異変

 眠っていたセイは、朝がやってきたことを、ぼんやりと覚醒しかけた意識で感じる。

 カーテンの隙間から明るい光が差し込むのが薄目を開いた視界の端にちらちらと過ぎった。

 昨日もまた毎度の夜更かしをしてしまったので、まだ眠い。

 けれど、あともう少しで起きられそうだ。どうせなら、もう少しで起こしに来るであろうヨルをびっくりさせてみたい。

 階段を一段ずつ静かに上ってくる足音が聞こえる。

 ヨルだ。多分、つつじも一緒だろう。

 ここは、起きて出迎えて驚かせるとしよう。

 そして、ゆっくりと状態を起こして、足を床に付けて起き上がった。

 いや、起き上がろうとした、のだ。

 立ち上がろうとした瞬間、頭のてっぺんから足の先まで強張ったと思った次の瞬間、ふっと力が抜けた。

 力を入れようとしても、入らない。

 不自然な姿勢で脱力したせいでバランスを崩して、派手な音を立てながら寝台から転がり落ちてしまう。

 階段を上る音が駆け足になったのが聞こえた。

 多分、ヨル達にも今の盛大な音が届いてしまったらしい。

 すぐに起き上がって、大丈夫、と苦笑いしたいのに、出来ない。

 脳裏に響くようにして聞こえる、不思議で規則的な電子音。

 身動きが取れない身体に様々な線のような何かが繋がれているような感覚。

 起き上がりたくても、起き上がれない。

 口元を覆う何かが煩わしいけれど、これがないと息が。


「セイさん!」

『セイ、どうしたの?』


 つつじを抱えたヨルが、ドアを蹴破りかねない勢いで飛び込んできた。

 そちらへと何とか視線だけを向けられたが、身動きが取れないのは変わらない。

 何とか事情の説明だけでもしたいと思ったが、何といえばいいのだろう。

 起きようとしたら身体が動かなくなった、状況だけを説明すればそうなるのだけれど……。

 しかし、ヨルの様子を見てセイは思わず口を閉ざした。

 セイの姿を見たヨルは、身を強ばらせて一瞬息を飲んだ。

 形容しがたい雰囲気を纏いながら必死に何かを払うような仕草をしたかと思えば、セイを抱え起こした。

 上半身を支えられながら身を起こすと、息苦しさも身体の強ばりも嘘のように消失する。

 安堵したようにセイが息を吐くと、ヨルもまた先程までの緊張感が嘘のように纏う空気が緩む。

 先程までのヨルは、何時にないほど動揺し、恐怖に駆られていたように見えた。

 日頃の大人びた様子も優しい雰囲気もなく、何かに怯えて拒絶する子どものような雰囲気だった気がする。

 ヨルは一体何が見たのだろう。自分に一体何が起きていたのだろう。

 金縛りにでもあったのだろうか。

 確かに、ここは墓地の近くだけれど、朝からそんな現象は勘弁して欲しい。


「セイさん? 大丈夫ですか……?」


 恐る恐る問いかけてくるヨルに、頷いて見せる。

 ゆっくりとではあるが、手を借りながら起き上がり、寝台に腰を下す。

 つつじが心配そうに見上げてくるのを見て、大丈夫と呟きながら撫でてやる。

 支えなくても座った状態を維持できる様子を見て、ヨルはようやく安堵したように息を吐いた。

 朝一番で心配させてしまったことを申し訳なく思いながら、セイは苦笑いする。


「大丈夫……。多分、ちょっと眩暈がしただけ……」

「まさかとは思いますが、ゲームで徹夜なんてしていませんよね?」

「してないです」


 情けないところを見られたと気まずそうにするセイに、ヨルが首を緩くかしげつつ問いかける。

 即座に否定を返しながらも、今度はセイが内心で首を傾げていた。

 ヨルが咎めるように言った言葉が、何処か本心からではないというか。取り繕う為にいったような感じを受けたのだ。

 先程の激しい動揺をまだ引きずっていて、それを隠しきれていない様子を感じる。

 食事はできそうかと問うヨルに、セイは頷く。

 居間へ行こうと立ち上がりかけると、静かに手で制される。


「休んでいてください。ここで食べられるようにして運んできますから」

「いや、何もそこまでしなくても……」


 もう先程までの異常は感じられない。感覚におかしいところはないし、手も足も動かせる。居間に行くぐらい出来るだろう。

 そう伝えても、ヨルは頑として受け入れてくれない。有無を言わせぬ強さで再びベッドに横にならされた。

 軽やかな動きで飛び乗ったつつじが、枕元に陣取る。どうやら見張りということらしい。

 これは相当大ごとと取られてしまっているようだ、とセイは苦いものを感じる。

 確かに先程までの状態は自分でもおかしかったと思うが、もう何ともないのだ。

 これは些か過保護な対応ではないか、と思うけれど。

 薄手の掛布団までしっかりかけ直すヨルがあまりに真面目な様子で、うまく返す言葉が紡げない。


「今日は、念には念を入れて休んで下さい」


 身を翻しながらヨルが言った言葉に、セイは戸惑いの声をあげてしまう。

 もう大丈夫だからと手や足を動かして見せることで示そうとするが、ヨルは静かに首を左右に振る。

 流石にそこまでしなくてもいいのではと思って、おずおずと上目遣いにヨルを見上げる。


「でも、頼まれたものがあるし……」

「いつも充分に余裕を持って作業しているのだから、今日ぐらいお休みして下さい」


 先日、置いてもらう品も、注文の品も作りたいし。時見に頼まれたランプだって早めに仕上げたい。

 だが、ヨルの答えはあくまで否だった。

 それどころか、懇々と大事を取ってくれと諭されてしまう。

 これはもう降参だ、とセイは盛大に息を吐くと静かに横になることにした。

 セイの様子を見てようやくヨルは安心した様子となって、カーテンを開けた後部屋から出て行った。

 残されたセイは、先程の感覚を思い出そうとして微かに身震いする。

 身動きのとれない身体に、様々なものに繋がれた拘束感。耳慣れない規則的な電子音に、息苦しさ。

 全く覚えのないものではないけれど、日常にあるものでもない気がする。

 暫く考えていたものの、やがて小さく呻き声をあげて寝返りを打つ。

 考えても答えが出ない。

 答えが出ない、いや……出してはいけない? 

 それに触れてはいけない、と何かが告げる。戻れなくなってしまうと、誰かが、何かが……。

 そうして、一度盛大に溜息を吐く。 

 止めよう、とセイは心に呟いた。

 今日はおそらく一日ほぼベッドの上で過ごすことになりそうだ。それなら。

 気を取り直した様子でスマホに手を伸ばした手に柔らかな肉球の感触が生じる。

 目を瞬いてそちらを見てみたならば、可愛い猫の手がスマホに触れようとしたセイの手を押さえているではないか。


『勿論、ゲームもお休みしてね』

「はーい……」


 優しくつつじに制されて、セイはがっくりと肩を落しながらお返事をしたのだった。

 差し込む陽の光は温かく、眩しい。

 変わらない世界に、不意に生じた不協和音のような出来事。

 満ち足りていた世界に、何かが大きく軋む音が聞こえた気がした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る