二人と一匹の食卓
幸いにしてもう一度呼びに来られることもなく、食事も冷めないうちにテーブルにつけた。
頂きます、と手を合わせて食べ始めるのはセイだけだ。
ヨルは、つつじのご飯を用意してあげた後は、テーブルの向いに座ってセイを見守っている。
セイが食べる様子を、仮面越しでも何故かわかる穏やかな空気で見守るだけ。
他愛無い会話を挟みながら、和気あいあいとした雰囲気ではあるけれど。湯気の立つ美味しい食事をとるのは一人だけ。
それが、それが日常風景だった。
後片付けは任せて仕事を始めるようにというヨルの言葉に甘えて、セイは居間を後にする。
それに追いかけるように、セイの後ろをつつじが続く。
だが、廊下を歩むセイの足取りはあまり軽やかとは言えない。
左程経たずして辿り着いたのは、一つの扉の前だった。
場所としては、この先にあるのは外からみればせり出して見える部分である。
少しばかり軋んだ重い響きをたてて、扉を開く。
広がる空間は、光に満ちていた。
大きな硝子窓から自然光をふんだんに取り入れる事ができる場所は、様々な道具や、色も質感も様々な硝子板が置かれていた。
奥まったテーブルや棚には、既に完成した作品があり、差し込む光を反射し、拡散させ、様々な色で満たす。
後ははめ込むばかりになっている飾り窓に、ステンドグラスの傘を持つランプ。吊り下げられたサンキャッチャーに、キャンドルホルダー。
大きなものから、小さなオブジェや小物入れのようなものもある。
祖父が残していった作品に加えて、セイが注文を受けて作り上げたもの。
ここは、祖父がセイに託していった硝子工房だった。
幾つかの種類の硝子を手掛けられる設備はあるが、メインとなっているのはステンドグラスの作品である。
かつて祖父が開いて、多くの人々を魅了する作品を生み出し続けた場所である。
セイは、この工房で日々必死に作品作りに打ち込んでいる。
今は、取引先も祖父との縁を重んじて依頼をくれていた。
納品した品々は満足してもらえているようで、今の処注文は途切れていない。
だが、セイが作り出す作品が見合う価値を持たないと分かれば、いずれ声はかからなくなるだろう。
与えられた猶予期間と言える今、縁に頼らず人々を魅了し納得させるものを作り上げなければならない。
祖父の作風を模倣するだけではなく、引き継ぎながらも紛れもない彼女のものと言える作風を作り上げること。
それが、今のセイに与えられた大きな目標だった。
作業台の前に腰を下したセイではあったが、手は動かず止まったままだった。
作りかけの注文品を完成させようと、道具と材料を用意し手袋を嵌めたけれど、そこで動きを止めたまま。
『セイ、まだ眠いの?』
「違うよ、つつじ」
セイの耳に、不意に柔らかな響きが聞こえる。
足元を見ると、つつじが問うように見上げていた。
両手を伸ばすと飛び込んできた猫を抱き上げてやりながら、セイは息を吐く。
心を占める疑問があるからだ。
注意が他所に在る状態では、ヨルが懸念していたように怪我を誘発しかねない。
つつじを撫でながら、セイはおもむろに口を開いた。
「ヨルが、今日もやっぱり食べないなって」
今日も、一応ヨルも食べないのかと声をかけた。
しかし返ってきた答えはいつもと同じ。セイが寝ている間に既に食べたということだった。
実は、ヨルは今まで一度もセイの前で何かを食べる様子を見せたことがない。
ヨルはいつも何かを一緒に食べようとすると「もう食べました」と言うばかり。
あの仮面をしたままでどうやって食べるのだろうか、と気になりはするが、実は未だに聞けずにいる。
普通であれば、食べる時だけ仮面を外すと考えるだろう。
だが、セイは知っている――ヨルの仮面は外れないのだ。
大分苦しい言い訳だが、うっかり手が滑ったのを装って仮面を外そうと試みたことはある。
けれど、外れなかった。まるで仮面が顔に張り付いてしまっているかのように外れなかった。
ヨルがあまりに真剣に痛みを訴えた為、あれ以来ヨルの仮面については触れてもいないし、目の前で食べてくれとは言わなくなった。
