるの。

 相手のすべてを奪い、相手に自分のすべてを与える。それが本当の愛じゃないのかしら?」

 「自分のすべてを与える?

 それはエッチをするということですか?」

 「それはあくまでプロセスでしょう?

 赤ちゃんは絶対に駄目よ、子供も周りも巻き込むことになるから。

 今いちばん大切なのは、相手を想う気持ちなの。わかるわよね?」

 「なんだか勇気が湧いて来ました!

 やっぱり直接告白することにします! それでダメだったら彼のことは諦めます」

 「それは駄目よ」

 「えっ? どうしてですか?」

 「それは駄目でもいいという気持ちが最初からあるからよ。

 絶対付き合うんだという想いがなければ告白する意味なんてないじゃない?

 それなら黙って片想いのままでいる方がマシよ。

 だって傷付かなくて済むでしょう?

 それは大野さんの逃げよ」

 「どうしたんですか? 今日のゆうこりん先生、何だか変?

 今のご主人って、その人だったりして」


 (そうじゃないの、私たち夫婦はもう終わったのよ大野さん。それはあなたも知っている、数学の東野先生のことなの。先生も今、あなたと同じ気持ちなの)


 私はこの子に話しているのではなく、いつの間にか自分に向かって話していたのだ。


 

 「夫とは別の話。昔の恋人のこと。

 がんばってね! 先生、応援しているから!

 先生も大野さんの頃はそんなこともあったから」

 「ありがとうございます! 私、頑張ります!

 木村君のこと諦めません! 絶対に!」




 優子は仕事を終えるとすぐに祐一のマンションへと向かい、彼の帰りを玄関ドアの前で待っていた。


 2時間が経過し、彼が帰って来た。

 スーパーのレジ袋を両手に持った明美と一緒に。




第24話

 優子は私たちにゆっくりと近づいて、私たちにそれぞれ平手打ちをした。


 「うそつき!」


 彼女は目にいっぱい涙を浮かべていたが、かろうじてそれを零すことに耐えていた。

 それが彼女の意地だった。


 「違うんだ! 違うんだ優子!」


 優子はその場から走り出し、非常階段のドアを開けると階段を駆け下りて行った。

 エレベーターでは追いつかれてしまうと判断したからだ。

 私は彼女の後を追った。



 「待ってくれ優子!」


 そして同時に明美も叫んだ。


 「行かないで祐一! 行かないで! 私の傍にいて!」


 明美の制止を振り切り、私は優子を追って非常階段を駆け下りて行った。

 そしてすぐに優子に追いつくと、彼女の腕を掴んだ。



 「僕の話を聞いてくれ!」

 「何も聞きたくない! 祐一なんか大嫌い! ふたりで私を騙したのね!

 結局祐一は明美を選んだのね!

 来週、明美の気持ちが決まるまで会わないって3人で約束したのに! うそつき! わあああああ」


 私は優子を抱き締めようとしたが、彼女はそれを拒んだ。

 私は暴れる優子を必死で抱き留めた。


 すると優子の抵抗が次第に弱くなり、私たちは非常階段で強く抱き合った。


 「兎に角、話をしよう」


 優子は頷き、私たちはゆっくりと地下駐車場へと下りて行った。




 助手席に優子を乗せ、私は夜のハイウエイを宛ても無くクルマを走らせた。


 少し雨が降っていたが、それは間欠ワイパーで拭える程の雨だった。

 クルマのヘッドライトやテールランプが雨に滲んでいた。

 遠くにコンビナートが吐き出す炎が見える。

 様々な広告ネオンの森の中を飛んでいるかのように、私たちは無言で空虚な夜のドライブを続けた。



 「ごめん、黙っていて。

 昨日の深夜、明美に呼び出されたんだ。

 一瞬迷った、優子との約束があったから。

 でも、いつになく必死な様子だったので、僕は彼女のマンションを訪ねてしまった。

 どうやら金持ちの男と会って、その後、乱暴されそうになったと震えていた。

 彼女は僕を諦めて、その男と付き会おうとしたらしい。

 僕を忘れ、僕たちが付き合えるようにと」

 「それで彼女に同情して朝まで一緒にいたというの?

 私に内緒で?」

 「その通りだ、弁解の余地もない。

 僕は卑怯者だ、ロクデナシだ。

 君のことは愛している、それは本当だ。信じて欲しい。

 だから明美と別れることにした。

 それが僕たちにとって一番いい選択だと思ったからだ。

 そしてさっき、明美と最後の食事をするつもりだったんだ。

 僕は優子がいないと生きてはいけない。だが彼女は僕じゃなくても生きていける。

 いや、彼女は僕じゃダメなんだ!

 だから僕は、明美とは笑ってさよならがしたい。

 どんなに君が素敵な女でも、男というやつは付き合っていた女を忘れるには付き合った時間と同じ時間が必要なんだ。

 僕が明美と付き合った8年、明美を忘れるためにはそれと同じ8年の時間が必要なんだ。わかってくれ」

 「そう、じゃあ私と祐一が付き合ったのはまだ2週間だから、2週間で私を忘れられるという事なのね?

 だったら私たちが別れた方がいいんじゃない?

 女はすぐに別れた男のことを忘れることが出来るから。

 その方が誰も傷付かないで済むわ」

 「僕は君とこれからの人生を一緒に歩いて行きたい。恋愛とは付き合った長さではなく、深さだ。

 たとえ何十年つきあった夫婦でも、3秒前に出会ったふたりに敵わぬ愛も存在することもある。

 真実の愛とは時間軸を伴う三次元の数式では表現できない、未知の四次元の物なんだ

 だから頼む、もう少し時間をくれないか? 僕と明美が笑顔で別れるその日まで」

 「明美は祐一のことが好きなのよ、だから別れられないと思う。

 たとえ10年掛かっても100年掛かっても・・・」


 私はその優子の言葉に苛立ち、アクセルを踏んで前を走るクルマを追い越した。



 「戻ろう、祐一。

 私が明美と話をする」

 「君が話しても同じだ」

 「そうかもしれない、でもいいの、彼女に会って話すわ、自分のあなたに対するこの想いを素直に」


 優子は私の肩に頬を寄せた。

 私は高速を降り、自宅へと向かった。




 家に着くと、明美は自分のマンションには戻らず、ソファで横になっていた。

 どうやら泣いていたらしく、メイクが崩れていた。


 優子が明美に言った、


 「これでおあいこね? この前は私があんたにぶたれたから」

 「ごめんなさい、約束を破ってしまって」


 明美はゆっくりとソファから起き上がった。


 「私も内緒でここに来ちゃったんだから私も同罪。

 明美を責める権利はない。でも・・・、許せなかった。あなたたちが。

 仲睦まじく楽しそうにしているあなたたちが」

 「やっぱり私、どうしても祐一のことが忘れられない。 

 この間、優子に会った時は二人を祝福しようと思ったの。本当よ、優子になら祐一を譲ってもいいと思った。

 でも駄目だった。

 私、CAを辞めることにしたの。

 そしてスーパーのレジ打ちのパートをしてでも祐一と暮らしたい。

 だから許して、私が祐一と一緒になることを」

 「いくら明美がCAを辞めても無理よ、私は祐一のすべてが欲しいの。 

 それであなたを悲しませても仕方がない、だってそうでしょう? 愛は惜しみなく奪うものだから。

 そして愛は惜しみなく自分を捧げるものだから。

 私はあなたに何と罵られても、蹴られても殴られてもいい、しあわせになんかなろうなんて思わない! 私は自分の決めた人生を納得出来るように生きたいだけ!

 私も祐一のためなら今の学校を辞めてもいいと思ってる。

 彼のいい奥さんになりたいの、いつも傍で彼に尽くしたい!

 確かに私はあなたのように華やいだ才色兼備の女じゃないわ。でも祐一のことを愛すること、幸せにすることは絶対にあなたには負けない! 負けたくはない!」


 優子は台所へ行き、先日、明美が持ち出したペティナイフを手に取ると、掌でそれを素手で握り、ナイフを引き抜いた。

 それは一瞬の出来事だった。



 「キャーッツ!」

 「止めろ!」


 優子の手から血がポタポタと床に滴り落ちた。

 私はすぐにナイフを取り上げ、キッチンタオルですぐに止血をした。


 「バカなことはするな!」

 「何よそれくらい、私だってもっともっと祐一のことを愛しているんだから!」

 「いい加減にしてくれ! もうたくさんだ!

 僕は君たちのどちらとも結婚はしない! 一生ひとりで生きていく!」


 明美は救急箱を持って来ると、優子の手を消毒して止血をし、キレイに包帯を巻いてやっていた。


 「バカね? それほど好きなの? 祐一のことが?」

 「あなたもそうでしょう? 祐一を諦められないくせに」

 「なんで好きになっちゃったんだろうね? 私たち・・・」

 「似てるからじゅない? 私たち」

 「そうかもね・・・」


 

 私はその場に居たたまれず、シャワーを浴びようと風呂場へ向かった。

 

 熱いシャワーを浴びながら、私は彼女たちに対する自分の存在意義が何なのか、考えてみた。

 だがその恋愛方程式を証明することは出来なかった。

 


 風呂から上がると明美はいなくなっていた。

 

 「明美は?」

 「帰った、もう少し考えるって」

 「そうか・・・」

 「ねえ?」

 「なんだい?」

 「私は帰らないわよ、明美もそれでいいって。

 キスして、だって昨日したんでしょう? 明美と?

 ズルいよー、私にもして、私も愛して」


 私は優子の額にキスをした。


 「それじゃダメ、お口にして」


 つくづく私は駄目な男だと思った。

 私たちはそのままふたりで朝を迎えた。

 

 そしてまた振り出しに戻ってしまった。


 優子の手の白い包帯に、愛の強さと狂気を感じた。




第25話

 アムステルダムを経由して、パリのシャルル・ド・ゴール空港に着いた。

 一昨日のこともあり、フライトを終えた明美はクタクタだった。

 早く私服に着替えて、いつものカフェで落ち着きたいと足早に空港ロビーを歩いていた。

 すると背後から日本語で呼び止められた。



 「北野さん!」


 振り向くと、コ・パイ(副操縦士)の中谷が近づいて来た。


 

 「お疲れ様」

 「お疲れ様でした」

 「シベリア上空で気流が悪くて、揺らしてごめんね?」

 「中谷さんのせいではありませんよ、天候が悪いのは仕方がありません」

 「天候が悪いのは俺の日頃の行いが悪いからだよ。

 よかったら一緒に食事でもどう?」

 「ゴチになります。

 香織と祥子にも声を掛けますね?」

 「北野さんとふたりじゃダメかな?」

 「いいんですか? でもそんなことしたら他のCAからグーで殴られるかも。

 だって中谷さんはCAたちの憧れ、ターゲットですから」


 そういえば、優子に殴られたばかりだった。

 明美は笑った。

 

 

 「殴られる? それは大袈裟だなあ」

 「だってパイロットはCAたちのお相手候補、ナンバーワンですから。

 特に若くてイケメンのコ・パイの中谷さんは有望株です」

 「そんなことを言ってくれるのは北野さんだけだよ。

 じゃあ、ヒトサンマルマル(13:00)、コンコルド広場のオベリスクで」

 


 それだけ言うと、中谷はパイロットケースを持って颯爽と去って行った。

 制服姿の中谷の後ろ姿はとても品位のある物だった。


 中谷は合格率が6倍から8倍といわれる、最難関の航空大学校からライン・パイロットになったエリートだった。

 ウチのような大手航空会社でキャプテンになれば、年収2,000万円以上にはなる。

 家にいるのは月に10日ほどで、制服やYシャツは会社で洗濯、アイロン掛けもしてくれる。

 つまり、手間が掛からないのだ。


 しかも人命を預かるパイロットは肉体的にも精神的にも厳しいチェックを課せられるので、健康については人一倍気を遣う。

 それに試験や訓練も多く、パイロットと結婚したCAの話では、「こんなに勉強しなければならないの?」と驚いていた。


 コ・パイになってから15年ほどで機長昇格試験を受け、キャプテンに昇格する。

 中谷を狙っているCAは多く、香織や祥子も中谷の熱烈なファンだった。

 彼女たちとのガールズトークでは、


 「中谷さんっていいわよねー。制服姿を見るだけでアソコが潤んで来ちゃいそう!」

 「私も私も。あの笑った時の白い歯、チューしたいー!」

 「やっぱり結婚するならパイロットよねー、カッコいいしお給料もいいし、それに自慢出来るしねー。

 ウチの主人、パイロットですのよ、オーッホホホホ、なーんてね? あはははは」


 そんな彼女たちを差し置いて、中谷とふたりで食事?

 一体どういう風の吹き回しなんだろう? いつもはみんなで食事に行くのに・・・。





 航空業界に身を置く者として、時間厳守は当たり前だ。

 それはたとえデートや遊びでも同じだった。

 私たちはお互いに5分前に待ち合わせのコンコルド広場に到着していた。



 「あー、腹減ったー、肉でいいよね?」

 「飲めればなんでもいいです。私、主食はお酒ですから」

 「少しだけにしてくれよ、今はCAもアルコールチェックが厳しいからね?」

 「はいはい、では中谷さんがブレーキ役ということで」

 「俺も飲みてえなー、明日はフライトだしなあ。

 日本に帰ったら休暇だから、今度ゆっくり飲もうよ」


 (えっ、口説かれてる? 私)


 「中谷さんもお酒、好きですもんね?」

 「うん、酒も好きだけどあの雰囲気が好きなんだ」

 「私はどっちも好きです」

 「そうか? あははは」




 明美たちは近くの中世風のレストランに入った。

 明美はワインを一口飲み、ナイフを動かしていた。

 操縦士には特に厳しいアルコール制限があるので、中谷はハイネケンの小瓶を飲んでいた。



 「今日はどうして私を誘ってくれたんですか?」

 「なんだか明日、世界が滅びそうな顔をしていたから」

 「そんな顔してました? 私」


 彼は喉を鳴らしてビールを飲んだ。

 喉仏が上下するのを見て、明美は中谷に男性を意識した。

 多くの乗客の命を預かる仕事をしている中谷は魅力的だった。

 だがそれは自分には無縁なことだと思っていた。

 次の言葉を聴くまでは。



 「いつも君のことを見ているからね?」


 明美の手が止まった。


 「何か悩みでもあるの?」

 「今、付き合っている彼と、別れようかと思っているんです」



 自分で言った言葉に明美はハッとした。

 初めてプライベートで食事をした中谷に、相談すべき話ではなかったからだ。



 「その彼とは長いの?」


 中谷は明美を見ずに食事を続けながら訊ねた。

 そんな気配りの出来る男だった。


 「もう8年になります」

 「長いね? それは辛い決断だ」


 明美は頷き、リブロースを口に入れた。


 「別れようと考える理由は?」

 「彼のことが好きだから・・・」

 「そういうことってあるよね? 俺もそうだったから、北野さんの気持ち、よく分かるよ。

 俺は4年間付き合ったんだけど、彼女は素晴らしい女性だった。

 パイロットの俺では駄目だと諦めたんだ。

 でも後悔はしていないよ」

 「ヘンな話ですよね? 好きなのに別れなきゃいけないなんて?」

 「よく結婚と恋愛は別、なんて言うだろう?

