薔薇と雨傘

紫陽_凛

めぐみと雨

「めぐみちゃん、教科書貸してくれる」


 そう言って、先日化学の教科書を貸した、隣のクラスの「薔薇ばらの子」の名前を忘れてしまった。たしか、エグチさんかエガワさんだったと思うんだけれど。めぐみは困って、隣の三組の前をいったりきたりした。三組は二限連続で体育の時間らしく、誰も居なくて、このままでは次の化学の授業に間に合わない。仮に誰かいたとしても、薔薇の子が居るとは限らないし、そうしたときに「薔薇の子、いますか」と言ったところで通じるわけもなかった。笑われるだけだ。


 めぐみは、心の中で彼女のことを「薔薇の子」と呼んでいた。なぜなら彼女の顔は綺麗で真っ赤な薔薇の花の形をしているからだ。

 ほかにも居る。百合の子。蒲公英たんぽぽの子。躑躅つつじの子。桜の子。それから名前も知らない花の子。もっといえば、めぐみ以外の人間全員。家族まで。


 いつからこうだったかは忘れてしまったけれど、めぐみだって人の顔をちゃんと見分けられた頃があった。小学校のシオリちゃんやユカちゃんやアミちゃんのことは名前も顔も覚えていたけれど――転校して、その次に転校して、さらに次に転校したらもう何もわからなくて、人の顔はどちらかと言えば花に見えた。

 次の引っ越しは、忙しい親の都合と言うよりは、めぐみの「奇行」による「いづらさ」が引き起こした日常のヒビによるものだった。

 そして今、最後におちついた女子校は名前の通りの花園だった。めぐみは自分の秘密は隠したまま、花々の中で一人きり、猿から進化した人間の顔をしていた。なぜ自分の顔は花にならないのか不思議なくらいだった。


 人の顔が見分けられないわけではないから相貌失認そうぼうしつにんではない。かといって人の顔が見えたように映らないというのはおかしいですね、と脳の先生に言われたことを思い出して、めぐみは一人途方にくれた。花のイメージが先行してしまって名前を忘れることははしょっちゅうだったから、花の子たちからは一線引かれて、「ちょっと危うい子」なんて言い方をされている。

 めぐみとて、ばかじゃない。

 その意味するところくらい、わかっている。


 めぐみは化学の教科書をあきらめ、仕方なく隣の席の百合顔の「百合の子」に「化学の教科書忘れちゃった」と打ち明けた。

「いいよ、見せてあげる」と百合の子は言った。




 そういえば、薔薇の子に傘を貸したことがある。

 単純なこと、あんまり綺麗な薔薇だったから、雨に濡れてしまっては大変だと思ったのだ。

『この傘あげる』

 だったか、もごもご言いながら彼女にビニル傘を押しつけて昇降口を飛び出したことを覚えている。四月の天気も安定しない時期で、酷いどしゃぶりにあって、めぐみはそのまま風邪を引いた。

 「めぐみが中学校のときにお母さんになってくれた女のひと」は、『めぐみちゃん、転校早々なんて無茶をするの』と言って、かすみ草の小さな花を揺らしてめぐみの看病をしようとしたけれど、めぐみは意地を張ってそれを断った。小さな風邪は肺炎へと発展し、めぐみは結局二週間近く高校を休むはめになってしまった。


 薔薇の子はその日以来、めぐみちゃん、と隣のクラスからやってくるようになった。めぐみちゃん、体育着忘れたなら貸してあげようか。めぐみちゃんごめん、アレ持ってる? そう、せーりのやつ。めぐみちゃん。めぐみちゃん。あのね。


 薔薇の子が絡んできてくれるおかげで、めぐみの周りには人が絶えなくなった。その良いや悪いはともかくとして、忘れ物が多い自分にとって、忘れたものをちゃんと貸してくれるひとがたくさん居ることが、ありがたいことだということだけは、めぐみにもわかっていた。

