君がくれたキセキ ~海が見える街の硝子工房~
響 蒼華
初夏のある朝
確かに共にありました。
確かに触れていました。
思い出して下さい。
確かに、わたし達は一緒でした――。
道南・函館市。
中心部から離れたところにある町の、海と墓地を見下ろす場所に、ツツジの花の咲く庭を持つその建物は存在していた。
今と昔が入り交じる街によく見られる和洋折衷の古民家は、大きな硝子窓のある一階部分が少し不思議な形にせりだしている。
家の二階の一室にて。
カーテンの隙間から差し込み始めた陽光が徐々に確かさを増していく中、いまだ微睡みの中にあるのは一人の女性だった。
良い夢に揺蕩っているのだろうか。口元には薄っすらと笑みを浮かべながら、薄手の掛布団の端を握りしめながら、寝返りを打つ。
幸せな静寂に満ちる空間が、そのまま続くかに思えた瞬間。
「セイさん! 起きて! 朝ですよ!」
足音と扉を勢いよく開く音。それに続く言葉に、静けさは呆気なく破られた。
微睡みの時間の終わりを告げながら室内に足を踏み入れたのは、一人の男性だった。
均整の取れた長身にある大きな特徴を持つ男性の足元には、一匹の猫。
猫は床を蹴ってベッドに飛び乗ったかと思えば、眠る女性の手にすり寄り始める。
『起きて、セイ』
「つつじ……」
不思議な響きを伴う、儚い声が響いて一瞬おいて。
目覚めを拒絶するように掛け物を被り丸くなっていた、セイと呼びかけられた二十代半ばの女性は、ぼんやりとした声音で猫の名前を口にする。
続いて与えられる柔らかな感触に観念するようにもぞもぞと動き始め、盛大な欠伸と共にシーツに両腕をついてゆるりと身を起こした。
「眠い……」
「ベッドに入ってからも動画とか見ていたからでしょう」
まだ夢の中にいるような様子で、セイは目の辺りをこする。
残る眠気にぼんやりとした様子は、放っておけばそのまままた夢に逆戻りしてしまいそうだ。
起きて、と言いたげな様子で必死に身体をこすりつけてくる猫を撫でてやりながらぽつりとつぶやいたセイに、青年は盛大に溜息を吐きながら言う。
「違います。ソシャゲのイベント周回です」
「夜更かしには変わりません。ほら、起きて起きて」
青年の言葉を大真面目な様子で否定するセイだが、返ってきたのは更なる呆れと更なる溜息だった。
尚も未練がましく掛布団に包まろうとするセイから、青年は剥ぐように布団をとりあげる。
レディーに何をする……と顔を顰めながら青年を見つめるセイ。
彼を見た人間は、ほぼ例外なくかなり驚くはずだろう。人によっては恐怖を口にするかもしれない。
セイを起こした青年の顔は、白く硬質な仮面に覆われているのだ。
それも、飾りや文様どころか鼻の口も、何もない……かろうじてある目は暗い淵で瞳が見えることはない顔の無い仮面。
けれど、セイは、欠伸をしながら恨めしげに彼を見つめるばかり。
驚くこともなく、純粋に優しい微睡みの時間から強制的に連れ出されたことに溜息をついている。
「ねえ、ヨル。妙齢の女性の部屋に、本人が寝ているのに入るのは問題だと思うんだけど」
「それなら、私が起こさなくても自分で起きて下さい」
『セイ、分が悪いね』
半眼で見つめるセイが言った言葉に対し、仮面の青年――ヨルが返した言葉はにべもない。
セイは思わず言葉に詰まり、小さく呻く。
確かに、自分が起きられないから相手は起こしに来ているわけで。反論するには些か形成不利だ。
ヨルの言葉に、セイでもヨルでもない声が続く。その優しい苦笑いの響きを帯びた声は、何とふんわりした毛並みの猫から発されている。
けれど、セイは驚かない。驚くことなく、ただ、ばつが悪そうな様子で小さくなる。
視界の端で何かが動いた気がして、セイがそちらを向いた。
向けられた眼差しの先で窓辺に歩み寄ると、ヨルは躊躇うことなくカーテンを開く。
差し込む眩しい陽の光にセイが思わず目元を覆ってしまっていると、ヨルはもう一度溜息を吐く。
「道具類は間違えれば怪我をするものが多いのだから。寝不足の状態で手元が狂ったらどうするんです」
重々しく続けるヨルに、返す言葉なく呻くセイ。
言葉に詰まった様子のセイに、ヨルは更に言葉を重ねる。
「師匠……おじい様から、くれぐれもよろしくと頼まれているので。手綱はきっちりしめさせてもらいますからね」
