第18話 ジョン・レノン

   十二月九日 火曜日

 ニューヨーク時間8日午後11時、その二十五歳の若者はセントラルパーク近くのアパートの前で、暗い路地に潜んで一人の男の帰りを待っていた。バッグにはJ.D.サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』、最近出たばかりのLPレコード一枚、そして三十八口径のリボルバーを携えていた。若者の名前はマーク・デヴィッド・チャップマン。

 やっと男とその妻が帰って来た。タクシーが止まり、男が先に降りた。長い髪と丸い眼鏡が目に入った。間違いなく、待ち望んでいた標的だ。若者はリボルバーを右手に握り直すと立ち上がった。道に出て男の方へ歩み寄る。

「ミスター・レノン?」

 男に話しかけるのも、こんな間近で見るのも初めてだった。振り返った男の眼に若者の顔が映った瞬間、若者のリボルバーは間髪を容れず五発の弾丸を放った。

 うち四発が男の背中と左肩に命中した。撃たれた男は、それでも我が家への階段を上る事に最後の力を振り絞った。たった十段足らずの階段が上り切れず、半ばで膝が砕けた。こみ上げる血を口から吐き出す度に、意識が薄れて行く気がした。美しい五歳の息子の顔が浮かんだ。

 男の妻は目の前の光景がすぐに受け入れられず、ただ条件反射だけで男のそばへ駆け寄った。さっきまで次の仕事について話し合っていた夫が、物言わぬ屍に変わろうとしていた。「ヨーコ…」最後の言葉がそうだったのかどうかさえ、十分に聞き取れなかった。

 男は意識不明で病院へ運ばれたが、間もなく出血多量で四十歳の短い人生を閉じた。

 若者は現行犯逮捕された。持っていたレコードのタイトルは『ダブル・ファンタジー』。

 射殺された男の名前は、ジョン・レノン。



 ひとりで旅に出てみてもいいかい

 遠い、遠いどこかへ行くんだ

 僕らはいつかまた逢える

 まるで昔みたいに、きっと

 どうだい、いいだろ、愛する人よ

 まるで生まれ変わったみたいだ

 もう一度始められる、そんな気分なんだ

           

 ~『スターティング・オーヴァー』より




「はい、星です」

「もしもし、わたし」

「マナか」

「マナか、だなんて、ずいぶん気安いじゃないの」

「何だ、何か用か」

「ジョン・レノン、死んじゃったね」

「ああ…」

「きっと落ち込んでるだろうから、やさしいマナちゃんがなぐさめてあげようと思ってさ」

「そうかい…」

「相当、ショック受けてそうね」

「ボロボロだね」

「落ち込んだ時はね、高い所へ行くといいんだ。飛び降りて死ぬつもりでね、そこから地球を見下ろすの。そうすると、街並みの中に色んな人が生きてるのが小さく見えるのよ。悲劇の主人公は自分だけじゃないってわかるの。で、わたしの歌でみんなを幸せにしてあげる、なんて神様にでもなった気がしてさ、いつの間にか嫌な事なんて忘れちゃうのよ」

「そんな事、お前やってるのか」

「上京した頃はよく東京タワーに登ったけど、最近はサンシャイン60の展望台だね。東京が全部見えるよ。特に夜景が素敵なんだ。それと、行くと必ず良いことが起きるの。そこから近いじゃない、行ってごらん」