 薔薇の子は人気者なんだろう。そしてきれいな花々は、めぐみの周りにいれば薔薇の子が近づいてくるのをわかっているかのようにめぐみのまわりを囲んでいるにすぎない。お昼ご飯を食べるときでさえ、そう思う。百合の子だってきっとそうにちがいない。


 授業終わり、

「ありがとう」

 とめぐみは言った。百合の子は「いいよ気にしないで」と言いながら教科書を引っ込め、机を元の位置に戻した。


 外は雨が降っていた。体育の授業は外じゃなかっただろうか。そう思っていると、隣の教室がざわざわとさわがしくなってゆく。

 雨に降られた女生徒たちが体育や体育の先生や雨に対して呪いを吐いているのだった。雨、そんなに悪くないのにな、とめぐみは思った。

 そのうちたったったと足音が聞こえてきて、出入り口の引き戸のところに薔薇の子が顔を出した。

「わ、江口エグチってばびしょ濡れじゃん」

 百合の子が心底おかしそうに言った。「髪の毛びっしょびしょ~」

「――めぐみちゃんいる?」


 百合の子のからかいをはねのけて、薔薇の子はめぐみの顔を見つけると両手を合わせてごめんと言った。

「化学の教科書、家に持って帰っちゃってたみたい。ほんとごめん」

「い、いいよ、だいじょぶだよ」

 雨に濡れた髪の毛がごわごわした束になって、彼女の肩の辺りまでたれていた。水のしずくを吸い込んでいる虹色のタオル。濡れそぼった体育着。

 めぐみはそのときはっと我に返った。百合の子がこちらをにらんでいる気がしたからだ。


 振り向くのもためらうくらい、怖かった。分厚い花びらの奥から、強い眼光がこちらを見ている気がした。さっきまで、机をぴたりとくっつけて、化学の教科書をみせてくれていたのに。

 めぐみが心配そうな顔をしていたのがわかったのだろうか。百合の子は気配を引っ込め、なんでもないよと言いたげに取り繕った。

「そうか、教科書はエグチに貸してたんだね」

 そこでようやくめぐみは、薔薇の子の名前がエグチだったことを思い出す。エグチショウコさんだ。口の中で何度も音をころがしながら、めぐみはおそるおそるうなずいた。百合の子は静かになり、「そっかぁ」とつぶやいた。


 その日から、めぐみのまわりで何かが変わってしまった。



 

 朝高校に来たら、めぐみのまわりには誰も人が居なかった。どの子も遠巻きにめぐみを見るばかりで、ちっとも近づいてこない。めぐみは大きな声で挨拶をした。

「おはよう」

 返事はない。聞こえなかったのだろうか、と首をかしげてもう一度。

「おはよう!」

 それでも誰も答えなかった。隣の席の百合の子などは、まるでめぐみが存在しないかのようなそぶりだった。

 仕方がないから、鞄を開けた。数学と現代文の教科書を忘れてきていることに気づいた。家で勉強するために取り出してそのままにしてしまったんだろう。

「あの、」

 めぐみは百合の子に声を掛けた。

「ごめん、数学と現代文の教科書、忘れちゃった」

 彼女は返事をしなかった。めぐみは少し考えてから、こう続けた。

「見せてくれないかな……」

 しかし百合の子は答えなかった。聞こえなかった、という線はないだろう。百合の花はこちらを意識していた。それだけは、めぐみにもわかった。

 意識した上で、無視をしているのだ。

 めぐみはかなしくなった。

 

 その日の帰り、めぐみの傘がなくなっていた。コンビニで買った透明のビニル傘に蛍光色のマスキングテープを巻き、そこへなくさないように「芽久実めぐみ」と書いてあるので、誰かが取り違えるとは考えにくかった。思考がぴたりと止まってしまっためぐみの背を押したのは、薔薇の子の声だった。

「めぐみちゃん、今帰るところ?」

「傘が、ないの」

 めぐみは薔薇の子を見上げた。

「忘れてきたの?」

「ううん、なくなってるの」

 薔薇の子は一緒にめぐみの傘を探してくれた。しかし、どこにも刺さっていなかった。きっと誰かが持ち帰ってしまったのだろう。薔薇の子はそう結論づけると、泣き出しそうになっているめぐみの肩をたたいた。

