野あそびのふたり
穂積 樹
第1話 祐と祐
「……すごいな」
思わず呟いた。話に聞いたことはあるけれど、自分が体験したのは初めてだ。
高校のクラス発表。
玄関奥のフロアに、でかでかと張り出された一覧表。すぐに違和感の原因に気が付いた。5組と6組のどちらにも「遠藤祐」の名前がある。
一瞬、先生が打ち間違えたのだろうかと思ったが、よくよく見ると、どうやらもうひとりの「祐」は俺の「ユウ」とは違う読み方をするらしい。
遠藤はどちらのクラスにも二人いる。
5組は「遠藤祐」の次に「遠藤望美」がいて、6組は「遠藤翔真」の次に「遠藤祐」がいる。つまり五十音順で考えると、俺は6組なんだろう。
いや、フリガナふっといてくれよ。心のなかで文句をひとつ。
でもまぁ、まさか漢字まる被りの名前のやつがいるなんて思いもしないだろう。これだけの人数だ。先生もうっかりしたに違いない。
午前中いっぱい張り出されている予定のクラス発表だけど、早めにさっさと見てしまいたいというのは他のやつらも同じらしく、学校が開いたばかりだというのにすでに相当な人数の生徒で玄関があふれかえっている。
人より余計な確認作業があったおかげで、少し長く陣取ってしまった自覚はある。小さく頭を下げて場所を空けようとしたときだった。
「は? なんだこれ。どっちが僕だよ」
騒めきのなかで、情けない声がすぐ隣から聞こえた。
とっさに横を見ると見たことのない制服の肩が見える。辿るように見上げた先、メガネの奥の目が忙しなく左右を見比べているのがわかった。
こいつがもうひとりの遠藤祐、か。
「たぶん、5組だよ。俺は6組みたいだから」
放っておくのも気が引けて声をかけてみると、ぎょっとしたように彼がこちらを向く。わずかな間のあとで、「そっか。ありがと」と呟くように言うと、さっさと人ごみから逃れていった。
袖振り合うくらいで縁というなら、漢字まる被りはかなりの縁のような気がするが、男子高校生同士じゃ「だから何」かもしれない。これで相手が可愛い女の子だったりしたら生まれて初めて自分の名前に感謝するところだけど……。
なんていうあれこれを思い出しながら、目の前の人物を見上げる。
差し出された数冊の本の上に乗せられた貸出しカード。遠藤祐。
やっぱり。あのときのメガネだ。
一瞬目が合ったが反応はない。忘れているのかもしれない。
「返却は一週間後です」
バーコードリーダーの扱いにも慣れたものだ。ピッピッと甲高い電子音を数回。くるりと本の向きを相手に向けて押しやると、ずいぶんと大きな手が受け取っていく。
そのまま背を向けると思っていたら、動きが止まった。
「……あのさ」
カウンターには僕の他にもうひとり。
黙ったまま顔を上げると、彼はまっすぐ俺を見ていた。
「なに?」
「遠藤……くん、だよね。6組の」
「そうだけど」
「僕、5組の遠藤。遠藤タスク」
「タスク?」
思わず復唱してしまって、やべっと思う。いきなり呼び捨てはない。
それにしても、タスクなんて読み方あったのか。
「あのときは、ありがとう。ほら、クラス発表の。僕、ちゃんと礼も言わないでさ」
「ああ、そんなのいいよ。俺も焦ったから。びっくりするよな。見た目同じ名前のやつがいるなんて思わないもんな」
「なんていうの? 名前」
「俺は、ユウ」
「ユウ、くんか」
「ユウでいいよ」
「じゃあ、僕もタスクで」
呼び合う予定もない呼び名の確認をしているのがおかしかくて、笑いが込み上げる。すると、じっと俺を見ていたタスクが言った。
「ケータイ、ある?」
「あるけど」
「連絡先、教えてくんね?」
放課後。部活前の図書室なんてガラガラだ。誰の迷惑になることもない。隣に座っている先輩は見て見ぬふりをしてくれている。
断る理由もない。
「……はい」
