ナルコレプシー

びびっとな

ナルコレプシー

いつも通りの朝、軽く頭痛がする。

爽やかな目覚めからは程遠い気分だ。


僕は最近、よく眠れていない。眠りにつく度、悪夢を見るようになったからだ。


悪魔の内容は連れ立って3年目になる妻が僕を包丁で刺す夢だ。細かな内容は色々と変化するのだが、最後は必ず自宅のキッチンに横たわる僕の姿が映し出される。

その横にはお湯の沸いたヤカンが置いてあり、その音が耳障りで目が覚める。


妻との関係は悪くない。きっと。

少なくとも僕を刺す理由などないはずだ。


予知夢?バカバカしい。

その日も悪夢から目覚めると布団の誘惑から逃れるように身体を起こした。


「おはよう。」

階段を降りリビングに着くと、妻の声がした。

テーブルの上には今日も立派な朝食が並んでいる。ご飯、漬物、味噌汁と卵焼き。味付けはとても美味しい。

しかし、僕はその朝食を半分も食べることが出来なかった。


「大丈夫?少し疲れてるんじゃない?仕事は休めないの?」


「忙しい時期だからそうも行かないんだ。大丈夫、心配かけてごめんよ。」

ネクタイを直しながらそう答える。鏡にくたびれた笑顔が写った。下手くそな笑顔だ。


「そう。そうだよね。ごめんね、寄り道しないで早く帰ってきてね。行ってらっしゃい。」


「行ってきます。」


後ろでドアの閉まる音がした。

こんなに良くしてくれている妻に刺される夢を見るなんて…と、罪悪感が湧いた。



--------



その日もいつも通り出勤。午前中は特にアポイントもないので、溜まっていた書類を片付けることに費やした。

しかし、仕事に身が入らない。少しでも気を抜くとフラフラして今にもダウンしてしまいそうだ。


「あっ。」


机の端に重ねてあった書類に肘が当たり落としてしまった。

「あぁ。まったく。」

イライラしながら拾っていると、目の前に何枚かの書類を突きつけられた。


見上げると、同期の小野が立っていた。

「小野。ごめんよ。」

僕は拾ってもらった書類を受け取る。


「いや、良いんだけどさ。船木、お前疲れてるんじゃないか。凄く顔色が悪いぞ。」


「あぁ、少し寝不足なんだ。」


「そうか、あんまり顔色が悪いとお客さんもびっくりしちゃうからさ。気を付けろよ。」

そう言い残すと、小野はその場から去っていった。


疲れている、か。

それを言われたのは今日で二度目だ。

僕はよほど酷い顔をしているらしい。


そんな事を考えながら、昼休みに入る頃には積まれた書類もどうにか片付いた。



--------



その日の夜、仕事を終えるとすぐに家路についた。

最寄駅から会社まで徒歩で10分ほどかかる。

遅い時間だったので、駅前の商店街にある店はほとんどシャッターが閉まっており閑散としていた。


家に帰れるのは嬉しいが、またあの悪夢を見ると思うと憂鬱だ。


ふと、シャッターを背にして恐らく年配であろう女性が立っていることに気が付いた。体格は小柄で俯いている。


こんな時間に何をしているのだろう。

正直怖かったので僕はそちらを見ないようにしながら目の前を通り過ぎようとした。


「おや、お前さん。死期が近いようだ。」


「えっ。」


僕は驚きのあまり思わず振り返ってしまった。

老婆は下を向いたままだが、間違いなくそこから声が聞こえた。

俯く老婆の姿になんとなく既視感を覚えた。


この人、どこかで見たことがあるような。


「おや、どこかで会ったかね。」


考えていたことを見抜かれたようで、僕は居心地の悪さを覚えた。

偶然だ。そうに決まってる。


「偶然じゃないよ。あたしにはあんたの考えていることがハッキリと分かるんだ。あんたの運命もね。」


老婆はゆっくり顔を上げると、そう言い放った。見たところ、70代ほどだろうか。

それにしても、何をバカなことを。僕は夢でも見ているんだろうか。


