バスケットゴールには届かない

スエテナター

バスケットゴールには届かない

 郵便屋の真横はひたすら石段の続く細い裏路地になっていて、真夏の明朗な光も寄せ付けないほど涼しい陰が落ちていた。そこに座って一人で本を読むのが近頃の僕の日課だった。

 石造りの丘の町。その眼前に広がる海から風が吹いて胸の熱を冷ましていく。

 本の中は月夜の晩。白い光が窓から入って乙女の髪を撫でている。会えない人を切なく思って波音の響く海上の銀河を見上げる。いくらページを捲っても、乙女の寂しさは癒えない。

 夏休みの直前、丘の中腹の広場に今年もバスケットゴールが据えられてボールの弾む音が響いた。家に帰ったらその音が聞こえないので、わざとここへ来てボールの音と同輩の少年達の歓声を聞きながら、膝の上にハードカバーの本を広げて乙女の恋物語を追いかける。

 光の襞も闇の襞も美しく、抱きしめて逃がしたくないほど愛おしい。

 この丘に吹く風は、今までどんな町を旅してどんな人に出会ってここへ来たのだろう。たくさんの笑顔にも涙にも触れたのだろうけれども、風は何も教えてくれないまま僕の髪を一撫でして別の町へと飛んでいく。

 目に掛かる髪を払って本の続きを読んでいると、石段の上から弾むような足音が響いた。

「ああ、こんなところにいた」

 クラスメイトとバスケットをしにいったはずの親友が僕を探してここへ来たらしい。夏の日差しと激しい運動とで顔を上気させて、石段を覆う涼しい陰の中を駆け下りてくる。

 隣まで来ると汗をかいて冷たくなった腕を僕のうなじに回して何一つ後ろ暗い気配もなく年頃の少年らしい無邪気さで言った。

「探したんだぞ。お前も来いよ」

「僕はいいよ。バスケなんてできないもん」

「できなくていいよ。教えてやるよ」

「ごめんね。本の続き、読みたいんだ」

 読書に親しみのない親友は苦笑いを浮かべて僕のうなじから腕を離した。

「その本、そんなに面白いのか。まぁ、そういうことならしょうがないよな。でも、こんなところで読んでないで家で読めばいいのに」

「僕の家、風が来なくて暑いからここが一番いいんだ。人も滅多に来ないしね」

 僕の舌はぺらぺらと嘘ばかり言う。バスケができないのは本当だけれど本の続きを読むのは今でなくてもいい。風が来なくて家が暑いのも本当だけれどここにいる理由はそれじゃない。

 ――音が、聞きたいんだ。夏空の下で弾むボールの音が。誰もいないこの場所で。

 石造りの丘に張り巡らされた裏路地。そこに落ちる陰は誰にも打ち明けられない不都合な感情を隠すのにぴったりだった。

 親友は僕の肩を叩くと軽やかに立ち上がった。みんな家にも帰らず学校のカッターシャツのままバスケットをしているらしい。薄地のシャツが夏風を含んでひらりと揺れた。その揺らぎに惹かれるように体を捻って親友を見上げる。

「今日は何時までやってるの?」

「六時。じゃあまたな」

 彼はそう言って細い石段を駆け上がっていった。広場が使えるぎりぎりの時間まで遊ぶらしい。

 海鳥が鳴いている。丘の家々から夕飯の匂いがする。日は少しずつ傾いてオレンジ色に染まる。

 六時のサイレンが鳴ってボールの音は止んだ。

 それを合図に本を閉じて立ち上がり、細い石段を上る。

 緩やかにうねる裏路地を辿って誰もいなくなった広場に出る。誰が置き忘れたのかバスケットゴールのそばにボールが落ちていた。

 本を置いてボールを拾い、少し離れてゴールを見つめる。

 あの赤い輪っかにボールが入ればいいのだ。ただそれだけだ。

 ボールを構えて心持ち膝を折り曲げ、バネのように体を伸ばしてそれと同時にボールを放つ。

 ボールは広い夕空に飛んで弱々しく弧を描き、赤い輪っかの手前にがつんとぶつかってこちらへ戻ってきた。子犬のように人懐っこく僕の足元に寄り添う。

 ――やっぱり、ゴールには届かない。

 ボールを拾ってゴール横に置き、本を手に取って海を見つめる。海はオレンジの光を呑み込んでざざんざざんと波音を立てる。一番星はもう輝いていた。

 帰ろう。

 海と一番星に背を向けて、丘の石段を下りる。

 ――思いが届かないのは、君も僕も同じみたいだ。

 小脇に抱えた本に語りかける。

 乙女は今夜も海上の銀河を見上げる。僕はそのページを夜通し眺める。

 石段に、長い影が落ちた。

 帰路の途中、足音もなく去っていく初夏の甘酸っぱい夕日を、僕は見送った。


(終)

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