 俺はそうじゃないと思うんだ。

 結婚って同じShip(飛行機)に乗って、いい時もピンチの時も、乱気流に巻き込まれた時も一緒にチカラを合わせて生きていくことなんじゃないのかな?

 いいことばかりじゃないのが人生だから。

 結婚するということは、不幸の時にお互いを支え合える覚悟があるかどうかだと思うんだ。

 だから結婚には愛が必要なんだと俺は思う。

 そこに愛情がなければいい人生フライトは出来ないからね?」

 「私、今、28だから焦っているのかもしれません」

 「結婚したらCAを辞めるの?」

 「本当は辞めたくないです」

 「俺と結婚すればCAを辞めなくてもいいけどね?」


 中谷はキャロット・グラッセをフォークで刺し、それを軽く言ってのけるとそれを食べた。


 「それじゃあ中谷さんのお嫁さんにしてもらおうかなあ」



 ワインと時差ボケのせいなのか、明美はヘンなことを口走ってしまったと後悔した。

 だが、中谷の答えは意外なものだった。



 「結婚してくれないか? 俺と」

 「冗談は止して下さいよー、そんなハイネケンの小瓶一本で酔うなんて。

 本気にしちゃいますよ?」


 明美は自分が一番かわいらしく見えるように計算し、悪戯っぽく上目遣いに中谷を見詰めた


 「俺は本気だよ。

 北野さんのいいところも、そうじゃないところもすべて知っているつもりだ。

 結婚を前提に、俺と付き合って欲しい。

 もちろん、今の彼との決着がついてからでいい。

 俺はいつまでも君を待つよ」


 明美の目から涙が零れ、赤いテーブルクロスに涙の染みが付いた。

 

 パンドラの匣から様々な罪、穢れ、嘆きや悲しみが飛び出して行ったその後に、


   「ボクは希望です、ここから出して下さい」


 明美はこの時、神様の存在を確信した。




第26話

 結論がつかぬまま、1週間が過ぎようとしていた。


 私は学年主任の佐々木先生から授業方針についての叱責を受けていたにも拘らず、それを無視して大学レベルの授業を続けていた。


 すると今度は校長室に呼ばれ、校長と教頭、学年主任と私の3対1の面談となった。

 当然私に勝ち目はなかった。


 校長の山下由紀子は東北大学の工学部を出た女性校長だった。

 2年前に教育委員会から移動して本校にやって来たエリートで、教職員や生徒たちからの人望も厚い。


 まず口火を切ったのは学年主任の佐々木だった。


 「東野先生、保護者から厳重な抗議がありました。

 あれほど私が忠告したにも拘らず、なぜ正規の授業をしないのですか?」

 「本校ほどの進学校が、レベルの低い授業をすること自体、誤りがあるのではないでしょうか?

 中学生に掛算九九を教える意味が私にはないと思います。

 現に彼らは高校でやるべき数学は既にマスターしているのですから、今更正規の授業と言われましても納得がいきません」

 「君はいつから文部科学大臣になったのかね?

 それが九九なのかどうかを判断するのは東野先生、あなたではありませんよ。

 もし、どうしてもそれがやりたいと言うのであれば、文科省のキャリアになるか? 政治家にでもなって文部科学大臣になるか? あるいはそれを容認してくれる別な私立高校にでも行くしかありませんなあ。

 あるいは大学院で数学の研究を続けるしかありませんね?」


 教頭は黙っていたが、山下校長が静かに話を始めた。


 「東野先生の考えは悪くはないと思います。

 でもね? 私たちは公務員教師なのです。わかりますよね?

 私たちは組織の一員なのです。教育方針を決めるのは私たち現場の人間ではありません。

 佐々木先生が仰るように文科省なの。

 それに異議を唱えることは出来ないということは理解できるわよね?

 東野先生の研究論文も読ませていただきましたが、本来なら院に残って研究を続けるべきだと思った。 

 あなたには高校レベルの数学を教えることに物足りなさを感じているんじゃない?」

 「そんなことはありません! 私はあの子たちに数学の面白さを教えてあげたいんです!」

 「それが大学レベルの数学を教えることなのかしら?」


 佐々木が口を挟んできた。


 「それは君の自己満足ではないのかね?」

 「・・・」


 私は議論しても無駄だと思った。

 ここの教師は先生ではない、地方公務員なのだと。


 国や教育委員会から指示されたことだけをやり、それ以上のことや提案もしない。

 定時に学校に来て決められたカリュキュラムを行い、定時で帰る。

 保証された報酬と休日、恵まれた労働環境。

 

 分譲地に家を建て、子供二人を大学へ出し、年金と蓄えで暮らす保証された確実な老後。

 それが証拠に教員の親たちは自分の子供を同じ教員にしようとするではないか。


 夫婦で教師なら、その辺の中小企業の社長よりも高収入になる。

 政治家ではあるまいに、世襲させたいほど、教師は旨みの多い仕事なのか?

 もちろん、そんな教師ばかりではない。優子や田村先生のような教師もいる。

 教職とはやろうと思えばキリがないし、生徒のことなど考えなければこれほどラクな商売はない。

 学校は利潤を追求する企業ではない、人間を育てる場なのだ。

 自分たちのために学校があるのではなく、子供たちのために学校があるべきだ。

 そして明日の日本を創るのは、これからの子供たちなのだ。

 

 日本の教育は「どれだけ知っているか? どれだけ暗記しているか?」のクイズのようなものだ。

 あきらかに考える力、独創性を育てる土壌がない。


 入るには難関でも、入ってしまえば大学でのサークル活動などでの恋愛ごっこに明け暮れ、そのまま社会に出て行く。

 欧米の名門大学とはシステムが異なるのだ。


 大学はより学問を追求する場所であるべきなのに、いつの間にか企業人を育てる予備校になってしまっている。


 ハーバードやケンブリッジなどの学生で、企業に就職したい学生は稀だという。

 雇われる側ではなく、彼らには雇う側としての野心があり、それが新しい物を生み出すエネルギーとなっているのだ。


 ビル・ゲイツやスティーブ・ジョブズ、ザッカーバーグ然りである。

 世界のソニーの創業者、井深大は技術者出身の経営者ではあるが、日本の将来は工学的才能を持った子供たちを育てることだと、「幼児能力開発協会」を設立し、数学的な天才を育成しようとした。

 国土が狭く、資源の少ない日本が生き残る道は教育しかないと考えたのだ。

 だから日本の学生が海外の大学に留学するとディベートすら出来ず、議論に参加することさえ出来ない。

 それは語学の問題以前に、「自分の考えがない」からだ。


 日本人の交渉力が劣るのは、活用できていない余計な詰め込み知識が多いからではないだろうか?

 調べればわかることを覚える必要はない。

 大切なのは思考力、発想力を育てることだ。


 「なぜ?」「どうして?」


 まだ日本語さえおぼつかない幼児のうちから英会話を習わせようとする英語コンプレックスの親たち。

 そんなことに意味があるのか?


 外地に半年もいれば、自然と語学は身に付いていくものだ。

 それは母親が子供に繰り返し言葉を教えるプロセスにも似ている。


 言葉を無理やり日本語にトランスレーションする必要はない。

 文化や生活習慣のことなる国の言葉を無理やり訳す必要はないのだ。

 だから小中高、大学で英語を学んで読み書きは出来ても肝心なコミュニケーションが出来ない。

 いちいち日本語に訳すことがそれを阻んでいるからだ。

 その言葉で考え、行動することが大切なのだ。


 アグネス・チャンの言う通りだと私は思う。


 「英語で話す時は英語で考え、日本語で話す時は日本語で考える」


 I love you は「私はあなたを愛しています」ではない。あくまで I love you なのだ。

 言葉はコミュニケーション・ツールであり、英語が出来ることがステイタスではない。

 アフリカのフランス領の子供たちは流暢にフランス語を操る。

 アメリカ人でも操れない複雑な文法や単語、イディオムは理解しても、日常会話すら出来ない日本人。

 

 だがそれでいいのかもしれない。日本では英語を使う機会が殆どないからだ。

 ではなぜ英語を学ぶのか?

 学びとは教養だからだ。


 数学もそうだ。仕事で微積分を使う人間は限られているし、分数すら使わないこともある。

 ではなぜ高等数学を学ばせる必要があるのか?


 それは数学は哲学であり、宇宙や神に通じる力があるからだ。

 私はその神秘性のある数学を教えることで、人生の視野を広げて欲しいのだ。


 人間の進歩、達成感は越えられない壁を越えた時に見える景色にある。

 私は心の中でそう呟いていた。


 山下校長は言った。

 

 「では結論を言います。

 東野先生は正規の授業を行って下さい。以上です」

 

 そして最後に教頭が言った。


 「わかりましたね? 東野先生?」

 「わかったのかとお訊きになられているんですよ? 東野先生。

 君は教師になってまだ6年だ。そのうち分かるよ、教師という仕事の本質がどういうものなのか」

 「少し、自分なりに考えてみます」

 「いいでしょう。では来週までに返事を訊かせて頂戴。

 それまでは正規の授業をすること。いいわね?」

 「わかりました」



 職員室に戻ると優子と田村先生が待っていた。


 「そんな顔しないの。しょうがないでしょう? 私たちは教師だけど公務員なんだからさあ」

 「東野先生、大丈夫ですか?」

 「僕は教師に向いていないかもしれません」

 「ううん、教師に向いているから悩むんだと思う。

 そんな東野先生は素敵な先生よ」

 「おろ? なになに? ゆうこりん、それって告白?」

 「やだなあもうー、違うわよー。

 だってあんまり東野先生がしょんぼりしているから・・・」


 優子は私をチラリと見た。

 その目には母性が宿っており、今すぐ抱きしめてあげたいという想いが私にも伝わった。


 「じゃあさ、じゃあさ。今日は東野先生を励ます会をしようよ。東野先生のお家で。

 会費は一人3,000円でどう? 私とゆうこりんで励ましてあげようよ!」

 「恵子先生は自分が飲みたいだけでしょー?」

 「まあねー。あははははは」

 「あはははは」

 「うふふふ」



 

 その夜、私の家でささやかな宴会が開かれることになった。


 「へえー、ここが東野先生のマンションかあ?

 結構いいところに住んでんじゃない? 今日は泊まっていっちゃおうかなあー」

 「ダーリンに叱られちゃうわよ」

 「大丈夫、旦那には優子と一緒だって言って来たから。

 なんなら優子は帰ってもいいわよ。あはははは」


 優子はわざと部屋を見渡し、いかにも初めて来たという芝居をして見せた。


 「ここが東野先生のお家なんですね? 

 綺麗にしてるんですね?」


 優子はそう言って、私にウインクして見せた。

 この部屋を綺麗に掃除してくれているのは優子だったからだ。


 

 ホットプレートを出して、私たちは飲みながら各々好きな物を焼いて食べていた。



 「本当にウチの教師はあったま堅いわよねえー?

 別にいいじゃない、ウチの生徒はお利口なんだからさー。

 中国やロシアなんか、小学生で大学レベルの勉強してるっつーの!

 音楽だってそう! お腹の中にいる時から始めないと絶対に無理!

 私はイタリア語が出来なかったから落ちこぼれちゃったんだけどねー、ああくやしーっい!」

 「オペラはイタリア語だもんねー? でもなんでドイツに留学したの?」

 「カラヤンが好きだったから」

 「恵ちゃんらしいわ」

 「あはははは。

 ちょっとオシッコ」


 田村先生がトイレに入った隙に、優子と私はキスをした。


 「今日は大変だったね?」

 「予想はしていたけどね?」

 「早く恵子を返して、私が祐一を慰めてあげる」

 「ありがとう・・・」

 「あっ、しまった!」

 「どうした?」

 「トイレにタンポンを置いたままだった!」



 田村先生がニヤニヤしてトイレからやって来た。


 「ちょっと東野ちゃん、何あれ?

 いつから生理になったのおー?

 洗面所にはピンクの歯ブラシもあるしー?

 ここには子猫ちゃんがいるのかなー?」

 「止めなよさいよ恵子、CAの彼女さんのよ、きっと。

 さあ、明日も授業だからさ、そろそろ帰ろう」

 「いいのいいの、今日は朝まで飲み明かすんだから!

