洒涙雨

dede

温泉と、雨と、この出会いに


仕事の調整がついて夏季休暇がとれたのがたまたま今日だったというだけだ。

私にとっては全然特別でない日。せいぜいお盆が近いなとしか思っていなかったし、そのお盆すら子供も嫁もいない独り身で、帰省する実家すらないのだから然して意味を見出せなかった。

という訳で私は夏季休暇を趣味の野湯巡りに費やすことにした。


野湯。それは「野良の湯」。秘湯中の秘湯。

人里離れた山奥に、草木をかき分け獣道と見間違いそうな山道を登った先にある、温泉。大抵は管理されてないか、有志による簡単な手入れがされてるだけである。だいたい無料。あっても気持ち程度である。

屋根もない。壁もない。そしてだいたい人もいない。

なかなか苦労して山を登り、屋外で真っ裸になって温泉に入ろうだなんて酔狂な人は少ない。

でも私はそれが好きなのである。

大自然の中、一糸纏わぬ産まれたままの姿で湯に浸かる。

普段は窮屈なスーツなんて着て格好つけているが、所詮我々人間も生き物であり、自然の一部なんだと感じる事ができる。

世界と私を隔てるものはない。守るものもないが、遮るものもない。

世界にいるのは私だけのようにも思えるし、世界とつながっているようにも思える。その孤独感と開放感がとても気持ちいいのだ。


「まあ。それも晴れてれば、の話だけど」

いや、家を出た時は晴れていたのだ。その後電車で揺られて山を登り出してからがいけなかった。徐々に雲が多くなり、暗くなっていく。

温泉に着いて、シャツのボタンを一つ外した時に手の甲の上に水滴が落ちた。

手を止めて天を仰ぐ。パラパラと降り始める雨。

さりとて、ここまで来ておいて引っ込みもつかない。躊躇いながらもボタンを外していき、一枚一枚脱いでいく。最後のパンツをビニール袋にしまう。うん、夏場だというのに、雨のせいでちょっと肌寒い。

お湯の温度を確認してから持ってきた風呂桶で掛湯をすると、早速ザブンと湯に浸かった。

「ふぅー」

思わず声が漏れる。

案外山の気温も下がっていたらしく、湯に浸かって体が温まるとホッと心が和らいだ。

まあ、首から上は相変わらず雨に打たれて冷たいのだが。

雨粒が、髪を、顔を、肩を、水面を叩く。広がっては打ち消される波紋で水面は忙しない。風がそよぐと体温を奪われていくのを感じる。湯でぬくぬくした体にそれは心地よい。


ガサッ


草木を生き物が掻き分ける音がした。

熊だったらクマったなぁー、などと思いながら音のした方を振り返る。

キツネか、タヌキだったらちょっと楽しいんだが。

「……どうも」

「……どうも」

人だった。男だ。女性だったら熊よりクマったので男で安心した。リュックを背負ってレインコートを着たその男は私よりも若そうに見えた。

「あなたも浸かりに?」

「ええ。すいませんがご一緒してよろしいですか?」

「どうぞどうぞ。そのままだと風邪を引きますよ」

彼はレインコートと湿った服を脱いでいく。脱いだら水着姿になった。

背負ってきたリュックに衣服をしまうと、温泉に近づく。

湯の淵まで来たところで何かに気がついて湯に入るのを躊躇いだした。

「よかったら使いますか?」

私は自前の風呂桶を差し出す。

「いいんですか?ありがとうございます」

「いえいえ」

彼は受け取った桶で湯を掛けて流すと、ザブンと浸かった。

「フゥー」

彼の顔が綻ぶ。彼も雨に打たれ続けて体が冷えていたらしい。とても気持ちよさそうだった。

しばらく二人、雨音をBGMに無言で湯に浸かっていた。

「……よく、いらっしゃるんですか?」

彼が話しかけてきた。

「野湯巡りが趣味でしてね。暇ができれば全国回ってます。あなたは初めてですか?」

彼は気恥ずかしそうに頷く。

「分かりますか?そうですよね、桶いりますよね」

「経営されてる温泉なら置いてますからね。私も初めての時は桶がなくて困りました。あ、ちなみに車で来られましたか?」

「いえ、電車で来ました」

「日本酒、イケますか?よろしかったら付き合いません?」

私は自分のリュックから一升瓶を取り出す。浸かりながら一杯やろうと思っていたのだ。

「いいんですか?それじゃ、お言葉に甘えて」

私は酒を自分の御猪口と、彼の水筒の蓋に注ぐ。注いだ酒の上にも雨は平等に波紋を広げていた。

「何に乾杯しましょうか?」

と、私が揶揄うように問うと彼は少し考えた後

「何でも良いですが……では、温泉と、雨と、この出会いに」

「では、その3つに。乾杯」

「乾杯」

私は口の中に含めると、味わった後に嚥下した。胃の辺りに熱を感じる。そして私は雨で濡れたままになっていた顔を手で拭った。

「沁みますね」

「はい」

彼も頷く。

「災難でしたね、初めてがこんな天気で」

私は空を指差した。すると彼は、ゆっくりと首を横に振った。

「そんな事はありません。面白いエピソードになりました。楽しい出会いもありましたしね。

それに……ご存知ですか。今日降る雨の事を『洒涙雨』と呼ぶらしいですよ」

「へぇ。日によって雨の呼び方が違うんですか?知りませんでした。博識ですね」

すると彼は苦笑いを浮かべる。

「私もドヤ顔の嫁から聞いたんですよ」

気にしていなかったが、水筒の蓋を持つ手には指輪があった。

「一人でこんな所にいらして、奥さんに怒られるんじゃないですか?」

「大丈夫です」

彼は寂しそうに首を横に振ると、続けてこう言った。


「嫁は数年前、異世界に転生してしまいましたから」


……ん?

