あの日から、ぼくたちは不定期で夕飯を食べる仲になった。

平日、仕事が終わって家に帰るのが十八時過ぎ。そのくらいの時間になると、彼はぼくの家のチャイムを鳴らした。ときには公園で待ち伏せしていることもある。頻度としては二、三日に一回くらい。なぜか平日だけの訪問だったから、週に一、二回程度だ。決して誘い合わせることのない、表立って約束なんて交わさない、無言の来訪はいつ以来だろうか。とにかく名前の知らない恋人の弟とは、食卓を囲む間柄になった。

ともに過ごすうちに、彼に対する印象はかんたんに変わった。最初は群れに馴染めないはぐれ狼みたいな人間だと思っていたが、ふたを開けてみると、擦れたところを感じさせない、かなり律儀なひとだった。料理の礼を言うのは欠かさないし、食材をぶら下げて家にやってくるときだってある。学生の身分でそんなことしなくてもいい、と言っても、彼は頑なだった。

寡黙な青年は、食事のマナーもきちんとしていた。食べ始めるときはいただきますを、食べ終わりにはごちそうさまと小さな声でつぶやく。えらいね、と言ったら、すごくいやな顔をされたので、それ以来、黙ってその仕草を見守ることにしている。しかも、彼はぼくが食べ終わるのを待ってから洗い物までしてくれる。十五になるまで年の離れた姉に溢れんばかりの愛情をもらいながら育ったのだから、当然といえば当然なのだけど、ぼくはそういった彼の言葉足らずのやさしさに、水彩絵の具が水にゆっくりと溶けていくようにすこしずつ心をなじませていった。

恋人の弟と過ごしているうちに、ぼくは彼にまつわるいろいろの発見をした。そのうちのひとつ、たまに向けられる粗野な言葉は、きっと何者かになりたいともがく証なのだろう。そう思うと、彼をつくるすべてのものを愛せるような気がしてしまう。ねえ、と記憶のなかの彼女に問いかけてみる。あなたもこんな気持ちで、年の離れた弟をかいがいしく見守っていたの?

夕飯を囲みながら、ぼくたちは昔のこと、いまのこと、ぽつりぽつりと語りあった。

「おとうさんとおかあさんと離れて暮らしているんだね。ふたり、どうしているんだい。元気?」

「ああ、あの人たちは、姉ちゃんが死んで、ちょっとおかしくなっちゃったんだ。まあ、そうだよね、わかるよ。で、父さんは仕事を言い訳にして海外に行っちゃった。残された母さんは、ひとりであの家にいるのはあまりにも辛いだろうから、いまは親戚の家にいるよ」

彼はまるで顔も知らない他人の話をするように、彼女のことを「姉ちゃん」と呼ぶ。それに、昔の話をするとき、彼はいつも以上にそっけなくなる。もちろんそれがなにかしらのポーズだとわかっていても、やはりすこしだけやりきれない気持ちになってしまう。

このときも例に漏れず、彼がなんでもなさそうに「わかるよ」と言うから、ぼくの喉の奥はきゅっと締め付けられた。彼にはわかることが、ぼくにはなにもわからない。恋人が死んだ日、電話越しに彼女の母親から取り乱した声でそれを告げられたときの、あの他人事のような虚しさしかわからない。彼や、彼の家族が感じたことは、きっとぼくのそれとはまた違った種類の絶望なのだろう。それを思うと、ぼくと彼とは孤独を分かち合うことなんて到底できっこないのだろうと思い知らされる。

「で、おれもこんなのだし、ほとんど絶縁状態」

彼はやはりなんでもないことのようにそう付け加えた。こんなの、というのが彼のパーソナリティを指すのか、それとももっと個人的なものを指すのか、やはりぼくにはわからなかった。だから、そう、とだけ口にした。

 彼は己を蔑むように笑った。

はたしてぼくは、この年下の青年になにかしらの慰めを求めていたのだろうか。ぼくらはこんなにもはてしなく違う人間だというのに。

目の前に座る青年は、ぼくの気持ちなんてつゆ知らず、昔の話を淡々と続ける。

「姉ちゃんさ、あんたのことほんとうに好きだったんだよ。あんたもそうだろう? あんたのとも姉ちゃんのともちょっと違うかもしれないけど、おれも姉ちゃんのこと大好きだったから、姉ちゃんがあんたの話するたび、こう、なんていうか、なんていうんだっけ? こういうのって」

