工房の看板猫
硝子工房には、人間の他に猫もいる。
実は人の言葉を話すつつじは、工房の看板猫である。
黒い滑らかな毛並みで、推定雑種。性別は女の子。
祖父と共に工房に残されていた、工房の先住者とも言える。
恐らく祖父に飼われていたのだろうが、どういう経緯があったのかは教えてもらえていない。つつじも覚えていないらしい。
普通であれば猫を壊れ物が多数置かれている硝子工房に入れるのは危ないだろう。
だが、つつじは非常に大人しくお利口さんである。
むしろ、工房に居てくれると和む、癒される。気分が落ち着いて、作品作りが捗る。
……と、工房主は誇らしげに仮面の助手や客人相手に事あるごとに力説するのであった。
その日も、セイが熱心に手を動かす傍ら、つつじは丸くなってそれを見守っていた。
セイは特に理由がなければ、つつじが工房に居てくれることを願うし、つつじもセイの傍に居たがる。
ヨルはお昼ご飯の支度に一時工房から離れており、工房には一人と一匹だけ。
セイは大物の依頼といえる飾り窓の制作に、周囲に注意を向けることを一切忘れて取り組んでいる。
思い出の風景をモチーフにして作って欲しいということで写真を預かり、ここ暫くそれに集中していた。
写真を元に下絵を起こして型紙を貼って。硝子の種類も、完成した時のイメージを想定して選び。
一つ一つのピースが非常に複雑かつ小さい故にカットには細心の注意を払い、それを丁寧に慎重に組み合わせ、繋いでいく。
一つだけでは何かわからない欠片が、集まって一つの風景を描き出していく。
やがて、見てわかるほどに写真の風景を映し出した窓が完成した。
そこでようやく手を止めたセイは、出来上がった窓の全体を見つめる。
まだ終わりではない。最終的な確認はヨルにもしてもらって。お昼ご飯が終わったら手伝ってもらって二人で仕上げをしよう。
けれど一山超えたのだということで、セイは安堵したように安堵した様子で息を吐いた。
つつじが丸まっていた日向の机から飛びおりたかと思えばセイへと歩みより、床を蹴ったかと思えばセイの膝の上に飛び乗った。
『セイ、疲れた?』
「まあ、さすがに久しぶりの大物だったから。ちょっと疲れたかな」
柔らかで温かい感触に目を細めるセイに、つつじは問いかける。
労わるようにセイに身を摺り寄せていたつつじは、ふと、ころんと横になると腹部を見せる。
そして、きらきらした円らな瞳でセイを見上げると言ったものだ。
『疲れたなら、もふもふしていいよ?』
「つつじちゃんっ……!」
感極まった様子のセイは、ツツジをひたすら撫でまわす。
更には、その勢いのままに抱き上げた上にほおずりし、抱き締めて。
つつじ可愛い、もふもふ可愛い。
盛大に息を吸って吐いてを繰り返しながら、セイは感激しながら猫を愛で続ける。
そこに、冷静な言葉がかけられる。
「……セイさん、つつじが苦しそうですよ」
「あ、ごめん、つつじ!」
いつの間にか工房に戻ってきていたヨルが頭を抑えつつ指摘するのを耳にして、慌ててセイは腕の中に視線を向ける。
セイの愛が溢れすぎて暴走した結果、つつじは少しばかりぐったりとしてしまっているではないか。
すぐさま解放し平謝りをするセイに、つつじは何とか大丈夫……と言ってはくれるものの、まだ力が抜けたまま。
「つつじを休ませがてら、セイさんはお昼にしましょう」
「はーい……」
ヨルはつつじを抱き上げながら、昼食の支度が出来たことを伝える。
ばつの悪そうな様子のセイは、素直にそれに従って二人と抱えられた一匹は居間へと向かう。
テーブルの上には、今日もまたヨルのお手製の美味しそうなお昼ご飯が並んでいる。
つつじは、あなたはこれを、と差し出されたむしった魚がのった小皿を前に喜んだ。