QRコードを表示して差し出すと、即座に読み込まれてデータがやってきた。
タスクとカタカナ表記された「友だち」を登録して、スタンプを送る。ほぼ同じタイミングでタスクからのスタンプのエビフライが「よろしく」と手を振り出した。
「じゃ」
「うん」
そのまま図書室を出ていく長身の背中を見送っていると、隣の先輩が口を開いた。
「あの子、スポーツ推薦の子じゃん」
「え? そうなんですか?」
「知らなかったの? けっこう有名だよ。バスケ部期待の新人って」
背は高いけど、どちらかというと文系な顔立ちをしているような気がする。などと思っていると、まるで心の声が聞こえたかのように先輩が続けた。
「おとなしそうな顔してるけど、コート入ると別人だって言ってた。部長が」
「へぇ……」
「なぁに? 無関心だね。仲良くなりそうな感じだったのに」
曖昧に笑ってみせて、途中だった本の修繕作業を再開する。
入学して二カ月半。
なんだかんだと覚えることや初めて知ることが多くて、他人にかまっている暇などなかった。クラスメイトのことはどうにか覚えたけれど、他のクラスの人間なんてまったく知らない。同じ中学からのやつは片手に満たないし。
部活に入りたくない一心で特進コースの試験を受けた俺としては、勉強を言い訳に帰宅部をしていられるのはありがたい限りだったが、クラス以外に知り合いや友達をつくる機会がほぼないのはほんの少し残念ではある。
そういえば。5組はスポーツ推薦クラスだったっけ。
狭き門だとは知っている。
その代わりに、部活に重心を置いた高校生活をしやすいように、手厚い配慮がされているのだとか。同じ中学のやつがタスクと同じバスケでの推薦を狙っていたが駄目だった。文武両道のすごいやつだったんだけど。
「そういえばさ、遠藤くん、今週末空いてる?」
「あぁ……補修授業で普通に学校です」
「補修って、定期テストまだじゃない」
「いや、小テストの」
「小テストで補修すんの? マジで?」
「はい、マジです」
うわぁと、先輩は関係ないのにえらく嫌そうに顔を歪められて、複雑な気持ちになる。こういうときちょっと思う。俺、勉強しかしてねぇなって。
「何かあるんですか?」
「実はさ、仲間でバーベキューしに行こうって話が出てて。ああいいうのって人数多い方が楽しいじゃない? みんな友達とか後輩とか連れてくるっていうから、遠藤くんどうかなって思って」
「……はぁ、なるほど」
いつも明るくて優しい。委員の仕事の教え方も上手い。部活でも後輩から人気のある先輩らしく、よく1年が本も借りずにおしゃべりに来る。友達だって多そうなのに、なんで、俺。
「ま、じゃあしかたないね」
また今度、誘うかも。
言いながら落ちてきた髪を耳に掛ける白い指がなぜか気まずくて、目を逸らす。
「ありがとうございます。よかったら、また誘ってください」
「やっぱりいい子だなぁ。遠藤くんは」
先輩は笑って手元の本に新しいラベルを張り付ける。
静まり返った図書室に、遠くブラスバンドの練習する音が聞こえ始める。
そろそろ部活が始まる時間だった。
『夏休みの初日 空いてたら泊りでキャンプいかね?』
突然、タスクから連絡が来たのは終業式間近の日曜日。
山ほどの宿題を機械的に片付けていた俺は、軽やかな通知音で我に返った。
ちょうど保護者会があって講座だのなんだのが入る予定はない。たぶん部活もそうなんだろうと予想をつける。
あれから、たまにタスクから挨拶程度のメッセージは来ていたけれど、俺からは返事どまり。ろくに知らない相手に何を話していいのかもわからない。それが、いきなりキャンプの誘いが来るとは思ってもいなかった。
『どうした 急に』
さすがに愛想がないかと、緑茶を差し出すパンダをスタンプしておく。
既読はすぐについたのに、いつまでたっても返信が来ない。