 それより優子、気にならないの? 東野ちゃんの彼女のこと?」

 「なんでよ?」

 「だってあんた、東野先生のことが好きなんでしょ?」

 「もう、いい加減にしてよ。さあ、帰るわよ、すみません東野先生、タクシーを2台お願いします」

 「わかりました」

 「だってお片付けもしてないのよー、悪いでしょうー?」

 「大丈夫ですよ、あとは僕がやっておきますから」

 「すみません、じゃあよろしくお願いします」

 「まさかゆうこりん、一緒に帰るフリしてまたここに戻って来て東野先生とエッチなんてことないわよね?」

 「そ、そんなのあるわけ無いでしょう。さあ行くわよ」

 「怪しいなあー。あはははは」


 

 優子と恵子先生はタクシーで帰って行った。


 20分後、私が洗い物をしていると、コンビニでアイスクリームを買って優子が戻って来た。



 「ごめんねー、洗い物させちゃってー。

 アイス食べたくなっちゃった。祐一も食べる?」

 

 優子が洗い物をしている私の後ろから抱きついて来た。



 「今日は大変だったね? 私が癒してあげる」


 優子の買って来たバニラアイスはそのまま放置され、アイスは淫らに溶けていった。

 私と優子と同じように。




第27話

 山下校長の命令に従い、私は授業を元に戻した。


 

 「先生、なんでいつもの授業をしないんですかー?」

 「面白くねえよなー? 普通の高校の数学なんて」

 「もっと歯ごたえのある数学を勉強したいです」

 「この数学は1年生の時に塾で終わっています」

 

 私はチョークを置き、両手でチョークの粉を払った。



 「僕はね? 数学教師になりたくてなったわけじゃないんだ。

 数学を仕事にしたいと思ったからなんだ。

 そしてその選択肢のひとつが数学の教師になることだった。

 申し訳ないが「教師にでもなるか」という程度の軽い想いで始めた仕事だ。

 最初、君たちは僕の授業を無視して受験勉強をしていた時には正直、意気消沈した。

 だがそれは公務員の教師にとって悪い事ではない。それは寧ろラクなことだからだ。

 ただ教壇に立ってさえいれば給料がもらえるんだからね?

 だが思い切って君たちのレベルに授業を合わせてみて僕は思った。

 君たちが数学と真剣に向き合うその眼の輝きを見て、教師って悪くないなと思った。

 英語で教育を直訳すれば education だが、これはラテン語の「引き出す」が語源になっている。

 僕たち教師の本来の目的、使命は「教える」ことより君たちの秘められた無限の能力を引き出すことにあると先生は思っている。

 僕は公務員になりたくてこの仕事を選んだわけじゃない。

 収入がいいからとか、世間体がいいからと教師になったんじゃないんだ。

 大切なのは、

      

      何のためにそれをするのか?


 これがはっきりしないと、それをやるべきではない。

 前にも訊いたが君たちは何のためにいい大学を目指すのかね?」

 「偉くなりたいからです」

 「子供の時から東大以外は大学じゃないと親から言われて育ちました」

 「豪邸に住んで、高級外車に乗って、美人CAと結婚して、旨い物を食べて、ブランド物の高級時計や服を着たい!」

 「あはははは」


 教室に笑い声が響いた。


 「他には?」

 「俺は東大法学部に入って財務官僚になり、自民党から衆議院議員になって内閣総理大臣になる!」

 「がんばれ! 田中総理!」

 「おう! まかせておけ!」

 「私は両親の跡を継いで医者になるためです」

 「僕は弁護士になって、困っている人たちを救いたい」


 

 私は生徒たちを見渡して言った。


 「君たちは凄い。すでに何のために大学受験をするのかという明確な目的を持っている。

 つまり大学とは、自分の夢を実現するための通過点というわけだ。

 ではしあわせって何だろう?」

 「自分の夢を叶えることです」

 「金持ちになること!」

 「では、いくらお金が欲しいですか? 

 1億? 10億? 100億? それ以上ですか? 

 ちなみに東大を出て得られる生涯報酬は平均4億円だと言われていますが、それで満足出来ますか?」

 「俺は100億稼ぎたい!」

 「では河野君、その100億で何をしたいですか?」

 「六本木ヒルズに住んで、何台も高級車を所有して世界中を飛び回って、女優やモデルたちとご馳走を食べて暮らしたいです!」

 「つまりしあわせになるとは欲望を満たすことなのですね?

 それから? お金はまだまだたくさん残っていますよ、他に欲しい物はありませんか?」

 「クルーザーも欲しいし、軽井沢に別荘も欲しいかも」

 「その他にはどうですか?」

 「・・・」

 「みなさんはどうですか? もしもたくさんのお金があったら何が欲しいですか? 何がしたいですか?」

 「・・・」


 生徒たちは黙ってしまった。


 「先生も河野君と同じです。あれが欲しい、これが欲しいと思います。

 でもそれは「欲」ですよね?

 しあわせって「欲を満たすこと」なんでしょうか?

 私たちは欲を満たすために辛い受験勉強をするのですか?

 それが人生の幸福ならあまりにも虚しい。

 しあわせって何でしょう? 小野寺さん?」

 「しあわせは安心して生活が出来ることだと思います」

 「そうですね? 安心して生きられることはしあわせですよね?

 では安心とはなんでしょう? 岡本さん」

 「うーん、不安じゃないことかしら?」

 「いい答えです。

 そうですよね? 安心とは不安じゃないことです。

 では何のために安心したいのでしょう? 吉田君」

 「幸せに生きたいからです」

 「またそこに戻りましたね? 

 つまり幸福とは安心であり、そのためにはたくさんのお金がいると。

 しあわせに生きることはお金をいかにたくさん集めるかなんでしょうか?

 するとしあわせはお金で買えるということになりますよね?

 お金のある人生が幸せな人生だと。

 それは生きる手段であっても「生きる目的」ではありません。

 私たちはお金のために生きるのでしょうか?

 しあわせとは、しあわせを感じる心を養うことではないでしょうか?

 僕はそのために生きたいと思います。

 豪華なフレンチ料理もいいですが、1つの塩むすびに感謝できる人間になりたい。

 私は教師には向かない人間です。君たちの卒業と同時に、僕も本校の数学教師を卒業することにします」


 教室の中がざわついた。


 「なんでだよ先生! 辞めることなんかなえじゃねえか!」

 「先生、辞めないで!」

 「後輩たちにももっと本物の数学を教えてやってくれよ! せっかく数学が好きになったのによー」


 泣いてくれている女子もいた。

 私は教師というのはいい仕事だなあと思った。

 もう未練はない。私は私の人生を歩くことを選択したことに爽快だった。

 自分の本心に背いてまで、安定な人生を生きることは死んだも同然だからだ。



 終業のチャイムが鳴り、私はそのまま校長室を訪れた。



 「失礼します」

 「結論は出たの? 東野先生」


 私は背広の内ポケットから退職届を校長に差し出した。

 山下校長はそれを受け取ると、私にソファを勧めた。



 「残念ね?」

 「すみませんでした。私に教師は向いていません」

 「でもちょっと羨ましい気もするわ。私も以前、あなたと同じ気持ちだったから。

 公務員である前に教師でいたいといつも自分を責めて生きていたわ。

 でもね? それもいつの間にか慣れちゃった。

 みんなから先生、先生って言われて、いつの間にか自分が教育者であることを忘れてしまったのね?

 教師は人に物を教えるんじゃないわ、人間を育てるという使命があるのに」

 「私はあの子たちの才能を育てたかったのです」

 「今の日本の教育制度では無理かもしれないわね?

 東野先生は授業に生徒を合わせようとせず、生徒に授業を合わせようとした。

 それは間違っていないとは思うけど、国はそれを求めていないの。

 あなたはまだ28、私は止めないわよ。

 だってあなたみたいな人が、こんなところで埋もれて欲しくないもの。

 それでどうするの? 今の3年生を送り出したら?」

 「まだ決めていませんが、数学は続けていきたいと思っています」

 「あなたはやさし過ぎるから、そこがちょっと心配。

 教師よりも学者向きなのかもしれないわね?」

 「山下校長はどうして高校教師になったんですか?」

 「両親が教師だったからよ。

 なーんて嘘、大学の時、助教授と不倫していてそれがバレて院に進学できなくなったからよ。

 バカみたいな話でしょ? 若い頃の恋愛は恋なのよねー、単なる憧れ。

 それが歳を取っていくと恋が愛に変わり、そしてパパとママになって気が付けばただの同居人になる。

 東野先生は結婚する気はあるの?」

 「結婚する気はあっても勇気がありません。その人の人生を背負う勇気が」

 「つまり面倒だってことよね? 結婚が。

 ということは、どうもひとりの女性と付き合っているわけではなさそうね?

 東野先生はやさしいしハンサムだしね? あはははは

 でもね、傷付けたくないという気持ちが、結局相手を傷つけていることもあるものよ」

 「どうすればいいんでしょうか?」

 「自分の気持ちに素直になることよ。それしかないんじゃない?

 どうせいずれはオジサンオバサン、そしてお爺ちゃんお婆ちゃんになっちゃうんだから。

 私たち夫婦のように。

 恋愛なんて短編映画みたいなものよ」


 山下校長はそう言って、校長室の窓から見えるヒマラヤ杉に視線を移した。


 自分の気持ちに素直になる?

 私は校長室を出て、そのまま誰にも会わずに家路を辿った。




 家に帰ってドアを開けると、明美と優子の笑い声が聞こえた。


 「おかえりなさい」

 「お帰り祐一!」

 「ただいま」

 「学校で何かあったの?」

 「学校、辞めることにした。

 校長にはさっき、辞表を置いて来た」

 「あら良かったじゃない」

 「いいんじゃない? 祐一は高校の先生らしくないもの」

 「どうして辞めたのか? 訊かないの?」

 「そんなの訊いてもしょうがないじゃない」

 「私たちがとやかく言う事じゃないしね?

 それでいいじゃない? 祐一がそう決めたのなら」


 私はいい女たちと恋をしたと思った。


 「それより見て、プロポーズされちゃった。

 コ・パイの中谷さんに」


 明美の薬指にはダイヤのリングが輝いていた。

 不思議だった。あれほど別れたいと思っていた明美が他の男の物になると思った瞬間、やはり寂しい気持ちになった。


 

 「だからね? 今日はその報告に来ましたー。

 後はどうぞ、優子とおしあわせに。

 私も負けずにしあわせになりまーす。

 今度、彼を紹介するね! 一緒に飲もうよ」


 私は不機嫌になった。


 「悪いけど、今日はひとりにしてくれないか?

 色々考えたいんだ」

 「そう・・・」

 「ごめんなさいね、デリカシーのないこと言っちゃって」

 


 彼女たちが出て行った後、私は熱いシャワーを浴びた。

 何もかも洗い流すために。 




第28話

 (来た)


 達也と美穂が手をつないで校門から出て来た。


 「それじゃあまた明日な」

 「帰ったらLINEするね?」

 「ああ」

  

 木村達也は美穂と別れ、ひとりになって歩き始めた。


 (今だ!)


 大野由紀子は達也を呼び止めた。


 「木村君!」


 足を停め、振り返った木村。


 「大野か? どうした?」

 「一緒に帰らない?」

 「お前、こっちだっけ?」

 「今日は本屋さんに寄って参考書を買いたいの」

 「別にいいけど」


 由紀子と達也は同じ方向に歩き出した。

 ドキドキする、心臓が口から飛び出して来そう。


 でも言わなきゃ、もうこれ以上先延ばしはしたくない。

 由紀子は決意を持って足を停めた。



 「木村君って、美穂ちゃんと付き合ってるんだよね?」

 「何となくだけどな?」

 「私も木村君のことが好き! 木村君のことが大好きなの!

 たとえ美穂ちゃんという彼女がいても好き!」



 遂に告白してしまった。

 達也の足も止まった。


 「そうか?」

 

 由紀子は達也の次の言葉を待った。だが達也は何も言わずに再び歩き出してしまった。

 由紀子も達也の後を歩いた。



 「それだけ?」

 「大野は東大の理?志望だろ? 俺は慶応と東北大の医学部を受けるつもりだ」

 「私も慶応の医学部は受けるよ、父親が慶応のOBだから」


 由紀子は達也と同じ大学なら、慶応の医学部でもいいと考えていた。



 「がんばろうな? お互い」

 「う、うん」

 「俺も大野のことは好きだよ。医学部に合格したら、付き合おうぜ」

 


 (今、何て言った? 医学部に合格したら付き合う?)

 

 由紀子は立ち止まり、顔を両手で覆って泣いた。

 嬉しかった。



 「う、うれしい・・・」


 すると達也の手が由紀子の手を取り、恋人つなぎをしてくれた。

 由紀子は背中に羽根が生えたかのようにカラダが浮きそうだっだ。

 由紀子の初恋はあっさりと実った。



 だが、それを美穂の友人のさきが見ていた。


 「たいへん! すぐに美穂に知らせなきゃ!」




 翌日から由紀子に対する嫌がらせが始まった。


 トイレのブースに入ると、上からバケツで水を掛けられた。


 机には「死ね」「死ね」「達也に近づくな!」の張り紙をされ、カバンの中には使用済みのコンドームまで入れられた。


 体育から戻ると、制服がカッターナイフでズタズタに切り刻まれていた。


 毎日、「死ねメール」の嵐、SNSでの誹謗中傷が続いた。


 それでも由紀子は怯まなかった。

 美穂も必死だが自分も必死だった。 



 (この恋は絶対に譲れない、愛は惜しみなく奪うものだから)


 

 遂に由紀子は美穂を屋上に呼び出した。



 「いい加減に止めてくれない? あんな幼稚なことするのは」


 彼女には同じクラスの女の子3人と、男子2人がついて来ていた。


 「だったら達也から離れなさいよ。達也は私の彼氏なんだから」

 「人の彼に手をだすなんてサイテー、信じらんない」

 「お前さあ、ちょっとばかり成績がいいからっていい気になってんじゃねえぞ! コラ!」


 由紀子は静かに言った。


 「達也がそう言ったの? 私と別れろと?」

 「美穂がかわいそうでしょう? なんでそんなことすんのよ!」

 「私は諦めない、アンタたちが何をしようと私は平気。

 だってしょうがないでしょう? 私も好きなんだから、達也のことが!」

 「私はもっと好き! 達也は絶対に渡さないから!」

 「こんな子供じみた虐めをして楽しいの? 

 あなたの達也への想いは愛じゃない、それは恋よ。

 私だけを見て欲しい、私だけを愛して欲しい。

 抱き締めて欲しい、キスして欲しい。

 彼に望んでばかりじゃないの!

 私は違う、私は達也にして欲しいことなんか何もない。

 その代わり、彼にしてあげたいことはたくさんある。

 それがあなたの「奪う恋」と私の「与える愛」の違いよ」

 「何よ! そんなの誰かの聞き齧りでしょう!

