【完結】キスを忘れた女たち(作品230814)

菊池昭仁

キスを忘れた女たち

第1話

 「朝食はテーブルに置いてあるから後で食べてね? それじゃあ行ってきまーす」


 俺は返事をする代わりに、ベッドから右手を挙げてそれに応えた。

 塔子は俺に軽くキスをして、職場へと出掛けて行った。



 熱いシャワーを浴び、髭を剃った。

 塔子の用意してくれた朝食も、既にランチになってしまった。


 鍋の赤出汁の味噌汁に火を入れた。

 食卓には卵焼とキンピラ、小松菜のお浸しと鮭の西京焼き、そしてしば漬けが添えられていた。

 俺は炊飯ジャーから飯をよそり、昼の料理番組を見ながら食事を摂っていた。

 塔子は料理が得意な女だった。栄養のバランスも考えて、俺に旨い食事を作ってくれる。



 俺と塔子は15才も歳が離れており、彼女は30、俺は既に45才になっていた。

 昨夜、行為を終えた後、塔子が俺に言った。


 「ねえ、このまま一緒に私とここで暮らさない?」

 「俺は塔子に新しい恋人が出来るまでの「抱き枕」でいい」


 俺はそう言って塔子のサラサラの髪を撫でた。


 「私もそろそろママになりたい」

 「俺にパパは似合わねえ。お前のようないい女なら、もっと#生きのいい__・__#若い金持ちイケメンたちが、わんさか寄って来る。

 やさしくて、塔子の言うことなら何でも聞いてくれる、アホで扱い易い男たちがな?

 俺は今45才で無職。塔子とは15歳も歳が離れている。

 子供が幼稚園に通い始めて、運動会やお遊戯会に行けばこう言われるハズだ。

 「あら、今日はお爺ちゃんと一緒なのね? よかったわね」ってな?」

 「歳の差なんて関係ないわ。私は平気よ。

 カトちゃんなんてあの若い奥さんと45才も離れているじゃない?」

 「でも、子供はいない。

 それに俺たちは付き合ってまだ3カ月だ」


 塔子は30才でバージンだった。彼女にとって俺が「初めての男」だった。

 それなりに付き合った男はいたようだが、タイミングを逃してしまっていたらしい。

 塔子は安易な選択をしようとしているようだった。

 俺のことなどまだ何も知らないくせにだ。



 「ビビッと来たのよ。聖子ちゃんみたいに。

 私の王子様は絶対にこの人だって」

 「俺は白馬に乗った王子じゃなく、茶色のロバに乗ったただのオッサンだぜ?」

 「おじさんじゃないわ、素敵な#オジサマ__・__#よ」

 「塔子、お前はいつからそんなにバカになった?

 自分と子供のしあわせも計算出来なくてどうする?

 お前、それでも中学校の先生か?

 女はな? 計算高く生きなきゃただのバカだ。もっとあざとく生きろ。

 女のしあわせは男次第だ。

 この豊かな時代に、こんなくたびれた中古車じゃなくて、もっとピカピカの新車に乗れ。

 塔子の学校にはイケメン教師はいねえのか?」

 「そんな人、誰もいないわよ」


 俺の胸で白い指を持て余す塔子。


 「これから現れるかもしれないじゃないか?」

 

 塔子は俺にカラダを寄せ、こう言った。


 「じゃあこのままでいい。このままでいいからずっと私の傍にいて」

 「おそらくお前はそのうちすぐに俺に飽きると思うけどな?」

 「絶対に飽きないもん」

 「それでよく教師が務まるな?」

 「教師は普通に人を好きになってはいけないの?」

 「教師ならもっとちゃんとした男を好きになれ」



 俺のいい女の条件は三つ。

 料理が好きでクルマの運転が上手。そして本が好きな女だ。

 塔子は料理が得意で読書もするが、クルマの運転が下手だった。

 塔子のクルマの助手席に乗ると、ジェットコースターよりもスリルがある。

 彼女の言い分はこうだ。


 「クルマは男が運転するものでしょう? だから私は運転が下手でもいいの!」


 俺はそんな塔子が嫌いではない。

 今、俺にはそんな塔子のような女が三人いた。


 今井紗栄子は読書家で、クルマの運転はレーサー級。

 A級ライセンスも持っており、俺のランボルギーニ・ガヤルドを自在に乗りこなす女だが、料理はしない。

 料理が苦手というわけではなく、「嫌い」なのだ。

 紗栄子に言わせると、料理に掛ける時間が無駄だという。

 外食で旨い物を食べ、足りない栄養素はサプリメントで補い、野菜などはスムージーを飲めばいいと言う女だった。

 料理は調理だけではなく、準備も後片付けも必要だ。

 その時間が非効率だと彼女は言うのだ。


 長田おさだ直子は本をあまり読まない。だが冷静な判断力があり、クルマの運転はいつも的確だった。

 そして料理の腕前は料理研究家としても知られる存在で、料理本の出版や、テレビの料理番組にもよく出演していた。

 直子の作る料理はもはや芸術の域にさえあった。

 彼女はまるで絵描きのように皿を彩る食の魔術師だった。


 俺は、そんな女たちの家を転々と渡り歩いて暮らしていた。

 塔子との出会いは三カ月前、行きつけのショットバーだった。


 中学の音楽教諭をしている塔子は、職場の飲み会でカラオケを強要されるのが大嫌いだった。


 「中村先生は音楽の先生なんだからさあ、カラオケくらい歌ってよ~」

 「聴きたい聴きたい! 歌って歌って! 中村先生の歌、聴いてみたい!」

 「ダメダメ、中村先生はカラオケが大嫌いなんだから。中村先生はカラオケのイリオモテヤマネコなの。

 アンタたち、それを知ってて無理やり歌わせようっていうのは、それこそ虐めよ、い、じ、め。あはははは」


 学年主任のバツイチ独身女、瀬川綾子が言ったその言葉で塔子の我慢がレッドゾーンを超えてしまった。

 塔子の前にマイクが置かれ、勝手に松田聖子の『瑠璃色の地球』が入れられた。

 イントロが流れると、同僚の先生たちから拍手と歓声、口笛がスナックに響き渡った。


 すると塔子は財布から5,000円札を取り出し、カウンターの上にそれを叩きつけた。


 「私、今夜はこれで失礼します!」

 「ごめんごめん、中村先生。ご機嫌直してよー」

 「そうよ、これからじゃないのー」


 そして彼女はそのままスナックを出て、俺が常連のBARに飲み直すためにやって来たらしい。



 「マンハッタンを下さい」

 「かしこまりました」


 彼女は疲れたように、俺からひと席離れたカウンターに座った。

 バーテンダーの義男が言った。


 「バロンさんはカラオケとかしないんですか?」

 「しねえよ、あんなの。バカバカしい」


 俺は独身貴族という意味で、知り合いたちからは「バロン(男爵)」と呼ばれていた。



 「あんなの、歌いたい奴が歌えばいい。 

 カネでも貰えるなら歌ってやってもいいが、俺はタダじゃ歌わねえよ。ギャラもねえのに俺が歌うわけねえだろう?

 それに歌いたくない奴に無理やり歌わせようとするヤツっているだろう? あれは最低だな?

 ちょっとばかり自分が歌が上手いからって、前座に使うなっつーの」


 するとそれに塔子がすぐに反応した。


 「そうですよね? 自分が歌いたいからって私を出汁にして。本当にサイテー」

 「アンタもカラオケは歌わない主義か?」

 「ええ、大っ嫌いです。あんなカラオケなんて下品な物」

 「じゃあ、俺と仲間だな?」

 「私、歌謡曲って好きじゃないんです。一応、音大でオペラを勉強していたので。

 チャラチャラした歌が嫌いなんです。声楽は芸術ですから」

 「へえー、つまりアンタは音楽はアカデミックじゃねーとダメなんだ? 北島サブちゃんとかの演歌は音楽じゃねえと?」

 「そうは言っていませんけど、松田聖子や郷ひろみなんて芸術ではないからです」


  

 俺は店の隅にあるアップライトのピアノの前に進み、蓋を開けるとビリー・ジョエルの『NewYork state of mind』の弾き語りを始めた。

 ざわついていたBARが急に静かになった。



 俺が歌い終わると、客たちから拍手喝采が浴びせられた。


 「アンコール! アンコール!」

 「もっと歌って下さーい!」


 俺は笑って手を上げ、それには応じなかった。

 カウンター席に戻ると彼女が俺に謝って来た。


 「ごめんなさい、さっきは生意気なことを言って」

 「アンタが言うように、声楽は芸術かもしれねえ。でもな? じゃあ芸術ってなんだ?」

 「えっ・・・」

 「芸術って人に感動を与えることじゃねえのか?

 絵画でも彫刻でも、クラッシック音楽も芸術だという。

 だがな? バアちゃんが作る糠漬も立派な芸術なんだよ。

 心が動くこと、感動が芸術なんだ」

 「ピアノはどこで勉強されたんですか?」

 「自己流だよ自己流。あはははは」


 俺は氷の溶けたロイヤルサルートを一口飲んで煙草に火を点けた。


 そしてその夜、俺は塔子と一夜を共にした。



第2話

 バーのある大通りに面したシティホテル。

 部屋に入ると塔子はそのままベッドに大の字になり、天井を見上げて溜息を吐いた。


 「はあー、酔っぱらっちゃったー」

 「美味い酒だったか?」

 「とっても。

 こんな楽しいお酒は久しぶり。

 というより、こんなに気持ちよく酔ったのは初めて」

 「良かったな? 気持ちいい酒で」

 「ねえ、ここに来て」


 塔子は右手でベッドを軽く叩いたが、俺はソファに座り、煙草に火を点けた。


 「煙草を1本、吸ってからな?」

 「あー、今日はたくさんお酒、飲んじゃったー」

 「酒、好きなのか?」

 「今夜は特別。

 美味しいお酒だったから」


 俺は冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、それをコップに注いで彼女の前に立った。


 「飲めよ、明日の二日酔いが少しはラクになる」

 「ありがとう。やさしいのね?」


 塔子はベッドから上体を起こし、コップの水を旨そうに飲んだ。


 俺はペットボトルに残ったその水を、そのまま喉を鳴らして飲み干した。

 酒を飲んだ後の水ほど旨い物はない。

 俺の先輩は「旨い水を飲むために酒を飲む」と言っていたほどだ。



 「私は中村塔子。あなたは?」

 「バロン」

 「名前くらい教えてよー」

 「鴨志田五郎」

 「何をしている人なの?」

 「殺し屋」

 「そんなやさしい顔でピアノを弾く殺し屋さんなんているのかしら?」

 「俺はピアノを弾く殺し屋だ。

 殺し屋がピアノを弾いちゃダメなのか?」

 「じゃあピストルとか持ってる?」

 「持ってるよ」

 「見せて」

 「ここに隠してある」


 俺は自分の股間を指差して笑った。



 「あははは あなたってヘンな人。

 それってどんな拳銃?」

 

 俺は灰皿で煙草の火を消し、塔子の隣に座った。

 間違いない、この女は男を知らない。

 塔子のカラダは少し震えていた。



 「学校の先生も大変だな? 生徒に教えるだけじゃなく、教師仲間と不味い酒も飲まなきゃならねえなんて?

