ご近所さんの差し入れ
セイは工房にて作業に集中していた。
ヨルは買い物など諸々の用事を片づけに外出中であり、つつじはセイを邪魔しないように少し離れたところの日向で丸まっている。
夏はすぐそこにある。
北海道は涼しいというのが道外の人々の見解らしいが、暮らす人間にとってはそうではない。
気温はそれなりに高くなるから、エアコンがないと実際はなかなか厳しい。
そんな中で硝子張りの環境で、陽射し差し込む中作業しているというのに、セイは辛そうな様子を全く見せていない。
朝寝坊してヨルに叩き起こされていた時のぼんやりした様子は何処にもない。
声をかけることすら憚られるような、或いは声をかけても気付かないのではという集中の度合である。
真剣な眼差しが注視する先では、淀みなく指先が動き続けていた。
現在作っているのは、先代の頃からステンドグラス作品を置いてくれているギャラリーから頼まれた品だ。
先日納品した作品をいたく気に入ってくれたご主人から、追加で幾つか注文を受けたうちの、最後の一つに取り掛かっている。
期日がそれほど切迫している訳ではないが、ギリギリに納品することはあまりしたくない。余裕を持てるよう作業するよう心掛けている。
セイは、自分の神経が指先に集中しているような、ステンドグラスを作っている時間が好きだった。
型紙通りに慎重に切り出した硝子を、研磨し滑らかにした上で銅のテープを巻いていき。下処理をしてハンダ付けして、一つ一つのピースをデザインの配置通りに丁寧に繋げていく。
何を作るかによって他にもパーツをつけたり、組み立てながらハンダ付けしたりと手順は変わる。
銅のテープの厚さや、切り出す硝子板の材質で実に様々な雰囲気を生み出すことが出来る。
初めて祖父に作業する様子を見せてもらった時、息を飲んで見守っていた。
手元が狂ってはいけないから静かにしなければと思っていたのもあるけれど、祖父の手によって形になっていく硝子に息を飲んでしまったのだ。
違う種類の、違う形の硝子を組み合わせ。一つでは何かわからないピースを繋げていくことによって、魔法のように一つの作品が出来上がる。
私もあんな風に、綺麗なものを作れたらと声を潜めて、けれど興奮を抑えきれずに語った気がする。
「……あれ?」
ふと、小さな呟きと共に手が止まった。
記憶の中の少しの違和感に、我知らずのうちに首を傾げていた。
誰に語ったのだったっけ、と小さく唸る。
あの日、工房にいたのは祖父と自分と、あとは……?
父や母ではなかったような気がする。
自分と同じぐらいの背丈で、自分と同じぐらいの年頃で……それ以上が分からない。
友達でも連れてきただろうか。
でも、道具類で危ない物もあるからと、祖父は工房には入れてくれなかったはずだ。
そこまで考えて、ゆるゆると頭を左右に振る。
集中が途切れた。ここは一度休憩を入れて仕切り直しといきたい。
工房の中を見渡すと、大きな硝子窓から差し込む光は作業を始めた頃から変わってきている。
時計を見れば、正午を示している。お昼ご飯の頃合いだ。
ヨルのことだ。多分、何らかの食べるものを用意しておいてくれているとは思う。
冷蔵庫を覗きにいくか、と思うけれど、セイは立ち上がらない。
確かに、お昼ご飯の時間ではある。お腹も空いた気はする。
でも、面倒くさい。
居間まで戻るのが、面倒くさい。
……ではなくて。
集中は途切れたものの、今日は作業意欲がマシマシで、勢いが乗っている。
どうせなら、このまま作業を再開したい。頼まれた品を作ってしまいたい。
一食ぐらい食べなくても、人間死にはしないだろう。
申し訳ないとは思うが、用意してくれていたことに気付かなかった、ということにしよう。
よし、作業続行。
そう心に呟いた瞬間、つつじが顔をあげた。
『セイ、誰か来た』
つつじがそう告げた次の瞬間、チャイムが鳴り響いた。
訪問者のようだ。
今はヨルが居ない以上、他に対応できる人間が居ない。
来客の予定はなかったが、もしも宅配便なら二度手間になってしまうし、流石に居留守を使うわけにはいかない。
セイが、仕方ない、と溜息を吐きながら工房から出て玄関へと歩き始めると、つつじがそれに続く。