喋ることも忘れて小皿に向かうつつじを、セイは可愛いなあ、と表情を緩めて見守っている。
そして、そんなセイを見ていたヨルが、笑いを滲ませた声で言う。
「セイさんは、本当に猫が好きなんですね」
「犬も好きだけど、やっぱり猫が好き」
ヨルの言葉を聞いて、セイは頷きつつ答えた。
セイは犬も可愛いと思うし好きだけれど、どちらがより好きかと問われれば猫と答える。
けれど、と小さく呟きながらセイの表情がやや曇る。
どうしたのだろうという様子で、ヨルとつつじの視線がセイへ向けられて。
二つの眼差しを感じながら、セイは一つ重い息を吐くと口を開いた。
「昔、猫を拾ったことがあったの」
家への帰り道、雨が降っていたことだけははっきり覚えている。
ツツジの茂みに隠れるように震えてか弱く鳴いていた子猫が居たのだ。
気が付いた時には、矢も楯もたまらずに抱え上げて家へと走っていた。
助けてあげたいという思いだけで、必死に家へと辿り着いた。
けれど。
「でも、実家では飼えなくて。……駄目だって言われて」
何故飼えなかったのかは覚えていない。
険しい声が余計なことをさせるな、邪魔になる、と怒鳴っていたような気がする。
ただ、叱られて小さな猫を抱えて打ちひしがれた気持ちで歩いている記憶だけ。
戻してくるまで帰ってくるなと家を追い出され、雨に濡れながら当てどなくなく歩いた。
「それに、その子もとても弱っていて……助けられなかったの」
セイが子猫を見つけた段階で、猫は既に弱り切っていた。
子猫を抱えながら雨に打たれて歩くセイを見つけたのは、用があって家を訪れようとしていた叔母だった。
叔母は驚いて事情を聞き、急いで獣医に連れていってくれたけれど、既に手遅れで。
それから程なくして、セイ達が見守る中、子猫は息を引き取ってしまった。
亡きがらは叔母が火葬の手配まで整えてくれた上に、霊園に預けてくれた。
セイはその間ずっと泣き続けていた。
自分の無力が悲しくて、情けなくて。助けられなかったことが申し訳なくて。
暫くの間、無言で涙を流し続けるセイは、胸の痛みに唇を噛みしめていた。
助けられなくてごめんなさい、弱くてごめんなさい。
ただただ、旅だってしまった子猫に謝り続けた。
ツツジの花の咲く下にいたあの子を思うからこそ、同じ花の名を持つつつじが楽しそうにしていることが嬉しいのかもしれない。
助けられなかったあの子が、幸せに生きてくれているようで……。
『セイ、大丈夫?』
声をかけられて少し驚いて目を瞬く。
そちらをみれば、セイのすぐそばにつつじが居た。
心配そうに見上げながら問いかけてくるつつじを見て、大丈夫だよと苦笑しつつ答えるセイ。
セイの眼差しの先で、つつじは明るく目を輝かせてセイを見つめている。
あの時の小さな子と同じ黒猫の、けれどあの子よりもずっと大きなつつじ。
『そんな顔をしないで。わたしはここにいるんだから』
つつじは、微笑みを含んだ優しい響きの声で言う。
ヨルが温かな雰囲気をまといながら自分達を見守っているのを感じながら、セイはそっとつつじを抱き上げた。
先程のように暴走することなく、宝物を扱うように丁寧な仕草に、沢山の愛を込めながら。
つつじは、セイに身体を摺り寄せながら幸せそうに更に言う。
『わたしは、助けてもらえたんだから』
胸の奥から溢れてくる熱い想いで、セイの心の裡はいっぱいだった。
ここにこうして、つつじがいること。
つつじが居て、自分が居て。こんな風に笑い合いながら一緒にいられること。楽しくすごせること。
それがとても幸せで、何故かとても切なくてたまらなかった。
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