 俺は人嫌いだから教師には向いていない。

 生意気なガキも好きじゃねえ」

 「働くってそういうことでしょう? 人間関係も仕事の内よ」

 「本物の教師って、サラリーマンじゃ出来ねえよ。 

 朝来て5時で上がれて土日が休みで長期休暇もある。そんな奴、教師じゃねえ」

 「殆どの先生はそんなサラリーマンよ。余計なことはしないし、言わない。

 自分に責任があるようなことは絶対にしない。

 言われたことだけする先生ばっかり。

 それは中には家庭も顧みず、教職に没頭している熱血先生もいるわよ、でもそんな先生はほんの一握り」

 「そんなの教師じゃねえな? タダの公務員だ」

 「そうかもね? 私も同じ・・・」


 俺は塔子を抱き寄せ、軽くキスをした。

 塔子は唇を閉じたままだった。

 どうやらキスの経験もないらしい。


 (やはり、バージンか?)


 顔も紅潮し、キスもぎこちない。

 慣れてはいないのは明らかだった。


 「タバコ臭いだろ?」

 「大丈夫、私もたまに吸うから・・・」

 「そうか?」

 「あのね?」

 「なんだ?」

 「私、初めてなの・・・」

 「だから?」

 「それでもいい?」

 「これから高級ワインのコルクを開けるような気分だよ」

 「30にもなってもまだバージンなんて、幻滅した?」

 「じゃあ、いくつならいいんだ?」

 「17とか18? 遅くても20才かな?」

 「そんなの誰が決めた?」

 「普通、そうじゃないの?」

 「塔子は物事を決め付けるクセがあるな?

 心配するな、俺も童貞だから」

 「えっ?・・・」

 「今夜はな? あはははは

 でもいいのか? 初めての男が俺みたいなオッサンで?」


 俺はなるべく塔子の緊張と恐怖、不安を取り除いてやろうとした。

 それはこれから行われる神聖な儀式へのプロローグとして。


 「鴨志田さんなら、いいと思った」

 「どうして?」

 「経験豊富でやさしそうだったから」

 「俺はAV男優じゃねえぞ、あはははは

 でもどうして「処女喪失」とかって言うんだろうな?

 処女膜が失われるからか? 「喪失」っていう呼び方、俺は好きじゃねえ。

 それはおそらく、日本に西洋医学が持たらされて、「ロスト・バージン」がそのまま和訳されたのかもしれねえ。

 英語じゃなくてオランダ語か? オランダ語は知らねえけど、おそらく同じ意味だろう。

 膜が在る無しじゃなく、「初めて男に愛された日」とかに出来ねえもんかなあ。

 まあ、男の「童貞卒業」っていうのもどうかと思うがな? 学校じゃあるまいし、なんだよ「卒業」って?」

 「ねえ、私を女にして・・・」

 「その前に風呂に入って来るよ、カラダをお清めしないとな? お前の初めての男になるんだから」

 「私も一緒に入ってもいい?」

 「もちろん。背中を流してくれ」

 「うん」


 

 先に俺が風呂に浸かっていると、バスタオルでカラダを隠した塔子が透明なドアをノックした。


 コンコン


 「ノックは要らねえよ、丸見えだぜ?」

 「お邪魔しまーす、なんだか恥ずかしい・・・」


 私は浴槽から上がり、浴室の照明を消してパウダールームからの明かりだけにした。


 「これならいいか?」

 「うん・・・」


 塔子がバスタオルを外した。

 その体は白く滑らかで、塔子はまるで大理石のヴィーナスのように美しい肌をしていた。


 「きれいだよ、とても」

 「ホントに? ありがとう」

 

 俺は彼女の乳房に触れた。

 

 「はうっ・・・」


 塔子のカラダがビクンと反応した。


 「じゃあ、俺を洗ってくれるか?」


 塔子は黙って頷いた。

 スポンジにボディーソープをたっぷりと付け、ぎこちない手付きで俺を真剣に洗ってくれた。

 

 いよいよ洗うところがアソコだけになり、戸惑っている塔子の手を取り、俺は自分のそれに塔子の手を宛がった。



 「俺の拳銃もよく洗ってくれよ」


 恐る恐る、塔子が俺の勃起したそれにスポンジを滑らせた。




 「凄く硬くなってる。初めて触っちゃった」

 「これってすごく重いんだぜ、3キロはあるかもな?」

 「本当?」

 「嘘だよ」

 「もう、鴨志田さんのバカ」

 「じゃあ、今度は俺が塔子を洗ってやるよ」

 

 俺は彼女からスポンジを取り、全身を隈なく洗ってやった。

 アソコだけを残して。


 「ソコは自分で洗いな。じゃあお先に」


 俺は塔子にスポンジを返し、風呂場を出て風呂の照明を点けてやり、全身をタオルで拭いて、バスローブに着替えた。


 浴室では塔子が入念にカラダを洗っているのが見えた。



 冷蔵庫から冷えたビールを出して飲んだ。

 深夜になり、クルマの音も疎らになっていた。

 静かな夜だった。

 俺は塔子がリラックス出来るようにと、小さい音量でボサノバをかけた。

 


 塔子がバスローブを着てパウダールームから出て来て、ベッドルームの明かりを消した。

 そして塔子は初めて、女になった。


 

 初めての時には個人差はあるようだが、貫通する時の痛みと緊張により、殆どの女は「初体験」の記憶があまりないという。

 そもそもセックスなどは数をこなせば快感が高まるというものでもないし、経験豊富な男がテクニシャンだとも限らない。

 つまりお互いのカラダの相性と愛情というわけだ。


 カラダの相性を知るには食事の仕方と酒の飲み方を見ればわかる。

 セックスは飲食と似ている。体内へ入れるからだ。

 食べ方や飲み方がガサツな奴はセックスもガサツだ。

 自分の射精ばかりを追求し、相手のことはお構いなしな男は多い。



 「痛かったか?」

 「少しだけ・・・。でもこれでやっと、大人の女になれた気がする。

 私の周りの女の子たちの話しの輪に、私もようやく入ることが出来そう」

 「君の最初の男になれて光栄だよ」

 「また会ってくれる?」

 「アフターサービスは必要か?」

 「もちろんよ。これからたくさん教えてね? うふっ」

 「俺には教えるほどの経験はないけどな? あはははは」



 朝食はルームサービスで摂った。

 塔子は二日酔いもなく、楽しそうに食事をしていた。

 コンチネンタルなブレックファーストの朝食、彼女は冷えたオレンジジュースを飲んで言った。



 「バロンさんの今日のご予定は?」

 「暇だよ、俺は毎日がホリデイだからな?」

 「ねえ、横浜デートしない?」

 「横浜?」

 「そう、横浜。

 山下公園でしょう? それから赤レンガ倉庫に中華街。

 行こうよ、横浜」


 俺は卵の黄身を崩さないように、カリカリに焼いたベーコンをサニーサイドアップから引き離そうと、慎重にナイフを動かしていた。



 「いいよ。横浜かあ? 久しぶりだな?」



 俺たちは朝食を済ませると、昼近くまで眠った。


 もちろん、少しだけ夕べの続きも交えての#アフターサービス__・__#もしてだ。



第3話

 横浜の大桟橋埠頭には大型客船『Queen Elizabeth?』が停泊していた。


 「うわー、豪華客船って初めて見た!

 大きいのねー、ホテルが横になって浮いてるみたい!

 いいなあー、こんなお船で世界一周とか出来たら」

 「1967年にイギリスで推水。総トン数、70,327トン。ターボチャージャー付きのMANの9気筒のディーゼルエンジンを備え、特殊な電気推進制御で航行する。

 最大船速32.5ノット。

 スクリューは2軸5枚プロペラになっているんだ」

 「すごーい! 鴨志田さんはお船にも詳しいのね?」

 「この船のお客だったからな? いい船だよ、この船は。

 まるで動く豪華ホテルだった」

 「えっー、鴨志田さんってこの豪華客船に乗ったことがあるの?」

 「日本の沿岸から5マイルほど離れると、海の色がまるで違うんだ。

 心臓を鷲掴みされるようなブルーの海が広がっている」

 「私も見てみたいなー、そんなブルーの海」

 「長期の休みが取れるなら乗せてやるよ、この船に」

 「ホントに! じゃあ学校辞めちゃう!」

 「あはははは 船旅は爺さん婆さんになってからでも遅くはない。

 でも塔子が定年になる頃には、俺は75才、もう死んでるかもしれねえけどな?」

 「いいよ、私が介護してあげるから」

 「パンパースして車椅子でか? 嫌だよそんなのカッコ悪い」

 「鴨志田さんなら大丈夫、その頃にはステキなお爺ちゃん紳士になっているから」

 「タダのエロ爺だよ」

 「それもそうかもね? うふふふ」

 「そのうちクルーザーで海に出よう。塔子は船には強いのか?」

 「鴨志田さん、クルーザーも持ってるの?」

 「いいぞ、海は」

 

 俺は逗子マリーナに大型クルーザーを所有していた。

 天候の良い週末を見計らって、塔子をクルージングに誘ってやろうと思った。



 「腹減ったよな? 塔子、何が食いたい?」

 「中華街で中華が食べたい!」


 塔子のように「何がしたい?」と訊いて、すぐに具体的に返事が返ってくる女はいい。

 「何でもいい」が一番厄介だ。

 そういう女に限って後で必ず文句を言う。

 男は女の願いを叶えてやることに喜びを感じる動物なのだ。

 


 「それじゃあ、中華街まで歩くとするか? 山下公園を通ってな?」

 「うん、賛成!」


 塔子は女子高生のようにはしゃぎ、照れ臭そうに俺と腕を組んだ。

 この女は今まで、恋愛がただの憧れでしかなかったようだ。

 かわいい女だと思った。


 「男の人とこうして、腕を組んで歩くのが夢だったの」

 「小さな夢だな?」

 「小さくないよ、30年間、ずっと憧れだったんだから」


 少し磯の香りがする潮風が、心地良く頬を撫でる。

 山下公園の岸壁には小さなさざ波が打ち寄せていた。



 「ああ、いい気持ちー。私も横浜に住みたいなあー」


 塔子は横浜港を見詰め、両手を挙げて背伸びをした。

 その弓なりになった美しいボディーラインが爽やかな色気を醸成していた。


 「東京にも海はあるが、横浜とはまるで違う。

 横浜には東京にはないエキゾチック、異国情緒がある。

 神戸と横浜はいい港町だが、神戸と横浜も全然違うから不思議だ。

 特に女性のファッションセンスが異なる。

 神戸はエレガント、そして横浜には独自性のあるカジュアルな服飾が多い。

 世界中の空港の香りが各々違うように、港の香りも異なるものだ。

 横浜は船員ばかりではなく、旅客機がない時代に船客が出入りしていたこともあり、独自の文化が生まれた。

 西洋風の古い大きな建造物も多く残っているし、外国人向けの飲食店も多い。

 戦後、GHQの拠点でもあったからな?」

 「神戸は行ったことがないなあー。

 山下公園って綺麗な公園ね?」

 「そうか? 俺はこの山下公園は物悲しい感じがするけどな?