「夢じゃないよ。まぁ、見えちまったもんだからあんたに伝えておくよ。残りの人生、せいぜい大事に生きるんだね。時間は…あまり無いよ。」


そう言うと彼女は踵を返し、歩き去ろうとする。


「ちょっと、待って下さいよ。」


僕は引き止めようと声を掛けたが、老婆はそれを無視して路地へと入って行く。


「待って下さい。いきなりなんなんですか。」

僕は老婆の手を引っ張ろうとしたが、その手は空を切る。

そこに彼女の姿はなかった。まるで、初めから居なかったかのように。


「そんな。さっきまでここにいたのに。」

やはり、夢だったのだろうか。


「死期が近い。」彼女はそう言っていた。

その言葉が本当だとすれば、毎晩見続けている悪夢のように最後を迎えるのだろうか。


バカバカしい。そう思おうとしたが、家に着くまで老婆の顔と言葉が脳裏に焼き付いて離れなかった。


その日は早くに帰宅し、夕食を無理やり詰め込んですぐに寝た。

しかし悪夢は飽きもせず、僕の安眠を妨げてきた。



--------



「大丈夫?」


翌朝、相も変わらず妻は僕を心配する。

この言葉を言われることにも慣れてしまった。

僕はいつも通り下手くそな笑顔で応え家を出た。


駅に着き、3分後にやってくる電車を最前列で待っていた。

すると突然、目の前の景色が歪む。そして、全身から力が抜けてしまったような感覚に陥る。

地に足を着けて立っていることが辛い。膝がガクガク笑っている。もう12月なのに冷や汗が頬を伝う。


ついに僕の脚は体重を支えきれなくなってしまった。膝が折れ、前方に倒れる。地面に手と膝をついてしまう。

危ない。ホームから落ちてしまうかと思った。

ダメだ、立たなくては。しかし力が入らない。


辛い。どうしてこんなに辛いんだ。誰かが僕から力を奪っているのか。

きっとそうだ。昨日の老婆が僕の力を奪っているんだ。悪夢だって、きっとあいつが見せているんだ。


思考がそこまで辿り着くと、目眩はおさまり周りの音が聞こえるようになった。脚に力が入るようになったので、僕はゆっくりと立ち上がった。


周囲の人々の視線が気になる。

もう、限界だ。おかしくなりそうだ。


僕はホームから立ち去ると、会社に欠勤の連絡を入れた。入社して初めてのことだった。



--------



「悪夢、か。」


ケンちゃんはお茶を入れながら僕の言葉を繰り返した。

ここは幼馴染で親友のケンちゃんが開業している心療内科の診療所だ。


駅で倒れた後、僕は真っ先にここに来た。


悪夢を断たなければ、老婆の言うように僕は死んでしまうかもしれない。そう思ったから、一番信頼できる人を尋ねた。


ケンちゃんは小学生の頃に転校してきた幼馴染で、中学からは違う学校に通っていたが、社会人になった今でも親交がある。僕のことをからかったりはするが、信頼するに足る人物だった。


「一般的に夢ってのは、記憶を脳に焼き付けたり、起きている時に満たされなかった欲求とか心配事を投影しているものなんだ。お前、浮気でもしてるんじゃないか。」


ケンちゃんは半笑いでそう言った。


「そんなことあるわけないだろ。なぁケンちゃん、僕は病気かな。もう薬でも何でも良い。僕を助けてくれ。このままじゃ死んでしまうかもしれない。」


感情的に言い放ち、思わず項垂れてしまった。


「まぁ落ち着けって。最悪、薬で夢も見なくなるぐらい深く眠ることが出来るかもしれない。だが、その前にひとつ試したいことがある。」


「試したい…こと?」


「夢日記だ。」


「夢の内容を書くのか?」


「そうだ。バカバカしいと思うかもしれないが、さっき言った通り夢は無意識を投影している。恐らく、お前の中で抑圧され続けている『何か』があるんだ。そして、その何かを抑えておく事が出来なくなって来ているから、悪夢としてお前に降りかかって来ている。というのが俺の見解だ。夢の記録を取る事で無意識を引っ張り出し、その何かを知る事が出来るかもしれない。」


