『魔女』の影

 本格的に陽射しは夏の気配を帯びつつある中、工房は変わらぬ日々が過ぎていた。

 容赦なく照り付ける陽光は、張り巡らされた硝子と相乗効果によって内部の気温をあげていく。

 温室効果状態で暑いとは思えども、ステンドグラス作りには差し込む光は重要な要素である。

 だからこそ祖父は工房を今のようにしたのだろうと思うし、セイもその考えを支持する。


 夏が近づくにつれ、イカ漁解禁の他、様々なイベントが行われる。

 つい先日、市内で代々的に行われるマラソンも終わったという。

 コースの位置的に、全く外れたところにあるこの海の見える工房にいるセイにはあまり関係のない話だった。

 取引相手でのギャラリーの主が、娘さんがコース沿いにある病院の看護師をしていて、その日は通勤が大変だと嘆いていると聞いたぐらいだ。

 ただ、この工房は大した影響を受けないが、市内をあちこち行き来している時見は盛大に交通制限の影響を受けていたという。

 マラソンが終わって少しすると月が変わり、お盆の墓参りの時期がやってくる。

 そちらの交通制限の方が余程関係のある行事だった。

 工房のあるところからやや歩いたところに共同墓園がある。

 車でやってきた人は、工房から見て少し手前に用意された臨時駐車場に車を止めて歩くことになる。

 墓参りの時期となると、いつもは左程人も車も多くない道に俄かに人が増えて賑やかになる。

 とは言っても、しっかり交通規制をしてくれる為に工房に居る限りは「賑やかだなあ」と思うだけで済む。

 まあ、この場合においても影響を受けるのは車で訪れる時見である。

 墓参りをするわけではないのに交通規制に巻き込まれ、それでもめげずに工房に顔を出してくれるのはありがたいと言っていいのか、どうなのか。


 ヨルは以前のように所用を片づけながら、買い物に出かけている。

 暑い中申し訳ないと思うけれど、お土産に何か甘いものを買ってきますからねと笑って出かけて行った。

 今日はヨルの為の『星』は一時お休みして、知り合いのお店から頼まれた品々に取り掛かっている。

 レストランのリニューアルにあわせて、テーブルにおくキャンドルホルダーを幾つか頼みたいということだった。

 スケジュールが煮詰まっているわけではないのだから、断る理由などない。まとめてのご注文は本当にありがたい。

 オーナーさんから聞いたお店の雰囲気に合うようものとなるように、素材となる硝子板の色味や質感を吟味する。

 以前から声をかけて頂いているので是非そのうちお店に直接行ってみたいとは思うけれど、どうしても何時かを何時かのままにしてしまっている。

 やはり、出不精を極めすぎているのは問題だと思う。

 どうせなら作品を納める先には直接出向いて置かれる場所の雰囲気を確かめてみたいし、やり取りもしたい。

 そこまでこだわれる域にあるのかと問われれば、まだまだ未熟なセイは否と言わなければならないかもしれないけれど。

 実際に店を見る事は出来ていないが、そこには既に祖父の作である窓やステンドランプがあるらしい。

 それを作品リストから探し出して、それに調和するものを想定して現在作業を進めている。

 祖父が制作したというステンドグラスの窓は、外を歩く人がつい足を止めてみてしまうことがあるらしい。

 オーナーさんが嬉しそうに言うのを聞いて、誇らしいと共に強く羨ましいとも思う。

 自分はまだそこまで行けていない。まだ、先を進む祖父の背中を追い続けているだけだ。今はまだ、目の前に与えられた課題を一つ一つ丁寧に必死にこなし続けている。

 祖父のような職人になりたくて、必死だった。

 高校を卒業してすぐに、祖父の伝手で他所の工房へと入った。

 祖父の元で学びたい思いはあったが、自分の元ではなく一度外に出て様々な職人と出会ってくるようにと言われ、それに従ったのだ。

 工房主である祖父の知己に、先輩職人達。多くのものを学んでいたある日、祖父は工房をセイに託して去った。

 いきなり一国一城の主になることになってしまったのには驚いたが、ヨルが居てくれたからここまでやってこられた。

 そう考えれば、ヨルには感謝しかない。

 日々、たまにお母さんかと思うほどに口うるさいと感じることもあるけれど。

 あれ、とセイはそこでふと呟く。

 そういえば、セイの母は何と言っていただろう。

 由紀子の話だと、祖母と同じく思い立ったら行動する祖父には苦い顔をしていたらしいが、今回の祖父の突然の決断には何と言っていたっけ……。

 思い出せない。最近まったく連絡をとっていなかったからだろうか。


 違う、そうじゃない。

 そもそも……セイの母は、今どこに?