 私は彼を愛しているの! あなたよりもね!」

 「それを決めるのはあなたじゃないわ、達也よ。

 もしこれ以上同じことを私に続けるなら学校には言わず、警察に被害届を出すから覚悟しなさい。

 私はあなたたちが思うほと、ヤワじゃないわよ。

 やられて黙っている私じゃない、やられたら100倍にして返してあげる。

 とことんやるからね、証拠も十分集めたし。

 アンタたち、虐めなんて大したことじゃないと悪戯程度にしか考えていないかもしれないけど、これは立派な犯罪なのよ。

 その虐めでどれだけ多くの人が傷付いていると思う?

 中には死んでしまう人もいるのよ。

 学校は都合良く「虐めなんてなかった」と処理するけど、これは明らかに暴力なの、犯罪なのよ。

 平気でイジメをする子の親も同じ。職場では弱い者をイジメ、ボスママは気に入らないママ友をイジメ、だからその子もそれを見習う。

 アンタたちにされたことは達也にも言い付けるから。たとえそれで私と達也が別れても、そんな女子を好きになる達也なんて興味はないもの。

 話はそれだけ」



 その日から美穂たちの虐めはピタリとなくなった。

 だが美穂は達也を諦めようとはしなかった。

 そしてその噂は広まり、今まで我慢していた女子たちも次々に達也に告白していった。


 でも、由紀子は余裕だった。

 医学部に合格さえすれば達也と付き合える。そしてそれが由紀子の受験勉強の励みにもなっていた。

 医学部へ合格することが、達也への愛の証だった。



 

 「ゆうこりん先生!」


 美術の授業が終わって、由紀子は優子に声を掛けた。


 「明るい顔してるわね? さては彼とうまくいったのね?」

 「はい。おかげさまで。

 まだライバルはいっぱいいるんですけどね? でも医学部へ行く目的がひとつ増えました。

 先生、愛は惜しみなく奪い、与える物ですけど、恋愛って戦いなんですね?」

 「あはははは、そうね? 恋愛は戦いかもね?

 そう、恋愛は諦めた方が負けよ、大野さん」

 「私、必ず医学部に現役合格してみせます!」

 「頑張ってね」



 優子は思った、恋愛は諦めた方が負けだと。


 まさか明美があんなにうれしそうにパイロットの彼との恋愛を喜ぶなんて思わなかった。

 恋愛に障害があればあるほど、優子の祐一への想いは燃えた。



 優子は仕事を終えると祐一のマンションに向かった。

 自分の愛を貫くために。




第29話

 「祐一、リブロースを買って来たから今日はワインにしようよ」

 「じゃあステーキは僕が焼くよ」

 「そしたらサラダは私が作るね? ゴルゴンゾーラとスモーク・サーモン、冷蔵庫にまだあったよね?」

 「一昨日、優子が買って来てくれたのはそのままにしてあるよ」

 「ほうれん草があるからそれを合わせてサラダにするね? バゲットも買って来たんだけど、レバーペーストを忘れたからガーリック・フランスでもいいかしら?」

 「フランスパンとバゲットの違いって知ってる?」

 「もちろん知ってるわよー、一応パリに1年住んでいたんだから。

 バゲットはフランスパンの種類の一つで、フランスパンは水、塩、小麦粉とイーストだけで作る。

 そしてバゲットは全長が70から80cm、重さが300から400gの物をいう。

 ちなみにバゲットはフランス語で「杖」という意味よね?」

 「さすがは優子、その通り。

 だから今日のパンはバゲットではなく、フランスパンだね?」

 「パン屋さんの殆どはバゲットって書いてあるけどね?」

 「その方がお洒落だからね?」

 「子供の頃、フランスパンが出ている紙袋を抱えたお姉さんに憧れたなあ」

 「フランスパンならカッコいいけど、ネギとか大根、ゴボウじゃなあ?」

 「美味しいけどね? いつもスーパーのレジ袋に入れるのに困っちゃう」

 「僕はその場でバキッっと折ってしまうけどね? どうせ切って使うから」

 「祐一はワイルドだね?」

 「ワイルドだろ~? あはははは」

 「あはははは、スギちゃんみたい」



 明美の新しい恋人の存在が心に重く圧し掛かっていた祐一だったが、それも優子の献身的な愛情により次第に薄らいでいった。

 恋愛の悩みはひとつ消えた。後はこれからの仕事をどうするかだ。

 数学で食べていくとなると、教員という道は手っ取り早いが学校組織との軋轢は否めない。

 大企業の研究員としての中途採用は難しいだろう。

 さて、どうしたものか?


 

 優子がゴルゴンゾーラを手でほぐしている時、彼女がその欠片を口にした。


 「この匂いとこの味、クセになるのよねー。

 見つけるとすぐ籠に入れちゃう。

 ワイン、飲みながら作ろうか?」

 「うん」


 私は安いフルボディの赤ワインのコルクを抜き、普通のグラスにそれを注いだ。


 「キッチンでワイングラスは危険だからね?」

 「あのワイングラス、折角ふたりで選んだ物だから、割れるとイヤだしね?」

 「まあテーブルワインだからこれで十分だよ」


 そう言って私と優子はワインを飲んだ。

 優子はチーズを私の口に入れ、自分もそれを口にした。

 それをワインで追いかけた。



 「ああしあわせー。

 チーズとワイン、どっちが先に出来たのかしら?」

 「男と女みたいだね?」

 「私と祐一みたいね?」


 優子は私にキスをした。


 「どう? 私のキスの味は?」

 「ワインとゴルゴンゾーラ、そして優子の甘い味がする」

 「祐一のキスの味も中々素敵よ」


 私はグラスをクックトップに置き、ステーキを焼き始めた。

 フランベにはブランデーを使った。

 青白い炎が上がった。



 「綺麗、ブランデーのいい香り」

 「クレソンは多めだったよね? 優子、クレソンが好きだから」

 「どっさり入れてね?」

 「了解」


 私は優子の皿にクレソンを多く盛り付けた。



 「祐一、見て見てこのサラダ、美味しそうでしょう?」

 「美術の先生らしい出来栄えだね? 食べるのがもったいないくらいだ」

 「写メ撮らないと。これも私の作品だから」

 「料理と音楽は消えていく芸術だよね?」

 「食べちゃうからね?

 でも記憶には残るわよ、美味しかったという思い出が」

 「思い出か・・・。

 音楽は奏でた瞬間に消えて行くのにそれを記憶が紡いでゆく」

 「さあ早く食べましょ、熱いうちに」


 楽しそうに携帯でサラダの写メを撮る優子。

 焼けたステーキを皿に乗せ、レーズンバターを添え、その上から叙々苑のタレをかけた。


 「叙々苑のタレって万能だよねー?」

 「これさえあればハンバーグもデミグラスよりも旨いからな?」

 「ステーキも写メを撮らないと。祐一の作品だから」

 

 優子はまた携帯を構えた。



 私はフライパンに残った肉汁の中に摺りおろしたニンニクをたっぷりと入れ、そこにスライスしたパンを入れて焼いた。

 キッチンに広がるニンニクの香りが食欲をさらに刺激する。


 「さあ食べよう」

 「ビールで乾杯しようか?」

 「そうだな? 最初は冷たいビールにしようか?」


 私は冷蔵庫から冷えた缶ビールとグラスを出した。



 「かんばーい!」

 「いただきまーす!」


 優子は肉にナイフを入れ、それを食べた。



 「うわあああー、すごく柔らかくて美味しいー!

 祐一は天才シェフね? 学校を辞めたらシェフになれば?」

 「あと10年若かったらそれもいいかもね?」

 「十分若いわよ、私よりは」

 「数えで2歳、誕生日で1歳しか違わないのに?」

 「アハハハハ。

 ねえ、このお料理に合う音楽をかけて」

 「何がいい?」

 「祐一に任せる」


 優子は再びナイフとフォークを動かし始めた。

 私はポールモーリアのCDをかけた。


 『エーゲ海の真珠』


 「祐一、これ好きだよね?」

 「これじゃない方が良かった?」

 「ううん、これが好き。

 エーゲ海か見えるみたいで」

 「優子は新婚旅行で・・・」


 余計なことを言ってしまった。

 ハネムーンでエーゲ海クルーズに行ったという話は優子から聞いていた。

 私はエーゲ海の見えるホテルで、前夫に抱かれる優子を想像して嫉妬した。


 「そんなこともあったわねー? もう忘れたけど」


 私はポールモーリアを止め、シナトラに変えた。


 『夜のストレンジャー』


 「祐一のそういうところ、好き」

 「・・・」

 「祐一には好きな数学を続けて欲しい。お金のことは気にしないで。

 貯金もあるし、私が稼ぐから」

 「僕を養ってくれるの?」

 「養うんじゃなくて雇うのよ」

 「雇う? それじゃ僕は君の家政夫っていうこと?」

 「掃除に洗濯、それにお料理。

 そして私が仕事から疲れて帰って来たらマッサージもお願いね?

 ついでにお風呂でカラダも洗って頂戴」

 「会社に勤めるより大変そうだな?」

 「祐一は祐一の好きなことをしてくれればいいの。私はそんなあなたを支えたい。

 あなたのためなら何でも出来る」


 これが愛だと思った。

 優子のやさしさが心に沁みた。


 「ありがとう、優子」


 婚姻届こそ出してはいないが、これが理想の夫婦の形なのかもしれない。

 お互いがお互いを自然に思い遣る気持ちが尊いのだ。


 日常に忙殺され、恋人同士だったふたりは思い遣りを忘れてしまうこともある。

 職場で、育児で、妻であり夫であり、父親であり母親であり、色んな役を演じることで愛に水を与えることを忘れてしまうこともある。


 生活に慣れてくると、「あれも好き」、「これも好き」という感情が「これがイヤ」「そういうところが嫌い」となってくる。

 では夫婦となってもお互いを尊重するにはどうすればいいのだろう? それは、


 

     恥じらいを忘れないこと



 ではないだろうか?

 結婚してもマナーとエチケットは守べきなのだ。

 カッコいい夫、ステキな奥さんになるための努力を怠ってはいけない。

 優子とならそれが出来そうな気がした。



 夜、ベッドに入り、私たちは静かに抱き合った。


 「ねえ祐一、ここに引っ越して来てもいい?」

 「いいよ、アトリエには僕の書斎を使えばいい」

 「うれしい。

 それじゃあ家政婦見習いからお願いします」

 「こちらこそ、見習い家政夫としてお試し下さい」

 「どれどれ、それでは夜の営みをチェックさせていただきます」


 私たちの長く熱い夜が始まった。




第30話

 ブリーフィングを終えると、香織と祥子から呼び止められた。


 「ちょっと明美、酷いじゃないのー、横取りなんて!」

 「そうよ! あのイケメン教師とはどうしたの? 別れたの?」

 「ごめん、色々あってさあ。

 中谷さんから告白されちゃったの」

 「告白じゃなくていきなりプロポーズしたって言っていたわよ! この前、LAでクルーと食事をした時、白状させたんだから。

 ちょっと見せなさいよ、その婚約指輪!」


 明美は躊躇いがちにそれを香織たちに見せた。


 「何それー! とってもキレイ!」

 「良かったわね、明美? 明美ならしょうがないよ、諦める。

 しあわせになってね?」

 「ありがとう、黙っていてごめんなさい」

 「言えないわよねー? だって私たちが狙ってたの知ってたんだから。あはははは」

 「口惜しいけど明美には敵わないもん」

 「式はいつなの? スケジュールの調整もあるからなるべく早く教えてね?」

 「うん、わかった」

 「明美に先を越されたかあ。早く別なパイロット探さないと。

 この際、年下でもいいから訓練生をこのGカップで誘惑しちゃおうかしら?」

 「私はセレブ狙いだなあ」

 「気を付けなさいよ、セレブはヘンなのが多いから」

 「どの口が言う? 散々セレブ合コンしてたくせに」

 「そうよそうよ。あはははは」

 「あはははは」

 「うふふふふ」


 明美たちは搭乗準備を始めた。



 

 中谷と明美はパイロットとCAなので、デートの調整が難しかった。

 今は安全に対する規則がより強化されたので、1か月で10日位の休暇は確保出来たが、その分パイロットの精神状態を含めたメディカルチェックや研修、試験なども多く、ストイックな生活が続いていた。


 今日は20日ぶりの中谷とのデートだった。

 中谷のマンションで、久しぶりに明美の手料理で食事をすることになった。



 「もうすぐ出来るからね?」

 「ああ、ゆっくりでいいよ、もう飲んでるから」

 「それじゃ私も飲んじゃおうっと」


 明美は冷蔵庫から缶ビールを取り出し、グラスには注がずにそのまま缶を開けて飲んだ。



 「ああー、美味しーい。

 こうしてお料理しながら飲むビールは最高!」

 「前の彼ともそうしたの?」

 「それはないかなあ? 料理は彼の方が上手だったから」


 明美は嘘を吐いた。


 「そう? 俺は料理はしないから負けたな? 君の元彼に」


 明美はふと暗い表情になった。

 こうして同じように祐一と飲みながら料理をしたことを想い出したからだ。

 どうしても祐一のことを思い出してしまう自分がいた。


 頭では理解している、これが自分にも祐一にも、そして優子にとってもいいということも。


 中谷は男性として完璧だっだ。

 結婚相手には申し分のない人だと思う。

 なのにどうしてなの?


 (マリッジ・ブルー?)



 食事を終え、中谷に抱かれながら明美は目を閉じ、祐一に抱かれている自分を想像した。


 (祐一・・・)




 翌日、明美は優子に連絡をした。


 「ねえ、今度の金曜日、一緒にご飯食べない?」

 「3人で?」

 「ううん、4人で」

 「4人ってパイロット君もってこと?」

 「そう、私のフィアンセも一緒に」

 「私はいいけど祐一はどうかしら? だって、まだ明美ちゃんに未練があるみたいだから」

 「まさか? それはないない」


 (未練? 何よ今更、あんなに別れたがっていたくせに!)