何を言っているんだコイツは。と思った。

夢の日記をつける事で何が変わると言うのだろう。しかし、彼は肝心な所で茶化したり嘘を言うような奴ではない。


「恐らくお前の悪夢は病気によるものじゃない。お前自身が押さえつけているものが原因だ。それが思い出なのか何なのかは分からない。だが、薬でその場を凌ぐよりは原因を知ることが近道だと俺は思う。」


僕はその帰り道に本屋へ寄ると日記帳を購入した。

あ…お茶、飲み忘れちゃったな。

ケンちゃんと話すと、いつもこれだ。



--------



夢日記を付け初めて3日目に変化が生じた。

その日はいつもの夢ではなく、障子の隙間から老婆が誰かと電話をしているのを覗き込んでいる。という妙な内容だった。



そして、夢から覚めた時。金縛りが僕を襲った。



まるで首から下が僕の身体じゃないみたいに動かせなかった。隣で眠る妻に助けを求めようとしたが、声が出せない。



ふと、視線の端に誰かの足が見えた。



足から視線を上げていくと、無表情の少年が僕を見下ろしていた。小学生くらいだろうか。彼は口を動かし何かを言っているが、声は全く聞こえない。


この子、どこかで見たことがある。僕の記憶は時を遡り、とてつもない速さで小学生の頃に到達した。

そうだ。この子は僕だ。小学生の僕だ。どうして僕が?


子供の頃の僕は何かを訴え続けていたが、最後は諦めたようにどこかへ歩き去ってしまった。

その途端、僕の手足は動くようになった。彼を追いかけようと思ったが、疲れ果てていた僕の意識は再び眠りへと落ちてしまった。



--------



「船木くん…船木くん!」


誰かが僕を呼ぶ声がする。この声は。

僕は意識を取り戻すと、慌てて声のする方へと向き直った。


「船木くん!」


上司の田島主任だった。視線の先を見ると、テーブルの上に大量の水が溢れていた。

手元を見ると、手に持ったピッチャーが空っぽになっている。そうだ。ここは社内の食堂、今は昼休み。どうやら、水を注ぐ途中で意識が飛んでしまったらしい。


「す、すみません!すみません!」


僕は謝りながら、自分のスーツが濡れていることにも構わずテーブルをおしぼりで拭いた。周囲の視線が痛い。


「船木くん、少し休みを取ったらどうかな。何と言うかここ最近の君は、調子が悪そうだ。確かそう、君は茨城出身だったね。有給を取って何日か実家にでも行ってゆっくりするとか、どうかな。」


主任はそう言うと、食堂のロッカーから掃除用のモップを取り出し床の水を拭き始めた。


どうやら僕は、相当参っているようだ。

普段はとても厳しい上司がやけに優しくする様子を見て、今の僕は会社にとってお荷物でしかないという現実を悟った。


ありがたく、有給を取らせて頂くことにしよう。



--------



僕の両親は小学校6年生の時に亡くなった。僕を引き取ってくれた父の弟…つまり叔父さんの話によると、二人で車で出かけた際、大きな事故に遭ったそうだ。車は大破。中にいた両親の状態については誰も教えてくれなかった。よほど酷かったんだろう。


妻に言ったことはないが、僕はその頃の記憶が曖昧だ。ケンちゃんと釣りなんかして遊んでいた記憶がうっすらあるだけだ。

金縛りにあった時に僕を見下ろしていたのは、きっとあの頃の僕なんじゃないだろうか。

そして、僕を抑圧しているのはあの頃の記憶?