 記憶している通りなら、両親は生活の便が良い美原にて暮らしている。住所だってちゃんと諳んじられる。 

 携帯電話の番号だって登録しているし、LINEだってつながっている。取ろうと思えばいつだって連絡がとれる。

 それなのに、何故かそこに『居ない』と思ってしまう。


 違う、違う違う。

 居てはだめなのだ。ここに、あの人が居て欲しくない。居てはいけない。

 だって、ここは、セイの、わたしの。


 ぐるぐると思考と視界が巡り始める。

 作業台に取り落とすようにして道具を下すと、早くなっている呼吸を何とか落ち着けようと深呼吸を試みる。

 おかしい、と心の中で呻くように呟く。

 自分と母親は、別に不仲ではなかったはずだ。

 母は一生懸命娘の教育に力を注いでくれたし、自分だって不自由なく生活させてもらった。

断絶しているわけではないのに、何故、母のことを考えただけでこんな風に不調が生じるのか。

 壁の時計をみたならば、作業を始めてから大分経っている。根を詰めすぎて疲労がたまってしまったのだろう。

 これではヨルが帰ってきたときにお小言を言われてしまう。

 暑さにもやられたのかもしれないし、一度クーラーの効いた居間で休憩をするとしよう。

 つつじが涼んでいるはずだ。隣に座ってつつじを撫でて癒されよう。

 そう決めて立ち上がり、工房の出入り口に向かって歩き出そうとした時だった。


 ――何かが倒れるような音がした気がした。


 最初は何か大きな道具でも倒れたのかと思って、やや慌てて工房内を見て回る。

 しかし、特に異変らしきものは見当たらない。

 気のせいだったかと思ってもう一度歩き出そうとして、それに気付く。

 不思議な『扉』……飾り窓にまた、あの少女が映っている。

 少女はいつもと少しだけ様子が違った。

 少女が床に座り込んでしまっている。

 頬を抑えながら俯いているのは、もしかしたら誰かに頬を打たれて倒れ込んだからかもしれない。

 何があったのだろうと思わず飾り窓の方へと駆け寄りかけて、弾かれたようにその場に足を止める。

 声が、聞こえたからだ。


『……職人になんて、なれるわけがないでしょう!』


 ヒステリックと言っていいほど甲高い声音で叫ばれた言葉に、セイの顔から色が瞬時に消え失せる。

 叱責されているのは窓の向こうの彼女であるのに、まるで自分に言われた言葉のように感じてしまって思わず息を飲む。

 鼓動が跳ねる。

 聞いたことのない声で、しらないひとのはず、なのに。

 声はまるで雷雨のように、少女に激しい感情を伴って降り注ぐ。


『絶対に認めません! 貴方は安定した堅実な職について、家を助けるの! 私が大変なのは知っているでしょう!』


 少女が、弱弱しく何かを口にしようとしているのが分かる。

 けれど、それは届かない。

 セイは何故かそう思った。

 何故なら『その人』は、自分の望む答え以外を聞かないと『知っている』から――。


『そんな馬鹿なことを言う子には、今後学費も生活費も一切出さないから! 今まで貴方にかかった分を親に全部返したうえで家を出ていきなさい!』


 自分の意向に背こうとする少女に、更に追い打ちのように『その人』は叫ぶ。

 親が子供を育てるのは無償ではない、当たり前ではないと言う。

 自分が苦労をしたのだから、自分の期待に応え、助けるのは当たり前だと言葉を浴びせ続ける。

 少女が切れ切れに、何かを告げた。

 今度は、それは相手に届いたようだ。

 少女はきっと、ごめんなさいと言ったのだ。そして、相手に従うと口にした。

 激しく降り続いた雷雨は、それまでが嘘だったように晴れた。

 聞こえていた険しい叱責は、途端に殊更甘い猫撫で声となって少女にまとわりつく。


『驚かせるようなことを言わないで頂戴。あなたは私の大事な一人娘なのだから』


 甘い甘い毒が、少女に絡みつき縛り付け、締め付ける。

 彼女は何処にも行けない。どこかに行くことは許されていない。

 だって、それは『正しくない』から……。

 聞こえていた声も、見えていた少女の姿も、緩やかに遠いものとなっていく。

 セイは思わず大きく息を吐いた。

 あの少女も、何かの職人になりたかった?

 けど、それを多分……親に認めてもらえなくて、なれなかった……?

 同じような夢を持っていたけれど、叶えられなかった少女と、叶えられた自分。

 可哀そうだと思うけれど、どうしようも出来なくて。

 可哀そうだと思う事こそが、あまりに激しく胸を揺さぶる。

 腹立たしくて、妬ましくて。

 けれど、何でその感情を抱くのがセイなのだろう。

 ああ、分からない。目の前で起きた不思議に、自分はあまりに動揺している。

 少女以外の存在を感じさせた、いつもと違う硝子窓の向こう。

 まるで逃げるように窓に背を向けて、セイは足早に歩き出そうとして……何かを感じて、セイの背筋に冷たいものが伝う。


 ――何かが、起きている。


 振り向いて確かめたいけれど、振り向きたくないとも思う。

 相反する願いに葛藤していたのは少しの間だった。

 何もないことを確かめるのだ、と勢いよく振り返った瞬間、セイは愕然とした表情で目を見開いた。

 硝子窓が、どろどろした黒い澱みにて覆い尽くされている。

 そして澱みから窓硝子を通り抜けて、枯れ枝のような細い腕がセイへと伸ばされている。

 悲鳴をあげたくても、声が声にならない。

 一歩、また一歩とセイは後退りそれと距離を取ろうとするけれど、腕はセイを追ってどんどん伸びてきている。

 控えめにいって、異常事態だ。

 夢だと思いたいけれど、後退った拍子にテーブルにぶつかって生じた痛みが現実逃避を許してくれない。


「お盆が近いからって、心霊現象は勘弁してよ……!」


 確かに墓地がそこにあるし、墓園も近いし、時期は霊が戻ってくる時期だけど!