完膚なきまでに言われて、セイは不貞腐れたようにヨルを見る。ヨルの言葉があまりに正論過ぎるからだ。
セイとて、夜更かしは良くないと分かっている。
けれどついつい止め時を見失い、気付いたら眠ってしまっていることが多々。
時を忘れるぐらい好きなものに熱中してしまうのを反省しつつも、同じ事を繰り返してしまうことへの後ろめたさがある。
拗ねたような表情ではあるけれど、セイだって分かっている。
ヨルがただ正しいことだけをあげているのではなく、セイを案じているからこそ耳の痛い言葉を口にしてくれているのだと。
始まりは彼のいうように、セイの祖父が彼に彼女の事をよろしくと託したからだったのだろうと思う。
だが、確かに感じるのだ。彼の咎める言葉に、義務感だけではない、真摯な気遣いを。どこか懐かしい優しさを。
だから、確かにセイは『分が悪い』のだ。
言葉に詰まってしまったセイを見て、仮面の青年は少しばかり優しい色を帯びた息を吐く。
セイに寄り添っていた猫を抱き上げると、身を翻して扉へと静かに歩き出す。
「朝ご飯が冷めてしまいますから。早く着替えて、顔を洗ってきて」
「はーい……」
出て行き際にそう残すと、ヨルは猫と共に部屋から消えて行った。
残されたセイは一度息を吐くと、未練を振り切るように勢いよく寝台から飛び起きた。
裸足のまま窓際に歩み寄ると、硝子の外と視線を向ける。
初夏の陽射しに輝くような翠の切れ間からは静寂を湛え魂が眠りにつく墓地が見え、その遥か向こうには晴れた空の下に広がる青い海。
降り注ぐ陽光に、群青からグラデーションを描く水面がきらきらと光を弾いている。
目を惹きつけるあの輝きを、自分の手から生み出す事が出来たなら。この窓から海を見る度に、いつも思ってしまう。
海と行き交う船が見える町、セイはここで育った。
厳密にいえば、家があったのはこの家からもう少し離れた場所だったけれど、祖父が暮らしていてここもまた彼女のもう一つの家だ。
何も無い場所だと、皮肉に吐き捨てた人も居たような気がする。
確かに函館においても中心地から大分離れた場所であり、あった店も一つ、また一つと減り。人は開かれた場所へと移っていき、子供が減ったために学校も閉じた。
移動一つにとっても苦労が伴う、けして暮らす上で便利とは言えない場所なのは否定できない。
だが彼女にとって、間違いなく始まりはここだった。
墓が見える日常が怖くないか、と問われた事があった気がする。
答えとしては、全く、である。
セイは工房からもう少し奥へと進んだ先、墓園に面した家にて幼い頃暮らしていた。
彼女からしてれみれば、墓参りシーズンの人の混雑の方が余程怖いし面倒くさい。生きている人間の方が怖いとはよく言ったものだ。
観光客が訪れる事もある異国の人々の眠る墓地が集う区画は、昔の遊び場でもあり、不思議な感覚を与えてくれる場所でもある。
海を見ながら、いつも通り過ぎた。
いつも、一緒に。いつも、手を取り合いながら。
手を……?
心に問いがふわりと生じた瞬間、セイは顔を顰めて片手で頭を押さえる。
痛みを伴う何とも言えない感覚に、胸が不思議にざわめいた。
まただ、と心の裡に呟く。
昔の事を思い出そうとすると、決まってこうなるのだ。
あった出来事は事実として羅列できるけれど、曖昧な部分が存在している。
紗がかかったような部分を明らかにしようとすると、何かが止める。
何か大切な事を思い出せないでいるようなもどかしさを責める自分と、それを開いてはいけないと制止する自分。
ヨルがいる、つつじが居る、そして私が居る。それでいい、そう思うのに。
物思いに耽りかけて俯いたセイは、次の瞬間大きく息を吐くと頭を軽く左右に振る。
今は止めよう、と心に呟いた。
このままでは考え込んでしまっては、何時までも下りてこないセイをまた寝てしまったのではないかと心配して、ヨルが再びやってきてしまうだろう。
つつじも待ってくれているはずだ。
ヨルの作ってくれた美味しい朝ご飯だって冷めてしまう。そんなこと、勿体ないじゃないか。
セイは気分を変えるように両手で頬を軽くはたいて、気を取り直して部屋を出て、階下へと下りていった。
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