第17話 静岡

   十二月五日 金曜日

 目覚めた時、予想通りマナの姿はなかった。

 置き手紙はなかったが、ベッドの上に真っ青なパンティーが丸まって落ちていた。

 昨夜の夢を思い出した。中学生のような気分で自分の下着を覗いたが、汚れてはいなかった。

 最近出たポカリスエットという飲み物を開けながら、また当分酒は飲むまいと心に誓った。マナの形にシーツの乱れたベッドに寝転がり、いささか混乱した頭をぼんやりと巡らせた。パンティーを手に眺めながら、マナの一言一言を耳にプレイバックさせた。

「ねえ、キスして…」

「やさしくないね」

「一緒に寝る?」

「あなた、わたしを汚らわしい女と思ってるよね」

「わたしの何を知ってるっていうの」

「調べたって後悔するよ、きっと。怖くなるよ…」



 マナと村木の関係、例の写真が村木の撮影だという事、これははっきりした。だが週刊誌へ送ったのは村木ではない、と俺もマナも意見が一致する。むろん脅迫者でもありえない。

 犯人はマナに悪意を持つ人間か。例えば安手の推理小説ならば、ライバル松田聖子が犯人という展開もあるだろう。しかし問題は写真の入手である。ミス小野はもう事件は解決した気でいる。放っておいても、桑田探偵が真犯人を見つけてくれるのか。

 いずれにせよ、俺にはどうでもよい事だった。オノプロをやめた今、嫌な仕事をする必要はもうないのだ。

 だが、頭に長く引っ掛かったものがあった。胸の中でどろどろになり、出口が見つからず滞っていた。



 風邪が治まるまでゆっくりするつもりが、なぜか昼過ぎには新幹線上の人となっていた。

 まず公衆電話を占領し、電話帳を片っ端からかけまくった。四時過ぎに三島市役所へ駆け込み、戸籍簿を調べた。五時ちょうど、係の女がそわそわする横で、やっと目指す名前を見つけた。


 ホテルに泊まり、七時半から『カックラキン大放送』を見た。元スパイダースの堺正章と井上順が交代でメインキャストを務めるこのコント番組は気持ちがなごむ。

 郷ひろみが『How Many いい顔』というふざけた歌を唄った。“処女と少女と娼婦に淑女”とは、まるで誰かのテーマ曲だ。

 チャンネルを変えた。全ての局を眺めながら、画面の中にマナの姿を探していた。彼女の出ている番組はなかった。ちゃんと仕事をしているのか。

 ちゃんと仕事をしていないのは自分だった。嫌な仕事を嫌と言って逃げていれば世の大半は失業者だ。こんな年のこの男にこれから何が出来るのか。人の尻尾を捕まえたり、尻を拭いたり、地を這って食いつなぐのがやはり俺向きなのか。

 所詮そのために生まれて来た男なのか、俺は。




「はい、オノプロダクションです」

「おたくら、約束破りましたね」

「は?」

「マナですよ。ベストテンに出したでしょ、忠告したはずです」

「ちょ、ちょっと待ってください!」

「社長さんに伝えて下さい。マナのもっと恥ずかしい秘密を週刊誌に売りますってね」

「待って!あなたは誰ですか?」

「女子中学生、砂浜のレイプ、破られた純潔…‥」

「もしもし!もしもし!」





   十二月六日 土曜日

 一軒の民家の前にいた。表札は“清水”とあった。引き戸がガラガラと開き、頭の真っ白な小太りの男が顔を出した。

 サングラスをかけたまま、オノプロの名刺を見せた。

 男は名刺を受け取らず、みるみる表情を警戒の色で固めた。

「万藤養蔵さんですね」

「あんた、何の用?」その返事はイエスを意味していた。

 脂ぎった顔の背の低い男は、テレビで見た生真面目そうなインテリとは違っていた。四十五歳の新聞社員というよりも、五十過ぎの製茶工場の工員という方が当たりだろう。

「何の用じゃないよ!あんた、俺らとの約束忘れたのか?」

 近所迷惑な声をボリュームいっぱいに張り上げた。引き戸の中に足を踏み入れて、相手を後退りさせた。

「マナの事をペラペラ喋りまくってるだろ、おっさん。変な噂が流れて迷惑してるんだよ。只で口止めしてる訳じゃないだろ、約束守れないんだったら、こっちも考えさせてもらうよ」

「す、すみません」

「気持ちはわかるよ。実の娘の晴れ姿を見てれば、つい人に自慢もしたくなるってもんだ。でもそこで我慢するのが男さ、子を思う親心ってものだよ。全てマナのためさ、わかるね」

 小男はますます小さくなって「はい」と頷いた。

「レコード大賞見たかい?いい家族だろ、マナはああいう幸せな一家に育ったんだ。彼女はアイドルなんだからさ、わかるね」

「あの…いつか真奈美に、堂々と会わせてもらえる日が来るんでしょうか?」

「来るとも。マナが落ち目にでもなればね」

 この冴えない男を見下ろしているうち、その目許がマナと同じ線を描いているのを発見した。お嬢さんアイドルとの血のつながりは、新聞社の次長の方がストーリーとしてはしっくりいくかも知れない。だが、神の作りたまうDNAには逆らえない。目の前の絵にならないオヤジこそ、万藤真奈美の実の父親その人に疑いはなかった。