 だが明美はうれしかった。

 祐一にまだ想われていることが。


 優子にはわかるはずだ。同じ女として自分の彼が何を考えているのかを。



 「じゃあ祐一に訊いてみてくれない? ダメなら3人で食事しよ」

 「うん、わかった」



 明美には2つの目的があった。

 ひとつは中谷をふたりに紹介することで、祐一と優子を安心させるため。

 そしてもうひとつは円満に別れたことを中谷に伝えるためだった。


 だが本当の目的は「自分を納得させるため」だった。

 ダブルデートをすることで、自分の気持ちにケジメをつけようとしていたのだ。




 金曜日の夜、神楽坂の創作和食の店で会うことになった。



 「優子、久しぶりー」

 「明美、より綺麗になったんじゃない?」

 「ありがとう、お世辞でもうれしいわ」


 お互いに今日は入念に化粧をし、服を選んでいた。


 「お世辞じゃないわよ、完全に負けたってカンジ。

 初めまして、祐一の彼女、優子です。よろしく。うふっ」

 「初めまして、明美の彼氏、中谷です。

 彼氏というより婚約者です、一応」


 中谷はチラリと祐一を見て、婚約者を強調した。

 敵意のある眼差しで。


 「こんばんは。はじめまして東野です」

 「なんだかヘンなメンバーですね? 元カレと元カノ。普通は会いませんよね?」

 「まあ挨拶はそれくらいにして、早く飲みましょう」



 早速酒宴が始まった。


 鰻と蕪蒸、菊とズワイガニ、そしてジュンサイの酢の物、山芋とキャビアが供された。

 大吟醸の冷酒を飲みながら、中谷は少し酔ったフリをして饒舌に振舞った。



 「仕事柄海外が多いので、日本では殆ど和食なんです。

 今日は私のわがままに付き合わせてしまい、すみませんでした」

 「私たちは飲めれば何でもいいんです、ねえ? 祐一?」

 「そうなんです、飲めれば何でも。

 でもパイロットの人は大変ですよね? 精神的に身体的にもタフじゃないといけませんから。

 私には絶対に無理です。

 今日、中谷さんに会えて本当に安心しました。あなたなら彼女をしあわせに出来ると確信しました。

 明美のこと、よろしくお願いします。

 私は飛行機は苦手なんですが、中谷さんの操縦する飛行機なら乗ってもいいかなあ」

 「なんだか照れちゃうなあ、まかせて下さい、彼女のことは必ずしあわせにします。

 そしてお二人のハネムーンは私と明美の飛行機でどうぞ」

 「良かったな明美? いい人に出会えて」


 その時、明美の寂しそうな顔を優子は見逃さなかった。


 「中谷さん、ちゃんと彼女をしあわせにして下さいね? そうじゃないとまた「やっぱり祐一がいい!」なんて戻って来られると困りますから。あはははは」

 「それは困りますね? お互いに。

 何しろ我々はですからね? うかうかしてはいられませんよ」

 「大丈夫よ、私を操縦出来るのはあなただけだから」


 そう言って、明美はわざと中谷の腕に抱き付いてみせた。

 私は一気に酔いが醒めた。



 「あらあら、私もね? もう祐一と一緒に住んでるの、祐一のマンションに引っ越して来ちゃった」

 「へえー、いつから?」

 「一週間前からよ、ねえ祐一?」


 優子も負けじと私の腕に触れて来た。

 急に中谷が席を立った、


 「ちょっと失礼」

 「僕もトイレ」

 「では連れションということで?」

 「あはははは」

 「いってらっしゃあーい」


 手を振る明美と優子。



 私たちは並んで用をたしながら話をした。


 「東野さん、明美はまだあなたのことが好きみたいですね?」

 「そんなことはありませんよ、もう終わったことです。

 大手航空会社のエリート・パイロットの中谷さんにはとても敵いません」

 「私はずっと彼女が好きでした。

 人生は諦めたら終わりです。

 私はチャンスを狙っていたんです。じっと草むらの中からあなたたちが別れるのを待っていた。

 操縦桿を握っているパイロットは、どんなピンチにも逃げることはできません。

 彼女のことは必ずしあわせにします」

 「お願いします」

 「私たちはいい友人になれそうですね?」

 「また飲みませんか? 今度はふたりだけで」

 「是非」



 座敷に戻ると明美が言った。


 「お帰りなさーい、あなたたち、私たちの悪口を言っていたでしょう?

 わかるんだから」

 「聞いてたのか? ごめんごめん。あはははは」

 「どうせ今度、男同士で飲むことにしたんでしょぅ? 私たち抜きで」

 「どうしてそれを?」

 「わかるわよー、ふたりの顔を見ればそれくらい」

 「ヘンなの、同じ女を愛した男たちが友だちになるなんて」

 「だからいいんじゃないか?」

 「どんな話をするの? ふたりで?」

 「なんで飛行機が飛ぶのかについてとかかな?」

 「それは揚力があるからでしょう? 高校の時、習ったもん」

 「実は飛行機が空を飛ぶメカニズムは、未だ証明されていないんだ」

 「えー! そうなの?」

 「流体力学や航空力学的にはそうだけど、実はまだ飛行機が何故飛ぶのかは究明されてはいないんだ」

 「なんで飛ぶのかしらね?」

 「そんなミステリアスがあってもいいんじゃないかなあ?」

 「そうね? その方が楽しいもんね? あはははは」


 私はやっと明美の顔を見ることが出来た。

 やはり明美はいい女だと思った。

 女も科学も謎がなければ魅力はないと私は思った。



 いつの間にか優子は私に、明美は中谷に寄り添って眠ってしまった。


 「どうやら子猫ちゃんたちは、余程疲れていたようですね?」

 「この人たちも緊張することもあるんですね?」

 「おそらく」



 私たちはお互いの盃に酒を注ぎ、味わうようにそれを飲んだ。


 夜は静かに更けていった。

 私たち4人を置き去りにして。




第31話

 職員会議で私の退職が山下校長から伝えられた。


 「みなさんにお知らせがあります。

 東野先生は今年度限りをもって教職をお辞めになる決意をされました。

 東野先生は学校教育に関してご自身の信念をお持ちです。

 私はそれを尊重したいと思います。

 公務員教師の生活は保障されています。

 それを捨ててまでも守りたい思想がお有りだということです。

 東野先生はまだお若い。先生の人生はこれからです。

 人生には沢山の選択肢があります。

 私は東野先生を応援することにいたしました。

 どうか皆さんも、東野先生の理念をご理解いただき、今後ともご支援をお願いいたします。

 それでは東野先生からみなさんへご挨拶をお願いします」


 学年主任の佐々木や教頭たちは事前に知らされていたと見えて、冷静だった。

 だが他の教師たちには動揺が走った。

 

 「東野先生、辞めちゃうの?」

 「何も辞めることはねえだろう? これからじゃねえか!」

 「何か問題でもあったんですか?」


 あまりにも突然のことで、教師たちは困惑していた。



 「みなさんには大変お世話になりました。

 公立高校の進学校の教師の立場を捨てても守りたいものなど、ある訳がありません。

 少し、これからのことをじっくりと考えてみたくなったのです。

 本校に来て6年間、本当に色々ありがとうございました」


 授業方針の見解の相違については敢えて言及しなかった。

 学年主任の佐々木たちの意見はもっともなことだったからだ。

 このまま定年まで勤めあげれば、老後の暮らしに不安はない。

 上場企業のサラリーマンよりも高待遇、保証は厚く確実だ。

 この職に留まる理由は安定であり、安定とはつまりカネだ。


    人生はカネだけじゃない


 もちろん生きていくためにはカネは必要だ。

 カネは大切だがそれは生きる目的ではない。

 私は自分で納得できる人生を生きたいのだ。

 「ああ、いい人生だった」と、臨終の床で安らかに死にたいのだ。


 人生で大切なものは、「何のために生きるのか?」という「生き甲斐」だ。

 自分の本心を偽ってまで、安定した生活に固執するつもりはなかった。

 私たちは安心出来る人生を送るために生まれて来たわけではないのだ。


   「処世術を知らん馬鹿な奴だ」


 という憐憫の目が私に向けられた。



 会議が終わると田村先生が優子と一緒に私のところに駆け寄って来た。


 「ちょっとどうゆうこと? 辞めるなんて聞いてないわよ!」

 「ごめん、相談すれば止められるのがわかっていたから」

 「当たり前よ! 親方日の丸がいちばんでしょう?

 みんなの憧れなのよ。公務員は勝ち組なのよ! バカじゃないの!

 早く辞表を撤回しなさい!」

 「馬鹿ですよ、俺は・・・」

 「兎に角今夜は飲もう、話はそこで訊くから!」


 優子は黙って笑っていた。


 「優子! あんたも何とか言いなさいよ!」


 余程興奮したのか、田村先生は優子のことを珍しく呼び捨てにした。

 それは優子の気持ちを察しての事だった。

 優子の旦那になるかもしれない私が、待遇の良い安定した公務員を捨てる。それはあってはならない事だからだ。


 「ここは学校だからさ、お店で話そうよ」

 「まったくもう! あんたもよく笑っていられるわよね! 未来の旦那が無職になるのよ!」

 「未来の旦那って。やめてよもう。あはははは」




 私たちはいつもの焼肉屋にやって来た。


 「あー、喉渇いたー。

 とりあえず生3つ! あとタン塩とカルビ、ハラミとハチの巣、それからシマチョウもね?」

 「かしこいまりました」


 店員は起こした炭を携え、コンロに入れるとすぐに生ビールを運んで来た。



 「ぷはー、ああ美味しい~、生き返る~!

 東野君、辞めるの辞めちゃいなさいよー、私、校長に頼んであげるから」


 田村先生はすぐにジョッキの半分までビールを飲んだ。



 「田村さん、心配してくれてありがとう。

 でも、もう決めたことなので。

 生徒たちにも話しましたから」

 「あの子たち何だって?」

 「慰留してくれました。「先生、辞めるなよ」って」

 「すごいじゃないの? 自分の事しか考えないあの子たちが東野君を引き留めるだなんて」

 「教師たちの為に学校があるんじゃない、生徒たちのために学校がある。

 私はそれが我慢出来なかった」

 「あのねー、あの子たちはいずれ社会に出るのよ。そして現実を学ぶことになる。

 厳しい現実をね?

 私たちは決められたことだけ教えて、お金をもらって、こうやって美味しいお酒が飲めればそれでいいじゃない?

 学生じゃあるまいし、そんなお尻の青い話をしてどうすんのよ。ねえ優子?」

 「いいんじゃない? 東野君らしくて」


 優子は焼けたカルビを私と田村先生の皿に乗せてくれた。


 「あんたそんな悠長なこと言って、それでもいいの?

 未来のダーリンが無職になっちゃうのよ!」

 「未来のダーリンだなんて・・・」

 「あなたたち、本当は付き合ってるでしょう?」


 私と優子は動揺した。


 「そんなのバレバレよ、知らないとでも思った?」

 「どうしたのよ急に?」


 優子はカルビを口に入れた。


 「知ってるわよ、あなたたちが出来てるってことくらい。

 何年あんたたちと付き合っていると思ってんのよ。

 毎日毎晩やり放題のくせに。このスケベ!」

 「やめてよそんな言い方するの。あはははは」

 「今日だっておかしいと思ったのよー。優子、眉ひとつ動かさないんだもん。

 驚くでしょ? 普通。

 つまりそれは既に優子が東野君から学校を辞めることを聞いていたからよね?

 知ってたんでしょう? 優子は?」

 

 私と優子は目で合図した。

 田村先生に本当のことを話す時だと。


 「ごめん、恵子。

 実はそうなの、私たち同棲しているの」

 「ほらやっぱりね? だって同じシャンプーの匂いがするんだもん。

 「あらやっぱり一緒に住んでるのね?」って思っちゃった。

 いやらしい! あはははは。

 でも良かった。あなたたちお似合いだから。

 でも東野君、CAの彼女さんとはもう完全に別れたの?」

 「ええ、円満に」

 「円満に? 男と女が別れるのに円満もクソもないけどね?

 円満だなんて思っているのは男の方だけかもよ?

 そう? まあお互いに結婚しているわけじゃないから不倫じゃないしね?

 よかったね? 優子」

 「ありがとう」

 「でもどうすんの? これからどうやって食べて行くつもり?」

 「まだ決めてないんだ」

 「いいのよ、代わりに私が働くから。

 彼には好きな数学を続けて欲しいの」

 「さすがは姉さん女房! 貢ぐんだ? 彼に」

 「ヒモじゃないわよ、祐一には私の家政夫さんになってもらうの。

 お掃除とかお洗濯とか、お料理とかも」

 「そしてエッチもでしょう?」

 「そりゃそうよ、家政夫だもん。うふふふふっつ」

 「いっそのこと、早く結婚しちゃえば?」

 「そのうちね?」


 優子は恥ずかしそうにチラリと私を見た。


 「あなたたち、とってもいいカンジよ。

 なんだかもう夫婦みたい」


 田村先生はカルビを食べ、ビールを飲み干した。


 「すみませーん、ロースとオイキムチ、それからセンマイ刺しと生3つね!

 こんな時は焼肉とビールよね?

 そして二次会はいつものスナックだからね?

 今日は歌うぞー!」

 「明日は土曜日だしね?」

 「私はいつでもフライデーナイトだけどねー。あはははは」


 私と優子はテーブルの下でこっそり手を繋いでいた。



 その時、突然私の携帯が鳴った。

 大学の恩師、大森教授からだった。


 「もしもし、東野です」

 「東野、俺だよ大森。日本は今21時か?

 今なあ、学会でロンドンに来ているんだ。それでおまえが書いた「ナビエス・トークス方程式に対する分数段射有限要素法について」の論文をケンブリッジのトーマス教授に見てもらったらな? 是非、こちらで研究を続けてみないかという話になってな? どうだ? トーマス教授の下で研究を続けてみては? 悪い話じゃねえだろう?」

 「本当ですか!」

 「ああ、今、教授とランチをしているところだ。

 どうしてイギリスはこうもメシが不味いのかねえ。それだけが難点だ。

 これはチャンスだぞ東野」

 「ありがとうございます! 大森教授!」

 「じゃあ帰国したら俺の研究室に来い、詳しいことはその時にな? じゃあまた」


 優子と田村先生が怪訝そうに私を見ていた。


 「誰から?」

 「大学の恩師からだよ。今、ロンドンにいるそうなんだ」

 「それで何だって?」

 「僕の在学中に書いた論文をケンブリッジのトーマス博士が評価してくれて、ケンブリッジで研究を続けないかって誘われたんだ!」

 「すごいじゃないの! ケンブリッジだなんて!」

 「良かったね祐一!」


 優子が私に抱き付いた。


 「私も私も!」


 私たち3人は抱き合って大喜びをした。

 何の前触れも無く、幸運が舞い降りて来たのだ。


 私はイギリスに行くことを決めた。




第32話

 その後、明美と中谷の恋に進展はなく、足踏み状態のままの関係が続いていた。

 明美は中谷のマンションに通妻のような生活をしていた。



 ことが終わり、ピロートークになった。


 「そろそろ結婚に向けて準備しないか?」

 「うん、そうだね」

 「いつにする? 結婚式?