僕の実家。というより、引き取ってくれた叔父さんが住む家には、あの頃の写真が何枚かあるはずだ。

僕はきっと知らなければならない。記憶を失ったあの頃、何があったのか。


車のキーを回し、エンジンをかけた。



--------



正直、叔父さんのことは苦手だった。

子供の居なかった叔父さん、そして叔母さんも優しくしてくれたが、どこか気を遣われているというか。余所余所しいというか。何となくそんな気がしていた。


それでも僕を大学まで入れてくれたし、都内の企業への就職が決まった時はとても喜んでくれた。良い人達だったと思う。素直に有り難く思えない僕の方が、きっと何かズレているのだろう。


そんな複雑な想いを抱えたまま、玄関の前に立ちチャイムを押す。

反応がない。事前に電話はしておいたのだが。


周囲を見回す。車庫には埃を被った車が駐車してあった。叔父さんは大の車好きだったらしい。趣味が高じて車のメンテナンスが自分で出来るほど詳しかったそうだ。


しかし、僕を引き取った頃から車には乗らなくなった。そのため、叔父さんが運転しているのを見た事がない。なんとなく車が寂しそうに見えた。


「おう、もう来たのか。すまん待たせたな。」


振り返ると、そこにはビニール袋をぶら下げた叔父さんが立っていた。


「いえ、今来た所です。買い物ですか?」


「ん?まぁな。ちょっと夕食をな。」


叔父さんは僕が車を見ていたことに気付いたようだ。


「何だかな、乗る気になれないんだ。昔はよく自分でいじったりしてたんだがな。お前のお父さんの車も直したりしてたんだぞ。」


「そうだったんですね。あ、すみません。ところで写真の件なんですが。」


何となく両親の話題になるのが嫌で、少し強引に話題を変えてしまった。


「ん?あぁ。余計な話をした。すまん、今のは忘れてくれ。」


叔父さんはそう言いながらポケットから鍵を取り出すと、玄関の中へ入って行った。


忘れてくれ?

少し変な言い回しだと思った。照れ臭かったのか、それとも僕が父の話を嫌がっていると気付いたのかもしれない。


そんなことをボーッと考えている僕を見て、遠慮していると思ったのだろう。声を掛けてくれた。


「どうした、ここはお前の家だぞ。遠慮しないで入れ。」


「ありがとうございます。ただいま。」

僕はそう言って中へと入った。



--------



叔父さんは元々几帳面な人だ。数年前に叔母さんを心臓発作で亡くして以来、仕事も辞めて籠りっきりになっていたので心配していたが、家の中は綺麗に整頓されていた。


「叔父さん、お身体は変わりないですか。」

居間に通された僕は、ソファに座るとそう言った。

叔父さんは今年で60になる。身体に関しては、僕も人のことは言えないが。


「大丈夫だ。それよりお前、かなり痩せたな。」


この1ヶ月で僕の体重は6kg落ちていた。心配されるのも無理はない。


「ちょっと最近仕事が忙しくなって。心配かけてすみません。」


あまり叔父さんを心配させたくなかった僕は、そう言った。思えばいつもこうやって心配をかけないよう、いい子を演じていたような気がする。


「そうか。大変そうだな。ところで昔の写真だが、お前の部屋の物は動かしてないから探してみるといい。」


叔父さんには、妻が昔の写真を見たがっていると説明していた。本当のことを話すと、ややこしくなると思ったからだ。


「ありがとうございます。探して来ます。」


僕はそう言って立ち上がると、廊下へと向かった。


僕の部屋は2階の廊下の突き当たりにある。

ドアノブに手をかけると、とてつもない悪寒が背筋を震わせた。

記憶は無いけど、怖い。そう、僕は怖がっている。この記憶に触れることを、僕が僕を知ることを、震えるほどに。


既にボロボロじゃないか。これ以上何を怖がる必要があるんだ。僕は本能が鳴らす警鐘を無視してドアを開けた。




部屋の中は綺麗に整頓されていた。叔父さんが綺麗に手入れしてくれているのだろう。

隅にあるクローゼットを開くと、その中にある大きなダンボール箱を引っ張り出した。


懐かしい写真が沢山出て来た。小学校の遠足、中学の修学旅行、高校の卒業式など。

見るだけで、あの頃感じていた街の香りが思い起こされるような物もあれば、どんな時に撮ったのか思い出せないような物もあった。


僕は幾つか写真を眺めていたが、ふと気付いた。

ケンちゃんの写真が無い。あれだけ一緒にいたんだ、一枚ぐらい出て来てもおかしくはないのだが。小学校の卒業アルバムを開く。そこにもケンちゃんの写真は無かった。


そんなバカな。


箱の中を丁寧に探っていくと、底の方に明らかに異質な写真を見つけた。

写っている人物は2人。小学生と思われる僕と、隣には年配そうな女性。

その顔はマジックで塗りつぶされていた。



この人は誰だ?



