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 結論からいって、恋人の弟を夕飯に誘うのはあんがい簡単だった。

 なぜご飯かというと、ありあまるご近所付き合いのなかで、一番スタンダードかつ他愛のない会話ができると思ったからだ。

 じゃあなぜ彼とご近所付き合いをしようかと思ったかというと、それはぼくにもよくわからない。彼と相対すると、否が応でも死んだ恋人を近くに感じてしまうのに、ぼくは懲りずに顔をあわせることを選んだのだ。しかも、ごく自然な感情の発露の結果として。

 このマンションの管理会社とは、賃貸によくある二年で自動更新される契約を結んでいた。同棲はオーケーだが人間以外の生き物を持ち込んではいけなかったり、ゴミ捨て時のルールがちょっとややこしかったりするらしいが、そんなことよりも、早々に出ていくと違約金が発生するという条項の一点のみ、契約時に口すっぱく言われた。どのくらい支払わなければいけないんですか? ああ、それは、ものすごく。とにかく普通の賃貸物件では考えられないほどですよ、と不動産屋の社員は大げさな口ぶりで言った。ものすごく、に手を丸くするジェスチャー付きで。その不思議な動きを見ていたら、これはこの人はただ解約手続きが面倒くさいのだなと思った。チャーミングで社会人としてどうなのかと思うほど正直な仕草に免じてというわけではないが、ぼくは最低でも四年はここに住もうと思っていた。適当に選んだわりに、この物件を気に入っていたのだ。ただ、壁の薄さを知ったいま、もしかすると二年が限界かもしれないと思い始めてはいる。

 話が横道に逸れてしまった。最低でも二年はここに住むのなら、ゴミ集積所や近所のコンビニで偶然出くわしてよそよそしい会釈をしてやり過ごすより、いっそ仲良くなってしまったほうがいいかもしれないとぼくは考えた。考えた、というのはぼく自身の都合の良い解釈で、これはあとから無理くりこじつけた、ねじれた理屈だ。

 ほんとうは、あの瞳をもう一度見たいと思ってしまったからだ。

 それで、ご飯を一緒に食べたら、もしかしたら何か良いことがあるかもしれないと思いつくにいたったわけだった。この場合の「良い」は、一般的な「良い」とは少しちがう。べつに良いことなんて起きないかもしれないけど、もしかしたら何かあるかもしれない、くらいの「良い」だ。ニュアンスや雰囲気で伝える日本語は難しい。Something good。英語でも難しい。そういう意味では、不動産屋の大袈裟なジェスチャーはわかりやすかった。

 はたしてぼくは一匹狼を手懐けたいとでも思っているのだろうか。

 まあ、理由としてはそんなところだ。えくぼさえ見なければ、無闇矢鱈に思い出に引っ張られることもないし、なんといっても彼女が死んでから五年も経っている。人の一生は長いとはいえ、ぼくら若者にとって五年は大きな時間だ。ぼくはもう大人になって幾年か経つし、彼だってもう中学生じゃない。じゃあなにも問題ないだろう。

「夕飯まだだったら、うちで食べていかない?」

 そういうわけで、たまたま玄関口で彼と遭遇したとき、ぼくはかねてから用意していた言葉をするりと口にした。彼は顔中に書かれた「なんで?」を隠さずに、ドアノブを手にしたまま、疑わしげに瞳の奥を覗き込んだ。

「作りすぎちゃったんだ」白々しい視線を緩やかにかわし、ぼくは再び口を開く。「ほら、この物件って、台所がかなり豪華だろう? 三口ガスコンロに魚用のグリルだって付いてる。前に住んでいた家は、いわゆる単身者向けの簡素なつくりだったからね。嬉しくて、つい調子に乗ってしまったんだ」

「おれの部屋はあんたのところの半分くらいのいわゆる普通のワンルームだから、コンロもいわゆる単身者向けの一口だよ」

 そこまで言うと、ため息をついてドアノブから手を離した。

 彼はどちらかというと寡黙な人間だと思っていたので、一息でするすると言葉を発したことに驚きを隠せない。ぼくが黙っていると、眉毛をわずかに上げて、再び口を開いた。

「このマンション、部屋が広いのは角部屋だけだよ。そこからそこまではおれの部屋みたいな間取りだって聞いた」

 そこからそこまで、と彼は指し示した。たしかこのマンションはワンフロアに七部屋あるから、彼の言葉を信じると、一〇二から一〇六までの五部屋はごく一般的なワンルームで、一〇一と一〇七だけ角部屋仕様とかいうやつらしい。

「詳しいね」

「不動産屋が教えてくれた。あ、家賃はたぶんあんたのところの三分の二くらいかな」

「部屋の広さと家賃が比例してなくない?」

「ふつうそんなもんでしょ。しもじもが必死こいて働いた金が、上位の人間にかんたんに横取りされたりするんでしょ。搾取? って言うんだっけ。おれ、大人とか社会ってそういうもんだと思ってるけど」