 山下公園は関東大震災の瓦礫で埋め立てられた公園なんだ。

 言うなれば「ゴミの公園」だよ」

 「何だか聞かなきゃ良かった。ゴミの公園だなんて」

 「現実を知るのは悪いことではない。

 中華街はすぐそこだ。ああ、喉が渇いたー、早く冷えたビールが飲みてえー」

 「私も! お腹空いちゃった」

 「もう夕方だもんな?

 空腹は最高の調味料だ。さあ飲んで食べるぞ!」




 夕暮れ近くの中華街は混雑していた。

 地方からの観光客も多く、みんなガイドブックを片手に店を吟味している。


 「疲れたからここでいいか?」

 「うん、いいよ、高級感のある大きなお店だね?」


 実はこの中華レストランは、俺の馴染の店だった。

 中に入ると支配人のワンがやって来た。


 「お久しぶりです、ようこそバロン様。どうぞこちらへ」

 「鴨志田さんって、ここの常連さんなの?」

 「知り合いだけは多いからな?」



 俺たちは一番奥にある、いつものVIPルームに案内された。

 俺が常連というよりも、横浜で貿易商をしている親父や爺さんがここの常連なのだ。

 横浜の山手に屋敷があったので、子供の頃からよくここで家族と食事をした。



 「生ビールを3杯、あとは任せるよ」

 「かしこまりました。ではいつものように」

 「ああ、頼む」

 「私とあなたしかいないのに、どうしてビールが3つなの?」

 「俺は飲むのが早いからな? 最初にもう一杯頼んでおくんだ。

 一杯目は一気に飲みたいし、その後、間が空くとイヤなんだよ」

 「なるほどねー」


 

 大桟橋から歩いて来たこともあり、冷えたビールは最高に旨かった。


 「はあー、生き返るようだ。

 知ってるか? ピラミッドを作っていた連中の報酬がビールだったって話?」

 「えっ、そうだったの? ピラミッドって奴隷の人が造ったんじゃないの?

 鞭で打たれたりして。

 子供の頃、何かの映画で見た気がする」

 「あるよなあー、そんなイメージ。

 でも実際はそうじゃなかったらしい。

 ドイツの考古学者、メンデルスゾーンの説によると、乾季で仕事がなかった農民を救済するための公共事業だったとも言われている。

 もっとも冷蔵庫などない時代だから、冷たいビールなどはなく、温いビールだったんだろうけどな?

 ビールは「飲むパン」といわれるくらい、栄養もあるし酔えるからな?

 でも砂漠の気温は昼間は50度以上にもなり、夜にはかなり冷え込むから案外、それで良かったのかもしれない。

 あの炎天下の中での重労働の報酬がビールだったってわけだ。

 俺もギザには何度か行ったことがあるが、ピラミッドは途中まで登ることが出来るんだ。

 ピラミッドとはアラビア語なんだが、元々はギリシャ語の「三角形のパン」を意味するらしい。

 ピューラミスがその語源だとも言われている。

 金字塔という訳語にもなっているしな?

 ヒエログリフではピラミッドを△で表現しているんだ。

 ギザの大ピラミッドは勾配が51度52分、底辺の長さは正方形なのでそれぞれ230m、高さは146mある。

 ちなみにそばを流れるナイル川は天の川を表し、ピラミッドはオリオン座の三ツ星ベルトを表現しているといわれている」

 「ピラミッドも見てみたいなあ」

 「休みが取れたらな?」

 「新婚旅行で行けばいいじゃない?」


 話が厄介な方に流れ始めたので、俺は話題を変えることにした。



 「長靴の形をしたグラスを見たことがあるか?」

 「叔父さんの家にあったわ、ヘンな形だと思ってた」

 「実はな? あれはビールグラスなんだ。ドイツでは昔、ビールを自分の長靴で飲んでいた風習があったらしい。

 そこまでしてビールを飲みたかったんだろうな? あはははは」

 「もう、やだー」

 「ちなみに俺が若い頃、銀座で飲んでたらそこの銀座のナンバーワン・ホステスにからかわれてな? 

 「私のこのヒールのドンペリを全部飲み干したら、あなたに抱かれてあげてもいいわよ」といわれたことがあった」

 「それでどうしたの? 飲んだの?」

 「飲もうとしたら、止められたよ、「バカな子ね?」って笑われた」

 「あはははは バカみたい」

 

 その後、俺がその女のマンションへ行ったことまでは話さなかった。

 おそらく紗栄子なら訊いたはずだ、あの鋭い射るような眼差しで。

 


 「それで? その女とやったの?」と。



 料理が次々と運ばれて来た。

 中華前菜から始まり、蟹肉と海老の小籠包に北京ダック、ふかひれのパパイヤ蒸しスープに完熟トマトの海老チリソース。海鮮翡翠炒め、トーロンポーの鎮江酢仕立てなど、様々な料理でテーブルが埋め尽くされた。

 デザートにはツバメの巣が供された。


 


 食事を終えると、ハイヤーを呼んで貰った。

 紗栄子とのデートにはランボルギーニ、直子とはロールスロイスを使ったが、塔子にはまだ免疫がないのでハイヤーにした。



 「駅までなら歩きでもいいよ」

 「今日はもう歩きたくねえよ。

 運転手さん、高速使っていいから大宮まで」

 「かしこまりました」

 「ちょっと大宮までなんて、勿体ないわよー。

 電車で帰ろうよ」

 「いいんだ、どうせ払うのは俺だから」



 俺はハイヤーで彼女の大宮のマンションまで塔子を送って行った。

 クルマの中で、塔子は俺の手をずっと握り、俺の肩に顔を寄せていた。

 彼女の手が汗ばんでいた。



 

 ハイヤーが塔子のマンションに着くと、


 「寄って行かない?」

 「これから野暮用があるんだ。また電話するよ、おやすみ塔子」

 

 塔子は俺にキスをして、名残惜しそうにクルマを降りた。


 「おやすみなさい。今日は楽しかったわ、ごちそうさまでした。

 今度、いつ会える?」

 「そのうちな? 連絡するよ」



 俺は今夜、紗栄子の家に泊まることになっていた。


 「運転手さん、赤坂まで」

 「かしこまりました」


 ハイヤーが都内に進むにつれ、街の明かりが増え、まるで天の川を走っているかのようだった。


 おそらく紗栄子は般若のように怒っていることだろう。

 明日は罰として、銀座で買物をさせられることになるだろうと、ハイヤーの窓に映る自分を見て、苦笑いをした。



第4話

 赤坂にある紗栄子のマンションのエントランスホールでインターホンを押した。


 「新聞ならいらないわよ。日本とアメリカ、7紙も取っているから」

 「紗栄子、遅くなってごめん」

 「どちら様? 浮気者の男爵ならどうぞお引き取り下さい」

 「仕事でつい遅くなったんだよ」

 「無職のあなたが仕事? 他の女といちゃつくのが仕事なの?

 鍵持ってるでしょ! 早く上がって来なさいよ!

 たっぷりお仕置きしてあげるから覚悟しなさい!」


 塔子との会話なら俺がイニシアチブを握れるが、紗栄子にはいつもお手上げだった。

 塔子はM女だが、紗栄子はドSの女王様。

 紗栄子とのディベートには勝った試しがない。

 何しろ相手は敏腕国際弁護士だ、勝てるわけがない。

 だがそんな紗栄子との時間も、俺は嫌いではなかった。



 紗栄子の部屋には法律関係の学術書はもちろん、膨大な書物がカテゴライズされ、整然と几帳面に並べられていた。

 それはちょっとしたライブラリーのようだった。

 英語はもちろん、ドイツ語、フランス語、スペイン語、イタリア語、そしてロシア語。中には中国語で書かれた書物まであった。

 読んでいるかどうかは知らないが、数冊、ヘブライ語のユダヤの書物もあった。

 最近ではアラビア語の勉強も始めたらしい。

 とにかく、いつも本を読んでいる女だった。

 ただし、恋愛小説の類いは少なかった。


 「私、恋愛には興味ないから」


 それが紗栄子の口癖だった。

 紗栄子はこれらの言語をすべて操り、しかも典型的なA型の女だった。

 ぬいぐるみはでかいスヌーピーが一体だけ。

 掃除はもちろん、整理整頓が行き届いた男性的な住まいだった。

 水回りとドレッサー、ウォークインクローゼットを覗かなければ、女性が住んでる家だとは思わないだろう。



 「随分遅かったわね? どこのメス犬とじゃれていたのかしら?」

 「俺はドッグトレーナーじゃねえよ」

 「それとも猫カフェの子猫ちゃんかしら? あー、お腹空いたー」

 「飯食いに行くか?」

 「もう日付が変わったから今夜は我慢する」

 「風呂、沸いてるか?」

 「沸いてるわよ、どうぞ」


 このまま紗栄子と会話を続けていると長くなりそうだったので、俺は風呂場に逃げ込むことにした。

 風呂の設定温度はちゃんと俺の好みの44℃になっていた。

 そういうところは紗栄子らしい。

 常に相手に対する気配りを忘れない。紗栄子はやさしい女だった。

 だが紗栄子はいつもそれを隠そうとする。

 紗栄子と知り合ったのは、3年前のニューヨークだった。



 今井紗栄子41才、バツイチ。

 丸の内にある大手ファームで企業法務の国際弁護士をしている。

 前夫は現在、東京地検特捜部長をしている東大法学部卒のエリート検事だそうだ。



 ニューヨークで仕事を終えた紗栄子は、ひとりでブルックリンにあるステーキ・レストランで食事をしていた。

 紗栄子はモデルの山口小夜子のような黒髪のボブヘアで、かなり目立っていた。

 最初、俺は英語で彼女に話し掛けた。


 「Haven't I seen you someplace before?(前にどこかで会ったかな?)」


 すると彼女はフォークとナイフを動かすのを止め、俺を睨みつけて英語でこう言った。


 「You look exactly like the guy I turned down two seconds.(あなたは私が2秒後に断る男に似ているわ)」と。

 

 俺は今度は日本語で言った。


 「安心しろ、俺はアンタを口説いているわけじゃない。

 忠告しに来たんだ。

 ここで日本人の女が一人でメシを食うのは危険だ。まわりには腹を空かせた頭のイカレたドーベルマンだらけだとな?」

 「それだけ?」


 彼女は食事を再開した。

 

 「それだけだ」

 「ご忠告、ありがとう」


 そして俺が紗栄子のテーブルを離れようとすると、彼女に呼び止められた。


 「ちょっと待ちなさいよ。危険だと言うだけ? 無責任な人ね?