そう思った時、不意に心臓の鼓動が早くなるのを感じた。息が荒くなり、脈に合わせてこめかみに痛みが走る。






僕はいったい何を忘れている?





その写真を取り出し、ふらふらとした足取りで部屋を出る。ゆっくりと階段を降りると、キッチンで何やら料理をしている叔父さんにその写真を見せた。


「叔父さん、僕と一緒に写っているこの人って誰だか分かりますか。」


僕は単刀直入に聞いた。叔父さんなら答えを知っている、そんな気がしたのだ。


叔父さんは包丁を置くと、訝しげな顔で写真を受け取ってしばし眺めていた。

数秒経つと、写真と共に答えはあっさりと返ってきた。


「これは、お前のおばあちゃんだ。つまり、お前の父親や俺の母さん…だな。小さい頃は一緒に住んでただろ。お前、怒られて写真に悪戯でもしたんじゃないか。」





僕の、おばあちゃん?




そのワードを聞いた途端、再び僕の心臓は強く脈を打ち始めた。

そうだ。僕が両親と住んでいた家には父方のおばあちゃんが一緒に住んでいた。


両親が亡くなってから約2ヶ月後の夏休み、両親の後を追うようにしておばあちゃんは亡くなったしまった。


その日、僕はケンちゃんと釣りに行っていた。

そして留守をしていたお婆ちゃんは、階段から足を滑らせて転落した。

その際頭を強く打ち、帰らぬ人となってしまった。


「お前、おばあちゃんっ子だったからな。しばらく口もきかなくなって。あの頃は本当に心配したもんだ。お前、おばあちゃんの作る肉じゃが好きだっただろ。引き取った頃、肉じゃがだけはよく食べてたからな。実は今、作って…」


