閃光花火

吟遊太郎

閃光花火

顎を伝った汗が地面に垂直に落ちていき、熱の上がりきったアスファルトに吸い込まれる。 

パシンという音と共に腕を掴まれ、動きを止めた青年の眉間には、窮屈そうに縦皺が寄り集まっている。


「なんだよ?」


その一言が耳の奥の渇いた音の余韻を押し流し、詰まりの取れた鼓膜に大量の音が流れ込む。

まず、必死に競り合う蝉たちによる暑苦しい大合唱。

それから、喉元まで迫り上がってくる駆け足の拍動。

そして、腹の奥底でバチバチバチと燃え盛る火花の音。


「ダメだよ、それは」


激しく燃え盛る熱に突き動かされるままに口を開く。

目の前の友によって行われようとしている悪行を制止することこそが、僕の使命だと信じて疑わなかった。

事の根元たるそいつは、バツが悪そうに肩を窄めながらも、目を逸らし口先を尖らせることで、往生際悪く不満をあらわにする。

ギリギリと締め付けるほどに強く掴んでいた手首から、徐々に緊張感が抜けて張り合いがなくなっていくことに苛立ちを覚える。


「別に、いいだろ、これくらい」


やがて押し留めきれなかったのであろう不満が唇の隙間からこぼれ落ちた。

行く宛を見失い持て余した指先で、己の悪行の証拠と成り果てた銅色の硬貨を所在なさげに転がす。

コンクリートに擦れてついたのであろう細かな傷から、酸っぱい金属の匂いがじめついた熱気とともに立ち上ってくる。

煮え切らない態度に、僕の苛立ちは増す一方だった。


「いいわけないでしょ」


片眉を吊り上げる。


「たった10円じゃん」


奥歯を噛み締める。


「値段の問題じゃない」


空いた片手を固く丸める。


「じゃあ何の問題なんだよ」


拳が震える。




はく、はく、と何度か空気を噛み潰して、やがて俯きながら唇を引き結ぶ。

狭い唇の隙間から、必死に予熱された空気を追い出す。

今にも暴発しそうな激情を強引に押さえつけて、感情の波が過ぎ去るのを待つ。

ようやく訪れた沈黙は、10秒もしないうちに目の前の青年によって、無遠慮に破られた。


「どうせ落としたやつだって気づいてねぇよ」


「10円一枚なくなったくらいで困る奴いねぇだろ」


「俺が拾わなかったところで何も変わんねぇし」


ぶっきらぼうな調子で積み重ねた言い訳には段々と焦りが滲み、早口になって先細っていく。

息を吸うたびに歪になっていく面持ちがやけに悲痛に映った。

背中の皮膚の下を冷や水が遡ってくるような、ゾワゾワとした得体の知れない気持ち悪さに襲われる。

パチ、パチンとかろうじて鳴り続ける火花に縋りついた。


「そういうとこ、ほんと嫌い」


火花で焼けついた内臓がジクジクと傷んだ。

自分の口元から発されたはずの言葉が随分と遠くに聞こえた。

彼が、苦しそうな表情のまま唇を震わせる。


「たった10円くらいで、しつこいんだよ、お前」


侮蔑の言葉を吐く彼の言葉尻は、輪郭がぼやけていた。

冷や水が全身に巡り、暖かな血流に成り代わっていく。

気づいた時にはもう、それは口からこぼれ落ちていた。


「さいていだよ」


それは居場所を追われた生ぬるい血潮の捨て台詞だった。


それはずっと見て見ぬふりをしていた自分の産声だった。


それは、痛々しいほど鮮烈な輝きを失った線香花火の灰燼だった。

















お日様の匂いを含ませたそよ風が僕の体をなぞる。

ざわりと葉が擦れる音が耳の奥に触れ、全身を包み込む心地よい夏の気配に、小さく鼻を鳴らして目を細めた。

穏やかで、なんの変哲もない夏の日。

近くから子供の精一杯張り上げたような大声が聞こえ、瞼を持ち上げながら声の方向を見遣る。

車道を挟んで向こう側に2人、こちら側に1人の少年たちが向かい合っている。

いずれも、ちょうど孫と同じくらいだろうか。


2人の少年の呼び声が、車の轟音に紛れて聞こえてくる。

ぶんぶんと縦に手を振り、こちら側の少年を呼び寄せているようだった。

対してこちら側の少年はひどく不満そうな表情。

軽く頭を捻れば、少年の不満の源は察することができた。

無垢な少年は、激流を裂く岩の如く、凛とした姿勢で彼を蝕む熱っぽい空気を撥付け、力強く立っている。

次の瞬間、不満そうにしていた少年はバッと弾かれたかのように横断歩道に向かって走り出した。

入れ替わるように眉間にグッと皺を寄せ、口を尖らせる二人の少年。

その皺の深まった表情に強い既視感を覚える。

老いた眼球をグッと凝らして、その感覚を忘れぬうちに、懸命に記憶を辿る。

朝目が覚めて、洗面所に向かう。

蛇口をひねり、顔を洗う。

さっぱりした頭を上げた時、鏡に映る年季の入ったしわくちゃの顔が、鮮烈に思い出された。


少年が、ベンチに腰掛けた僕の目の前を駆け抜ける。

賑やかな足音の隙間に、バチバチバチ、と懐かしい音が聞こえた。

深い深い記憶の水底に沈みこませた、痛く眩しく閃く火花に

酷く心が震えた。

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閃光花火 吟遊太郎 @natunoiro

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