凡人の仮面

愛は猫の眼

第1話

欺瞞。憎しみ。愛と絶望。そのどれにも当てはまらない感情が僕の心を蠢いている。世間では努力は報われないと言っているが、それは本当なんだろうか。自分が自分でいられることの限界知ったとき、人間はどうなってしまうんだろう。青空の下で、一匹の猫が欠伸をしている。もう一度あの世界を見ることができたなら、もっともっと深く井戸に眠っていられたのだろうか。


僕は今木穂高(いまきほだか)。大学一年生で、錦秋(きんしゅう)大学で絵を描いている。何の変哲もない、ただの人間でありながら、この腐った世界で自分のことを愛している。自分ではわからないが、最もたる天才と呼ばれる人種の一員であるらしい。世間からは、やれ八朔だの新人類だの、五月蠅い。僕は僕でしかなくて、君は君でしかないんだ。もうこれ以上干渉しないでほしいんだ。


錦秋は、日本で屈指の芸術大学だ。僕は油絵学科に所属している。小さいころから自分のことを表現することが好きで、もうかれこれずっと描いている。ああ言えばこう言う世界で、絵というものは世間を騙させるいい道具に過ぎない。自分の主張を曲げないで、歴然とした差を見せつけるにはいい手段だ。錦秋では、ただの凡人が集まっているわけではない。日本全国から才能が集まってきて、鬼才と呼ばれるものもいる。数多くの偉人を輩出してきたこの学校で、俺はただただ絵を描いている。


今は錦秋で最大規模の展示会の最終日。数多くのメディアが来ている中、僕の作品が注目を浴びているのは言うまでもない。抽象画で学生時代から有名になったから、将来は安泰だと思っている。何も苦労のない、ただ自分の好きなことをしていればそれでいいこの人生に、汚点なんて必要ないんだ。


「あの、」


「はい、なんですか?」


「この絵って、なんていう種類ですか?」


「あ~、これは油絵ですね。僕は抽象画がメインなので、分かりにくくてすみません。」


「あ、いや、なんていうか、この絵を見た時に、切ない気持ちになったっていうか。なんか寂しい感じがしたというか。」


「そうですか。感じ方は人それぞれなので、自由に感じてもらって結構ですよ。」


「あ、はい。その、あの。」


「なんですか?」


「なんで、絵を描こうと思ったんですか。この絵。」


「なんで、かあ。強いて言うなら、自分のことを知ってほしいから、ですかね。」


その時僕はずっとずっと孤独だった。神経質な窓から、歌にすればなんでも良いと思っている音楽が流れている。狭いワンルームで、単身者専用の古びたアパートにどうせ住んでいるんだろう。この部屋に残っているものなんて何にもないのに、手書きの歌詞カードだけ置いてあるんだろうな。


そうやって愛に迎合して、どんなことでも詩にして、叫んでいればいいと思っている文学者が、僕は嫌いだ。何でも言葉にすればいいと思っている、ちゃんと目を見て言わないで、陰に隠れて世間を舐めているその姿勢に、甚だ疑問を抱いている。何でもいいと言って、自分の意見すら押し殺して、提出先に、編集者に迎合して、陰になるんだ。濃い陰になった後は、詠えなくなってもう諦めるしかないんだろう。


どんなことでも許される世界なんかないが、油絵だけは違うと思っている。何でもかんでも詰め込んで、抽象的で心に突き刺さればそれでいい。感じるものがなんであれ、とりあえず見れば心が通じ合う。そんな簡単な世界で、気づいたら有名になっていた。言うまでも無く世間からは一般論では語れないぐらい、絵にしてしまえば何でもいいんだ。


少女を押しのけて、黒服の男性が目の前に入ってきた。


「ちょっとすみません、今木先生!今回の作品の見どころはどんなところですか。」


「メディアの質疑応答は、公表会で行いますので、それまではいらっしゃっても何も答えられません。」


「そこを何とか、何でもいいので一言!」


「ああ言えばこう言う、こう言えばああ言う、そんな世間を表現しました。」


「ありがとうございます!」


腐った世界では、適当な言葉を吐いておけば何とかなる。思い出すだけでそこにないとわかっている。世間なんて結局は利益主義で、自分の本質なんか見てくれない。自分のことなんて誰にも分ってもらえない。ただこの人生で遊んでいるだけだ。戻れないんじゃない、離れないんじゃない、喜びも驚きもないこの人生で、遊んでいるだけだ。


歩いても歩いても人生は続いていくから、いっそのことここで終わって、この作品が凡才の歴史に刻まれればいいと思っている。これ以上世界に貢献しても何も意味がないと感じる19歳の秋。うっかりと音符が転がっている歌なのか、僕の絵も結局は。足りない日々を補う秋。夜に壊した熱に浮かされて、常夜灯が眠気を覚ます。


凡才、天才。何の違いがあるんだろうか。僕の姿に君の面影を映した。僕の未来が一つになればいいが、運命の分岐点とはこういう何気ないときにやってくるんだ。今日から一つの未来になるとしたら、笑顔一つを持って旅に出ればいい。あたりを見渡しても、どうやら僕は独りらしい。場違いなほど美しいこの世界を表現できるのが絵なんだ。


大事なものを見つけて、愛を重んじればいいと思っている。そうやっていれば世界から褒められて、安心して生きていけるんじゃないかと思っているんだ。この世界が言うには絶対なんてないけど、内緒で生きる勇気をくれるんだ。


「あの、」


「なんですか、さっきもいらっしゃいましたね。」


「私、あなたの絵、嫌いです。」


「はい?」


「だから、嫌いです、あなたの絵。」


「はあ。どうぞご勝手に。」


「でも、あなたのことは気になります。」


「はあ。」


「また来ます。錦秋を来年受験しようと思ってる高校二年の花田です。ではまた。」


「はあ。」


傲慢さを塗り替えるのは、純粋さか。未来を塗り替えるのは過去か。凡人を超えるのは天才か、それとも。

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