叔父さんには申し訳ないが、途中からすっかり話が頭に入らなくなっていた。

そう。僕はおばあちゃんが大好きだった。突然訪れた、両親とおばあちゃんの死。現実を受け入れるには、当時の僕はあまりに幼すぎた。

きっと、思い出すことを恐れていたんだ。





おばあちゃん。

だいすきなおばあちゃん。








おばあちゃん、どんなかおしてたっけ。







「叔父さん、ありがとうございました。」


「おい、どうした。どこへ行くんだ。」



僕は叔父さんが止める声も聞かずに家を飛び出していた。僕と、両親と、おばあちゃんが住んでいた家に向かうために。





------ー




両親とおばあちゃんと住んでいた家は叔父さんの家から遠くない。鍵も持っていた。

家はお前の財産だから、と。叔父さんが渡してくれていたから。


鍵が壊れていないか心配だったが、意外にもあっさりと開く。玄関の戸を開けるといきなりくしゃみが出た。さすがに中は埃っぽい。買って来たマスクを付ける。


まだ外は明るかったが、電気が止まっているため中は暗い。スマホのライトをつけると、やはり埃が凄いことになっている。申し訳ないが、靴は履いたまま上がることにした。



歩いていると、埃で床に足跡がつく。僕は居間を通り過ぎ階段で2階へと上がった。2階にはおばあちゃんが寝室に使っていた部屋がある。昔ながらの和室だ。

襖に手をかけた時、僕の手が止まった。




最近、どこかでこの光景を見たような。




そうだ、夢の中で見たんだ。

襖を開け、老婆が電話で話しているのを覗き込むあの夢だ。あの老婆は、まさかおばあちゃんだったのだろうか。


思わず開けるのを躊躇した。開けたらもう戻れない。そんな気がしたが、今更逃げるのもバカバカしい。僕は意を決して襖を開けた。



勿論、中には誰もいなかった。

まず夢の中で見た電話の小さな子機が視界に入る。次に、化粧台が目に留まった。


おばあちゃんはこの化粧台の引き出しから、僕へのお小遣いを出してくれていた。大事なものはこの中に入れていたのだろう。


申し訳なさを感じつつも、一番上の引き出しを開ける。そこには写真があった。僕の部屋にあったのと同じ物だ。


ただ一つ、違うのは。おばあちゃんの顔が塗り潰されていなかったこと。

僕はスマホのライトをしっかりと当てると、まじまじとおばあちゃんの顔を見る。




戦慄した。



写っていたのは、仕事帰りの商店街で会ったあの奇妙な老婆と瓜二つの顔だった。そして、まるで扉を開けたかのように記憶が一斉に戻ってきた。


全てを思い出した僕は写真を床に投げ捨てると、階段を駆け降り玄関の外へと飛び出す。鍵を掛けたか、掛けていないか。そんなことを気にする余裕もない。

身体中が埃まみれになっていることにも構わず、車に乗り込みエンジンをかける。アクセルを踏み込むと大急ぎでその場を後にした。



息が荒い。胸が痛い。苦しい。



酷く取り乱し、目から涙が溢れ出ていた。この時、事故に遭わなかったのは奇跡だと思う。



------



都内に戻り高速道路を降りる頃には、幾分か落ち着きを取り戻していた。

コインパーキングを見つけ車を停める。

確かめなければならないことがあった。



車を降りると、ケンちゃんが待つ診療所へと入る。



「おう、お前か。どうだ、夢日記は続けているか。」

ケンちゃんはお茶を入れながらそう言った。

恐らく僕はもの凄い剣幕をしている筈なのだが、まるで気にしていない様子だ。






「君は誰なんだ。」






震えた声で投げかけた僕の質問に、ケンちゃんは笑った。



「いきなり何だよ。俺は俺だよ、お前の小学校からの友達の…」


「知ってる。君はケンちゃんだ。でも、そんな奴。この世にいないんだ。」


「俺がこの世にいない?お前、大丈夫か。寝不足のせいで幻覚でも見てるんじゃないか。」


「幻覚は君だ。僕が卒業した小学校に君はいなかった。そもそも君は、存在していたのか。あの日、おばあちゃんが死んだ日。僕は本当に君と釣りをしていたのか。」


「わかったわかった。落ち着けって。あの頃、何があったのか。ゆっくり思い出してみろよ。」


ケンちゃんはあくまで態度を崩さず、落ち着いた素振りで僕にお茶を差し出した。



---------



あれは小学校6年生の夏休み。両親の死から2ヶ月後のこと。

当時、叔父さんが僕とおばあちゃんを引き取るという話が出ていたらしいが、僕の様子を気遣ってか最初の2ヶ月間はおばあちゃんと2人だけで暮らしていた。


家に居ると、両親の事を思い出してしまう。という理由で僕は毎日遊びに出掛けていた。

しかし、毎日友達が捕まるわけじゃない。一人で釣りや虫取りに行く日もあった。


さすがに夕食時には家に帰るのだが、おばあちゃんはその席で必ず「今日は誰と遊んでたの?」と、聞いてきた。


一人で出掛けたと言うのもバツが悪い。僕はある時から「ケンちゃん」という架空の友達と遊んでいたことにするようにした。


その日も僕は「ケンちゃん」と釣りに出掛けていた。しかし夕立に遭ったため、やむを得ずその日は早めに帰宅した。

玄関に入ると、いつも迎えに出て来てくれるおばあちゃんが出て来ない。少し早かったし、昼寝でもしているのだろうか。


僕は大して気にも留めず、2階へと上がる。

おばあちゃんの部屋の前を通ると、誰かと話している声が聞こえた。


やっぱり部屋に居るようだ。おばあちゃんの部屋には固定電話の子機が置いてあったので、電話でもしているのかな?と思い、通り過ぎようとすると、話の中で父の名前が聞こえて来た。


どうにも内容が気になる。僕は邪魔にならないよう、そっと襖を開けた。お婆ちゃんはこちらに背を向けて、やはり誰かと電話している。




「やっと保険が降りるから。これで借金ともおさらばだね。あんたのおかげだよ。」



保険?借金?