 俺はなぜか愉快な気分になり、帰り際、こう言った。

「いい娘さんを持って幸せだ。亡くなった奥さんも喜んでるだろ」

 愛想笑いが返って来ると思いきや、父親は複雑な表情で言葉を飲み込んだ。

「あ、ごめん。奥さんは…」



 マナの母親の事を考えながら住宅街の路地を歩いていた。人通りのほとんど無い寂しい道だった。

 突然俺のからだは宙に浮いた。

 何者かの太い腕が蛇のように首に巻きつき、強い力で後ろへ引きずっていた。息が止まると思った瞬間腕はほどけ、民家のブロック塀に叩き付けられた。背骨に激痛が走った。

 見上げた俺の目は、そこに桑田の巨体がそびえ立つのを見た。しばらく見ないうちにまたひと回り大きくなって、まるでプロレスラーだ。この冬場に真っ黒な顔をして、目だけ白く光らせながらこっちを見下ろしている。

「桑田…」

「こんな所で何を嗅ぎ回ってる。目障りな事をするんじゃない」

「静岡で人と会ってるのが、そんなに目に障るか」

 桑田は俺の胸倉を大きな手で持ち上げた。胃酸の漏れたような臭い息が鼻にもろに入って来た。

「おたくはクビになったんだ。余計な事はしなくていい。マナの事も写真の事ももう忘れろ」

「手を離すか、臭い息を止めるかどっちかにしてくれ」

 腹に、ボーリング玉のような桑田の鉄拳が食い込んだ。背に腹は替えられぬ、ということわざを一瞬思い出す。喉に胃液が上がって来るのを間際でこらえた。

「一生病院通いにしてやろうか。再就職出来なきゃ保険も下りないぜ。先輩を生き地獄に送るのは、しのびない仕事なんだがね」

「こんな目に会う覚えはない。お前、何を警戒してる」

 今度はみぞおちに靴の先が刺さった。腹を攻めるのは俺が教えた技だ。堪え切れず、半分だけ消化された朝飯が戻って来た。

「いいのか、あんな低能のクソ娘のために人生棒に振っても。まさか惚れたんじゃあるまいな」

 今度は白い液が口から溢れた。喉の周りに酸っぱい味がした。

「二日間マナを部屋にかくまったそうじゃないか、それなら何かあってもおかしくないな。あの娘は誰でも夢中にさせる女だ。先輩が気をとられるのもわからん話でもない」

 悔しいが言葉を返す気力も、立ち上がる元気もなかった。地に手を突いて、咳き込む事しか出来なかった

「商品には手を出すな、だ。社長に知れたらこんなもんじゃすまないぜ。おたく、前にもサファイアのクミに手つけただろ。見かけによらず、もてるみたいで羨ましいね。ああ、そう云えばマナはおたくの昔の嫁さんに似てるかもな。うん、ちょっと似てるわ」

 桑田は高笑いをした後、ひざまずく俺に唾を吐いた。

「このくらいにしとくわ。すぐに東京へ帰んな。今度静岡で見かけたら、自慢のせがれが二度と使えないようにしてやる、いいな」

 哀れな蛙は、最後の強烈なキックを受けて180度横転した。頭からアスファルトに落ちて、次に意識が消えた。



 ホテルのベッドで、痛む背中を伸ばして寝そべっていた。

 マナの家族はやはり偽物だった。このような家系偽装は芸能界でまれに行われる。余りにも世間体の悪い家族親戚の存在をない事にするわけだが、製茶工場に勤めるあの父親に、娘から引き裂かれ名を偽って暮らさねばならぬほどの理由は見当たらない。

 だが、それを探った俺に対する桑田の過敏な行為は何だ。マナの父親は、オノプロが隠したい大きな秘密を伴う存在なのか。それはマナにとっての何なのか。

 それを知ってどうしようというのだ、俺は。昨日から何をしたくて三島に来た。桑田にインポにされても、その秘密を探るつもりか。嫌な探偵仕事からは解放されたはずだ。なぜ俺はここにいる。


 いかりや長介の掛け声とともに『8時だヨ!全員集合』が始まった。欽ちゃんやマンザイの勢いに押されながらも、ビートルズの前座も務めたドリフターズはどっこい今も頑張っている。

 前半のコントが終わって舞台が暗転すると、マナが登場した。生放送だから、無事仕事に復帰していたわけだ。


 ♪どちらが好きなの?

  選ばなきゃダメ?

  けんかになるわよ、それでもいいの?