 普通はその後に「俺がホテルまで送ってやるよ」でしょ?

 食事は済んだの?」

 「ああ、1ポンドのTーbone を食べた」

 「じゃあ待ってて、私も後、デザートで終わりだから。

 何か奢らせて、ボディガード・フィーとして」

 「俺はウエイティング・バーで飲んでるから、ゆっくりデザートまで楽しむといい」




 俺が2杯目のギムレットを飲み始めた時、紗栄子がやって来た。

 

 「私はカンパリソーダを」

 「そのカクテルの意味を知っていてオーダーしているのか?」

 「見くびらないで頂戴、これでも大人の女よ」


 それは「一夜限りのドライな関係」を意味するカクテルだった。

 その日から、俺と紗栄子の関係が始まった。

 


 彼女は一度結婚に失敗してから、結婚の本質に落胆していた。

 紗栄子は俺との結婚は望んではいなかった。

 紗栄子は俺にとって都合のいい女だった。

 彼女は我儘だが人を気遣うやさしさを持っていた。

 東大法学部からハーバードでMBAを取得しているウルトラエリートだったが、それを人に自慢することはなく、むしろそれを隠してさえいた。


 クルマの運転も、あの凄まじいNYの車線変更で鍛えられた、A級ライセンスのアマチュア・レーサーでもあった。

 俺のランボルギーニ・ガヤルドを乗りこなす女は、紗栄子くらいなものだろう。

 だが、彼女は料理はしない。


 「料理をする時間があるなら勉強をするかセックスをするか? 寝ていた方がマシ。

 料理をするのも後片付けをするのも時間の無駄。手も荒れちゃうし」

 

 確かに腹が減れば外で食えばそれでいい。

 東京には世界中の食い物が溢れている。

 外食ばかりでは栄養のバランスが悪い?

 それは食生活が貧しい奴が言うセリフだ。足りない栄養はカラダが欲して来る物だし、サプリメントで十分に補える。

 紗栄子は食事をすることは好きだが、料理の面白さを知らない。

 料理とはアートなのだ。

 俺は料理の上手い女が好きだとは言ってはいない、料理が「好き」な女と言っているのだ。

 なぜなら好きであれば、経験により料理の腕は自然と身に付くものだからだ。

 



 風呂から上がるとヘネシーXOとkissチョコ、プロシュートとカマンベール、それに乾燥白イチジクが用意されていた。

 音楽は紗栄子のお気に入り、マイルス・デイビス、『死刑台のエレベーター』

 紗栄子はシルクローブに着替え、両手でブランディグラスを包んでいた。



 「先に飲んでたわよ」

 「ああ、いい風呂だった」

 「五郎とはいっしょに入れないわよ、44℃のお風呂だなんて」

 「俺は熱い風呂じゃないと入った気がしねえからな?

 この前は那須の箱湯で50℃もクリアした」

 「誰と行ったんだか?」


 今日の紗栄子は少し荒れていた。

 それは俺が女と会っていて遅れて来たこともあるが、仕事でも何かあったようだ。


 「仕事、大変だったのか?」

 「大変じゃない仕事なんてあるのかしら? 仕事は人がやりたくないことを代わりにやってあげることでしょう?

 働いたことのないあなたにはわからないでしょうけど」

 「自分でもやりたくないことを代わりにやらされるなんて、俺は御免だよ。

 紗栄子は偉いよ」

 「大企業の会長のくせに、自分の愛人の為に会社の資金を不正に流用しておいて、それを私に何とかしろだなんて、そんなの弁護士の私の仕事じゃないわよ。バッカじゃないの? あのエロジジイ!」

 「いいじゃねえか? それでその爺さんからたくさん報酬をふんだくってやれば」

 「そんなの当たり前よ! 私を誰だと思っているの? 今井紗栄子様よ!」


 女との付き合いで大切なことは、「聞き役に徹する」ことだ。

 9割聞いて1割同意することが理想だ。

 そうしていれば女との関係は良好になる。

 女は意見を求めてるのではない、共感しながらただ話を聞いて欲しいだけなのだ。

 


     「そうだよね? わかるよその気持ち。

     それで? それでどうしたの?」



 これが女と上手く付き合う魔法の言葉だ。

 女は自分の中に溜まったストレスを、誰かに吐き出したいだけなのだから。

 それは紗栄子であっても例外ではない。

 彼女は美しい雌ライオンなのだから。


 女と買物に行って、「ねえ、どっちがいいと思う?」と言われて、真剣に答えるのはアホな奴のすることだ。

 女はその時、既にこう考えている。


 (私は絶対にこっちの方が好き、あなたもそう思うでしょ?)


 だから男はどっちが彼女に似合うかではなく、「どっちが彼女の好みか?」を考えるべきなのだ。

 それを見抜けないような男なら恋をする資格もないし、そんな男と付き合っても先は見えている。

 女の思考ロジックを理解出来ない男が、女に対して適切なアドバイスなど出来るわけがない。


 「こっちが似合うと思うよ」

 「そうかしら? 私はそっちじゃないと思うんだけど」


 自分のことは自分で決めればいい話だ。

 その点、紗栄子は決断が早いし、他人に意見を求めることもない。

 それは自分の生き方にブレがないからだ。

 紗栄子は生きることの喜びも苦悩も知り尽くしていた。



 1時間ほど自分の話をした紗栄子はスッキリしたようで、


 「あら、もうこんな時間。#しなきゃ__・__#ね? 

 明日、銀座でお買い物をして、その後、五郎のガヤルドでドライブしたい」

 「明日は今夜、遅れたお詫びをさせてくれ」

 「当然でしょう? さあ、ベッドへ行きましょう。

 たっぷり虐めてあげるから」


 その夜、紗栄子は無我夢中で行為に没頭した。

 まるで寂しさを埋めるかのように。



第5話

 「エルメスのバーキンってそんなにいいのか?」


 俺は財布からブラックカードを取り出し、店員に差し出した。


 「男のあなたにはわからないでしょうけど、女にとっての持ち物は武器なのよ。

 どんな物を持って、どんな服を着て、どんなメイクにどんなヘアスタイルをしているか?

 それによって女は評価される。

 どこの大学を出ているか? どんな男と付き合っているかなんて関係ないの、それは女自身がブランドだから。

 五郎だってわかっているくせに。

 ニューヨークで国際人として認められるには、男も女もファッションと会話のセンスがいかに大切かということを」


 紗栄子の言う通りだった。

 女性弁護士をしている紗栄子にとって、外見はとても重要なファクターなのだ。



      相手に舐められたら終わり



 知的レベルが高く、巧な交渉力でビッグマネーを動かすニューヨークのビジネスマンたちは、「後ろ姿」を見ただけで、その人物がどんな能力とビジネスセンスを持っているかを瞬時に判断出来る。

 出張でNYに来て、交渉相手から一番最初に訊ねられることは、


 「宿泊されているホテルはどちらですか?」


 そこでチープなホテルの名を告げれば、そこで交渉は打ち切りとなってしまう。

 白人社会では品格を重んじる。

 それは貴族社会のヒエラルキーが今も血脈として続いている証拠でもある。

 日本人は家に繋がれているが、彼らは血で繋がっているのだ。


 欧米人は自分の財産、収入に応じて簡単に引っ越しをする。

 日本人のように庶民の中に大物政治家や大企業の経営者が暮らすことはない。

 同じ生活レベルでコロニーを構築するからだ。

 日本人のように新築の家にも拘らない。

 きちんとメンテナンスされた良質な住宅が流通している。

 物価や収入の面もあるが、プール付きの家など、ロスの郊外なら3,000万円も出せば購入出来る。

 NYのマンションですら、東京の4分の1程度だ。


 「新築? ビルゲイツじゃあるまいに」


 と、彼らは一笑に付してしまう。


 日本のような島国とは違い、隣国からいつ侵略されるかわからない陸続きの土地に建つ家など、欧米人からすれば絶対的な価値などないのだ。

 そして家を建てる場合は爺さんの代で土地を買い、父親の代で家を建てる。そして息子の代で家具や調度類を買い揃えることになる。


 以前、イタリアの友人宅に招かれた際、ソファに白布が掛けてあったので、


 「俺は汚くないぜ」


 と笑うと、


 「あはははは これはまだ気に入ったソファがないから白い布を掛けているだけだよ。遠慮なく座ってくれたまえ。何なら白布を取ってくれても構わないよ」


 と言って笑っていた。

 日本人の場合はなんでも自分の代で完成させたがる。

 新築の家が完成する前から家具や家電を予約し、家の完成と同時に外構工事に取り掛かるのは珍しい事ではない。

 だが、白人たちはそれを長いスパンで考えることが出来る。


 「ひ孫の代に完成すればいい」と。


 サグラダファミリアなどがいい例だ。

 彼らは理想を実現するには時間が掛かることを知っている。

 例えその完成に数百年の歳月が掛かろうとも。


 そして彼らはファッションに関しても妥協はしない。

 着飾ることは鎧を纏うことと同じなのだ。

 ビジネスや政治の世界では、スーツ選びは極めて重要になる。


 ストイックなまでに鍛え抜かれた肉体のボディーラインを、より美しく表現するオーダーメイドの品格のある仕立ての良いスーツ。

 それは男の甲冑なのだ。

 そしてネクタイは剣を意味する。


 間抜けな日本人の政治家のように、省エネへの自己アピールだと言って、ノーネクタイなどは欧米では絶対に受け入れられるものではない。

 以前、あの背広の袖をぶった切って七分袖にした「省エネルック」など噴飯ものである。


 「ミスター、今日は何かの仮装パーティーでもあるのかね?」


 そう言われるのがオチだ。

 日本人は西洋のプロトコールを知らなすぎる。

 英語も出来ない、礼儀も慣習も知らない日本人が国際会議で相手にされないのは当然のことだ。

 日本のクールビズは間違いなく日本人男性の品位を世界的に貶めた。

 

 日本人男性が夏、背広を着なかったり、ネクタイをしないのは暑いからという理由だけではない。

 それがラクだから半袖のYシャツにノーネクタイなのだ。

 役所のクーラーの設定温度を上げるためと称して、ポロシャツやアロハシャツなどを着るのは、公僕としての自覚がない証拠だ。

 誰を向いて役人たちは仕事をしているのだろうか?

