第2話 苦いと甘い

 マックで買い込んだシェイクとポテトをカゴに入れて、自転車を走らせる。

 重いリュックは駅のロッカーに預けて身軽だ。

 次の交差点、右ね。というジェスチャーにも慣れた。同じ制服の後ろ姿。さっきの立ち漕ぎでズボンからシャツの裾が少し抜け出て、風をはらんで膨らんでいる。

 キャンプの実験しよう、タスクからメッセージをもらったのが昨晩。

 急遽、先生の都合で部活がなくなったから、もし用事がなければ浜辺に付き合ってくんね?

 夏休みまで一か月もあるのに、今年は気温が上がるのが早い。すでに猛暑だ。

 浜辺と言うワードに、猛烈に海へ行きたい気持ちをかき立てられた。キャンプの実験というのが何なのかはよくわからなかったけれども。

 いいよと速攻で返事をしたものの、タスクの部活はなくなっても、俺の課題はなくならないわけで。放課後の時間がつぶれれば徹夜になるかもしれない。

 それでも、そういうのを天秤にかけても、誘いを断る気は毛頭なかった。

 俺にはたぶん今年の夏の思い出なんて補習しかないだろう。べつにそれでもいい。ただ、ほんの少し青春ってやつをかじったっていいじゃないかと思ったのだ。思い付きでしょうもないことを、ひとつくらいしてみたい。

 たとえば、後先考えずに遊びに行って徹夜で課題をしなきゃいけなくなったとか。

 シェイクが溶けない距離なのだとタスクが言っていた通り、マックのある大通りからは数分で海の匂いがしてきた。

 ショートカットらしい細い道は、うねうねと曲がりくねりながらゆるい上り坂だ。気の早い入道雲が我が物顔に青空を埋め、海からの湿った風はたっぷり塩分を含んで体に絡み付いてくる。強い日差しがじりじりと肌を焼く。あがる息が熱く唇を乾かしていく。こめかみを伝う汗が顎まで流れた。

 俺って生きてたんだな。

 ふとそんなことを思ってしまって、やばいなと首を振った。


 昔はガリ勉なんて言葉があったらしい。

 俺の両親は、まさにそういう人種だったんじゃないかと思う。

 勉強がすべてにおいて最優先。

 大人になった今も、学問を仕事にしている。

『学費は気にするな。いくらでも出してやるから、しっかり勉強しろ』

 あの人たちの口癖だ。

 学ばずは卑しだの、無知ほど恥ずべきものはないだの、そういうことを耳にタコができるほど言われてきた。

 たしかに一般論として間違いではないのだろう。

 いわゆる成功者として界隈で名前が挙がる学者にもなれたのだから、あの人たちの生き方も間違いではないのかもしれない。

 でも、子どもの俺が一番欲しいものも、教えて欲しいことも、あの人たちはくれなかった。

 今となっては恨みごとを言う気はないが、依然として変わらないあの人たちが求める親子のスタイルに、俺は応えられそうもない。

 いまの高校の進学コースに入ったとき、珍しくあの人たちは褒めた。自分たちが常々言ってきたことを、俺が忠実に守っているのだと思ったらしかったが、そうじゃない。俺は借りを作りたくなかっただけだ。

 成績優秀者としてたっぷり奨学金をもらって、進学コースで大学の推薦をもらう。毎月、嫌味みたいに送られてくる高額の金には、できるだけ手を付けたくなかった。

 俺は、そんなちっぽけな反抗期の息子で。

 そして、自分で決めたくせに、たった数カ月で、その選んだ日々に忙殺されて気を失いかけてる馬鹿なやつだ。


 油の切れた軋む音とともにブレーキがかかる。

 言葉を交わすこともなく、二人して自転車のカゴからマックの紙袋を手にしたのを合図に走り出す。

 砂に足をとられながら打ち寄せる波に向かって無茶苦茶に走った。競争でもしてるみたいに。それがたまらなく気持ちよかった。

「はぁ、けっこう足にくる」

 砂まみれになるのもかまわずに、どちらともなく腰を下ろす。

 乾燥しきってサラサラに焼けた砂が、制服の生地越しに強烈な熱を伝えてきて、思わず「あっつ」と揃って立ち上がった。

「ちょっと待ってて」

 タスクがポケットから小さな袋を取り出した。手のひらサイズのそれは、あっという間に広げられてダークグリーンのグランドシートがあらわれる。

「こんなに大きくなんの?」

「これ優れものなんだよ。薄くて丈夫で軽くてさ。そのうえ裏側がシルバー加工されてんの」

 まずは座れと言うように、先にシートに座ったタスクが見上げてきて、俺も風にバタつくシートを押さえながら素早く座った。

「全然熱くない」

「だろ?」

 シートの上でも砂の感触がよくわかるくらいに薄いのに。シルバー加工すげぇ。

「外で食うのって以外にハードル高くてさ。苦手なやつもわりといるんだよ」

 なるほどね。だから、実験か。

 タスクが続ける。

「砂浜っていうのは、最初にしてはちょっとハードかもだけど」

 少しだけ遠慮がちに浮かんだ笑顔に、別に平気だよと笑い返して、さっさと紙袋からシェイクを出してストローを差す。

 いただきますと呟いて、タスクを待たずに吸い込んだ。甘くて冷たいバニラが口いっぱいに広がって、最高にうまい。

 安心したようにタスクもシェイクを手に取った。

 まぁ、確かに砂のなかで物を食うのは、嫌なやつは嫌だろうけど。そういうの、俺はあんまり気にしない。むしろ好きだと思う。解放感が半端ない。

「俺、キャンプ向いてるかも」

 今度はポテトに手を伸ばした俺に、タスクはやっぱり安心したような顔をした。

 すっかり日が長くなって、放課後でもまだ夕日までしばらくある。水平線に沈む太陽を見たいが、日が暮れるのが惜しい気もする。

 波の音って、けっこうでかいのな。そう言おうとしたとき。

「僕のうちさ、医者ばっかりなんだ」

 唐突にタスクが、海を見つめたまま言った。

「医者?」

「親父もじいちゃんも、その前も。兄貴はいま研修医だし、母さんは結婚するまで看護士だった」

 どういうテンションで答えるのが正解なのかわからず、俺は黙って頷いた。

「スポーツの上手い下手って、かなり体格が影響するんだよね。身長体重骨格に筋肉の付きかたとか質とか。だから僕、自分の体がどのスポーツに向いてるのが調べまくったんだ。で、バスケならいけそうだと思って、小学生のときに始めた」