意味はよく分からないが、おばあちゃんの声のトーンはいつもの優しげな感じではない。



「本当にバレやしないんだろうね。残りの人生檻の中は嫌だよ。」



檻の中?牢屋だろうか。おばあちゃんらしくない、物騒な言葉だ。



「あの子は毎日出掛けてるみたいだけどね。あぁ、なんにも気付いちゃいないよ。まぁあんたが車のブレーキ壊したなんて、子供に分かるわけないけどね。2人は車と一緒に逝ってくれたし、あれはもう事故だからね。」



2人?恐らく両親の話をしているのだろう。しかし、2人の死を悼んでいるようには思えない。

目の前にいるのが、あの優しいおばあちゃんだなんて信じられなかった。



「はいはい、わかってるよ。貰うもん貰ったら、あんたにも渡すから。」



目眩がした。詳しくはよく分からないが、目の前にいる人物が両親の死に関係しているのは子供でも分かった。

この人は本当におばあちゃんなのか。

もしかして、僕の頭がおかしくなってしまったんじゃないか。優しいおばあちゃんが、そんなことするはずがないじゃないか。



僕は怒りよりも、この事を知ってしまったことで、頼りにしているおばあちゃんとの関係性が崩れることを恐れた。

きっと気のせいだ。気のせいなんだ。このことは無かったことにしよう。そうだ、そっと立ち去って何も聞かなかったことにすればいいんだ。



僕は襖をそっと閉めて立ち去ろうとしたが、動揺して手が震え、少し音を立ててしまった。

全身の血の気が引くのが分かる。息が止まる。頼む、気付かないでくれ。



僕の想いも虚しく、おばあちゃんは身体をびくっと震わせると、こちらをバッと振り返った。



目が合う。



おばあちゃんは見たこともないほど冷たい表情をしていたが、相手が僕だと分かるとすぐにいつもの笑顔に戻った。



「あら、帰ってたのね。」



「あ、うん。あめ…雨が、降ってきちゃって。」



明らかに自分の声が上擦っているのが分かる。



「本当だ、降って来ちゃったわね。」



おばあちゃんは窓の外に視線をやり、再びにこりと笑うと僕を見た。

いつものおばあちゃんだ。さっきの電話はやはり気のせいだったんじゃないか。



と思ったが、現実はそこまで甘くなかった。



「いつからいたの?」



「え、えっと…」



「いつから、そこにいたの?」



この笑顔は作り物だ。直感でそう思った。



「今、今きたとこ。」







「あら、そう。今、来たのね。」






おばあちゃんはそう言うと、相手に挨拶もしないまま電話を切った。

そっと立ち上がり、こちらに近付いて来る。



「ずぶ濡れじゃない。拭いてあげるから、下に行きましょう。」



僕たちは廊下は出て、階段へと向かった。

今、後ろを歩いているこの人はどんな表情をしているのだろう。



階段の前に来たところで、僕は振り返りおばあちゃんの服の裾を引っ張った。



「ねぇおばあちゃん。そこ、蜂がいる。」



階段の下を指差すと、おばあちゃんは前に出て来て覗き込んだ。



「あら、どこにいるの。」



階下を覗き込み、中腰になったところで、僕は後方からおばあちゃんを突き飛ばした。



両手で、強く。強く。とても強い力で。



--------



階段を転がり落ちるおばあちゃんの姿は鮮明に思い出せる。

小学生の孫が相手だから油断していたのだろう。人形のように力なく、頭から転がり落ちて行った。



あまりにも呆気なく訪れた最期だった。頭部を強く打ちつけたことによる脳内の出血と、夕方まで放置されたことにより処置が遅れたことが命取りとなった。



夕方まで放置されたのは、僕がおばあちゃんの報復を恐れて動けなくなっていたからだった。

その後、おばあちゃんが動き出す様子がないと悟り、覚えていた電話番号から叔父さんに電話を掛けこう伝えた。「帰ってきたら、おばあちゃんが倒れていた。」と。



おばあちゃんは僕をどうするつもりだったのだろう。本当に身体を拭いてくれるだけのつもりだったのかもしれない。しかし、あの作られた笑顔は今思い出してもゾッとするものだった。