 行政の主役はそこに住む住民なのだ。

 役人のために住民が存在するのではない。

 国を動かす政治家が、国民の前でネクタイもしないなど、無礼極まりない行為だ。

 国民に選挙で選ばれた代議士としての自覚が欠如している。


 「この方が国民に親しみが湧くではないか?」


 ふざけるなと言いたい。国会議員は限られた村の村長ではないのだから。


 田中角栄は扇子でパタパタとやりながら、きちんとネクタイを締め、汗だくで上着を着て国民の話に耳を傾けていた。

 それは彼が国民に対して礼を尽くしたのと、政治家としてのイメージを重んじたからだろう。


 知り合いのフランス人の政治家は、いつもシャツが袖から良い具合に出ているかを絶えず気にしていた。

 紗栄子は笑う。

 

 「そういう五郎だって時計はピアジェ、靴はクロケット&ジョーンズ、スーツはアルマーニではなくエルメネジルド・ゼニアを着ているくせに」

 「チャーチルの靴は200万円だったそうだけどな?

 だが本当の男の価値というものは、連れている女で決まる」

 「私じゃご不満?」

 「紗栄子は最高の女だよ」

 「どの口が言う? 他の女にも同じことを言っているくせに」


 紗栄子は髪を跳ね上げて笑った。




 俺と紗栄子は銀座で軽く鮨を摘まみ、俺のガヤルドを紗栄子が運転して鎌倉へドライブに出掛けた。


 「いつ乗ってもいいわねー、この暴れん坊君。

 ちょっとアクセルを踏んだだけでこのシートに押し付けられる感覚。まるで男にベッドに押し倒されるみたい」

 「そんなにコイツが気に入ったなら、紗栄子にやるよ」

 「いらないわよ、あなたがたまに貸してくれたらそれで。

 だってこれ以上目立ったら大変だもの。男が集まり過ぎて歩けなくなっちゃうでしょ?」

 

 紗栄子はそういう女だった。

 鎌倉では馴染の店でピザを食べ、クラシック・コーラを飲んだ。


 「このピザを毎日食べられるのなら、鎌倉に引っ越してもいいかもね?」

 「丸の内まではここ鎌倉からでは遠いだろう?」

 「大丈夫よ、移動中は勉強も出来るしね?

 それとも私が鎌倉に来ると都合が悪いことでもあるの?」

 「いや、別に」


 紗栄子はすでに俺が鎌倉の直子と付き合っていることを暗に「知っているわよ」と、俺の喉元にナイフを突き付けたのだ。



 ピザを食べ終えると紗栄子が言った。

 

 「今日は六本木のディスコで踊りたいなあ、明日は日曜日だし」


 俺は明日、直子と会う事になっていた。


 「紗栄子がディスコだなんて、意外だな?」

 「そう? 今夜はEarth,Wind & Fire の『September』の気分なのよ」

 「いいよ、俺はチークタイムで紗栄子と George Michael の『Careless Whisper』が踊れるなら」

 「憎らしいほど何でも様になる男ね?

 私だけのものにしたい・・・」

 「俺はいつも紗栄子だけのものだよ」


 紗栄子は横顔で笑って見せた。



 六本木のディスコに向けて、紗栄子は強くアクセルを踏み込んだ。

 窓を全開にして夜の風が車内を吹き抜けてゆく。

 ヨーロッパではオートマチックのクルマは老いぼれが乗るクルマだと笑うが、紗栄子のクラッチとシフトレバーの操作は惚れぼれするほどスムーズだった。

 俺は紗栄子にドイツのアウトバーンを思い切り走らせてやりたいと思った。


 80年代のディスコナンバーを大音量でかけ、俺たちは夜のハイウエイを巡る流星になった。



第6話

 ディスコではABBAの『Dancing Queen』が大音量で流れ、みんな自分のステップに酔いしれて踊っていた。

 

 様々なブランドのコロンや香水、そしてトリートメントと汗の匂い。

 センターステージで艶やかなピーコックの扇子を広げて踊り狂う、ボディ・コンシャスの女たち。

 男たちの歓声と、熱い視線を全身に浴びていた。

 ここは愛欲にまみれたトランス状態の世界だった。


 男は女を漁り、女は男を値踏みする。女は自分の魅力に引き摺り込もうと必死だ。

 船乗りたちを海へ沈める魔女、セイレーンのように。



 不法滞在のイラン人の男が俺に近づいて来た。

 

 「草(マリファナ)、イリマセンカ?」

 「俺はデカ(刑事)だ、 失せろ」


 イラン人は母国語で何やら捨て台詞を吐き、人混みに消えて行った。



 紗栄子は私の手を引いて、ホールの中央に進んで行く。

 俺を見詰め、紗栄子は挑発するように腰をくねらせて踊った。

 俺も紗栄子に合わせて軽いオーソドックスなステップを踏んだ。


 飛び交うレーザー光線にレインボーライト、煌めくミラーボール。

 次第に俺も紗栄子も汗だくになって踊り続けた。




 チークタイムになった。

 曲は「つのだ☆ひろ」の『メリー・ジェーン』

 俺は紗栄子のくびれた腰に手を回し、曲に合わせて揺れた。


 紗栄子の潤んだ瞳にイルミネーションが映っている。

 俺の肩に顎を乗せ、紗栄子が耳を甘噛みして囁く。

 彼女の髪から甘く蕩けるような香りがした。


 「五郎、愛してるわ」

 

 俺はそれに応える代わりに、彼女のスリムな体を抱き締め、頷きキスをした。


 「ねえ、愛してるって言って」

 「Here's looking at you,kid.(君の瞳に乾杯)」

 「映画『カサブランカ』のハンフリー・ボガードのつもり?

 五郎はボギーよりも素敵よ」

 「愛してるよ、紗栄子」

 「私もよ、五郎。

 他の誰よりも私を見ていてちょうだいね?」


 俺たちはチークダンスを中止し、紗栄子と熱いキスを交わした。



 「あなたを鎖で繋いでおきたい。

 でも、無理ね?

 あなたに束縛は似合わないもの。あなたはサバンナを駆ける・・・」

 「俺はサバンナにはいない。

 俺はウサギだ、寂しくなると死んでしまうウサギだ」

 「それなら私の傍にいて、寂しくないようにいつも抱いて寝てあげる。五郎が死なないように」

 「ありがとう、紗栄子」


 チークタイムが終わり、John Travolta/Bee Gees の『Saturday Night Fever』に曲が変わり、再びホールは熱狂に包まれた。



 

 紗栄子を赤坂のマンションまで送り届け、俺はそのまま鎌倉の直子の元へトンボ返りをした。

 東の空が白み始めている。

 日の出は近い。


 俺はFMラジオのスイッチを入れた。

 Christopher Cross の 『New York City Serenade 』が流れて来た。



   人生には一度 君の心を変えてしまう人に出会うだろう


    すると君は何も手に付かなくなってしまうのさ


    眼が覚めても その想いから離れることが出来ない

        

    たとえ彼女を街に置き去りにしても


    そんな自分自身を不思議に思う


    一体僕は何を見つけてしまったんだろう





 直子の屋敷は鎌倉の小高い丘の上にあった。

 俺のクルマが敷地に入ったことに気付いた直子は、いつものように着物姿で俺を出迎えてくれた。



 「お帰りなさい、御主人さま」


 微笑む直子。


 「ただいま、直子」

 「あり合わせですけれど、朝食のご用意が出来ています。

 お召し上がりになりますか?」

 「ああ、夕べから何も食べていないんだ」

 「あらそれはたいへん。

 すぐに準備しますからね?」


 長田直子、35才。人妻。



 彼女は長田コンツェルンの御曹司と10年前に結婚していたが、夫は鎌倉のこの屋敷には寄り付かず、品川の愛人のマンションに入り浸っていた。

 子供はいない。


 直子は読書好きで、料理の腕は素晴らしく、いくつかの料理本も出版しており、たまにテレビにも出演している。

 だが、彼女はクルマの運転を自分でしようとはしない。

 ペーパードライバーだった。


 俺が女に求める3つの条件のひとつ、「クルマの運転の上手い女」には理由がある。

 それはクルマの運転は「判断力」と「性格」を表すからだ。

 クルマの運転には動体視力や運動神経、反射神経も必要かもしれないが、それはレーシングドライバーに求められるスキルだ。

 一般の公道を走るうえではそこまでの運転技能を要求されることはない。

 今、停まるべきなのか? スピードはこれでいいか? 車間距離が近い? 少し減速すべきではないか?

 あそこで停車しているバスから子供が飛び出してくるのでは? 横断歩道で老人が道路を渡りたがっているから停まってあげようなど、クルマの運転とは絶えず判断の連続なのだ。

 それにモタつくような女は自分の人生に信念がなく、迷ってばかりいる。

 クルマの運転にはその人間の性格が如実に現れる。

 ハンドルを握った途端、性格が豹変する人間は珍しくない。

 しかし直子は例外だった。

 彼女は自分の人生に強い信念を持って生きている。

 そして料理はクルマの運転に合い通じるものがある。

 それは判断力と思い遣りだ。


 料理は切る、煮る、焼く、混ぜるなどのたくさんの手法を駆使して料理を完成させていく。

 盛り付けの美意識や鋭敏な味覚はもちろんだが、それ以上に重要なのが調理のタイミングとその料理を食べさせたい相手への思い遣りだ。


 もっと焼いた方がいいか? 煮込み過ぎではないか? 出汁を引き上げるのはまだ早い?