「昔から、バカと芸能人はいくらでも高い所へ登るもんだ」

「どうせ、わたしはバカな芸能人だよ」

「まだ鼻声だな。だから言ったろ」

「結構な物をいただきまして」

「昨日の“夜ヒット”どうしたんだ。またエスケイプか」

「脅迫状に負けたのよ。わたしが出たら、フジテレビを爆破するって」

「本当か?」

「いたずらだったそうだけど、しばらくテレビに出られないかもしれない」

「今どこにいるんだ」

「NHK。紅白のリハーサルしてるの。今、休憩時間中」

「お前…怖くないのか」

「あ、風間が来たからスタンバイだ」

「おい…」

「あれ、行っちゃった。ねえ、オリコンで一位になったんだよ」

「知ってる。おめでとう」

「それと映画の主演が決まった。『アイドルを探せ』っていうの」

「そうか、よかったな」

「でも、グリコとカンコー学生服のCM降ろされちゃった」

「そう…」

「もう時間。じゃあ切るね」

「マナ…」

「ジョージ、ファイトー!」

「お前…」

「またかける…」

 一瞬に声が途切れ、ゆるい電子音の反復に変わる。数秒間受話器を置かず、持ち続けた。

 フックに置いた途端、ベルが鳴った。何年も連絡の途絶えていた音楽仲間だった。それから渋谷に懐かしい顔が集まって、ジョンを悼んで朝まで飲み明かした。


 ジョン・レノンよ、永遠なれ…




   十二月十日 水曜日

 サンシャイン・ビル六十階の展望台には初めて来た。

 よく晴れた日で、マナの言った通り東京が一望出来る。空中都市とでもいった趣で、360度に大都会のパノラマが広がる。

 マナはああ言っていたが、神のような尊大な気分にはなれなかった。改めて自分の塵のような存在を思い知らされるばかりだった。

 一番気に入った風景を望み、日が暮れるまで腰を据えて、取り留めのない思いにふけった。

 これからの仕事のこと。リュウに依頼人になってもらうか。

 村木の自殺のこと。一連の事件との関わりについて。

 マーク・チャップマンはなぜジョンを殺したのか、ということ。



 夕方、池袋駅付近をぶらついていると、パルコの前で偶然MIEに会った。先に気付いていたが、声をかけるべきかためらっている間に、向こうから微笑みかけて来た。

「星さん」

「やあ、何してるの」

「文芸座で映画観て来たんです」

 『家族の肖像』なんていうイタリアの映画は、聞いてもわかる筈がなかった。趣味が違っていた。

「ひとりで?」

「そうですよ。映画はたいていひとりで観ます」

「今日はこれから仕事?」

「いいえ、今日はお休みです」

「よかったら、お茶でも飲まない」俺が誘った。

「いいですよ」彼女が微笑んだ。



 西武百貨店地下の喫茶店の窓際に座ると、西武線の改札前通路に帰宅ラッシュの忙しない人の群れが見渡せる。ガラスの中と外で時間の流れが十倍ずれている。

 ここに入るまでにジョンの話はひとしきり終わった。意外にも、MIEはジョージ・ハリスン派だと判明した。

「前から聞いてみようと思ってたんだけど」俺が尋ねた。

「君のご両親はどんな人?」

「どんな人だと思います?」MIEは笑って、逆に問い返した。

 学校の先生か警察関係、と答えた。MIEがまた笑った。

「よく言われますけど、ハズレです」

 俺のモカと、MIEのミルクティーが来た。美しい女はたいていミルクティーを好むが、紅茶にミルクは邪道と思う。

「私の父はタクシー・ドライバーです。母はスナックを自分でやっています」

「そうは見えないね」

「それって星さん、失礼な言い方になりません?」

 MIEは怒る口調もおっとりしている。俯いてスプーンをかき回す彼女の細い指の先には、マニキュアも指輪も飾る物が何もない。誰が彼女をトルコ嬢と思うだろう。

「私の両親は、この私を見れば想像できるような人たちです。親子は必ず似るものでしょ。たとえ憎み続けた忌まわしい部分でも、親の血を自覚して愕然とする時があります」

「そんなに親を憎んでるのかい」

「やめましょう。過去を振り返るのって、星さんもお嫌いでしょ。まして家族の話だなんて」

 果たしてそれは一番苦手な話題であった。家族なんて言葉自体、出来れば耳にしたくない。

 だから、子供は作りたくなかった。自分自身、ろくな人間ではない。その血を継ぐ子など産まれて欲しくない。その祈りが天に届いて、智子は流産した。その時俺は、心の奥で胸をなで下ろしていたのだ。

 MIEの言う通り、血には逆らえない。本人の秘密は親を探れば分かる。そう、それは俺も知っている。

「もっと君について教えてくれないか」

 窓外の人の流れを見ていたMIEが、振り返りながら首を傾げた。

 もっと哲学っぽい言い方は出来ないものかと考えつつ、俺は彼女の黒い瞳孔を覗き込んだ。



 MIEの部屋は、西武線で池袋から一駅目の椎名町にあった。想像できる稼ぎからすると意外に質素なアパートだ。表札に“石川”とあった。

 木のドアを開けると、いきなり花瓶いっぱいの花が目に飛び込んだ。名も知らぬ花に、女の住む部屋を感じた。

 部屋の中央に本棚がある。渡辺淳一、五木寛之らの小説と難しそうな学術書、哲学書、そして洋書のペーパーバックがずらりと並ぶ。

「恥ずかしい。本棚を見られるのって、脳みそを裸にされてるみたいな気分。あんまり見ないで下さい」

「自信の持てる裸じゃないのかい」

「見栄っぱりの大嘘つきの裸です」

 MIEがかけたレコードはビリー・ジョエルだった。『ストレンジャー』、日本だけでとてもよく売れた歌だ。最近出て来たアーティストでは、ソングライターとしても群を抜いていい。

 またジョンの話になり、洋楽に話の花が咲いた。オリビア・ニュートン・ジョンからアバ、ブロンディに至るまで話題は広がった。その間にレコードはビー・ジーズの『失われた愛の世界』に変わった。ビルボードを独占しまくる彼らも、昔と随分変わった。『マサチューセッツ』のあのバンドがディスコをやるとは。