 先に婚姻届というのもあるけど?」

 「式を挙げてから婚姻届の方がいいかなあ」

 

 中谷がやさしくキスをしてくれた。


 「はぐらかされているのかな? 俺。

 まだ好きなの? 彼のことが?」

 「まさか、そんなことないわよ。

 あのふたりがしあわせになってくれたらそれでいいの。

 ごめんなさいね? ヘンな気を遣わせてしまって」


 明美は中谷に自分のモヤモヤした感情の原因を突き付けられた気がした。

 祐一と別れて、明美の気持ちはまだ揺れていた。

 中谷に不満があるわけではない、ただ・・・。

 ただどうしても祐一の事が忘れられない。時間が立つほどに募る祐一への想い。

 明美は中谷に抱き付いたまま、眠れぬ夜を漂っていた。




 翌朝、社内研修ということで中谷は家を早く出て行った。

 明美が部屋の掃除をしていると携帯が鳴った。

 優子からだった。



 「今、大丈夫?」

 「うん、今、彼の家を掃除していたところ」

 「ごめんね? 忙しいのに」

 「ううん、全然平気、どうしたの?」

 「私たち4月からロンドンで暮らすことになったの。祐一の学生の時の研究論文がケンブリッジの教授に認められてね? それでイギリスで生活することになったの」

 「えっ・・・」


 明美は思わず携帯を落としそうになってしまった。



 (祐一がケンブリッジ?)



 明美はソファに座り込んでしまった。



 「もしもし? 聞こえてる?」

 「うん、おめでとう。

 そうかあ、ケンブリッジかあ。

 ケンブリッジならロンドンのキングスクロス駅から電車で1時間半だもんね?

 学生街もいいけど、住むならやっぱりロンドンよね?」

 「私もパリに絵の勉強をしていた時、よく、ロンドンにも出掛けたから土地勘もあるし、それでロンドンにしたの」

 「そうなんだ。いいよね? ロンドン。私も好き」

 「まだ祐一のことが好きなんじゃないの?」

 「冗談言わないでよ、私は将来の機長夫人なんだから。あはははは」

 「無理しちゃって。

 でももう諦めてね、祐一のことは」

 「諦めるも何も、もう終わったことよ。

 しあわせになりなさいよ、私もしあわせになるから」

 「そう? じゃあね」

 「じゃあ、祐一によろしく」

 「うんわかった。

 しあわせになってね? 機長夫人」

 


 (祐一が数学者になる?

 しかも世界でも5本の指に入るあのケンブリッジで)


 だとしたら祐一と別れる理由はなくなる。

 高校の教師では吊り合わないと言って別れた祐一が、いきなりケンブリッジの研究員に?

 そのままケンブリッジに残るも良し、帰国して一流大学の教授への道も夢ではない。

 つまりそれは、ふたりが別れる理由が消えたということだ。

 明美の心は揺れた。



 明美は祐一に電話を掛けた。

 呼出し音に心が張り裂けそうだった。

 5回目のコールで祐一が出た。


 「もしもし」

 「優子から聞いたわ、すごいじゃないの? ケンブリッジだなんて」

 「そうか? 彼女から聞いたのか?」


 祐一は少し不満そうだった。

 どうやらそれは自分から話したかったようだ。


 「ねえ、お祝いさせて。ロンドンに行っちゃう前に。

 最後にふたりだけでお祝いしたいの」

 「悪いけど、気持ちだけでいいよ」

 「優子のことが気になるんだ?」


 明美は意地悪くそう言った。


 「そうじゃない」

 「だったらいいでしょう? 大丈夫、私ならもう平気だから。

 中谷さんとの結婚式の日取りも決まったし」

 

 明美は嘘を吐いた。


 「いつ?」

 「来年の3月20日、桜の咲く頃にしたの」

 「そうか? おめでとう」

 「ありがとう。じゃあ来週の木曜日、ふたりでよく行ったあのイタリアンレストランで19時に」

 「行けたら行くよ」

 「ダメ! 絶対に来て! 祐一が来るまでずっと待ってるからね!」


 それだけ言うと明美は一方的に電話を切った。

 それ以上祐一と話をしていると、泣いてしまいそうだったからだ。

 明美は木曜日を心待ちにした。

 



 当日、明美はいつものように5分前にレストランに到着した。


 「19時に2名で予約していた北野です」

 「いつもありがとうございます、北野様。

 お待ちしておりました。どうぞこちらへ」


 カメリエーレが気を利かせ、奥の席に明美を案内してくれた。


 

 「お料理は連れが来てからでもいいですか?」

 「もちろんでございます、是非出来立てを召し上がっていただきたいので」

 「ありがとうございます。今日はちょっとしたお祝い事なので」

 「それはおめでとうございます。では後ほど」


 彼はこのレストランに相応しい風貌だった。

 決して主役にはならず、お客が食事を楽しむための黒子に徹するその姿は実に見事だった。

 美食とは総合演出なのだ。

 料理はもちろん、建物、内装、インテリア、音楽、食器類や客層に至るまで、すべてが食事なのだ。

 そしてもちろんそこで働くスタッフも。

 これらすべてが料理の味を引き立てるのだ。



 15分が経過したが祐一は現れなかった。

 30分、1時間、2時間・・・。

 彼は来なかった。


 彼からの連絡はなく、なぜか自分から連絡することは憚れた。

 

 「ごめん、行けないよ」


 その一言が怖かった。



 とうとうラストオーダーの時間になってしまった。


 「北野様、ラストオーダーになりますが?」

 「ごめんなさい、お会計をお願いします」


 給仕の彼がやさしく言った。


 「今日は結構です。何もお召し上がりにはなっておりませんので。またの機会にお待ちしております」

 「すみません・・・」


 涙が溢れて来た。

 カメリエーレの労わりと、祐一から見捨てられた哀しみに。




 店を出ると小雨が降っていた。

 明美は傘もなく、南青山から渋谷に向かって歩き始めた。



 「明美!」


 私は明美に駆け寄り、傘の中に明美を入れた。



 「どうして! どうして来てくれなかったの! ずっと待っていたんだから! ずっと!」

 「店に入る勇気がなかった。ごめん・・・」

 「何それ! ただ一緒にご飯を食べるだけって言ったじゃない!」

 「君に会ったら、明美に会ったらまた君を愛してしまいそうで怖かったんだ!」

 「やっぱり諦められないよ! どうすることもできないの!

 私も優子からあなたを奪いたい! あなたが好きなの!」


 私はビニール傘を捨て、明美を強く抱き締めた。


 「ごめん、ごめんよ明美。

 僕たちはもう、元へは戻れないんだ。ごめん」

 「うううううっ それでも好きなの、あなたのことが!」

 「僕も君の・・・」


 私の言葉が救急車のサイレンで掻き消されてしまった。


 (・・・ことを愛している)


 の、その言葉が。


 ふたりは雨に濡れたまま、いつまでも抱き合っていた。




 朝食を食べながら、優子が私に訊いた。


 「夕べは遅かったのね? ねえ、そろそろ学校に言わなきゃね? 私も3月で退職するって」

 「イギリスへは僕ひとりで行くことにするよ」

 「えっ? どうして? まさかまだ彼女のことが忘れられないの!」

 「わからないんだ、自分がどうしたいのか?

 こんな中途半端な状態でケンブリッジに行っても、いい研究なんて出来やしない。

 だからイギリスへは僕ひとりで行くことにする」

 「あなたは卑怯よ! 私と彼女をいつまで苦しめるつもりなの!

 もう疲れたわ! 好きにすればいい! 私はあなたの何? 私はあなたのママじゃないわ!」


 優子は家を飛び出して行ってしまった。

 私はそんな彼女を引き留めることが出来なかった。




第33話

 エプロンをしたまま、お財布だけ持って優子は家を飛び出した。

 追いかけて来てくれると思ったが、祐一は追いかけては来なかった。


 エレベーターに乗って1階のボタンを押した時、涙が零れた。


 (どうしていつもこうなの? 私がこんなに愛しているのに、祐一のバカ)

 

 エレベーターが1階に着くと、エントランスを抜けてコンビニへと向かった。

 

 ファミレスで時間を潰そうと思ったが化粧もしておらず、エプロンをしたままだったので、何か飲み物でも買って公園のベンチで頭を冷やそうと思った。



 コンビニに入り、ファッション雑誌を籠に入れ、飲み物を物色していると声を掛けられた。

 

 「僕は炭酸水を」

 

 祐一がそう私に話し掛けてきた。

 さっきまでのことはすべて忘れたように、私は炭酸水を2本、無言でそれを籠に入れた。


 祐一は優子からレジ籠を取り、ラムレーズンのアイスクリームを2つ入れて会計を済ませた。



 ふたりは手を繋いでいでマンションへ戻った。




 祐一はラムレーズンと炭酸水をテーブルの上に置き、雑誌を私に渡した。

 

 「さっきはごめん、また君を泣かせてしまった」


 ラムレーズンの蓋を開け、フィルムを剥すと私はそれを口にした。

 祐一も同じようにアイスを食べ始めた。



 「この前、優子が明美にロンドンの話をした後、明美から電話があったんだ」

 「何て言ってたの?」

 「お祝いしたいと食事に誘われた」

 「行ったの?」

 「最初は会うつもりはなかった。「行けたら行く」とだけ曖昧な返事をした」


 私はまたアイスを口に入れた。


 「夕べ遅かったのはそのせい?」

 「レストランの前まで行ったけど、中には入らなかった」

 「どうして? かわいそうじゃない?

 お食事だけなら付き合ってあげれば良かったのに」

 「君に悪いと思った。僕のことをいつも一生懸命に支えてくれている優子に。

 だからそのまま帰ろうとした。

 ふと窓から中を覗くと、寂しそうにスマホをいじっている明美を見てしまった。

 僕が来ないことを悲しんで、それでも連絡することを躊躇っている彼女を。

 僕はそのまま外で明美が食事を終えて店から出てくるのを待った」

 「見てたんなら中に入って一緒に食事をしてあげれば良かったのに、「遅れて御免」とか言って」

 「もしそれが君ならそうしていたかもしれない。

 僕は君には素直になれるから。

 結局明美は料理を注文せず、やがてラストオーダーになり、彼女が店から出て来た。

 そして僕は彼女に声を掛け、詫びた。

 嬉しいんだか悲しいんだか、そんな目で明美は僕を見ていた」

 「それで?」

 「僕のことを「諦め切れない」と泣かれたよ」

 「それで、明美との?」

 「彼女を家まで送った。ただそれだけだよ」

 「そう」


 祐一は私を後ろから抱きしめた。


 「僕はどうしていいのかわからなくなったんだ。

 優子が好きなのに、今更何をしているんだって。

 放っておけばいいものを、バカだよね? 僕は」

 

 私は祐一の手を静かに払い除けた。


 「止めて。あなたはまだ彼女のことを愛しているのよ。

 だからいつまでもフラフラしているんだわ!

 だったらロンドンへは明美と行ったらいいじゃない! 私とではなく!」

 「じゃあどうして君は彼女にロンドンに行くと言ったんだ! 僕は彼女に黙って行きたかったのに!

 きっかけを作ったのは君の方じゃないか!」

 「どうしてあなたは女心がわからないの?

 なぜ明美に私がそう言ったと思う?

 それは「だからもう祐一のことは忘れてね」という最終通告なのに!

 もう祐一は私の物だという勝利宣言なのよ!

 私だって不安なの、明美のことをまだ完全に諦め切れていないあなたが!」


 私はアイスをテーブルに置き、両手で顔を覆って泣いた。

 アイスクリームが残ったスプーンがテーブルに堕ち、溶けたアイスが淫らにテーブルを汚した。

 

 「僕は優子と暮らしたい。そのためには明美とのことを清算しなければならない。

 だから少し時間をくれないか?」

 「男と女に辛くない別れなんてある?

 それはあなたのエゴでしょう? どちらにも嫌われたくないという男の思い上がりよ。

 あなたは私たちを傷付けたくないんじゃなくて、自分が傷付くのが怖いのよ!

 それはやさしさなんかじゃない、祐一の狡さよ!」

 「・・・」

 「ごめんなさい、酷い事言って・・・。言い過ぎた」


 私はダイニングチェアから立ち上がり、祐一を抱き締めた。



 「私ね? それでも祐一のことが好き。

 でもこんな宙ぶらりんな気持ちのまま、イギリスへは行けないわ。

 お願い、もう明美とは会わないで。

 私だけを見て、私はあなたじゃなきゃダメなの」

 「優子・・・」

 「私には何もかも捨てる覚悟がある。

 あなたのためならこの命すら惜しくはないわ。

 後悔したくないの、私はすべてを賭けてあなたを好きになったんだから。

 だからお願い、彼女とはもう二度と会わないで!」


 私は嗚咽した。


 「わかったよ、明美とはもう会わない。

 一緒にロンドンへ行こう」

 「祐一、もう彼女とは会わないって約束して」


 ふたりは熱い約束の口づけを交わした。

 私は小指を立て、祐一に指切りを迫った。



 「指切りげんまん、嘘ついたら・・・、もし約束を破ったらあなたを殺して私も死ぬから」


 私は本気だった。




 月曜日、私と祐一は山下校長に今回の事について報告をした。



 「・・・ということで、4月からケンブリッジに行くことになりました。

 実は優子先生とは結婚を前提にお付き合いをしていまして、彼女もイギリスに一緒に来てもらうことになりました」


 私は校長に退職届を提出した。


 「本校の優秀な先生がふたりもいなくなるのは大きな痛手だけど、良かったわね? ケンブリッジで数学の研究が続けられて。

 しかもこんな素敵なお嫁さんまで連れてロンドン生活だなんて。

 私もついて行きたいくらいよ、義母として。うふふふ」

 「ご迷惑をお掛けして申し訳ありません」

 「色々大変なこともあるでしょうけど、一人より二人の方が心強いものよ。

 夫婦ってね? お互いの足りないところを補い合って暮らす物だから。

 料理の出来ない夫に代わってお料理をしてあげる、面倒なお風呂掃除とかは奥さんに代わって旦那さんが担当するとかね?