 つまり、料理には冷静で素早い判断力が求められる。それは運転技術と同じだ。


 そして基本的に女は男の運転するクルマに乗ればそれでいい。

 自分でクルマを運転する必要はない。

 もしもその男性が忙しければ、タクシーを使った方が安全で安上がりにもなる。

 決して男尊女卑で言っているのではない。男は女をラクさせてやりたい生き物なのだ。

 女は男に守られて然るべき存在なのだ。




 アンティークな食卓にはとてもあり合わせとは思えない料理が並んだ。

 和食膳の朝食。

 テーブルにはさりげなく花が活けてあり、朝の爽やかさを演出していた。

 食事とは料理だけではなく、その雰囲気も食事の内だからだ。


 直子は俺の好みを熟知していた。

 鯛の刺身の胡麻味噌合えと鯖のみりん干し、しらすの大根おろしに胡麻豆腐。

 奈良漬に南高梅。


 これらはすべて直子の手作りによる物で、そしていつも驚かせられるのが飯と味噌汁だった。

 それは可能な限りのギリギリのシンプルさを追求した物で、富山のササニシキをしっかりと研ぎ、粒を揃えた米を土鍋で炊き上げ、味噌汁の味噌も自家製らしく、塩味がまろやかだった。

 出汁は枕崎のカツオ節と日高昆布。

 それを巧みなタイミングで引き上げているのが分かる。

 具材はネギと豆腐のみ。



 「お口に合いますかしら? 本当は卵焼も作りたかったんですよ、あなたの好きな甘い卵焼きを。うふっ」


 直子のクスりと微笑むその仕草は、まるで花が綻ぶような風情があった。


 私は食事に箸をつけた。

 器はもちろん、箸にも直子は気を遣う。

 これらの食事に合うようにと、柘植や塗り箸は使わず、ほんのりと木の香りが上品な「吉野杉」の割り箸を用意してくれていた。

 そしてその箸置きには庭から摘んだであろう、ナンテンの赤い実の付いた枝が使われていた。


 こんな女をほったらかしにする旦那の気持ちが俺には理解出来なかった。

 何でも出来る女は、時にコンプレックスのある男を堕落させるものだ。

 俺は味噌汁を飲むと溜息を吐いた。


 「ああ、こんな食事がいつも食えるなんて、直子の・・・」


 俺は危うくその先を言ってしまうところだった。


 「いいのよ、私は五郎さんのそんな顔が見たいだけだから」


 そう言って直子は少しだけ寂しそうに笑った。




 食事を終えると、直子がお茶を淹れてくれた。


 「少し窓を開けてくれないか?」


 直子が海に面した窓を開けると、潮騒の音と海風が室内に流れ込んで来た。


 「最高の朝のBGMだな?」


 すると直子は俺の隣に立ち、俺の肩にそっと手を置いた。


 「お風呂、沸いていますけど、お背中を流して差し上げましょうか?」

 「その前にこれを脱がないといけないんじゃないか?」


 俺は直子の帯を解きはじめた。


 直子のような女を「大和撫子」と呼ぶのかも知れない。

 襦袢姿の直子はとても妖艶で、しかも清楚な美しさを湛えていた。


 遠くで聞こえる波の音。直子の吐息がそれとハーモニーを奏でていた。



第7話

 波の音で目が覚めた。

 2時間ほど直子と戯れ、いつの間にか眠ってしまったようだ。

 

 「お目覚めですの?」

 「ここはいいなあ、波の音で目が覚めるなんて。

 もう昼か?」

 「お疲れなんですね? もう午後の2時ですよ。私も久しぶりにぐっすり眠ることが出来ました」


 直子の白いしなやかな肌が俺の肩に触れた。

 ベッドではなく、布団もたまにはいいものだ。

 俺は直子の首の下に腕を入れ、腕枕をした。

 

 直子の寝室のベッドでの行為には気が引けた。

 レスとは言え、そこのベッドには旦那と直子の性愛の痕跡が沁み付いていたからだ。


 直子の屋敷ではいつも客間の布団で眠った。

 ベッドもいいが、布団の場合、広く戯れることが出来る。

 先程までの直子とのセックスにも、心地よい達成感があった。


 午後の気怠い日射しが、髪をおろした直子の小顔をより一層美しく輝かせていた。

 ほつれ髪が艶めかしい。


 所詮、セックスとは男女の体を使ったコミュニケーションなのだ。

 別に特別なものではない。

 俺はそんな直子に見惚れていた。


 

 「五郎さんの心臓の音が聞こえる・・・」

 「直子の胸の鼓動も聴かせておくれ」


 すると直子は身を起こし、左の乳房を俺の耳に押し当てた。


 「聴こえる? 私の心臓の音?」 

 「聴こえるよ、直子の心臓の音が」


 俺は片方の手で直子の白い乳房を悪戯っぽく揉みしだいた。

 

 「あっ」


 午後の光に包まれ、俺たちは再び愛を確かめ合った。





 俺は直子の作ってくれた食事を食べ、夕暮れ前には東京へ戻ることにした。


 「今度はいつ、お会い出来ますか?」

 「来週の水曜日、熱海の旅館を予約しておくよ。温泉に浸かりに行こう。ふたりで」

 「温泉? うれしい。

 五郎さんと温泉なんて」

 「たまにはのんびりしよう」

 「はい、楽しみに待っています」

 「じゃあな?」

 「お気を付けて」

 「直子も身体に気を付けてな?」


 俺は直子にキスをし、そのままクルマに乗って屋敷を後にした。





 今夜、ライブに出るから神楽坂のJAZZ BAR『one by one』に来て欲しいと、レイラからせがまれたのだ。

 久しぶりの神楽坂だった。


 バンド演奏に合わせて、レイラが歌い始めた。



   『MY funny valentine』


        words by Lorenz Hart

     music by Richard Rodgers 

               訳詞 菊池昭仁



    My funny valentine, sweet comic Valentine.

    面白くて お茶目なあなた

 

    You make me smile with my heart.

    心から私を笑顔にしてくれる


You looks are laughable.

    見た目も笑っちゃうし


Unphotographable.

     写真写りもちょっとダサい

        

Yet you're my favorite work of art.

     でもあなたは私にとっての最高の芸術なの


Is your figure less than Greek?

    あなたはイケてないかもしれないわね?


Is your mouth a little weak?

    口元もちょっとだらしないしね?


When you open it to speak.

    あなたがおしゃべりする時


Are you smart?

     あなたはそれでもスマートにしているつもりなの? 


But don't change a hair for me.

    でも 私の為に髪型を変えたり


Not if you care for me.

    私を気遣うのはやめてね


Stay little Valentine, stay.

   ずっとこのままのあなたでいて ずっと


Each day is Valentine's Day.

    そうすれば いつもがヴァレンタインデイになるから




 歌い終わるとレイラが俺のところへやって来た。


 「バロン、来てくれたのね? どうだった? 今日の私のバレンタインは?」

 「だいぶ大人の女の色気が出て来たな?」

 「もっと色っぽく歌いたいなあ。だからバロン、もっと私をいい女に磨いて」

 「たくさんいるだろう? レイラを磨いてくれる男たちは」


 俺はレイラのスパンコールドレスの胸の谷間に1万円札を3枚折って刺し込んだ。

 レイラは俺の頬にキスをした。


 「いつもありがとう、バロン」

 「何か飲むか?」

 「そうね? アプリコット・フィズを」


 そのカクテルは「私に振り向いて」という意味のカクテルだった。



 「レイラ、君はマズローというアメリカの心理学者が提唱した、『人間の6つの欲求』を知っているか?」

 「知ってるけど、それって5つじゃなかった?」

 「彼は晩年に6番目の欲求を加えたんだ」

 「知らなかったわ」

 「人間の一番最初の心理段階は生理的欲求だ。

 色々あるが、大別すると3つになる。

 食欲、睡眠欲、そして性欲だ。

 つまり命を維持、成長させ、自分たちのDNAを残すことだ。

 そして二番目は安全欲。自分の身の安全を確保すること。 

 では三番目は何だと思う?」

 「所属と愛の欲求でしょ?」

 「その通り。つまり組織、職場、友人、家族などのメンバーとなり愛を乞う。

 「私を愛して欲しい」という欲求だ。

 四番目は他人から認められたい、褒められたいという承認欲。

 そして五番目が自己実現欲だった。

 理想の自分に自分がなることだ」

 「じゃあ、その次に来た六番目の欲求って何?」

 「それは『自己超越』だそうだ。

 自分の殻をぶち破ること。

 今までの自分を破壊し、新たな自分に古い自分から超越するということだ。

 サナギからアゲハ蝶になるってことかな?」

 「私の歌は今、どの辺りなの?」

 「さあな? でも、今言えることは、歌は楽典に忠実に歌うことだけではないということだ。

 テクニックのある奴は山ほどいる。

 カラオケで100点満点を取る奴はいるが、大抵の場合は「上手いなあ」で終わる場合もめずらしくはない。

 聴いてる者のハートを鷲掴み出来る奴は稀だ。

 歌い終わってのすぐの沈黙。

 声にならない心の震え、そして頬を伝う涙。時間が止まる瞬間が本物のシンガーだ。

 歌が上手い奴はたくさんいるが、心を揺さぶるシンガーは少ない。

 何が違うか分かるか?」

 「それは何?」

 「哀しみだよ」

 「哀しみ?」

 「たくさんの恋愛をすることで、人は相手から傷付けられ、相手を傷付ける。

 時に意識的に、時にはそれに気付かずにだ。

 その痛みがラブソングには必要だ」

 「私はまだまだってことね?」

 「レイラ、お前はまだ若い。

 これからもっともっといい歌い手になる筈だ。

 自分の想いを羽ばたかせるんだ。自由に」

 「ねえ、何かリクエストして」

 「そうだなあ、それなら『酒と薔薇の日々』を頼む」

 「いいわ、バロンのために歌ってあげる」


 レイラは俺の頬にキスをして、カクテルを飲み干すとマイクスタンドの前に立ち、アカペラでそれを歌った。

 俺への叶わぬ想いが哀しみとなって歌と融合した。


 酒と薔薇、そして恋。

 それさえあればこの世はパラダイスだ。


 使い切れぬほどのカネ。欲しいものはすべて俺のこの手の中にある。

 何も可もが満たされた暮らし。俺もマズローの言う『自己超越』の扉の前に立っていた。


 果たして俺は『自己超越』を成し遂げることが出来るだろうか?