「嫉妬?」

「ああ、そうだ。嫉妬してたんだよ。ガキみたいなつまんない感情だよな、ほんと」

彼は箸を止め、青い少年の残像を鼻で笑った。すぐにでも大人になれると信じ切っているその表情を見ると、さっきまでの虚しさが嘘のように、ぼくの心にもみずみずしい若葉の香りが立ち込める。

仮に、自分ではない別の人間に「救い」なんておろかな感情を持ってしまう自分の心を認めるとすれば、はたして救われているのはぼくのほうかもしれない。そんなおろかな問いに答えなんてものはないのかもしれないが、この青年から立ちのぼる若く、しなやかな気配を感じると、つい、そんな気がしてしまった。

こらえきれずに、ふっと笑う。恋人の弟は、ぼくのそんな態度を面白くないととったのか、己の青さを揶揄われたと思ったのか、不満げに口を歪めた。

「彼女、ぼくのこと何て言ってたの?」ついでにそう尋ねてみる。

「言うわけないだろ、ばあか」

今度は狼の顔をして、彼は笑った。

その両頬のくぼみも、不安定に瞳を揺蕩ううつくしさも、いつも語尾だけ掠れる声も、ぜんぶぼくを救う何かなのだろう。そうだといい。そうであってほしいと、星ひとつ見えない夜空に願った。


「そういえばあんたさ、おれが姉ちゃんの話するのいやじゃないの?」

 食後の気怠さを思い出したような声で、彼はそう言った。ぼくが顔を上げると、彼はまぶたの重さを必死に疎んじていた。頬杖をつき、まとわりつく眠気に抗おうとしているようにみえる。

「いやって?」ぼくは尋ねる。

「悲しいとか、寂しいとか、そういうのだよ。あんたは大丈夫なの?」

「心配してくれてありがとう。大丈夫だよ」

「うそつけ」

彼は頬杖を解き、顔を上げると、瞳をまん丸にしてぼくを凝視した。

「うそじゃない。ぼくにとって五年はじゅうぶんな時間だった」

「姉ちゃんのこと、思い出にするなよ」

ぼくをじっと見つめたまま、吐き捨てるように呟く。

「しないよ。そんなこと絶対にしない。結果的に彼女は死を選んだけど、それはあくまでも結果だ。ぼくやきみが彼女と話したことや、そのときぼくらが感じたことは、そんな結果なんかに消されてしまうものじゃないだろう。だからぼくは彼女のことを思い出になんてしないよ。思い出ってほんとうに都合のいい代物だからね。心の一番柔らかいところにあるものを、みんなが知っている言葉で均してしまう。もちろんそれが必要なときもあるけど、ぼくらには、いやすくなくともぼくと彼女の間にはそういう物差しはまるで相応しくないものだと思っている」

 恋人の弟は、ぼくの言葉を理解したのかしていないのか、わずかに眉をあげる。

「たとえば、目が覚めるような朝焼けを見たとき、この世のすべてが良いものだと思わせてしまうほどの夕映えに呑み込まれたとき、ぼくは彼女の不在をいやというほど実感してしまう。もちろんそういうことはままあるよ。それに、彼女とぼくにはこれからがないことがほんとうに寂しいけど、それでもぼくはおおむね大丈夫なんだ」

 ほんとうに? と彼は言った。ぼくに問いかけるというよりも、自分自身にたしかめるような声色だった。瞬きをひとつ落とすと、狼のまわりを絶えず漂っていた孤独の気配が、みるみる遠のいていく。

「ほんとうだよ。だからさ、きみも彼女の話をするとき、姉ちゃんなんて気取った呼び方しなくていいんじゃないかな。たしか、みどりちゃんって呼んでたろう。そのほうがいい。年の離れたきみたちきょうだいは、恋人のぼくから見ても羨ましいほど仲が良かった」