 セイはどうしていいのか分からず、蒼褪めたまま距離を取ることしか出来ない。

 けれど、腕はそれを鷹揚にどんどん細く長く伸びている。

 心の中で必死に、セイはヨルの名前を呼ぶ。いつも傍で支えてくれた仮面の男性を必死に呼び続ける。

 背中に衝撃を感じて視線を向けると、資料をおさめている棚に追い詰められてしまっていた。

 手はセイの目と鼻の先にある。

 見ているだけでただただ恐ろしさを与える、ここにあってはいけないもの。

 伝う汗はもはや止めることはできず、緩やかに自分に近づきつつある手を凝視するばかりだったセイは、思わず凍り付いた。

 聞こえたからだ、あの『声』が。


『アマ……リ……』


 何を言っているのか、はっきりは聞き取れないけれど。

 知っている声だ――知っていてはならない声だ。

 これは、あの人の。

 セイの、彼女の。

 もはや顔色が消え失せたセイは、揺れる眼差しでそれを見据えながら、震える声で我知らずのうちに口を開きかける。


「お、おか……」


 だが、その瞬間に場の空気が一変する。

 猛烈な勢いで走り込んできた小さな影が、セイを捉えかけた腕に勢いをつけて体当たりする。

 不意を突かれた腕は、怯んだように後退した。

 飛び込んできた影がつつじであると気付いた次の瞬間、セイは思わず足元から力が抜ける。

 その場に崩れ落ちかけたセイを、力強い腕が支えてくれる。

 ああ、この腕は。

 その腕の主がヨルであると気付いたセイは、その腕の中に崩れるように倒れ込む。

 意識は朦朧として、もう保っていることができない。

 紗がかかったように曖昧な視界の中で、ヨルは叫んでいた。


「魔女……!」


 ああ、あれは魔女なんだ。

 ヨルに呪いをかけて、彼から顔を奪い去った存在。彼が仮面を外す事ができなくなった諸悪の根源……。


「消えて……!」


 セイをしっかりと抱き締めながら、ヨルは悲痛な叫びをあげる。

 その雰囲気がいつもの余裕のあるヨルとは違って……どこか少年のような幼さを感じさせて、薄れゆく意識の中で、ぼんやりと不思議に思う。

 自分を留めてくれる腕が、温かく優しく、泣きたいぐらいに懐かしい。


「この子は、貴方には渡さない! この子まで、貴方の犠牲にはしない!」


 ヨルが強い意思を込めて叫ぶと伸ばされていた腕が、外に蠢く澱みが、大きく鳴動したような気がした。

 もうそちらを見ることは叶わないけれど、それがヨルに押されて退こうとしている。

 ヨルはセイを抱き締める腕に一際強く力を込めると、声を張り上げた。


「お願いだ、消えて! ――……!」


 ヨルはそれを何と呼んだのだろう。

 自分を守るようにして、彼は何と対峙しているのだろう。

 知りたいけれど、知りたくない。

 ふわりとそんなことを感じながら、セイの意識はそこで途切れた――。


 ◇ ◇ ◇


 工房に、痛い程の静寂が満ちる。

 『魔女』がそこにあった痕跡は何も残されていない。先程までの出来事がまるで嘘のように何も。

 けれど、ヨルもつつじも、夢でも幻でもなかったのだと知っている。

 ここが『魔女』に捕捉されつつあることに、気付いてしまっている……。


『……セイは?』

「気を失っているだけだよ。大丈夫……起きたら、忘れているから」


 覗き込んでくるつつじに、安心させるように優しく言うヨル。

 腕に抱いていたセイは、意識こそないものの怪我もなく、表情には苦痛の色もない。

 安堵したように鳴くつつじを撫でてやりながら、ヨルはセイを抱き上げて歩き出す。

 彼女は、起きたらきっと忘れている。今、工房でみたものも聞いたものも。自分に伸ばされた腕のことも。

 本当は、それでは駄目だと彼は知っている。

 目を背け続けたままでは、何れ彼女は『魔女』に捕まってしまう。魔女の囚われ人となって、彼女もまた同じものとなってしまう。

 それだけはさせたくない。だから、彼は彼女に『星』を願った。

 導きと共に、ここから先に続いていってほしいから。

 でも、とヨルは心に呟いて抱えるセイを見る。

 今ひと時。せめて、あともう少しの間だけは、忘れていて欲しい。

 もう少しだけ、自分達はセイであり、ヨルでありたい。

 願いを胸に抱きながら、つつじを連れたヨルは静かに工房を後にした。

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