 今日はやけに煙草が目に沁みる夜だった。



第8話

 俺は自邸を持たない主義だった。

 理由は簡単だ、人生とは旅だからだ。

 旅人に家など不要だ。

 トランクひとつあればそれでいい。

 人嫌いで気ままな俺には広い屋敷は必要がなかった。

 またそこに留まるということは、安定という安堵で自己の精神が腐敗してゆく。

 水は常に流れるべきなのだ。

 いつも留守の家に、家政婦やメイドを雇って掃除をさせるのは無駄だ。

 俺は酒場と女の家を渡り歩き、それに飽きると再び旅に出掛けてゆく。

 だがそんな俺にも秘密の隠れ家があった。

 栃木の那須にあるアトリエが。


 俺が湯水のようにカネを遣えるのは、俺が名の知れた画家だったからだ。

 そして俺の素顔は晒されてはいなかったので、私がその画家だと知る者は少ない。

 描くのはせいぜい1年掛けて1枚だけ。

 他はデッサンも含め、すべて暖炉で燃やしてしまう。

 それがまた、俺の絵の価値を高めていった。

 謎多き幻の画家、西園寺遼として。


 女たちは俺が絵描きだということを誰も知らない。

 鴨志田五郎は本名だが、画家としての俺は西園寺遼として別人格として存在していた。

 俺が描く作品は、主に眠っている女の絵だった。

 その油絵には数億から数十億の値が付いた。


 彼女たちが眠っている間、俺はコンテを走らせデッサンをする。

 女たちはそれに気付くと、そのデッサン画を欲しがった。

 一度、塔子に素描をせがまれたことがある。


 「わー、素敵な絵。私じゃないみたい!

 五郎ちゃんって絵も上手なのね? それ、私に頂戴!」

 「これは駄目だ。もっといいのが描けたらやるよ」

 「もう~、ケチ。それでいいのにー」


 そのデッサンの価値を見破ったのは唯一、紗栄子だけだった。


 「構図とタッチが西園寺遼に似ているわね?」


 紗栄子はあなどれない女だ。





 別荘地にある俺のアトリエの周りは、少しずつ紅葉が降りて来ていた。

 俺は暖炉に火を入れ、ブラームスのレコードを掛け、グラスにカルバドスを注いだ。

 そのグラスを持って、暖炉の前のロッキング・チェアに座わり、ゆらめく暖炉の炎を見詰めていた。


 もう若い頃のようには筆が進まなくなっていた。

 それはすべてに於いて、今が満たされているせいかもしれない。

 あらゆる欲望、渇きは生きるエネルギーであり、創作意欲の源泉だ。


 一生使い切れないカネと最高の女たち。

 俺はこのロッキングチェアのように、満たされた心地よい揺らぎの中で創造力の翼をへし折られてしまっていた。

 何でもあるという暮らし。

 だがそれは「何もない」ということでもあるのだ。

 俺はただの穏やかな、つまらない中年オヤジに成り下がってしまっていた。


 カネは潤沢にあるので、食欲、性欲、睡眠欲は常に満たされ、そして誰から追われるわけでもなく、命を狙われることもない。

 多くの人から認められ、バロンと呼ばれて尊敬されてもいる。

 そして俺は絵が描けなくなってしまった。

 常識的な成功とは怠惰であり、生き甲斐の枯渇に他ならない。

 やるべき仕事もなく、食べたい時に食べ、やりたい時にやり、眠りたい時に寝て、好きな時間に起きる生活。

 ふかふかのベッドで女と眠るしあわせ。


 俗世界の幸福の中に俺は埋没し、俺はそれ以上の何かを失った。

 俺は美の創造が出来なくなってしまったのだ。


 美とは何だ? 美とは感動だ。

 では感動とは? それは芸術だ。

 イーゼルに置かれたままの直子の肌襦袢の寝姿。

 俺はロッキングチェアから立ち上がり、グラスの酒を飲み干し、その絵の前に立った。


 「これじゃない! 直子の美しさはこんなチープな物じゃないんだ!

 この女の表情には哀しみが見えない!

 ただ美しいだけの直子なんて、直子じゃない!」



 俺はその絵を叩き壊し、燃える盛る暖炉に投げ込んだ。

 カンバスと木枠が燃え、油絵具が焼ける匂いがした。

 がらんとしたアトリエの中には、パチパチという間の抜けた拍手のような薪が燃える音と、ブラームスの交響曲第1番が流れていた。


 ブラームスはこの交響曲を書くために20年の歳月を要したという。

 小澤征爾が天皇皇后両陛下の天覧コンサートにタクトを振ったシンフォニーだ。

 クラッシック音楽の皇帝、カラヤンが唯一認めた東洋人、小澤征爾。

 ブラームスがもし生きていたなら、この演奏の素晴らしさに天を仰いだことだろう。

 俺は空になったバカラのグラスを石張りの壁に叩きつけた。

 この砕け散るこのバカラのように死ねたなら、俺はどれほど救われることだろう。





 翌日、那須高原のお気に入りのパン屋に寄ってパンを3つの段ボールに分けて詰め、何事も無かったかのように、俺は女たちのところへそれを届けるため、ランボルギーニのアクセルを踏み続けた。

 まずは鎌倉の直子の屋敷に向かった。



 「あらいい香り、こんなにたくさん。

 どちらのパン屋さんですの? このパン?」

 「那須だよ、直子に食べさせたくてね?

 軽く焼いて食べるといい。

 パン屋の親父は「そのまま食え」って言ってたけどな?」

 「今、珈琲を淹れますね?」

 「また都内に戻るからいいよ、直子にそれをすぐに食べさせたくて寄っただけだから」


 俺は直子に少し長いキスをして直子から離れた。


 「わざわざありがとうございます。

 とってもうれしい。五郎さんからのパンのプレゼントだなんて。

 来週の水曜日、楽しみにしていますね?」

 「俺もだよ、じゃあ水曜日にまた迎えに来るからな?」


 直子は俺のクルマが見えなくなるまで手を振っていた。




 紗栄子は留守のようだったので、合鍵で中に入り、ダイニングテーブルの上にパンの入った段ボール箱を置き、メモを残した。



     紗栄子へ


     仕事、ご苦労様。

     おすそわけだ。

     多分、君なら気に入ると思う。

     桑の実のジャムも入れておいた。


               I love 紗栄子




 クタクタになって帰宅した紗栄子がドアを開けた瞬間、パンのいい香りがした。

 紗栄子はコートも脱がずにクロワッサンを齧りながら、見慣れた五郎の文字を読み、クスッと笑った。


 「おバカなひと。このパン屋にどんな女と行ったのかしら?」




 塔子のマンションのチャイムを押した。

 モニターで俺を確認した塔子は瞳をキラキラさせてドアを開けた。

 塔子はすぐに俺に抱き付いて来た。


 「凄く会いたかったんだからあ! 凄くうれしいー!

 ずっと待っていたんだからね? 寂しくて死んじゃうところだったんだから! 連絡もくれないし!

 さあ、早くあがってあがって! いい香り、どうしたの、こんなにたくさんのパンなんて?」

 「塔子に食べさせてあげたくてね?」

 「わあー、ありがとう!」


 塔子はパンの入った段ボールをテーブルに置くと、パンにも触れず、すぐにキスをせがんだ。

 無理もない、彼女は恋愛に飢えていたからだ。



 俺たちはそのままベッドに行き、俺は塔子の#メンテナンス__・__#を始めた。

 塔子は知識と経験を積み、かなり能動的にセックスに挑むようになっていた。

 塔子は少しづつ、女としての快感を覚え始めていた。



 「連絡もくれないから心配していたんだからね?」

 「ごめん、色々と忙しくてな?」

 「本当はお仕事してるんでしょ?」

 「どんな仕事をしていると思う?」

 「音大の教授、ピアノの先生とか?」

 「俺は先生という柄じゃねえ」

 「じゃあお医者さんだ!」

 「そんなに賢くねえよ、俺、偏差値の38の大学だぜ」

 「じゃあどんな仕事しているの?」

 「だから言っただろう? 殺し屋だって」

 「もうー。

 ねえお腹空かない? スーパーに一緒に買物に行こうよ。

 あなたが食べたい物、何でも作ってあげるから」

 「肉が食べたいな」

 「じゃあすき焼きにしようか?」


 ベッドから下りた塔子の尻は、白桃のように官能的だった。



第9話

 約束の水曜日、俺はロールスロイス・ファントムで直子を迎えに出掛けた。

 直子ほど、このクルマが似合う女はいない。

 海岸沿いを走る爽快感。俺は片手でハンドルを握り窓を開た。

 磯の香のする、少しべたつくような潮風。

 今日の直子はめずらしく洋装だった。

 黒のベルサーチとカーキ色のカシミアのロングコート。


 

 「洋服の直子もいいな? ベルサーチか?」

 「今日は温泉だから、これにしてみました。

 宿の女将と間違えられないように。うふっ

 お気に召しまして?」

 「脱がすのが楽しみだよ」


 俺は直子の太腿にそっと手を置いた。

 子供を産んでいないせいか張りがある。


 「晴れてて良かったな? 俺は雨も好きだけど」

 「本当にいいお天気。

 私、雨女ですのよ。

 五郎さんが晴れ男ということなのかしらね?

 最近は、あの陰気なお屋敷に引き籠ってばかりいましたから、五郎さんと熱海だなんて、まるで夢を観ているみたいです」

 「直子と温泉なんて、俺もうれしいよ。

 都会の無機質な乾いた生活も嫌いではないが、やはり自然の中に身を置くのは大切なことだからな?」

 「そうですね? 海も山も好きです。私」

 「なあ? この世に戦争が無くなるにはどうすればいいと思う?」

 「他人を思い遣ることですか?」

 「理想はそうあるべきだろうな? 

 でも俺は人類が混血になることだと思うんだ。

 白人も黒人も東洋人も、みんながセックスをして固有種をなくすことだと。

 そうなれば人種差別も人種区別もなくなる。

 「選ばれし民」だとか、「わが民族が一番優れている」なんてこともなくなるはずだ」

 「どうしたんですか? いきなりそんなお話をするなんて?」

 「いや、ただ何となくね?」




 宿に着いた。

 和モダンを基調としたその高級老舗旅館は、森と海とが一体になって造られていた。

 目の前に広がる太平洋。俺と直子は部屋の露天風呂を楽しんでいた。

 直子の白い肌が湯を弾いている。直子は年齢よりも若く、美しい女だ。

 俺はルーブルの『ミロのヴィーナス』を思い出していた。



 「こうして雄大な海と、直子を見ながら飲むシャンパンは格別だな?」

 「私も。こうして五郎さんと温泉なんて、しあわせ」

  

 シャンパングラスを持って、直子が俺の前に背中を向けた。

 俺は直子をそのまま抱き寄せた。

 直子はそのシャンパンを口に含むと俺に向き直り、それをキスで流し込んだ。


 「いかが? 私のシャンパンのお味は?」

 「一段とウマいよ。直子のシャンパン」

 「私にも下さいな。五郎さんのシャンパンを」


 俺は言われるまま、同じように直子にそれを試みた。

 

 「美味しい」

 

 夕暮れまで、私たちは潮騒の音を聴きながら戯れた。




 夕食は部屋で板長が調理してくれるスタイルだった。


 「本日、お料理を担当させていただきます、『麗落』の柳田でございます。

 お嫌いな物はございますでしょうか?」

 「俺たちは特にはないよ。よろしくお願いします」

 「では始めさせていただきます」


 海の幸、山の幸と続き、メインは松坂牛だった。

 一流の料理人の流れるような所作に、直子は食い入るように見入っていた。


 「すごく美しい包丁捌きですね?