なんか今聞きなれないワードがあった。

「……異世界……転生ですか?」

「はい」

「奥さん、失踪されたんですか?」

「いえ、交通事故です。轢かれそうになった子供を助けようとして、自分が轢かれました」

「事故で亡くなったんですよね?」

「いえ、転生です」

「……どうしてそう思われるのですか?」

真面目な顔で答える彼に、やや怒気が交じった声で問い質してしまった。

なぜ結論が転生になるのかが分からない。

確かに最近のアニメやマンガで、日本で交通事故にあって死んだ後に異世界に生まれ変わるとはよく聞くけども。

彼も濡れた顔を手で拭い雨水を払った。

「彼女の遺体と対面した時に、違和感を感じたんです。なんというか、魂がココにないというか。それできっと異世界に行ってしまったんだろうなと」

言い終えると彼はまた一口酒を飲む。

なるほど、そういう事か。結局彼は彼女の死を未だに受け入れられないでいるのだ。まあ、分かるよ。大切な人の死を受け入れるのはとても辛いものだ。

未だに嵌めている指輪からも、奥さんを大事に思っていたことがうかがい知れる。

「異世界ですか……。でも、異世界で生きてるのだとしてコチラに戻って来れるものでしょうか?」

「それは……きっと無理でしょう」

「なら、私たちにとってそれは死んでるも同じではありませんか」

「そうでしょうか?」

彼はそう答えた後に、もう一度呟いた。

「そうでしょうか?」

お湯のおかげで体は温まり、お酒のおかげで胸の辺りは熱かったが、雨のせいで頭はやけに冷めていた。


それから私と彼は取り留めのない話をして時間をつぶした。

しかし雨は一向に止まない。

「止みませんなぁ」

「そうですね」

シトシトと、静かに降り続ける。激しくなることもなく、さりとて止むこともなく。雨で頭を冷やされるのでのぼせる事はなかったが、いつまでも山奥で湯に浸かってる訳にもいかなかった。

「暗くなる前には下山しないと」

「ええ。でも、このまま濡れながら帰ったら湯冷め、間違いなくしますよね?」

「でしょうね……でも、暗い中の下山の方が不味いですし、それに……気づいてますよね?」

「はい……お湯の温度、下がってますよね?」

そうなのだ。徐々に温泉に雨水がたまってきたので適温から徐々にぬるくなってきている。このままでは、結局体は冷えてしまう。

「そろそろ覚悟を決めますか」

「そうですね」

風邪を引くだろう未来が見え隠れするが、それでもこのぬるま湯から出ないといけない。そうして意を決して腰を浮かせようとした瞬間、それは起きた。


ピカッ


「え!?ちょっ、何が光って!?」

薄暗い山奥が急に明るくなった。辺りを見回すと、ちょうど彼の指輪から発せられていた。

その光がやがて人の姿に収束した。

『……し。もしもしー?聞こえてますかー?』

そんな女の声が聞こえてくる。光はより鮮明になり、金髪でまだ幼さを残した美しい少女の姿を空中に映し出した。

ローブを着て杖を持っている。その少女が嬉しそうに手を振りながら呼びかけている。

『もしもーし?あ、こっちは映った。あ、秋人!秋人だ!おーい、秋人!』

彼はその映像を見て無言で目を見張った。

そんな彼の様子を見た彼女は寂しそうに自分の姿を確認する。

『あ……そうだよね、分かんないよね?でもね、こんな姿だけど私は「静香!?静香なのか!?」』

彼女の話を遮って彼は興奮した様子で問いかけた。すると彼女は口元を押さえて言葉に詰まると泣き出した。

『……うん。うん。私だよ。静香だよ。会いたかったよ、ずっとずっと会いたかったんだよ……』

「うん」

『私ね、すごい頑張ったんだよ?難しいダンジョンに潜って……色んな冒険して……絶対もう一度秋人に会いたいって』

「うん」

そうして二人はしばらく静かに微笑みながら泣いていた。

『……ところでさ?』

「うん」

『さっきから気になってたんだけど、秋人の隣りで泣きながら私を拝んでいる裸のおじさん、誰?』

「え?」

彼が隣りの私を見たが、気にならなかった。

彼女には感謝しかない。

彼女のおかげで私は異世界を信じる事ができた。

結局会えないのなら一緒だと私は言った。でも、どこかで生きてるのならやはりそっちの方が良いに決まってるのだ。

異世界に行ったのは彼女だけかもしれない。でも、他所でも起きてる事かもしれない。

かもしれないだけで十分だった。それが慰めになるし、救いになる。

止めどなく溢れる涙は、すぐに雨が洗い流していく。

「なあ、もう一度乾杯していいかな?」

「奇遇ですね。私も丁度思ってました」

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