「大丈夫だよ、めぐみちゃん。私は今日傘を持ってるんだ。この前と違って」


 薔薇の子が持っている傘は、透明なビニル傘にピンクのいちごの柄がプリントされている可愛らしいものだった。薔薇の子が傘を広げると、めぐみはたちまちその傘を気に入ってしまった。

「どこで買ったの? いいなぁ、かわいい」

「いいでしょ」

 薔薇の子は買った場所を教えてくれたけれど、めぐみは曖昧に笑った。きっと忘れてしまうし、買ったところで数日でなくしてしまうのがおちだ。今日みたいに。


 一人分のスペースをふたりで使うことは、めぐみにとってとても気を遣うことだった。濡れないように傘の下に入ると、薔薇の子が濡れてしまう。かといってそちらを気遣っていると自分がびしょびしょに濡れてしまうのだ。薔薇の子はそんなめぐみを見かねて、傘の骨にめぐみをつかまらせた。

相合あいあい傘なんてこんなもんだよ。めぐみちゃん、どの角度から見ても初々しいなあ」

 めぐみはうつむいた。

「よく言われる。友達づきあいのしかたが、小学生みたいって」

 もっというと、頭の中身まで小学生みたいだとも。これは父の言葉だ。めぐみはそうした自分を恥じていた。恥じる以外になかった。どうすればいいかわからなかった。

「じゃ、これから勉強だね?」

 薔薇の子は優しくそういった。そして、信号待ちの交差点で立ち止まった。

 車は行き交い、二人は一つの傘の下で雨をしのいでいた。ぱらぱらとした雨の音が、二人の世界を包んでいた。

「友達づきあいは本当に面倒くさいよね。……難しいよね。わかるよ」

「……、エグチさんでもそう思うの?」

「うん。面倒くさい。というか、由里ゆりが面倒くさい」

 めぐみは一瞬、ぽかんとした。そして記憶の一番奥の、鍵を掛けた扉の奥のさらに一番下からその言葉を引っ張り出してきた。それは、百合の子の名前だ。

「それは、その……私の隣の、相良さがらさんのこと?」

「そう、その相良由里。あの子、私のこと大好きだよね」

「だいすき……」

 未知の領域を開示されためぐみは硬直し、傘の骨をぎゅっと握りしめた。

「こいびと?」

「ぶふっ。ちがうちがう。そうじゃないの。あの子はね、私のこと絶対に自分のものだと思ってたいの」

 薔薇の子はめぐみの仮説を吹き飛ばした。

「だから、私がいろんな子に声を掛けると嫉妬するの」

 めぐみはしばらく考えた。考えたけれど、わからなかった。

「しっとするなら、恋となにがちがうの?」

「私なんてね、お気に入りのぬいぐるみみたいなもんだよ」

 薔薇の子は首をゆるりと傾けた。表情はわからないけれど、あきれているのが声音でわかった。

「あの子はその気持ちを恋だと思ってる。でも私は違うと思う。恋なら、本気でかかってこいっての。……あざとい手を使ってこないでさ」


 最後は誰かに聞かせているみたいだった。めぐみは内心で首をかしげながら、そういうものなのだろうかと恋と恋じゃないものについて思いをはせた。

「ね、めぐみちゃん。もうすぐ家に着くんだけどさ。返したいものがあるんだ」

「なんだっけ……?」

「忘れたの? 傘、傘。あのとき、貸してくれた傘。返しそびれてずっと持ったままだったんだ。これでやっと返せる」

 

 薔薇の子は「江口」の表札の家のしたまでめぐみを招くと、玄関口からビニル傘を差しだした。

「これ。ありがとう、芽久実ちゃん」

「あ、ありがとう!」

芽久実と名前のついたビニル傘を受け取っためぐみは勢いよく頭を下げた。薔薇の子はケラケラと笑った。

「貸したもの返しただけだよ? ありがとうはこっち」

 薔薇の子はそれから傘を開いためぐみに向かって声を張った。

「ね、めぐみちゃん。薔子しょうこって呼んでよ。私も芽久実って呼ぶ」



 