 火も踊っているようだわ。そしてこの音と香り。

 五感のすべてで楽しませていただけるのね?

 お造りになったことも、お魚が気付いていないんじゃないかしら?

 また海で泳ぐようだわ」

 「お褒めにあずかり、光栄です」


 優雅な夕食だった。




 「ではごゆっくり。本日は誠にありがとうございました」

 

 調理を終え、板長は深々と頭を下げて部屋を出て行った。




 俺はバルコニーに出て、漁火の浮かぶ海を眺めていた。

 食欲は満たされたが、なぜか憂鬱な気分だった。

 それが何故なのかは分かっている。

 わかってはいるが、今の俺にはどうすることも出来なかった。

 浴衣姿の直子に寝床に誘われた。


 「今日は強く抱いて下さい。私を壊して。お願い・・・」


 いつも控えめな直子にはめずらしいことだった。

 俺は直子を押し倒し、万歳をさせ、浴衣の帯で直子の手首を縛った。

 それに呼応するように身を捩り、呻く直子。

 その時、俺にある好奇心が芽生えた。

 俺は直子の細い首を両手で絞めた。

 苦悶の表情を浮かべる直子は、なぜか抵抗をしなかった。

 そして俺は直子に言った。


 「俺と一緒に死んでくれ」


 すると直子はゆっくりと頷いた。

 それは戯れではなく、彼女の本気の答えだった。

 俺は直子の首から手を離した。そして直子は言った。


 「いいですよ、五郎さんとなら私、死んでも」


 その瞳からは幾筋もの涙が頬を伝っていた。

 私は鞄からスケッチブックとコンテを取り出し、一心不乱にその直子を描き始めた。


 「そうだよ! そうだ! その表情! その儚さ!

 直子、動かないでくれ!

 そのままだ! そのまま動くな!」


 俺は必死で描いた。狂ったように描いた。

 時計はすっかり日付を跨いでいた。



 「ありがとう、ありがとう直子!

 俺は、俺はやっと描くことが出来た! 最高の美を! 美の極致を!

 俺がずっと描きたかった! 女という美しい生き物を! 俺と一緒に来てくれ! 今すぐ!」



 俺は直子をクルマに乗せ、深夜のハイウエイを那須のアトリエに向かってひたすら走った。



 「どこへ向かっているのです?」

 「那須にある俺のアトリエだ」

 「栃木県の那須ですか?」

 「そうだ。直子には黙っていたが、俺は絵描きなんだ」

 「そうじゃないかと思っていました。

 五郎さんのデッサンは素人が描く作品ではありませんもの」

 「俺は西園寺遼という画家なんだ」

 「えっ、あの幻の放浪画家、西園寺遼さんが五郎さんだったの?」

 「そうなんだ。俺はずっと描けなかった。

 だが、直子のお陰で再び絵が描けるようになった。

 だから頼む、俺の絵のモデルになってくれ!」

 「いいんですか? わたくしで?」

 「お前じゃなきゃ駄目なんだ!」




 夜が明け、俺たちはようやくアトリエに到着した。


 そしてそれから3日間、俺は飲まず食わず、不眠不休で直子を描き続けた。

 直子もモデルとして懸命に俺に従ってくれた。

 俺の股間は自分の命を残そうと、描いている間、ずっと勃起したままだった。



 そしてようやく、直子の肖像画が完成した。

 憂いを秘めた瞳で、真っすぐに前を向く直子。

 俺はこんなにも美しい女の表情を見たことがなかった。

 哀しくて、切なくて、儚くて。

 そして誰も冒すことのできない孤高の美。


 最後に絵にサインをし、俺は暖炉の前に倒れ込んだ。

 そこへ折り重なるように倒れて来る直子。

 直子の裸体が暖炉の炎に照らされていた。



 「やっと完成したんですね?」

 「ああ、直子の絵が完成した・・・。今までの俺の最高傑作が」

 「私ね、熱海で死のうと思っていました。

 五郎さんの見ている前で。

 私、もう壊れる寸前でしたから・・・。

 いえ、壊れていました、ボロボロに。

 だからあの時、五郎さんから「一緒に死んでくれ」と首を絞められた時、この世に神様はおいでになるんだなあと思いました。

 五郎さんと死ねるなら、何も思い残すことはありませんから」

 「俺はいつもと違う直子を見て、急に試してみたくなったんだ。

 俺に君の命をくれるだろうかとね?」

 「五郎さんならこの命、いつでも喜んで差し上げますよ」

 「直子」


 俺は強く直子を抱き締めた。

 そしてこの時、俺の子供を産んでくれる女は直子しかいないと感じ、俺の遺伝子を直子に託すことにした。


 直子は鎌倉の屋敷にいる孤独に耐えられなかったのだ。

 直子は自分が「忘れられた女」だと思っていたらしい。


 暖炉の炎が、俺と直子のくだらない哀しみを焼き尽くしてくれた。



最終話

 クリスマス・イブまであと1週間という日、東京に初雪が降った。

 スノードームの雪のように舞い落ちてくる雪。

 俺は3通のクリスマスカードをオーキッドバーで書いていた。

 紗栄子と塔子、そして直子に。


 直子はあれから旦那と離婚をして旧姓の住吉直子に戻り、今は汐留のタワーマンションでトイプードルと一緒に暮らしている。

 塔子は相変わらず結婚願望が強く、まだ俺を諦めてはいないようだったが、それでも楽しそうだった。

 そして紗栄子は来年からNYの法律事務所で働くことになっていた。


 クリスマスカードの内容は皆、同じ文面にした。



     Merry Christmas

       

     クリスマスに日本を離れることにした。

     横浜の大桟橋から放浪の船旅に出る。

     必ず見送りに来るように。


         12月25日 16:00 

         大桟橋で待っている

                            

                鴨志田五郎 

                (西園寺 遼)





 夕暮れの横浜大桟橋。

 銅鑼の音が出港間近であることを告げていた。

 船から俺が現れると、駆け寄って来る三人の女たち。

 驚いたようにお互いを見ている。


 

 「あんた誰?」

 「あなたこそ誰よ!」

 「これはどういうことですの?」

 「君たちは俺の天使、女神たちだ。

 この背の高い人が今井紗栄子、弁護士。

 そしてこちらは中村塔子、中学の音楽の先生だ。

 それからこちらは・・・」


 紗栄子が俺の言葉を遮った。


 「知っているわよ、鎌倉の料理研究家、長田直子さんでしょう?」

 「彼女は離婚して今は住吉直子になった」

 「どういうつもり! 愛人を集合させるなんて!

 あんた頭でもおかしくなったの?

 それに何? 西園寺遼って? あんた、私たちを騙していたのね!」

 「えっ、バロンって本当に西園寺遼なの!

 冗談かと思った。

 だって私には「殺し屋」だなんて言うから」

 「見送りに来てもらったのは、君たちにお礼をしたかったからなんだ」

 「お礼? 手切れ金でもくれるというの?」

 「そうだ、君たちを描いた俺の絵をプレゼントするよ」



 俺はキャリーケースからリボンで包装した三枚の絵を取り出し、それぞれを彼女たちに渡した。



 「君たちのお陰で俺はマズローの6番目の欲望、『自己超越』を成し遂げることが出来た。

 俺は何不自由のない生活の中に埋没し、毎日を遊んで暮らしていた。

 それを人は幸福と呼ぶかもしれないが、俺はいつしかそれが憂鬱になっていった。

 何でも出来る俺は、「はだかの王様」になっていた。

 そして俺は気付いたんだ! 自分の成長とは「足りない自分になること」だと!

 だから俺はまた、旅を続けることにした。

 だって人生は「自分を見つける冒険の旅」だろう?

 本当にありがとう、君たちのお陰だ。感謝している」

 「また会えるよね?」

 「待っていますね? 五郎さん。

 お気をつけて」

 「NYに来たら寄りなさいよ。これ、向こうのアドレスだから。

 泊めてあげる」

 「駄目よ、駄目。

 ニューヨークなんて行かないで!」


 塔子だけは泣いていた。


 「うるさいわね! 音楽の先生は黙ってなさいよ!」

 「私はいつまでもあなたの愛人で構いませんからね?」

 「また日本に戻って来てもいいか? 君たちのところへ?」

 「私だけのところに帰って来て!」

 「もちろんですわ」

 「カラダに気を付けるのよ、五郎」


 出港の合図を知らせる霧笛が鳴った。


 「じゃあ、行って来るよ」


 俺は一人ひとりと握手をして、ハグをした。

 頬にキスをしてくれる女たち。


 俺は彼女たちに向かって赤、黄色、緑の紙テープを本船から投げた。

 彼女たちはその紙テープを各々に拾いあげ、俺と繋がった。


 本船は二隻のタグボートに曳航され、ゆっくりと岸壁を離れて行った。

 紙テープが切れないようにと、岸壁を小走りに駆ける塔子、紗栄子、そして直子。


 「五郎さーん!」

 「バロンのバカーッ!」

 「五郎、五郎ーっ!」


 そして遂に紙テープは千切れた。

 海面に落ちたテープを泣きながら巻き上げる彼女たち。

 船客たちに握られたままの紙テープがまるで手をふるかのように潮風にそよいでいた。

 最後に長音一声の霧笛を鳴らし、本船は次第に速力を上げて行った。




 「行っちゃったわね?」

 「行ってしまわれましたね?」

 「ねえ、この絵をみながら一緒にゴハンしない? 

 三人の愛人同士でアイツの悪口を言い合おうよ」

 「私はかまいませんけど」


 うれしそうに自分のお腹を撫でる直子。


 「私もいいわよ、どうしてもって言うんなら」

 「じゃあ決まりね?」

 「結局バロンは誰を愛していたのかしら?」


 そして紗栄子が沖をめざして進む、五郎の乗った船を見詰めて毅然と言った。


 「彼が愛したのは自分自身よ。だって自分の人生ですもの」


 どこかでまた、別の船の霧笛が聴こえた。

 その船もまた、果てしない大海原へと出て行くのだろう。


                      

                           『キスを忘れた女たち』完




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【完結】キスを忘れた女たち(作品230814) 菊池昭仁 @landfall0810

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