 二時間近く、そうやって音楽の話に自分たちを隠し、アルコール一滴入れるでもなく、当たり障りない友人同士のように過ごした。

 『ホテル・カリフォルニア』のイントロが始まった時、MIEは俺の横に座った。

「星さん、今日泊まって行きます…?」

「いや‥すぐ近くだから帰るよ」

 MIEはうつむいて、俺の顔を見ずにつぶやくように、

「ベッド、向こうにあります…」

 答えない俺を待ち切れず、またささやく。

「それとも、お風呂入りますか…」

 一昨年、耳タコになるくらい聞かされたイーグルスの大ヒットは詞が幻想的だ。名曲をBGMに俺は言った。

「何もしなくていいんだ。一緒にいてくれるだけでいい」

「無理しなくてもいいのに。私はトルコ嬢なんですよ」

「今はただの友達だ」

 肩にMIEの頭の重みを感じた。彼女の肩を手で引き寄せた。ギプスの中で軽い痛みがあった。

「好きな人、いらっしゃるんですか」

「気軽に恋などしない主義なんだ。昔から恋をして碌な目に会った事がない。この年齢になると、ますますロマンスなんてどうでもよくなる」

「私はいつも誰かを想っていないと、ハートが錆びついて来そうな気がします。恋を棄てるって事は、異性としての魅力を棄てるって事ですよ」

 恋愛を放棄してるつもりはない。

「俺は男として魅力なしか?」

 答えは言葉ではなく、彼女からの抱擁だった。風俗嬢が最後の砦とする唇を与えられ、俺の心はまた乱れた。手足の全てを密着させながら、俺たちは着ている物を脱ぎもせず、互いの存在を確かめ合うだけの時間を過ごした。

「服を着たまま男の人と抱き合うなんて、初めてかもしれません」

「君は服を着てた方がずっといい」

「わたし、魅力ありますか」

「魅力がなければ、店に通ったりしないよ」

 MIEの人差し指が、俺の胸板に円を描く。

「恋人に‥してくれませんか」

 申し分のない女性からの思いがけない告白を受け、なぜか俺は引いてしまった。

 彼女には大いに興味があったが、距離のバランスが崩れると夢が破れてしまう。思えば、部屋にも来るべきではなかった。何でも知りたいというのは職業病かもしれない。

 真剣に彼女を受け止める自信も責任も持てなかった。人種が違う、と思った。いつの日か来る悲劇を容易に思い描けた。

 目の下に盛り上がる形の良い胸の膨らみと、手を伸ばせば愛撫自在の太股の悪い誘惑に抗いながらも、冷静に相手の不幸を予見できる事に多少は自分の成長を感じた。

 あとは、今夜彼女を傷つけないで帰る方法を考えるだけだった。


 ジョンのラスト・アルバム『ダブル・ファンタジー』に『ビューティフル・ボーイ』という曲がある。

 人生は厳しいものだけど君が大人になるのが待ち遠しい、と愛息ショーンに呼びかけるものだ。その成長を見届けず逝ったジョンの無念さはどんなものだろう。物心ついて亡き父の残した歌を聴く時、ショーンの胸にはどんな思いがよぎるのだろう。

 あの時、子供が産まれていたら、と考える事がある。

 中学生になった息子か娘が色気づく年頃に疑心暗鬼しながら、月に一、二度のおざなりなセックスをし、適度な軽い浮気を繰り返して、どこか都内のマンションで、ありふれた同居人のような夫婦をしているのだろうか。

 情緒不安定になった智子は、ちょっとした事にイラつき、皿やコップを割ったり、新聞や雑誌を破ったりした。夜は相変わらず原因不明の下痢に悩まされていた。知らぬ振りをする事が、精一杯の俺の思いやりだった。

 自然と俺の足も家から遠のいた。いつも一緒にいたいと思った人と、一緒にいる事が苦痛になっていた。それでも、いつか昔のように戻れると思っていた。

 しかし、この生活がさほど長くない事にも気が付いていた。



 週刊誌記事より

 イギリスのチャールズ皇太子(32歳)は、スペンサー伯爵の令嬢レディー・ダイアナ(19歳)と交際中とか。ダイアナ嬢はお妃候補最有力といわれ、英国マスコミから過剰な取材攻勢を受けている。

 かつて“お嫁にしたい女優No.1”と呼ばれた竹下景子は、年上のカメラマンとの結婚が決まったらしい。

 日テレのドラマ『西遊記』の三蔵法師役がはまっていた夏目雅子は、TVディレクターとの仲が噂になっているそうだ。

 いい女には、それに似合った男がつく事が、初めから決まっているものらしい。


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