高齢だったこともあり、階段からの転落による事故死としてこの一件は片付けられた。

僕は次々と家族を失った可哀想な子供として叔父さんに引き取られた。



叔父さんはとても優しかった。

しかし、あの日おばあちゃんが電話していた相手は、叔父さんだったのではないかと疑っていた。



いや、今も疑っている。



しかし当時の僕は、これ以上家族を疑ったり失ったりする事に耐えられなかった。だから記憶から消して、塗り潰すことにした。






あの日、僕はケンちゃんと釣りをしていた。帰ってきたらおばあちゃんは階段から転落していた。だからもう、手遅れだった。



嘘の記憶で全てを無かったことにした。

おばあちゃんのことも写真ごと塗り潰した。

良い思い出も、悪い思い出も。












「ケンちゃん。僕は、病気かな。」












改めて僕は、ケンちゃんにそう聞いた。


『お前はまともだよ。今もこうして自分のこと、思い出せたじゃないか。』


その言葉を聞き、僕は少し安心すると、初めてケンちゃんが入れたお茶を飲んだ。

何の味もしなかった。



飲み終わって辺りを見回すと、ケンちゃんは何処にもいなかった。

目の前にはくたびれた自分の顔。鏡に映った僕の顔。



この場所は、見覚えがある。

家の近所にある公園の公衆トイレだ。

なんだよ。全然、まともじゃないじゃないか。



---------



力ない足取りで数分歩くと、妻と住んでいる家にようやく辿り着いた。

それにしても、僕は自首するべきなのだろうか。そもそも、おばあちゃんとのことは罪に問われるのだろうか。そんなことばかり考えて、頭の中がグチャグチャになっていた、


全てを思い出した今、あの悪夢を見ることはもう無いのだろうか。とにかく疲れた。今日ぐらいはゆっくり眠りたい。



今後のことは、目覚めてから考えよう。



「ただいま。」

僕は玄関の扉を開けた。鍵をかけ、靴を脱ぎ、段差を上がる。



コートをかけ、妻に一目会おうと台所に入る。






おばあちゃんがいた。






手に包丁を持ち、そのままこちらへ歩み寄って来る。あまりに突然のことで身を守る暇など無かった。


僕の腹部に包丁が突き刺さる。

何度も。何度も。なんども。



朦朧となった意識の中で、床に拡がる真っ赤な水溜まりを見る。死ぬ時って痛み、感じないんだな。僕は呑気にそんなことを考えていた。

だったらおばあちゃんも、痛くなかったのかな。それならいいんだけど。



それにしても、痛くない。

まったく痛くなかった。

本当に刺されたのか?と思うぐらい。



その時。お湯の沸いたヤカンの音がした。

いつもの悪夢から覚める音。

突然意識が鮮明になり、僕は床を見下ろしていた。



目の前には、横たわる妻。

周りには赤い水溜まりが拡がっている。



慌てて自分の手を見た。右手には包丁が握られており、その刃先から胸元まで真っ赤に染まっている。




『お前の中で抑圧され続けている「何か」があるんだ。』




不意に、ケンちゃんの言葉を思い出した。

僕はいつも、妻に刺されたと思っていた。でも違った。

刺したのは、僕。

大好きな妻を刺したのは、僕。



何が夢で、何が現実なんだろう。

分からなくなってしまった。頭の中が痺れて、何の感情も湧いてこない。



可哀想な妻。良い妻だった。

痛かっただろう。苦しかっただろう。




僕が刺されれば良かったのに。




そうだ。僕も痛みを知った方が良い。

思ったより、痛くないのかもしれない。

それなら良い。それなら。




僕は包丁を逆手に持ち替え、勢いよく自分の腹に突き刺した。




冷たい、痛い、それから熱くなった。




痛い。なんだ、とても痛いじゃないか。

死ぬのって、こんなに苦しいんだ。




「死にたく、ないよ。」




全身の力が抜け、妻の隣に横たわる。

ヤカンの音が、やけに耳障りだった。





今度こそ、よく眠れますように。

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