もう一言なにか送ろうかと考えたときに通知音がした。
『趣味 よかったら 付き合って』
数枚の写真が続く。
蕩けそうなオレンジ色の夕焼け空と黒い山のシルエット。重なり合う樹木の葉越しの真っ青な空。岩にぶつかって白く飛沫を上げる川の流れ。
「すげぇ……」
きれいな風景の写真はよく目にする。でも、タスクが送ってきた写真からは、あいつがその目で見て心が動いたんだなっていうのが、すごく伝わってくる。きれいなだけじゃない何かが、タスクに写真を撮らせたんだと。
行ってみたい気持ちがむくむくと湧いてくる。
卒業旅行に行かせてくれたくらいだ。ダメとは言わないだろう。
『いいよ 聞いてみるけど たぶん大丈夫』
今度はすぐに返信が来た。
『よかった あとで詳しいこと相談 また連絡する』
了解のパンダを送ると、あのエビフライが手を振った。
途切れた集中力を言い訳に、机の前からベッドへ移動する。
あらためて写真を見てみた。
これどこだろう。3枚とも同じ場所だろうか。高校生でキャンプが趣味とか、小さい頃から家族でよく行ってたのかな。そういえば家族構成を知らない。兄弟とかいるのかな。なんとなく、下にいるような気はしない。いるとしたら兄ちゃんか姉ちゃん。そうだな、ばあちゃんとか一緒に住んでたりしそうでもある。すげぇ可愛がられて、お年玉とか大量にもらってそう……。
ベッドに寝転んで、勝手なあれこれを考えながら切り取られた景色を眺めているうちに、いつの間にかひどく眠くなってきて。ゆらゆらと揺れ落ちるように眠りに引き込まれていった。
色とりどりの敷物が所狭しと、木陰を奪い合うように敷かれている。
親子で弁当を広げて。新緑のあふれる大きな公園。笑い声。
『ねえ、なんでうちは姉ちゃんなの?』
『なによ。文句あんの』
『ううん。べんとう、うまいし』
『じゃあ、いいじゃない』
『……でもさ。姉ちゃん、がっこういいの?』
『なんだ、そんなこと考えてたの? べつに平気だから。中学の勉強なんてチョロいの。1日くらい、どうってことないって』
『ほんとに?』
『ほんと。姉ちゃんすごいでしょ』
『うん、すげぇ!』
『ほら、食べちゃいな。食べたら遊ぼ』
『うん!』
がつがつと残りの弁当をかきこんだ俺に、姉ちゃんが笑う。
ふと目が合った大人たちが、コソコソと何かを小声で言い合っている。
なんて言ってるのか、俺は知っている。
知ってるけど、知らないふりをする。
馬鹿だからわからないって顔して笑ってみせる。
ほんとの馬鹿はお前らだ。
それくらいのこと、5歳のガキだって知ってるんだ。
ガキがなんにもわからないなんて、大人の都合のいい妄想なんだよ――。
はっと目が覚めて、ずいぶんと懐かしい夢を見た。
我ながら可愛げのないガキだったなと、ぼんやり思う。
「ゆーくん、晩ご飯だよー」
間延びした姉貴の声が階下から聞こえてきて、「はーい」と返事を返す。
机の上の宿題を確認して、あと3時間くらいかなとあたりをつける。
のんびり食ってる時間はなさそうだ。せっかく今日は好物なのに。
辛いものが苦手な姉貴のせいで、カレーは甘口しか出てこない。でかい肉の塊も苦手だと言って挽肉を使ってる。だから、俺の知っているうちのカレーは、甘い挽肉のカレーで、俺の好物も甘い挽肉のカレーだ。母さんがどんなに洒落たカレーを作ってくれても。
キャンプのこと、言っとかないとな。
俺は携帯の通信アプリを開きながら部屋を出る。リビングに行くまでに、さらっとメッセージを送ってしまおうと思ったのに、いくら指を滑らせても出てこない両親の名前に苦笑が浮かぶ。
まぁあとでいいか。どうせ時差がある。
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