 そうして江口の表札の庭を出たとき、めぐみは開きっぱなしで落ちている傘を見た。そこにびしょ濡れで立っているのは、百合の子だった。

「……相良さん」

「――うしてあんたなわけ」

 か細い声は雨にかき消えて、何を言っているのかわからなかった。百合の花の奥から、あの瞳がぎろりとにらみつけていて、めぐみをじっと射るように見つめていた。

「どうしてあんたなわけ? 何の取り柄もなくて抜けてて忘れっぽいあんたが? なんで江口と一緒に帰れるわけ? 何名前で呼び合っちゃってるわけ? ……ちょっと、意味がわかんないんですけど?」

 笑いで語尾が揺れ始めた。百合の子は笑っていた。笑いながら、傘を差しためぐみににじりよってきた。

「なんであんたみたいな、あんたみたいなブスが?」

「相良さん」

 めぐみはおびえて、身をすくめて、ゆっくり、ゆっくり後ずさった。

「ついてきていたの……?」

「まさかあの江口が、相合い傘までするなんて。なんなの。あんた、なんなの? 一体何様なの? 薔子が目を掛けてるから優しくやってやったけどさあ!」

 もうそれ以上、めぐみは何も言えなかった。

「身の程わきまえてよ、私の薔子なんだけど?」


 そのとき――ようやく、彼女の顔が見えた。彼女は泣いていた。大きな瞳からこぼれ落ちる涙と雨が混じり合って流れていく。長い髪が濡れそぼって、頬に張り付いている。

「ねえあのさ、これが恋じゃなきゃなんなの? 気の迷いなの? ぬいぐるみって何? ぬいぐるみ? まさか――」

 

めぐみにも、彼女が動揺していることはわかった。わかったから、めぐみは――、


「それはわからないよ、私にはわからない。でも、しっとしちゃうのは、相良さんのほんとうなんだとおもう」


 めぐみは彼女に透明なビニル傘を差し掛けた。


「薔薇の子に、好きって言ってみたら、いいとおもう……よ」


 雨粒が髪や頬ををたたく。足が濡れる。だけど。

 誰だって、さしかけられる傘のことを待っていると、めぐみは思う。


「おひとよし」

「わたし、薔薇の子のこと、ともだちだとは思うけど、好きかどうかはわからない。だから、百合の子は、薔薇の子に、好きって言えばいいとおもう」

「……変なあだ名。頭おかしいんじゃないの」

「そうかも。私、人の顔が花に見えちゃうの。だから、薔薇の子。だから、百合の子」


 めぐみは言った。由里が目を見開いた。桜の花みたいな唇が驚きを紡ぐ。


「うそ」

「ほんと。でも、今は相良さんのこと、ちゃんと見える。初めて見た。かわいい」

「お世辞、いらない」

「ほんとう」

 めぐみは地面で雨を掬い続ける傘を拾って、水を払い、彼女に差し出した。

「いちど、薔子ちゃんと、二人で、話した方がいいよ」


 彼女が傘を受け取ったあと、めぐみはきびすをかえして傘を差しなおし、自分の家へと急いだ。由里がそのあとどうなったかは、めぐみにもわからない。

 





 梅雨が明けるのはもう少し先になりそうだと天気予報のお姉さんが言っていた。ビニル傘を持って高校に到着した芽久実を待っていたのは、明るい顔をした美人の薔子と、ばつがわるそうな顔をした、美人の由里だった。彼女は見覚えのあるビニル傘を持っていた。

「返す。あとごめん」

 芽久実は笑った。二人が吹っ切れたような顔をしていたから。

「うん、ありがとう」

「……何がありがとうなの?」

「ありがとうだから、ありがとう」

「へんなやつ」

 由里がつぶやいた。芽久実は気にしなかった。

 「芽久実」と書かれたマスキングテープで名前をつけた、ビニル傘。それを受け取って、芽久実は二本目の傘を傘立てに立てに向かった。



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