交通事故

 セイは、その日も何時ものように工房にて作品作りに打ち込んでいた。

 一段落して休憩をとるかと思っていた時にチャイムが鳴る音が聞こえる。

 工房から出て玄関へと向かうと、ヨルが誰かと話している声がする。あの声は、多分由紀子だ。

 玄関まで歩いていくと、サクランボのいっぱい入ったパックを手にしたヨルと談笑している由紀子の姿があった。

 なんでもサクランボ狩りにいってきたらしい。

 顔を綻ばせてセイが礼を言うと、由紀子の笑みが更に深くなる。

 果物もちゃんと食べないとダメよ、と優しく言われて思わずばつが悪くなり小さくなるセイを見て、ヨルが笑うのを我慢して。

 恨めしげにヨルを見るセイを見て、由紀子とヨルが思わずといったように吹き出してしまう。

 そんな三人を見て、つつじが楽しそうに鳴き声をあげながらセイの足に身を摺り寄せた。

 暫し和んだ空気の中立ち話をしていたが、不意に由紀子が顔を曇らせる。

 そして、一つ息を吐いたかと思えば、話題を変えたのだ。

 夜になって出歩くことはあまりないと思うけど、気を付けなさいよ、と……。

 声を潜めた由紀子に、思わずセイの顔に怪訝そうな表情が浮かぶ。


「この近所で、事故……?」

「そこのガードレールにかなりの勢いで突っ込んでいたって……」


 突き破って下まで落ちなくてよかったわ、と溜息と共に由紀子は呟く。

 事故があったとされる日から、それほど経過しているとは言えない。

 けれども、全然気が付かなかった、とセイは愕然とする。

 工房から言われた事故現場はすぐそこだ。おそらくパトカーや救急車が来て大騒ぎになっただろうに。

 いつもは静かな場所であるのならば、なおの事。気が付かないでいたということが驚きだった。

 目を見張って呆然と呟くセイに頷いて見せながら、由紀子は溜息と共に続ける。


「このあたり、夜になると人通りも車通りも少ないでしょう? だから発見が遅れて、危うい状態だったらしいの」


 確かに、とセイは内心で頷く。

 工房のある付近は、民家とてまばらであり、道路沿いであっても全く民家のない区域が続く。

 道路の続く先に住む人もそう多くはなく、時間帯によって人も車も少ない。

 したがって、通報してくれる人間もなかなか現れない可能性もある。

 息があるうちに見つけてもらえたのは幸いだったに違いない。

 良かった、と思う反面、何故と思う心が湧き上がってくる。

 何でそんな事故があったことに、自分は気付かなかったのか。もしかして、ヨルは気が付いていたのだろうか。

 何でその事故の話を聞いて、形容しがたい気持ちになるのか。

 焦りとも、不安とも、恐れとも言える、複雑な心。

 調子を整えようと息を吸い直して、セイは口を開いた。


「事故にあったのは、一体……」


 不思議に胸がざわめいて仕方ない。

 セイはその理由を求めて逸りかけた心を抑えながら、まずはもう少し事故の詳細を求めて由紀子に問いかけようとした。

 だが。


「由紀子さん、そろそろお孫さんが帰ってらっしゃる頃では?」

「あらいけない! それじゃあ私は帰るわね」


 今気づいた、と言った風なヨルの言葉がそれを遮った。

 確かに、そろそろ幼稚園に通っている由紀子の孫が帰ってくる頃だ。

 近所に住んでいる娘夫婦は共働きで、孫は親が戻るまで由紀子の元で過ごす。

 帰りを出迎えなければならない由紀子は、慌てた様子で話を切り上げて帰っていってしまった。

 慌ただしくいってしまった由紀子を見送っていたセイは、ややあってヨルへと問いかけた。


「ヨル、事故のこと知っていた?」

「……事故があったということだけは」


 少し顔を背け気味ではあったが、ヨルは問いに対して肯定しつつ頷いて見せた。

 セイはその答えを聞いて、眉間にしわを寄せて考え込んでしまう。

 深夜というわけではないのだったら、起きていたはずだ。

 まさか、ゲームや動画に熱中しすぎて気が付かなかった……? 

 もしくは、作業に打ち込みすぎて眠くなるのが早くて、寝てしまっていたとか。

 しかし、すぐそこの事故にも気が付かないまま暮らしていたというのは、我ながらどうかと思う。

 流石にもう少し外に出るようにするか、もしくは外の情報に敏感にならなくては。

 今度、ヨルが買い物に行くときについていってみようか。

 ……と思うのだが、近所にあった商店がなくなってから、一番近いスーパーでもかなり歩く。それを考えると、どうしても躊躇してしまう。

 そう、理由はそれだけだ。

 出不精故な理由は、外に出たくないと思う理由は、ただそれだけ。

 事故のことが気になってしかたないのも、すぐ近くで起きたことだから……。


「今は病院で治療を受けているらしいし。きっと、大丈夫ですよ」


 黙り込んでしまったセイを安心させるように、ヨルは緩く首を傾けながら優しい声音で言葉をかけた。

 セイの沈黙を、事故にあった人間への懸念ととったのだろう。

 その通りだ、とは思う。だから、セイは何とか笑みを浮かべて頷いて見せる。

 ヨルの言う通り、事故に遭った人は助かったのだ。今はまだ治療中でも、少なくとも命は取り留めたはず。

 でも、心の奥に小さく棘のようなものを感じるようになってしまったのは。

 形容しがたい不安が消えずにわだかまるようになったのは、その時からだった

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