 医者の家。バスケ。全然違う話が、俺にはすんなり繋がって聞こえた。

「そっか」

 だから、素っ気ない返事しか返せなかった。

 なんだよ、その小学生。

 まだまだこれからどう成長するかもわからないのに、ひとりで必死に自分の体格を観察してスポーツ探して。逃げ道を探して。

 息苦しさを感じて息をつく。

「中学でレギュラーになるまでは、バスケなんてやめて塾いけって親がうるさかったけど、高校で特待生になったら何にも言わなくなってさ。今度は、やるからには結果を出せとか、もっともらしいこと言うようになったよ。あんなにやめろって言ってたくせに」

 ざざんと絶え間なく聞こえる波の音に救われる。

「母さんは、最近は僕には言わない代わりに、周りにネットワーク作っちゃって。先生とかママ友とか。いろいろ聞き出してるみたい。クモの巣に捕まりかけてる虫ってこんな気分なのかもなと思うよ」

 じっと見ていた横顔で静かに口が閉じられる。

 聞いてもいない自分語りはウザいものだけど、こいつの話は違っていた。

 同時に、俺がなんでタスクのことを近く感じていたのか、なんとなくわかった。

「……それで言うと、俺はいま、絡んでるクモの巣から逃げ出そうとしてるとこ」

 タスクがこっちを向いた。

「俺の両親はずっと海外で仕事しててさ。姉ちゃんが親代わりしてくれてる。もうずいぶん顔も見てないけど、存在が呪いみてぇなの」

 ははっと笑ってみせると、タスクも笑う。きっと、俺たちは同じような顔をして笑ってる。笑いながらタスクが水平線に視線を戻した。

「家出しようかと思ったとき、キャンプの動画を見つけてさ。始めたんだよ」

「家出やめて、キャンプ?」

「そ。健全でしょ。健全な家出」

「健全な家出? すげぇパワーワード」

「まぁね」

 汗をかいてペコペコしてきたカップから、シェイクの最後を飲み干す。冷たさが半減したどろりと甘い液体が勢いよく口に入って、ズーズーとストローが鳴る。

 俺に聞いてほしかったのだろうか。

 それとも、ただ吐き出したかっただけで、俺じゃなくてもよかったのだろうか。

 どっちでもいいけど。

 並んで黙って海を見る。

 青い海と言うけれど、海の青はひどく複雑だ。

 白は200色あるらしいが、海の青も負けてない。

「ごめん。なんか、ウザいこと言ったかも」

 ぽつりと温度の下がったタスクの声が風に乗る。

「それウザいって言ったら、俺も同類じゃん」

 タスクは何も言わなかった。俺も、何も言わなかった。

 湿って柔らかくなったポテトを頬張る。もしゃもしゃと咀嚼しながら、俺は来月こいつと健全な家出をすんのか、と、ぼんやり思う。

 それも悪くない。

 青春をかじるなら、家出はテンプレだ。姉貴が名作だと言っていたスタンド・バイ・ミーも、家出の話じゃなかったか。いや、こっちのは健全な家出だけれども。

 飽きることなく繰り返される波の動き。白い波がしら。苦みのある潮の匂い。遮るものなく広がる海原。遠く、ミリ単位で横切っていく貨物船。

 空の色が変わり始める。

「そろそろ帰ろうか」

 タスクが言った。

「え。沈むとこ見ないの? 夕日」

 くすっと笑われて、けっこう真面目に首を傾げる。

「ユウはわりとロマンチストだよね」

「いやいや、ここまできたら見たいでしょ。普通」

「普通?」

「そう、普通」

「あははは。そうかな。普通かなぁ」

 タスクが立ち上がる気配はない。

 オレンジやピンクにあちこち染まりはじめた空を眺めている。

「グリーンフラッシュとか見えたりしたら、ユウのおかげかもね」

 そりゃ無理だろと言おうとしたが、やめておいた。

 滅多に見られないから、見れたら願いごとが叶うんだっけか。

 それにしても。

 なんで人間って、なんでもかんでも願いを叶えてもらおうとするんだろうなと思う。流れ星に、織姫彦星に、誕生日ケーキのロウソク。

「グリーンフラッシュが見えたら、なにを願う?」

 タスクの言葉に苦笑する。

「タスクは?」

「僕は、そうだな。来月のキャンプが晴れるように、とか。ユウは?」

「俺は……そうだなぁ」

 ほんの一瞬、前に両親から送られてきた絵葉書の景色を思い出した。

 チャールズリバー。ちょうどこの空みたいに夕暮れて。淡い水面と立ち並ぶビル。花びらのようなヨット……。

 ばりっと空になったポテトの空き容器を二つに破り、紙袋に放り込む。

「コーラ飲みたい」

 隣でぶっと吹き出す音がした。

「なにそれ」

「なんだろうな」

 雲ももやもない水平線。大きな太陽の下側が、滲むように海に触れた。

 

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野あそびのふたり 穂積 樹 @hozumi-itsuki

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