第2話

「あ~、今日もなんだか描けねえや。」


「下川にしては珍しいな、描けないことがあるなんて。」


「ん~最近なんか調子が悪くてな、なんだかこう、分からなくなってきて、自分のスタイルが。今日の陽をなんて表現していいかわからなくなるのと同じで、透明性に欠けると言うか、自分のことがあんまり分かっていないんだろうな。」


「まああるよなあ。俺もなんだか描けないときあるし、それでも描いているとなんだか自分が知らんかった感情とかに出会えるから好きなんだけどな、そういう気分って。」


「穂高みたいになんでも絵に消化できるわけじゃないからなあ。なんとなくで描いて行ければいいんだけど、それだと俺はなんだかボヤっとするんだよなあ。」


「あ~。」


話半分で聞いている世間話。薄暗い街灯のライトで寂しさを静かに温めてくれるんだ。言葉の影を受け入れて自分のことにできれば一番いいのだが、相変わらず下川の言っていることには同意できない。下川だって、色々なギャラリーから展示協賛を頼まれるぐらいの人物なのに、なんだか抜けているというか、いい意味で人間らしいと言うか、何というか。


俺にはわからない世界だなと思いながら、電柱の灰色に手をかける。最もたる理由で友達になったわけではないが、油絵学科で同期で、なんとなく話も合って意気投合したから一緒にいるだけだ。別に最たる理由もないまま一緒にいることが、かえって楽なのかもしれない。


自分らしくいることについて深く考えるときもあるが、それでもなお自分が分からなくなる時のほうが多い。いっそのこと投げ出してやりたいこの人生でも、もっともっと愛を感じて生きていければいいのだが、そういうわけにもいかないらしい。


「すみません、油絵学科のアトリエはどこですか。」


「ごめんね~、今日はオープンキャンパスやってないのよ~。だから、アトリエを見ることはできないの。」


「そうでしたか、では油絵学科の今木穂高さんにこう伝えてください。あなたの絵を嫌いと言った花田舞がここに来た、と。いつか会う日まであなたのことを考えながら生きていきます、と。」


「はあ。わかりました。伝えておきます。」


信じることができる存在がいるのなら、人間は孤独にならないんだろうか。愛する存在がそばに居れば、心の距離なんて関係ないんだろうか。花田は確かに僕に罵詈雑言を放って帰っていったが、それは何だったんだろうか。否定することも肯定することもなかったような顔をしていたが、それでも踏み込んでいってきたのは何だったんだろうか。


自分が分からないと言っていた下川の話を片隅に、僕は花田のことを考えていた。印象強く記憶に残るとは、この人生の中では大きな役割で、自分が愛されないと知っている天使などいない。


秋の味覚を食べるころには、気分が好転して絵が描けるようになっているだろう。近所迷惑な色味が汗ばんでいるシャツに染み渡る。偶然と言って片付けられるほど、運命は甘くない。引き寄せられて通り過ぎた世界では、もっともっと自分を主張するべきなんだろうか。


「というわけでして。」


「げっ、すみません、ご迷惑をおかけして。」


「あ~いや、全然。私はいいんですけど、今木さんの絵が嫌いってわざわざここまで言いに来るのって、なんか変ですね。」


「そうですね、だいぶ変な人だなって思いました。錦秋祭に来てたんですよ、最後のほうにちょっとだけ来て、あなたの絵が嫌いですって言って帰っていきました。」


「ま~そういう子もいますよね。自分に自信がないから、他人を蹴落とすことしか考えていないんじゃないですか。」


「そうなんですかねえ。俺には理解できない話だ。」


「でも、ずっとあなたのことを想い続けています、なんて言っていたから、気になってはいるんでしょうね。」


「そういえば、この前も最後に気になってると言われましたわ。」


「はあ、不思議な子。」


愛すべき愛が偏っている。世界には愛が溢れすぎている。そんなに気合を入れて生きる必要なんてないのに、通り過ぎてしまう世間を眺めて、その世間から認められることが人生だと勘違いして、みんな道を外しているんだ。僕には全く理解できないから、全速力でただ一等賞を目指して走るしかないんだ。


こう見えても、油絵には並大抵じゃない情熱を注いでいる。すぐに立ち上がらないとチャンスが逃げていくように、自分がもっともっと成長できれば幸せにできる人も多いんじゃないかと思て。刹那に消えるぐらいなら努力なんて無駄だと思っていたが、どうせ死ぬなら怠らないぐらい誠実な人生にしたいとは思っている。


でも、どうせ付いてきてくれる人なんていないんだ。僕が出す本気をせいぜい取り上げることしかできないメディア。一緒に走れる人間なんてこれっぽっちもいないんだから、結局は人生なんて孤独なんだ、独りで頑張るしかないんだ。過ぎ去る今を過去と定義すれば、それは美しくなるんだろうか。日々の憂いは忙しさに溶けてなくなっていくが、それでもなお感じることを忘れないでいたいんだ。孤独でもいいから、この油絵だけは取り上げないでほしいと思っているんだ。


どうして僕たちは思い通りの人生を歩めないんだろう。自由を手に入れるために不自由を味わうことを強制しているのは自分じゃないか。自分は人生の歯止めをかけていることすらも知らないで、愛とか希望とかを語っている暇があったら、ひたすらい手を動かせばいいのに。想いを口にできになら、口がついている意味なんでないんだと。


そう思っていた、花田舞と出会う前までは。

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凡人の仮面 愛は猫の眼 @0917oneday

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