インターホンのモニターをつけると、映し出されたのは見おぼえのある女性だった。
『セイちゃん、居るー?』
「
怪訝そうにしていた表情を緩めると、セイは急いで玄関のドアを開く。
外に立っていたのは、近所に住む老齢の女性だった。
由紀子という名の女性は、手にしていたラップをかけた盆を示しながら優しい笑みを見せた。
「茶碗蒸しを作ったから持って来たの。そろそろお昼の時間でしょう?」
盆の上には幾つかの器が乗っていて、蓋をされたその中身はどうやら茶碗蒸しのようだ。
この女性が得意とする料理で、作る時には少し多めに作っておすそ分けをしてくれるのである。
蕩ける舌ざわりを思い出すと、忘れることにした空腹が途端に自己主張を始めた。
「ヨルさんが出かけるときに少しお話したのよ。後から持っていくっていったら、それならお昼ぐらいに顔を出してくれませんかって」
思わず目を見張って由紀子を見てしまうセイ。
そんなセイを見つめながら、由紀子は優しく苦笑いをしながら続ける。
「お昼ご飯、ちゃんと食べないとダメよ? 好きなことに熱中したら、他がおろそかになるってヨルさんが嘆いていたもの」
「あいつめ……」
つまり、ヨルはセイが作業に熱が入って昼ごはんをスルーするであろうことを見越していたようだ。
その上で先手を打って、このご近所さんに声をかけていったのだろう。
何となく行動を読まれて悔しくて、思わず口の端が引き攣ってしまう。
ヨルの手の平で踊っていたような感じがして、思わず地団駄を踏みそうになる。
しかし、何時までもそのままでいるわけにいかない。
ヨルもまだ帰ってくる様子がないし、どうせならご一緒にというと、由紀子は快く頷いてくれる。
少しして、居間には女性二人と猫一匹の姿があった。
お茶をいれて、ヨルが作っていった稲荷ずしと、由紀子の作ってきてくれた茶碗蒸しでお昼にすることになった。
お喋りに花を咲かせながらの食事は、大層美味しく感じた。
付き合いの長いご近所さんとの話題は、日常の他愛ない話題から、昔懐かしい思い出話にまで及ぶ。
「お祖父さん、今頃どうしてるかしら……」
由紀子は目を細めながら、しみじみとした様子で呟く。
祖父とも家族ぐるみの付き合いだった女性は、孫娘に工房を預けて突然旅に出た祖父について口にした。
「いきなり『旅に出る』っていって、本当に行っちゃって。本当にびっくりしたわ」
「本当に、お騒がせして申し訳ないです……」
祖父の行動は、由紀子を含めた近所の人間にとっても根耳に水だったらしい。
まあ、そういう人だったけれどね、と由紀子は苦笑する。
「元々、思い立ったら行動が早い人だったらしいから。安定していた大きな会社に勤めていたと思ったら、突然辞めて硝子職人になったし」
祖父は元々会社勤めをしていたらしい。それも、市内でも大手の企業に。
安定した暮らしを送り、結婚し、子供も二人生まれた。
しかし、ある時一念発起して勤めを辞して硝子職人の修行をし、この地に工房を開いたという。
「奥さんは大分不満だったらしいわね。いい会社勤めの旦那さんのこと、人に羨ましがられて喜んでいたから」
「お祖母ちゃんに関しては、殆ど記憶がないので……」
祖母はセイが赤ん坊の頃に亡くなった。
話でしか聞いた事はないが、見合い結婚だった祖父とはあまり性格が合わなかったらしい。
硝子職人になることも、工房を開くことにも反対で、始終愚痴ばかりだったと何時だったか祖父が零していた。
セイとしては、祖母の気持ちも分からなくない。
人の羨む安定した暮らしから、不安定な自営業の生活にならざるを得なかったのなら、文句も出るだろう。
どうやら、夫の勤め先を半ば自分のステータスとする人だったらしいので、それならなおの事。
「まあ、連絡が来たら教えて頂戴な。元気だって分かればそれでいいわ」
「はい。来たら必ず!」
由紀子が首を軽く傾けながら言うと、セイは苦笑しつつ頷いて答える。
セイの言葉に続くように、つつじがにゃあと鳴いた。
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