波の形

憑弥山イタク

波の形

 海へ行こうと思った。


 私は、生きる権利を得た日から今日こんにちに至るまで、実は本物の海というものを見たことがない。非常に情けない話だが、私は、外の世界そのものを殆ど知らないのだ。外とは窓の外、私を囲う壁の外であり、私が踏み出すにはあまりにも遠すぎた。歩む2本の脚が欠損している訳ではないし、四肢と頭を繋ぐ体が断絶されている訳でもない。ただ家族からは、勝手に外へ出てはいけないと、そう言われ続けてきた。

 併し今回ばかり、急激に成長した私の好奇心は、家族への反抗を促した。

 海へ行ってみては、駄目だろうか?

 期待してはいけない人生だった。今日は違う。家族の声に従い続けた私が、恐らくは初めて、期待を実現させたいと願ってしまった。

 柳が如く深々と頭を垂れ、私は家族に懇願する。すると案の定、母は呆れたように溜息を吐き、即座に駄目だと云った。

 一生のお願いだから、海へ行かせて欲しい。

 私は、更に自身を推す。柳のように頭を垂れても、言葉に溶かした意思は鐡よりも硬い。昨日までの私ならば、きっと最初の拒否で諦めていた。だが今日の私は昨日の私よりも諦めが悪く、"一生のお願い"という下らない言葉さえ使ってしまった。

 何故、そこまで海に拘るのか。一蹴した母に代わり、父が尋ねてきた。

 まず先に、人間には知識欲がある。全知全能の人間など居るはずも無いが、無知蒙昧な人生を歩むことは極めて愚かである。私は、知りたいのだ。写真や映像だけでは見ることも、聞くことも、匂うこともできない、本物というものが知りたいのだ。壁に囲まれ生きてきた私とて、無知蒙昧なまま生涯を終えることは許せない。

 そして何より、もう限界なのだ。見たいものもみれず、聴きたいものも聴けず、食べたいものも食べられず、行きたい場所にもいけない。要望を否定され続けた人生には、もうウンザリしている。我慢も欲も、何もかもが限界なのだ。

 海へ"行きたい"のではない。私は海へ"行く"。そう決めたからには、もう後には引かない。好奇心が犯行を促した今日こそが、私の人生に於ける千載一遇なのだ。今日を逃してはならない。私の本能がそう叫んでいる。

 ついでに云うと、私の名はナミ。ナミと聞いて連想されるのは、波立つ海であろう。海に纏わる名前を与えられた以上は、本物の海と対面する責務があるのではなかろうか。

 咳き込みながら熱弁する私を見て、母は相変わらず呆れた様子である。併しどうやら、私の言葉は隣に居る父の心に響いたらしい。

 ママ、ナミのお願いを聞いてあげよう。

 父は、母の方にポンと手を乗せ、諭すように優しく微笑んだ。父の判断に対して、母はどう反論するのかと窺っていたが、母は反論することなく、少し黙った末に湿った溜息を吐いた。

 ナミ、本当に海へ行きたいの?

 行きたいからこそ、懇願しているのです。

 父の同調と私の熱弁が、いよいよ母の否定癖を打ち破る。

 パパ、車出して。もう、私には止められない。

 分かった。ナミ、少し待ってくれ。

 人生最初のゴリ押しな我儘は、私の勝利で飾った。

───────────────────────

 車に乗ったのは、随分と久しぶりである。しかも助手席に乗ったのはこれが初めてで、極めて新鮮な感覚である。

 ナミ、あと少しだから、耐えてくれ。

 大丈夫だから、安全運転でね。

───────────────────────

 私は、遂に、海へ来た。

 車の揺れに体調を崩しかけたが、無事に下車した。

 空と同じで、何処までも永遠に続いているような、まさに大海。日が傾き、夕刻に踏み入りそうな空と海は、ただの青一色に囚われない、紫や橙といった、幻想的な一枚の絵画のようだった。

 風が吹けば、今まで感じたことのない、塩の混ざったしょっぱい香りが肌と鼻を刺す。初めて味わう潮風だが、案外、嫌いではない。

 海面が波打つ度に、光が瞬きをする。酷く眩しいが、私はどうにも、目が離せなかった。

 これが、海というものか。これが、私の知らない外の世界というものか。

 外の世界というものは、こんなにも美しいものなのか。

 ナミ、海は好きか?

 本物の海を見るまでは、好きかどうかは分からなかった。今ならば、ハッキリと言える。

 私は、海が好きだ。

 ────────ああ、なんて幸せなのだろう。

 憧れた海を眼前に、私は呼吸をしている。

 併し、形を変え続ける波を見つめるうちに、私は酷く悲しくなった。

 静かに流れ、大きく畝り、静かに砂浜へ触れる。それはさながら、毎日のように私が見てきた、私の鼓動によく似ていた。

 今ではもう、私の鼓動は、海よりも低いらしい。

 ああ、幸せだが────悲しい。

 ナミ……海は、好きか?

 父は僅かに震えながら、瞼を閉じた私に尋ねた。

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