梅雨
鈴ノ木 鈴ノ子
つゆ
天から雨が滴り落ちて雫となりて消えてゆく。
校舎の一階の端にある美術室で窓辺から外を眺めていた。高校2年生の6月の梅雨の最中、学校特有のジメジメとした人と物の感触に辟易としていた。
机の上に印刷室から失敬したA3の用紙を広げ使い慣れたボールペンを握る。どこにでもある石膏像の模写を試みたが思うようには捗らない。結局、一点を打つこともなく、窓辺から外を眺めている始末だ。
静かな美術室、5月には数名の入部者も居たが6月には幽霊へと昇華した。だから、人の声もなく静かで、ジメジメとして、雨の音が響くこの空間を独占するという誉を得て喜んでいた。だが、梅雨時の今はその喜びすらも失わせるほど気を落とさせていた。
しばらくすると吹奏楽部の練習演奏が湿り気を帯びながら漂ってきた。窓辺の先に別校舎の一階にある音楽室からで、数人の部員が楽器を奏でては教師と談笑を交えて練習という名の時間を過ごしている。音楽のことは詳しくは知らない、だから、彼らが何を奏でているのかは全く興味が沸かない。だが、部員たちの楽器をある種の操作とでも言うのか、動かし曲となって行くさまは窓越しに見ていても美しいと思えた。青春、というものがあるとするならば、それは今まさに目の前で繰り広げられているのではないだろうかと、三流文士のようなことを考えながら、制服の白と黒、同色のコントラストの髪と肌をした部員達の中に突如としてその色は現れたのだった。
校則を逸脱しそうな茶色の長い髪、だらしなく着崩したであろう制服、色のついた顔は化粧でもしているのだろう輝きが違っていた。鞄に吊るされたアクセサリーは蛍光灯の光を跳ねてときよりキラキラと輝きを放っている。手に持っているトランペットの金色の輝きすらも薄れさせるほどの迫力に視線を導かれた。女子生徒は窓際の端の席へと腰かけ周りの部員達と笑い合って、やがて他の生徒と同じようにトランペットを口元へ当てる。
とたん、音が色づく。
流れてくる音符達が煌びやかな色香を纏い、雨粒と戯れては耳元で囁いてゆく。戯れた雨粒の地を叩く音すらも一つの楽器のようだ。気落ちしていた気分が幾分か和やいでゆく。
トントンと手元のペンが降る。
用紙の上を乾いたアスファルトを雨粒が濡らしていくように点が穿たれ、やがて面となり、そして絵へと成ってゆく。題材はトランペットを吹く鮮やかな彼女だ。さながら西洋絵画で空を舞う天使のように可愛らしく、ピストンを操る指先は繊細ながら大胆に躍動していた。それがまた彼女を輝かせている。
校舎を隔てるように続く花壇にぼんぼりのようなあじさいの花が、溜まった雨粒を落とす度に、揺れ揺れては身を揺らし、楽しそうにリズムを刻んでいる。
一心不乱にペンを降らせて音楽室の音釜が鳴り響くのを心地良く聴きながら、やがて、小さな小さな絵を書き上げた。
辺りは静けさで満ちた。
音は消えて片付けと窓の閉まる雑音が調っていた調和を乱しては破壊してゆく。雨粒はただ降り頻るものへと、あじさいは悲しみを懐く花となり頭を垂れるのみであった。薄暗い美術室は陽気を失って陰気となり、ジメジメとした憂鬱が姿を見せてくる。
ため息を吐きながら、描き上げて色褪せてしまった絵を見つめる。この絵は意味を失ってしまった。情景が浮かばなければ伝わらない絵など意味はないと気落ちし描いたものを握り潰そうとして、柔らかく色香を伴った感触が背中へと満ちる。
「吹き方がダメだなぁ……」
背中に寄り件の彼女が吹き口を指差しては、反省の弁を口にする。可愛らしい唇とマウスピースはほどよい感触のはずなのに、如何にも気に入らないらしい。
「だから色褪せちゃったんだよ、ごめんね、上手く吹けなくて……」
「大丈夫、素敵な演奏だったよ」
感触が離れてゆくので振り向いて彼女を見つめる。
「帰ろ」
「うん」
美術室を後にして上履きを鳴らしながら廊下を2人して歩いてゆく。彼女は描いた作品を手に持ち、満更でもなさそうな顔をしていた。下駄箱で靴へと履き替えて降り頻る雨の中に傘を開く、雨粒が不均等なリズムを刻みながら傘の上を踊ってつたり落ちてゆく。楽器ケースを赤子のように胸元に抱いている彼女の方に手を伸ばして引き寄せる。蒸した空気に爽やかな香りと息遣い、吸い込まれるようなふたつの瞳がこちらへと向く。
「ん」
トランペットを吹いていた柔らかな唇が尖りを見せていた。
「うん」
合わせるようにゆっくりと自らの唇を合わせる。雨のカーテンの中でひっそりと交わし合い、やがて名残惜しそうに離れていった。
「ずっと見てて、必ず色褪せなくするから」
「もちろん、色褪せない絵を描いてみせるよ」
青春は梅雨の中だけれど、互いにそれに満足している、目指す高みは晴れた青空のように素敵なものであるだろうから。
梅雨 鈴ノ木 鈴ノ子 @suzunokisuzunoki
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