第3話「5月15日、水曜日。」
忌まわしい金属音が、頭の中で何度も響き渡る。
なぜ朝はこんなにも、憂鬱なのか。
無理やり僕を覚醒させようとする不健康な日光が、自分の役割を理解していない使えぬカーテンの、隙間から差し込んでくる。
執拗に起こそうとしてくる朝に、
僕はついに耐えきれず、
心地の悪くなった布団から起き上がることにした。
しかしどうしたものか。僕は固まってしまった。
眼前に広がる光景は、信じられぬことに、
僕の乱雑とした、頭の痛くなる部屋だった。
——なんで、僕が生きているのか。
僕の身に起きている超常現象に、僕の意識は、
理解することを拒んでいた。
「え、いや、なんで、どうして…」
その時。
あの澄ました痛い男の言葉が、脳裏に浮かんだ。
『——時間を巻き戻す、ふざけた力さ。』
僕は、複数の吐き気を催した。
理由がわからぬ吐き気が。
あの男の言っていた戯言が本当だったという、
受け入れがたさの吐き気が。
そして、僕が『生きること』から、
逃げられぬかもしれぬ、恐怖の吐き気が。
僕は急いでトイレへ向かう。
道中、ドアノブが僕に歯向かってきて、
簡単に開こうとしなかった。
僕は本格的にこの世界から孤立しているのではないか?という妄想さえし始めた。いや、こんな状況になったら誰でも、この世の全てに絶望を抱くはずだ。そうに違いない。
視界がだんだん薄暗くなり、
確実にその範囲を狭め、
鬱陶しい青い点滅が僕の立体感覚を失わせていた。
身体が重い。高熱でうなされた時のような、
身体の熱ささえ感じる。
家全体の金属という金属が、
僕に接触されることを拒むように、
氷点下の感覚を僕の肌に返した。
トイレが僕の視界に映ったその瞬間。
僕はトイレに縋り付くように倒れ込み、
僕は吐いた。
——そういえば、今日は5月15日のようだった。
朝の大事が全て済んだ後、僕は家を後にした。
親もいないし、生き生きとした雰囲気もない。
まるで死んだような、僕の家。
僕はエレベーターで一階に降りた後、
自宅のマンションから出て駅に向かい、
行きたくもない学校へと歩いた。
そういえば、
なぜ僕は学校に行っているのだろうか。
好きでもない学校に。
嫌でも人と関わらなきゃいけない学校に。
僕は、僕の内面を探れば探るほど、
あの男の言葉が脳裏に浮かんできて、
何でも見透かしているような気がして、
いやな気持ちが沸いた。
「自己矛盾、か。」
あの男の言葉を心の中で認めようと、
尽力するほど、理不尽な気持ち悪さが、
泥のように、僕の心を塗りたくる。
ああ、これが僕の薄汚れた内面なのか。
僕は、逃げられない。逃げようとすると、
今朝のようなことがまた起きるかもしれない。
もしかしたらもっと、苦しいことが。
『私は敵じゃない。』
僕は、その言葉を反芻する。
——反芻するしかなかったから。
僕は、あの男を信用する。
——信用しなきゃ、苦しむだけだから。
登校している生徒の中で、
僕は鼻水と、涙で、ぐしゃぐしゃになっていた。
『生きること』に対する恐怖、
人を受け入れることに対する恐怖。
僕は今までにない苦難を受けようとしている。
果たして僕は許されるだろうか。
つかみどころのない、大きな不安が、
僕の心を強く締め付ける。
僕は重みを感じながら、
学校の中へと、入っていく。
昼休み。
相変わらずみんなは友達と話していて、
僕は一人でいた。
僕は、椅子から立ち上がる。
恐い。
足が震えている。
指先から、足先まで、まるで感覚がないようだ。気が動転しているのだろう。
何だかめまいも、してきた。気持ち悪い。
僕はおぼつかない足取りで、
記憶の限り、向ヶ丘さんたちが歩いていた廊下へと向かうために、教室のドアへと手をかける。
多分、次にあの見苦しい男が僕が止めようとするだろう。
「住吉、お前向ヶ丘さんと何があったんだ。」
僕はそいつの顔を真っ向から見れなかった。
「…僕は、向ヶ丘さんに酷いことをしたんだ。だから、謝りに行く。」
男は僕のことを弾糾するに違いない。
「おう、そうか。向ヶ丘さんなら、HR委員帰りで、理科室から帰ってると思うぞ。」
男は、笑みを浮かべていた。
「えっと、ありがとうございます。」
想定外だった。なぜ、僕にこんなに優しいのか。
「俺の名前は『
男——いや、剛は僕の背中を優しく、強く叩き教室の中へと向かっていった。
僕は向ヶ丘さんの元に駆けつける。
剛にやられたビンタで、背中が制服と擦れて、
ヒリヒリしていた。でも、なぜか心地よい。
——これはけっしてそういう嗜好を持っているわけではない。
やっぱり、あいつは馬鹿野郎だ。
心なしか、気持ちが楽になった。
僕は向ヶ丘さんとその友達の人影が、
どんどんと近づいていくのを感じる。
向ヶ丘さんは走る僕の姿を見て、前のように、
悲しい顔をしていた。
でも、二回目の今日で終わらせる。
僕のせいで、苦しんでいた向ヶ丘さんを、
救わなければならない。
苦しむことから逃れたいと願ってる僕が、
人を苦しめてしまうなんて、ふざけた矛盾である。
「なんだ〜?ユッキーの追っかけかぁ?」
「え、ちょっと!沙織ちゃん!」
「えっと、それは、断じて、違います。」
息が途切れ途切れになりながら僕は否定する。
それを聞いた向ヶ丘さんは目を点にした。
沙織らしき、ギャルギャルしい人は
笑いを堪えるのに必死らしい。
「向ヶ丘さん。」
「住吉くん…?」
「この前はごめん。向ヶ丘さんに話しかけてもらえて、嬉しかった。」
向ヶ丘さんの目が涙で潤んでいるのが見えた。彼女の唇が微かに震え、言葉にならない感情が溢れ出そうとしているのがわかった。
「ううん、ぜんぜん、いいよ。こっちこそごめん。」
彼女の目が見えない、というよりは、
眩しくて僕には見えなかった。
彼女が完璧美少女と呼ばれているゆえんが、
嫌なほど沁みた。
やはり僕は、どこまでいっても僕だ。
「…にしても、さっきのは酷いかな〜。」
「ふふ、あはは、まじ無理、さっきの聞いた?『いや、えっと、それは断じて違います。』だってさ!いひひ、面白すぎるんですけどーっ!」
沙織のからかいに、向ヶ丘さんが笑みをこぼした。僕も思わず口角が上がってしまった。
人に馬鹿にされることがこんなにも温かく感じるなんて、夢にも思わなかった。
また、人と関われる気がする。
ただ、沙織さんが何回もいじってくるのは、
社会的に地位の低い僕になら、
人の気持ちを考慮する必要もないという、
腹黒い差別意識が見え透いてならない。
——いや、やめとこう。きっとこれが彼女のスタイルなのだ。
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