 あらごめんなさい、ゆうこりん先生はバツイチだったわね?

 いい夫婦ってそうよね?

 お互いに「してやってる」は最悪、してやってるじゃなくて「させてもらっている」の感謝の気持ちが大切よね?」

 「仰る通りだと思います。私はそれが出来なくて離婚しましたから」

 「私も実はバツがひとつあるのよ、内緒だけどね?

 だからこそ、今の主人とはうまくいっているんだと思う。

 一度失敗しているから。

 出来れば喧嘩はしない方がいいけど、妥協するのも駄目。

 妥協するということは「我慢する」ということだから。

 それが蓄積されて、「こんなにしてやっているのに!」ってなってしまう。

 お互いに甘えなさい、それが一番。

 結婚式はロンドンで挙げるの?」

 「家族だけでロンドンで挙げるつもりです」

 「そう、その時は私も呼んでね? ヨーロッパに行く、いい口実になるから。

 私と主人もあなたたちに便乗して、ハネムーンのやり直しをしたいのよ。

 私たちは二度目ということもあって新婚旅行は熱海だったから。酷い話でしょ?」

 「是非いらして下さい、大歓迎です!」

 「何を着て行こうかしら? 今から楽しみね? あはははは」




 金曜日の職員会議で、私のケンブリッジ行きと優子の退職が伝えられた。

 驚きと羨望が沸き起こった。


 

 「みなさん、お世話になりました。

 私と水島先生はロンドンで暮らすことになります。

 ロンドンにお越しの際は是非お立ち寄り下さい」

 「ロンドンなんて気軽に立ち寄れるかよ!」

 「私は行くわよ、ロンドンでもパリでも」

 「そりゃあ田村先生はご令嬢だからな!」

 「まあねー、旦那は貧乏だけど。あはははは」

 「あはははは!」


 

 これでようやくすべてが吹っ切れたような気がした。

 クリスマス・イブの夜が来るまでは。


 下校時の音楽、『トロイメライ』が校舎に響いていた。




第34話

 「美味しくないか? この店?」

 「ううん、美味しいわよ」

 「さっきから上の空だけど? 俺の話、聞いてる?」

 「何だっけ?」

 「クリスマスにハワイに行かないかって話だよ」

 「ハワイかあ、お正月前は混んでるんじゃないの?」

 「雪のない常夏のハワイのクリスマスって好きなんだけどなあ」

 「私は雪の降るホワイトクリスマスが好き。

 アンディー・ウイリアムズの『White Christmas』を聴きながら」


 明美は去年の祐一とのイブの夜を思い出し、遠い目をした。

 それを見透かしたように中谷は言った。


 「今年のイブは俺と過ごして欲しい」 

 

 明美は小鳥がついばむように箸を気怠く動かしながら、金目鯛の煮付けを口にした。

 食欲はなかった。


 そしてついに明美は意を決し、中谷を真っすぐに見詰めて言った。


 「私、やっぱり中谷さんとは結婚出来ない」


 中谷は冷静だった。

 中谷には想定内の出来事だったからだ。

 

 「4人で飲んだあの日から、君は笑わなくなった。

 まだ東野君のことが忘れられないんだね?」


 そう言うと中谷は中トロの刺身を食べ、冷酒を飲んだ。

 

 (別れ話を切り出しても動じることがない。これが優秀なパイロットなの?

 どんなピンチにも冷静に自分を俯瞰し、あらゆる可能性を導き出す・・・)


 「中谷さんはすべてにおいてパーフェクトな人。私には勿体ないくらい。

 一緒に居るととても安心する。

 あなたの操縦するSHIPなら絶対に安全。

 でも、あの人はいつもどこか頼りなげで優柔不断。子供みたいでとっても手が掛かる人。

 どうしても気になってしまうの、彼のことが。

 こんな気持ちのまま、中谷さんとは結婚出来ない」

 「東野君には母性本能が湧くというわけかい?

 でもそれは恋じゃなく、姉や母親としての愛情ではないのかなあ。

 俺は言ったはずだよ、君の気持ちの整理がつくまでいつまでも君を待つと。

 8年も付き合ったんだ、「ハイそうですか?」なんてわけにはいかないはずだ。

 そうだろう?」

 「恋愛って・・・、人を好きになるって常識じゃないのよ、理屈じゃないの。

 自分ではどうしようも出来ない「感性」なのよ。

 自分の心の命じるままに愛するしかないの。

 だからごめんなさい」


 明美はバッグから指輪のケースを取り出し、薬指からエンゲージドリングを外すとそれをケースに収めて中谷の前に置いた。


 「取り敢えずこれは預かっておくよ。

 君にあげた物だしね?

 どうやら明美が彼を忘れるにはまだ時間が掛かりそうだ。

 いつか君が俺と素直な気持ちで向き合ってくれるまで、これは俺が持っていることにするよ」


 普通の女ならその言葉を喜ぶかもしれないが、今の明美には響かなかった。

 誰もが憧れるパイロットの中谷、しかし今の明美には色褪せたセピア色の写真のように、すでに過去の思い出になってしまっていた。




 中谷と別れて山手線に乗ると、再び甦る祐一への想い。

 

 あの日の夜、小雨降るレストランの前で祐一と抱き合い、山手線に乗って祐一の肩に凭れ掛かり、彼の手に自分の手を重ねた。


 明美は祐一の耳元で囁いた。


 「帰りたくない・・・」

 「もう会うのは止めよう、僕たちはもう会ってはいけないんだ」

 「私には祐一しかいないの」

 「中谷さんは明美のことを大切に想ってくれているよ」

 「結婚式のこと、本当はまだ何も決まってはいないの。3月に式を挙げるなんて嘘、ごめんなさい。

 どうしても祐一のことが忘れられない・・・。

 あの人は私じゃなくても平気、でも私にはあなたしかいないの。

 あなたたちがロンドンに行くと彼女から聞いた時、気付いたの。やっぱり私は祐一のことが好きなんだって。

 優子には渡したくない、あなたを・・・」

 「明美・・・」


 電車はネオンの海をぐるぐると回り続けた。

 雨に滲む都会の灯り。


 「愛しているからこそ、君と別れたいんだ。

 君はもっと輝くべきだ、僕ではそれが出来ない。

 カビ臭い研究室で、数式にまみれている僕では君をしあわせには出来ないんだ」

 「愛しているのに別れるなんておかしい。愛していたら一緒にいるのが当然でしょう?

 だったらもっと早く別れてよ! もう私のカラダには祐一が沁みついてしまっているのに!」

 「ごめん、僕にはその勇気がなかったんだ。

 男と女は常識じゃないんだ。永遠に解けない方程式なんだよ、パラメーターは刻一刻と変化して行き、その言葉や態度で好きになったり嫌いになったり・・・。その繰り返しなんだ」

 「不安になったり、また好きになったり?

 でも本当は優子と出会ったからじゃないの? 優子の方が綺麗でやさしくて、おしとやかでお料理も上手だもんね?

 でもあなたを、祐一を想う気持ちは絶対に負けない」

 「恋愛は自分から降りなければいつまでも終わらない回転木馬なんだ。

 この山手線のように、いつまでも同じ場所を走り続けることになる」

 「どうして私たち、別れなくちゃいけないの?」

 「・・・、それは決めたことだから」

 「祐一が勝手に決めたことでしょう?」

 「君は素敵な女性だ、そして中谷さんは君を守ると約束してくれた」

 「彼とはときめかないの、あの人じゃ駄目なの」

 「ときめかない?」

 「女にとって恋愛には「ときめき」が必要なのよ」

 「結婚に必要なものは「ときめき」ではなく「覚悟」だ。

 恋愛には「ときめき」が必要かもしれないが、結婚生活はどちらかが死ぬまで続くものだ。

 いいことばかりじゃない。いや寧ろ辛い事の方が多いだろう、見えない未来にお互いの人生を委ねるんだ。

 だからそれを乗り越えて行く「覚悟」が要るんだよ」

 「私は恋愛の延長線上にあるのが結婚だと思う」

 「僕はそうは思わない。たとえ恋愛で盛り上がったとしても、そこに「縁」がなければ結婚は成立しない。

 結婚する相手は生まれた時から決められているとしか思えない。

 僕たちは「縁」がなかったんだよ」

 「そんなのわからないじゃない? 結婚してみなければ」

 「これ以上、僕を困らせないでくれ。

 僕もこれがギリギリなんだ。わかってくれ明美。

 そうでなければ僕たちはいつまでも恋愛の迷宮を彷徨うことになる。

 出口のない迷宮の中を」


 そう言って祐一は明美の手を握り返した。

 結論が出ないまま、祐一はマンションまで私を送ってくれた。


 「泊まっていかない?」

 「それは出来ない、おやすみ」


 祐一のキスは短く、やわらかな新雪のように冷たかった。


 明美は去って行く祐一の背中を黙って見送った。




 電車に揺られながら、私は指輪の痕が残る薬指に触れた。

 中谷の元へ戻るつもりはもうなかった。

 

 電車の窓から見えるマンションの灯り、そこに若い夫婦と小さな子供の姿が見えた。

 小さな部屋に暮らす家族の笑顔。


 (華やかな暮らしなんて望まない、私が望むのはあんな普通の暮らしなのに)


 溢れる涙を指先で拭った。

 今年もまたイブがやって来る。




第35話

 イブの夕暮れは羽毛のような雪が降っていた。

 プレゼントやケーキを抱え、家路を急ぐ人たち。

 恋人たちもしあわせそうに手を繋ぎ、あるいは腕を組んで歩いている。


 街にはクリスマス・イルミネーションが輝き、クリスマスソングが流れていた。



 「ホワイトクリスマスだね? とってもキレイ、スノードームの中にいるみたい」


 優子は毛糸の手袋をした両手を広げ、舞い落ちる雪に翳した。

 まるで少女のようにはしゃぐ優子。



 私たちはデパ地下を回り、チーズや生ハム、サラダとワインを買った。

 

 鳥の腿肉はハーブと香辛料のタレに昨夜から漬け込んで置いたので、家に帰って揚げるだけだった。


 フライドチキンは揚げたての衣が旨いのに、クリスマスにはみんなケーキと冷めたチキンを買うのはなぜだろう。

 温め直した揚げ物は旨くはないのに。

 それが日本のクリスマスの定番だった。

 なぜならみんながそうしているから。



 「ねえ、今日はお洒落にシャンパンも買わない?」

 「いいよ、クリュッグでもいい?」

 「シャンパンなら何でもいいよ、私はドンペリしか知らないから祐一に任せる。

 後は予約したケーキを取りに行くだけね?」

 「君の好きなチョコレートケーキだよね?」

 「クリスマスにチョコレートケーキってヘンかしら?」

 「嫌いじゃないけどチョコクリームに苺は乗せないで欲しいけどね?」

 「それなら大丈夫、苺の乗っていないブッシュ・ド・ノエルにしたから。

 チョコとイチゴは合うけど彩がちょっとねえー」

 「でも苺は食べたいよな? 苺も買おうよ」

 「うん、苺大好き!」



 

 家に帰り、私たちはクリスマスの食事の用意に取り掛かった。


 私はアンディウイリアムズの『ホワイトクリスマス』のCDをコンポに入れた。

 だがそれは明美のお気に入りのイブの夜のお決まりの曲だった。

 私は稲垣潤一の『クリスマス・キャロル』にそれを変えた。



 「なんで変えちゃうの? さっきの方が良かったのに」

 「作業するにはアップテンポの方がいいだろう?」



 部屋の隅には優子が飾り付けたクリスマスツリーの電飾が点滅していた。


 フライドチキンを揚げるのは私が担当し、優子は買って来た物を皿に盛付けてテーブルに並べ、テーブルクロスも赤と緑のクリスマスカラーに変えた。



 その時、玄関のチャイムが鳴った。


 「宅配の人かしら?」


 優子がモニターを見ると、そこには明美が花束とワインを持って立っていた。


 「祐一のお客さんみたいよ。

 チキンは私が揚げるから出てちょうだい」


 私はイヤな予感がした。

 おそらく明美だろう。


 私は明美との連絡を避けるため、携帯番号を変えていたから直接会いに来たのだろう。

 しかもイブの夜に。



 モニターを覗くと、やはり明美が映っていた。

 髪とコートが雪で濡れていた。

 傘もささずにやって来たようだった。



 チキンを揚げながら、優子が叫んだ。

 

 「今夜はイブの夜なのよ! ふたりだけの聖夜なのよ! 追い返して! 絶対に玄関を開けないで!

 約束したわよね! 指切りしたもんね!」


 黙ってモニターを見ていると、明美がまたチャイムを鳴らした。

 それでも私は返事をしなかった。


 明美は業を煮やし、何度もチャイムを鳴らした。



 ピンポーン・・・ ピンポーン・・・ ピンポーン ピンポーン ピンポーン・・・



 「お願い祐一、ドアを開けて!