「大人と社会は並列にできる単語なのだろうか」

「ねえ、あんた料理できんの?」

 彼はぼくの言葉に被せるようにそう言った。

「得意だよ。おねえさんから聞かなかった?」

 おねえさん、の単語がぼくの口から出てくるとは思わなかったのか、彼はこの世でいちばん嫌いな食べ物を口にしたときのような顔をした。なにもそんな顔しなくてもいいのに。ぼくが若干眉をあげたのが気に入らなかったのか、彼はますます目を細めてしまう。

「もうどこかで食べてきた?」

「いや」と彼は首を振る。

「じゃあ、ね、ちょうどいいじゃない」


 はたちの男の食欲をなめていたわけではないけど、それでも、この青年の胃袋の強さには圧倒されずにはいられなかった。

 あらかじめ用意していたカレーをお鍋ごと温め、ダイニングテーブルに置くと、彼は「待て」を覚えたての子犬のような顔でぼくを見た。そして、どうぞ、と言うやいなや、呪いから解き放たれたように、がつがつと食らいはじめた。あっという間の出来事だった。ぼくが一人前をのんびりと味わっている間に、彼は台所とダイニングテーブルを二往復して、計三杯ものカレーライスをその胃袋に収めた。来週の平日用にとっておこうと思っていた分まで、だ。お鍋からこぼれるくらいなみなみ作ったはずだが、いまは底がしっかりと見える。炊飯器のなかももう空っぽだ。

 さっき彼に言った「作りすぎた」というのはまったくの方便で、明日の夜にでも二日目のカレーを楽しもうと思っていたのに、これは予想以上だ。

 いったいこの細身の青年のどこにそんな底力があるのだろうか。そもそも、ぼくのカレーはこの細い体のどこへ吸収されるのだろうか? 思春期に満足に成長しきれなかったのだろう、薄くしなやかな体をまじまじと見つめていると、彼が怪訝な目をしてぼくを見た。

「なんだよ」

「いや、」ぼくは首を振る。「きみ、ほんとうに美味しそうに食べるんだな。作りがいがあるよ」

 そういえば、やはりぼくはこの青年の名前をどうしても思い出せないでいた。

 かつて恋人は彼の名前を何度か口にしていたような気がするが、どうしてかそこだけぽっかりと記憶が抜け落ちている。頭を叩いたり、逆立ちしたりしてみても、記憶のふたはうんともすんとも言わない。人の記憶なんてきわめて脆弱で、かんじんなときに役に立たない。

 そういうわけで、この間から、彼に名前を聞いていいものなのかぼくはすっかり計りかねていた。ふつう、久しぶりに会った知人に名前を尋ねるなんて真似をしたら、相手が気分を害したとしても何の申し開きもできない。不躾だし、失礼極まりない。それに、彼とぼくとでは時間の流れ方もやっぱりちがうだろうから、五年を言い訳にしていいのかもわからない。

 タイミングとしては最初に言葉を交わしたときに聞くべきだったが、小心者のぼくには、手負いの一匹狼にそんな真似できなかった。そしていま、すこし心を開いてくれつつあるこの狼に、ふたたび心を閉ざされるようなへまはしたくない。

 そもそも、むこうもぼくの名を覚えているかどうかあやしい。記憶のかぎりでは、先日彼と出会ってから、彼がぼくの名前を口にしたことはない。ぼくらはもう何も知らない子どもじゃないんだから、名前なんて曖昧でも会話くらいできるだろう。

「こんなに気持ちよく食べてくれるんだったら、もっとちゃんとした料理を作ればよかった。市販のルーでごめんね。味、大したことなかっただろう」

「市販のルーじゃないのって何? まさか、スパイスからブレンドしてくれるの?」

 彼は空の皿を名残惜しそうに見つめていたが、ぼくの言葉に何らかのめずらしさを感じたのか、ついと顎を上げた。

「そうそう、そんな感じ」

 ナツメグ、ターメリック、カイエンペッパー。台所に並べたままのスパイスを端から暗唱すると、彼は声を上げて笑った。「へんなやつ」

「次は期待してて。今日のはありあわせのものだったけど、今度は腕によりをかけて作るから。あ、何か食べたいものはある? いまならリクエストにも応じるよ」

「リクエスト?」

「うん。アズユーライクってやつだ。きみの好きなものはなんだい?」

 異国の言葉がめずらしかったのか、まばたきを二、三繰り返してから、アズユーライク、と彼は復唱した。言葉を覚えたてばかりの子どもみたいに、辿るような口調だった。

「なんでもいい」すこしの間考えてから彼が口にしたのは、そんな当たり障りのない答えだった。「なんでもいいよ。カレーだって市販のルーでじゅうぶんだ。それより、こんなに美味しいって思ったのは久しぶりだよ」

 どうもありがとう、と恋人の弟はしみじみと言う。

 あ、とぼくは思う。伏せた睫毛の隙間から、溶けた茶色が覗いていた。ぼくは嬉しくなって口元を緩める。それを見た恋人の弟は、「なんだよ」と言って不満げなポーズを気取り、笑みをこぼした。

 そういう態度はあまり好ましくないとはわかっていながらも、やっぱりぼくは彼のえくぼを視界に入れてしまうのだった。

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