  その人はいつも楽しい

  でもあの人は守ってくれたよ

  誰も傷つけたくないなんてバカな子ね

  切なくて泣きたくなるの

  このゆれる想い



 聞きながら、マナの歌が少し鼻声なのに気付いた。つまった鼻から必死に息をしぼって出している声だ。きっと喉と頭もじんじん痛むに違いない。口移しに伝わった細菌が、ブラウン管の中の歌手を悩ませているのが見えた。

 テレビを眺めながら、桑田の言葉に何も返せなかった自分を恥じた。俺はクソ娘に惚れてなどいないし、商品には手を出してない。

 それより頭をガツンと打たれたのは、マナが智子に似ているという一言だった。まるで、面と向かってお前はバカだと言われたような気分だ。合唱隊のコーナーやショートコントで明るく愛敬をふりまくマナを見ながら、俺の頭は今にも分裂しそうだった。


 直木マナ、お前はいったい何者だ?





   十二月七日 日曜日

 風邪は人にうつして楽になったが、からだを動かすごとに背中が音を立てて痛む。背骨が一、二本折れているのかも知れない。

 桑田の忠告を無視して午後よりもう一度万藤養蔵の家を訪ねた。父親はいなかった。あるいは、隠れて出て来なかった。

 仕方なくタクシーを拾って、茶畑の並ぶこの町を流した。マナとリュウと村木が過ごした町を眺めて回った。


 新幹線では、関根恵子似の美女の向かいに座った。鼻から口許が母親そっくりな三、四歳の女の子が一緒だった。車内を駆け回ったりはしない大人しい少女は、乗った時からなぜか俺に人なつっこい笑顔を送ってくれた。

 子供はもともと好きではない。だから扱いも苦手で、こんな時見知らぬ子供に愛想をするすべを知らない。いかつい顔を怖がられない程度にほころばせるので精一杯だ。こんな俺になついてくれる彼女の微笑は、息をするだけで背骨が響く今、天使のようにキュートに映った。

 幼い子供の姿は、智子との暮らしを回想させる。そして、胸が縮むような痛みを俺に強いる。



 流産した智子と俺の間には深い溝が出来た。夫婦関係はもちろん、会話もほとんど交わさなくなった。フェニックスの多忙がさらに距離を広げた。

 一ヵ月が過ぎても、智子は仕事復帰の誘いを断り、部屋に閉じこもった。一度はやめた子供の服を出して、黙々と編み続けた。俺も敢えて話をしようとか、ご機嫌をとる事はしなかった。

 ある疲れた晩、彼女の一言、それは全く思い出せないのだが、小さな一言が癪に障り、俺は部屋中の家具をひっくり返した。

 かつて死ぬほど愛した人の、言動に寛容になれなくなる時がある。愛が果てたのではなく、相手が所有物となり自分の一部分となった時よりそれは始まる。自分の一部分だからこそ怒りは倍増する。

 その夜は部屋を飛び出して外で寝た俺だったが、翌晩は狭い六畳一間に布団を並べて眠った。

 夜中に彼女がいないのに気付いた。風呂場に明かりがあった。中から湯の流れる音に混じって、すすり泣く声が聞こえた。前を通ってトイレへ行った。

 ドアを開けると、残臭が鼻に入った。便器や床に、拭き残されたクソと血が付いていた。その時は、智子に何が起きたのかわからなかった。

 次の夜も、また次の夜も、楚々をして下着を洗う音が、真夜中の風呂場から聞こえた。

 智子の精神が危ない事を感じたが、どうしてやればいいのかわからなかった。仕事が忙しく、そんな事を考える暇がない、と自分に弁解した。何を差し置いても一番大切な事だったのに、その時はそれに気がつかないでいた。




   十二月八日 月曜日

 外科医へ行き、レントゲンを撮られた。背骨にひびが入っていると診断され、星飛雄馬のようなギプスをはめる事になった。

 部屋に閉じこもり、一日中テレビを友に過ごした。


 ワイドショーによると、松田聖子は来年夏の東映映画『野菊の墓』の主演が決まった。同時期に角川書店が見出した異色アイドル薬師丸ひろ子の『ねらわれた学園』が東宝であり、いずれも相手役を公募するらしい。残る松竹が直木マナの獲得に動いているそうだ。


 『夜のヒットスタジオ』を見た。

 高田みづえの『私はピアノ』はサザン・オールスターズのアルバムに入っていた曲だ。西城秀樹の『眠れぬ夜』、これはオフ・コースの古い曲だ。

 近藤真彦は田原俊彦、野村義男とともに“たのきんトリオ”と呼ばれているらしい。デビュー曲のスニーカーなんとかは、きっと大ヒットするのだろう。若い連中の歌はもうわからない。

 新聞欄に名前のあったマナは、最後まで出てこなかった。最初に断わりがあったかもしれないが見逃した。また、すっぽかしたのだろうか。



 『オリコン』十二月八日付けランキング

 1.『ゆれる想い』 直木マナ

 2.『恋人よ』 五輪真弓

 3.『愛はかげろう』 雅夢

 4.『大阪しぐれ』 都はるみ

 5.『ダンシング・シスター』 ノーランズ



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