 開けてくれるまでここを動かないから!」


 私は優子に言った。


 「帰るように言ってくるよ」

 「行かないで! もう彼女とは会わないで!」

 「ちゃんとケジメを着けて来る、今夜はイブの夜だから」

 「・・・」


 優子は何も言わなかった。


 私はダウンジャケットを羽織り、エントランスホールへと降りて行った。


 

 「祐一、会いたかった・・・」



 明美は私に抱き付き嗚咽した。

 寒さと惨めさで彼女は少し震えていた。

 私は近所の喫茶店に彼女を誘った。



 「何がいい?」

 「お酒が飲みたい・・・」

 「体を温めないとダメだよ、ココアでいいね?」



 熱いココアのカップを両手で包み、明美は慎重にココアを啜った。

 髪の毛の雪が融け、水滴となり光っていた。


 

 「頭、濡れてるよ」


 私は明美にハンカチを渡した。

 

 「ありがとう・・・」


 

 明美は濡れた髪をハンカチで拭いて言った。

 

 「別れたくない、別れたくないの・・・」

 「・・・別れようって言ったはずだよ」

 「別れたくない、別れない! 祐一のことが好きなの!」

 「もう終わりにしよう、終わりにしてくれ。

 そしてお互いの人生を生きよう。

 もう君とは会わない、会ってはいけないんだ」


 店内にはこれからの熱い夜を迎えるであろう恋人たちが点在し、Whamの『Last Christmas』が流れていた。



 「絶対に別れるのはイヤ! 祐一とやり直したい! もう一度初めから!」

 「それは出来ない。もうここへは来ないでくれ。

 これで本当にさよならだ。

 こんな僕を憎んでくれてもいい、それじゃあお別れだ」


 私は伝票を持ってレジへと向かった。



 会計を済ませ、外に出ると雪は止んで、月明かりで街に積もった雪が輝いていた。


 Blue moon 


 真珠のようにイブの夜空に浮かぶ月。

 音は消え、幻想的なイブの夜だった。



 「祐一!」


 明美が店から飛び出して来て私を呼び留めたが私は立ち止まらずにそのまま歩いた。


 その時だった、凍結した路面をスリップしたクルマが坂道を下りて来て、私に向かって来た。



 「キャーーーーーーッ!」



 そこからの意識が私には無くなっていた。




第36話

 「祐一! 祐一! 眼を覚まして!」


 明美は震える手で救急車を呼び、警察に通報した。

 サイレントの音を聴きつけ、胸騒ぎを覚えた優子がマンションから飛び出して来た。


 

 「祐一! どうしたの! 何があったの! 祐一!」


 優子は明美を突き飛ばし、祐一の名を叫び続けた。

 そして明美を睨みつけて言った。


 「あんたのせいよ! あんたがイブの夜なんかにやって来るから!」

 「・・・」


 優子はそのまま救急車に同乗し、明美は警察の現場検証に立ち会った。

 クルマを運転していた老人は呆然としていた。


 


 病院に到着するとすぐに救命救急室に運ばれ、救命処置が施された。

 看護師が優子に書類にサインを求めた。


 「奥様ですか?」

 「いえ婚約者です! あの人は助かりますよね!」

 「そうでしたか? ご両親とか他にご家族はいませんか?」

 「連絡はしてみますが、遠方なのですぐには・・・」

 「わかりました。これから検査になりますが、手術が必要になると思います。

 緊急を要しますので、まずは手術の同意書にサインをお願いします」

 「わかりました。どうか彼を助けて下さい! お願いします!」

 「兎に角、こちらでお待ち下さい」



 優子が同意書に署名をすると、看護師はすぐにERに戻って行った。

 ストレッチャーに乗せられた祐一がERから出て来た。


 「これからレントゲンやCT、MRIなどで画像診断をすることになります。

 少しお話を聞かせていただいてもよろしいですか?」


 30半ばくらいの医師が、アレルギーや既往症などについての問診をした。



 「彼は助かりますよね?」

 「腹部に出血がみられますので、原因を検討しています。

 ここは寒いでしょう? 今、毛布を持って来ますね」



 優子は財布だけを持って飛び出してきたので、上着もコートも着てはいなかった。

 気が利く医者だと思った。

 この医者なら必ず祐一を救ってくれると優子は確信した。

 


 そこへ明美がやって来た。

 

 「祐一は?」

 「これから緊急手術みたい」

 「私のせいだよね? 私が祐一に会いに来なければこんなことには・・・」

 「あなたの気持ちはわからなくもない、私があなたの立場なら同じことをしていたかもしれないわ。

 人を好きになるってそうゆうことだもんね?

 誰もその想いを止めることはできない。

 でもお願い、もう彼には会わないで頂戴。

 彼も苦しいはずだから。

 彼のやさしさは弱さでもあることは分かっているでしょう?

 恋愛って「縁」なのよ。

 好きとか嫌いじゃなく、合うか合わないかなのよ。

 今回の件でわかったでしょ? 祐一と明美は合わないの。たとえどんなに愛し合っていても。

 だって8年も付き合って、結論が出なかったんだから。

 それは「縁」が無かったっていうことじゃないの?」

 「祐一も同じことを言っていたわ。

 そうね? そうかもしれない・・・。

 手術が終わるまで、一緒にいてもいい?」

 「好きにすれば? でも手術が終わるまでよ。

 終わったらすぐに帰って」

 「うん」


 

 手術は6時間にも及んだ。

 オペ室から医師が出て来て細かく手術の説明をしてくれた。


 「命に別状はありません。手術は無事成功しました。

 雪が良いクッションになったようです。

 もっとも事故は道路の凍結によるものでしょうが。

 脳には異常は認められませんでしたが肋骨を三本と腰骨の骨折、それから左足にヒビが入っていました。

 入院は2か月ほどになると思いますが、今後の経過次第です。

 大変なイブでしたね?」

 「ありがとうございました」

 「ありがとう、先生」

 「それではお大事に」


 医師は手術室に戻って行った。




 祐一は麻酔が醒めぬまま、手術室からリカバリールームへと移された。


 「祐一」

 「祐一、ごめんなさい・・・。じゃあ後はお願い。

 もう彼とは会わないわ、私は彼の疫病神だから」

 「しあわせになってね?」

 「あなたもね、祐一をよろしく」


 そう言って明美は病院を去って行った。

 もう夜が明け、雪が朝日に輝いていた。



 優子も入院の準備のため、一旦家に戻ることにした。




 早足で歩く人の足音や電子音、金属がふれあう音。

 そして女性の声が聞こえた。


 (病院?)

 

 体中が痛くて体が動かない。

 点滴が3本されていた。

 白い天井が見える。


 オシッコがしたかったが起き上がることができない。

 やっと右手が僅かに動き、ナースコールを押した。


 「東野さん、気がつきましたか? 手術は無事に終わりましたよ」

 「すみま、せん・・・、オシッコ、が・・・」

 「大丈夫ですよ、カテーテルをつけていますからそのままして下さい」


 しようと思ったが出ている感覚がない。


 「痛みはどうです?」

 「痛い、です・・・」


 私は頷いた。


 「大変なイブでしたね? 雪に助けられたようですよ。

 今、先生を呼んで来ますね?」



 医師からの説明を受け、私は病室へと運ばれた。


 「全治2か月といったところです、お大事にして下さい」

 「助けていただき、ありがとうございました」



 痛みが強く、中々眠れなかったがいつの間にか眠っていた。



 目を覚ますと優子が私の手を握っていた。


 「だから行かないでって言ったのに。雪がなければ死んじゃったかもしれないのよ」

 「ごめん・・・」

 「バカね? 祐一は」

 「明美は?」

 「帰ったわ」

 「そうか」

 「私より明美の方が良かった?」


 私は首を左右に振った。

 

 「心配かけたね?」

 「とんだイブだったわ。でも生きてて良かった。

 あなたが死んだら私も死ぬからね?」

 「ありがとう、優子」


 優子は大粒の涙を流した。


 「明美、もう祐一には会わないって。

 自分は疫病神だからって言ってた。

 かわいそうだったけど、仕方ないもんね?

 それが彼女のしあわせでもあるんだし・・・」

 「別れることが彼女のしあわせか・・・、そうだな? 結局男と女は「縁」によって結ばれているからね。

 それは常識ではないから。

 人はいずれ歳を取り、老人になる。

 若い頃は美しかった彼女も、イケメンだった男も皺が増え、髪の毛にもツヤが無くなる。

 そしてそれを支えるのが「心」だ。

 所詮、人間の肉体はただの借り物でしかない。魂の入れ物にすぎないんだ。

 いつか肉体は滅んでいく。

 最後に残るのが魂、そして献身的な相手への想いだ。

 迷惑をかけてすまなかった」

 「しょうがないよ、好きになっちゃったんだから」


 優子はそう言って笑った。

 その笑顔は雪のように白く、美しかった。




最終話

 ロンドンに来て2か月が過ぎようとしていた。

 6月のロンドン。


 「花の都 パリ」「水の都 ヴェニス」そして「霧の都 ロンドン」


 大学生の頃にロンドンを訪れた時、街の建物が黒かったが、今は明るくなっている。

 あれは暖炉に使う石炭の煤だったのだろうか?

 確かに冬のロンドンは霧が深かった。


 それは工場排水等でテムズ川の水温が高くなり、そこへ冷たい空気がそれに触れることで移流霧が発生していると思われていた。

 だがそれは霧ではなく Smog だった。


 自然発生した霧に、工場や家庭で燃やされた石炭から出るガス、そして自動車の排気ガス等により発生した硫酸塩が霧の水分子と化学反応を起こし、硝酸塩やその他の有機化合物となって、人体にも有害な公害となっていたようだ。


 つまり、幻想的な「霧の都」は悪臭を放つ「有毒ガスの都」だったというわけだ。



 結婚式の最中だと言うのに、私はそんなことを考えていた。


 

 「ジューンブライド。私の夢だったの」

 「やっとここまで辿り着いたね?」

 「フルマラソンだったわよね? しかも山あり谷ありの障害物だらけの」

 「僕を支えてくれて、本当にありがとう。

 そしてこれからも宜しく頼むよ」

 「それはお互い様よ。いつか私もお婆ちゃんになるけどそれでもいい?」

 「僕もお爺ちゃんになるけど、それでもいいのかい?」

 「もちろんよ、私は祐一がイケメンだから結婚したんじゃないもの」

 「僕も優子が美人だから結婚したわけじゃないからね?」

 「じゃあ、なんで私を選んでくれたの?」

 「選んだんじゃないよ、僕たちは「縁」があったんだ。

 君と夫婦になるのは前世から決められていたんだよ」

 「そうか、だから何故か懐かしい気がするのね? あなたといると」



 式にはお互いの家族と山下校長夫妻、大森教授とトーマス教授が出席してくれた。



 「おーい、記念写真を撮るぞー。主役は早く早く!」


 笑顔で手招きしてくれる大森教授。

 みんなで記念写真を撮り終えると、ロンドン市内の中華レストランでささやかな披露宴を開いた。

 トーマス教授に気を遣い、会話はすべて英語だった。



 「ロンドンって食事がダメだって言うけど、結構美味しいわよね?」


 山下校長がトーマス教授にウインクした。



 「ロンドンは中華料理とインド料理なら、美味しいお店もありますよ」


 私がそれを柔らかくフォローすると、トーマス教授が言った。



 「中国人は「食べるために生きる」というが、われわれ英国人は「生きるために食べる」が信条だ。

 美食よりもやるべきことは他に沢山あるからね?」

 「仰る通りです、トーマス教授。

 日本は平和です。食べることにしか興味がないのですから。

 食べることが「娯楽」なんです。

 日本ではアフリカの現状を伝えてはいません。

 テレビや雑誌ではどこが旨いの話ばかり。

 挙句の果てにはどれだけたくさん食べられるか? あるいはどれだけ辛い物を食べられるかという、食事が弄ばれています。

 日本も中国も同じです。未来は決して明るくはありません。

 とはいえここの中華は横浜の中華街よりも旨い。 東野君、いけるよここの中華は」

 「でも大森教授、この箸、先が細くなっていないのはどうでしょう?

 抵抗はありませんか?」


 山下校長が言った。


 「今度はマイ箸を持参で来ればいいんじゃないかしら?」

 「そうだな? 今度は箸を持参して来よう。今度、割り箸を送ってあげるよ」

 「あら、輪島塗とかのお箸を箸箱から出すのもお洒落じゃない? ロンドンで流行るかもよ?」

 「あはははは」


 和やかな宴が続いた。




 大森教授はハンブルグの大学に寄るそうで、優子の家族はオランダへ、そして私の家族はスペイン、ポルトガルへと旅立って行った。

 山下校長夫妻はパリへ行くことを嬉しそうに話してくれた。



 「私たちはこれからパリなの。ちょっと遅いハネムーンだけどね? うふふふふっ」

 「美味しい物をたくさん食べて来て下さいね?」

 「もちろんよ! もう日本で予約しちゃったの。『エピキュール』ってお店、知ってる?」

 「よく予約が取れましたね? すごく人気のあるお店ですよ。パリでは一番のレストランです」

 「パリにいる友人に頼んで予約してもらったの」

 「なるほど、世界中のグルメが集まりますからね? パリには」

 「定年したらまた遊びに来るから、その時はよろしくね?」

 「いつでもどうぞ」

 「ゆうこりん先生、しあわせになるのよ」

 「ありがとうございます。わざわざ日本から来ていただき、ありがとうございました」

 「あなたたちには何もしてあげられなかったわね?

 ごめんなさいね?

 でもお陰でこれを口実に学校もお休み出来て、ロンドンとパリにも来れたわけだし、お礼を言うのは私たちの方よ」

 「お気をつけて」



 山下夫妻はセントパン国際駅からユーロスターに乗ってパリへと向かった。

 ドーバー海峡を通って2時間ちょっとの旅である、飛行機よりも快適だろう。



 明美は1週間前に中谷さんと結婚したらしい。

 それは中谷さんから連絡を貰って知った。


 「色々あったけど、彼女と結婚した。

 先のことはまだ分からないけど、結婚ってやはり「縁」だと思うんだ。

 明美は僕が必ずしあわせにする、時間をかけてゆっくりとね?

 君たちもお幸せに」

 「ありがとうございます。中谷さんもお幸せに」

 「ありがとう、それじゃ」



 

 私たちが自宅に帰ると、玄関に日本語でひまわりの折り紙の付いた貼り紙がされていた。




         求む家政夫!


      三食とわがままな奥さん付きです!




 優子が笑って私の首に腕を回し、キスをした。


 「この貼り紙を見て来てくれた人ですか?」

 「はい、僕でよろしければぜひとして雇って下さい」

 「しょうがないなあ、じゃあ早速ですが今日からお願いします!」

 「かしこまりました奥様」



 その日のロンドンは霧もなく穏やかな快晴で、やさしい6月の風が吹いていた。


 

                                 『恋愛方程式』完




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【完結】恋愛方程式(作品231118) 菊池昭仁 @landfall0810

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