ただ、一人で食べるのは味気ないので、食卓には一緒にいて欲しいと願うとそれは受け入れられた。
故に、セイだけが食べて、ヨルが見守る食卓風景がある。
「まあ、もういつものことにはなっているけど。気になりはする」
『でも、聞かないんだね』
つつじを抱きかかえながら、先程までよりは若干早い足取りで進むセイ。
腕に感じる柔らかな温もりに目を細めながらも、つつじの言葉には頷いて見せる。
沢山聞きたい事はある。
沢山気になっている事はある。
けれど、それを一つ一つ問い詰め続ければきっとヨルは困ってしまうだろう。
理由は自分でも説明できない。でも、ヨルが困っているところを見たくないのだ。
いつものような、セイの世話に手を焼いている時のような『困っている』ではない。
心から戸惑い、本当に『困っている』状態になって欲しくないと思ってしまうのだ。
ヨルはセイの祖父の弟子だった。
先の工房主であった母方の祖父は、ある日突然セイに工房を任せるといって旅に出てしまったのだ。
連絡を受けて駆け付けた時には既に祖父の姿はなく、居たのは仮面の青年と一匹の猫だった。
唐突な祖父の行動に暫く呆然としていたものの、元々硝子職人になる為に他所の工房で修行をしていたのだ。
ただ一人の弟子だったという青年の手助けを得て何とか気を取り直し、残された工房を受け継いだという訳だった。
最初は突然現れたセイが工房主となることを、ヨルが不快思うのではないかと懸念したが、仮面の青年はセイが驚く程の歓迎ぶりでセイを受け入れてくれたのだ。
セイとて、祖父の弟子と説明されたとはいえ、仮面をけして外すことのない青年と共に過ごすことになるのに戸惑いはした。
仮面の人物だけではなく、工房には言葉を喋る猫まで居たのだ。
けれど、ぎこちなく始まった二人と一匹の生活は不思議な程穏やかに馴染んでいき、セイにとっての『日常』になっていった。
どうしてそんなにあっさりと信用できるのかと言われるかもしれない。
自分でも不思議に思いもする。
何故なのかを今でもうまく説明できない。でも、セイにとってそれが「満ち足りている」形だと感じるのだ。
それでいいのだと思う、そうあって欲しいという不思議な思い。理由を言葉にできないことをもどかしく思いもするけれど……。
ヨルには、何故仮面をしているのか最初に問いかけたことがある。
なんでも、彼が顔の無い仮面を外せなくなったのは『魔女』のせいだという。
かつて恐ろしい魔女の呪いにより、皆から存在を忘れられて『誰でもない存在』になってしまった。
呪い故に顏を失い、故にこの仮面が外せないという。
魔女狩りとて過去の迷信と語られる、この科学の発展目覚ましい世に、魔女。
子供にでも聞かせるような作り話で煙に巻かれたのかと思ったこともある。
しかし。
『セイさんは、信じてくれているでしょう?』
『人に全く違和感を抱かれない仮面の人間が居たり、猫が喋ったりするなら。魔女ぐらい居てもおかしくないかな、とは思ってる』
ある時、ヨルは柔らかな声音でセイへと問いかけた。
顔は見えないというのに、不思議と彼の口元が笑みを浮かべているような気がしたものだ。
セイは軽く肩を竦めながら応えた。
この工房に顔を出すご近所さんや常連客が、ヨルを見て驚いている様子は全くない。
ごく自然に、当たり前のように彼と接している。
以前から馴染んでいる故かとも思うけれど、どうにも違うようで。
この工房においては、ヨルが魔女の呪いで仮面を外せないことも。つつじが猫であるのに喋ることも。
その不思議こそが、普通なのだ。
納得してしまうことこそおかしいのかもしれない。
だが、おかしいとして一人と一匹を世界から拒みたくない思いがある。
仮面をしていても、それが外れない不思議なものだとしても、ヨルはヨルだ。
喋るとしても、人の言葉を理解して会話できるとしても、つつじはつつじだ。
セイは、拒むことなく不思議を受け入れている。
セイは、それでいいと思っている。
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