みどり。彼女は美しい名前のひとだった。

彼はいや、でも、とか、そんな感じのまごついた言葉を口にする。

「そうやってさ、みどりさんのことをちがうもので上塗りしなくていいんだよ。きみの心のなかで、彼女はまだ彼女のままでいるだろう? じゃあ、そのままでいさせてあげなよ」

すこしばかり考えると、彼は恥ずかしそうにうなずいた。

年ごろの青年らしい仕草は、ぼくの心の柔らかいところをさわりと撫でた。ためしに彼の髪にそっと触れてみると、たちまち眉を下げてはにかむ。

「すばるさん」

手を止め、彼の呼びかけに応じる。

「みどりちゃんさ、あんたのことそう呼んでいたよね。十も歳下の恋人にさん付けって変なの、っておれは思ってたんだけど、」

ああ、そうだった。ぼくは彼女の言葉をまたひとつ思い出す。

まるで、だれにもないしょの宝箱にあるお気に入りのなにかみたいに、彼女はぼくの名前をひどく丁寧に扱ってくれたんだっけ。ひとまわり近く歳の離れた恋人は、いつも邪気のないまんまるな瞳でぼくの名を口にした。すばる、ってとっても素敵な名前。あなた、これからどんないやなことがあっても、どんな幸せなことがあっても、自分の名前の響きだけは忘れないでね、と彼女はたびたび言った。それがどういう意味なのか当時のぼくにはよくわからなかったけど、ちょうどいまの彼みたいになんとなくでうなずいていたと思う。そんなぼくを見て、彼女はどんな顔をしていたのだっけ。もう思い出せない。

「すばるさん」

ひとりの人間の輪郭をなぞるように、彼はもう一度、ぼくの名を呼んだ。

「なんだい」

「なあ、おれもそう呼んでいい?」

ぼくは狼狽を気取られぬよう、ゆっくりとうなずいてみせた。

恋人の弟はぼくの名前を覚えていた。やはり、ぼくと彼とでは時の流れは違ったらしい。

彼の名前を尋ねるのなら今しかないと思った。なのに、ぼくはそれをしなかった。まさかまだ、ぼくはこの狼にきらわれたくないとでも思っているのだろうか。人里に下り、その心を多少なりとも預けられる人を見つけ、すっかり甘え切った瞳をするようになった、哀れなはぐれ狼に。


少しすると、青年はまどろみに支配され、部屋の片隅で舟を漕ぎ始めた。ぼやけた輪郭の子どものような寝顔に向かって、たまにはぼくが洗い物するよ、と告げ、立ち上がる。

蛇口をひねり、スポンジの泡を小気味よく立てながら、ふと彼女のことを思う。十も年上の恋人は、自らの意志で時を刻むことをやめにした。あれから五年経った。いまでは彼女とぼくは五つしか違わない。あと五年で、ぼくはあの日の彼女と同じ年齢になる。もう一年過ぎれば、彼女を追い越してしまう。蛇口を絞り、スポンジを握る手をゆるめ、ためしに記憶のなかの彼女の微笑みを思い出そうとしてみる。恋人のことや、当時のことを思うと、ひどく遠い感じがした。

あんな偉そうなことを言っておいて、記憶のペンキが剥がれてきているのはぼくのほうかもしれない。彼女が自分の人生を捨てることを選んだあの日、この街特有の潮風がいやに鼻についたことはきのうのことのように覚えているのに、だいじなことは砂時計の砂粒みたいにたえず零れ落ちていくようだ。どうしたって記憶の落下は止められない。全部こぼれ落ちたあとにさかさまにしたって、砂時計のように「もう一度」とはならない。

彼女を連れて行った死の香りを纏う潮風から逃れたくて、恋人の弟の恐ろしいほどに低体温の瞳を忘れたくて、就職という自然ななりゆきを携えてぼくは東京へ出た。なんでもある、何者にでもなれる東京なら、彼女が選んだ死という存在の強さや魅惑的なその香りを、ぜんぶ隠してべつのもので上塗りできる気がしていた。実際に、中学の修学旅行ぶりの東京はやはりなんでもあって、ぼくの心はだいぶん落ち着いたのだった。

そうして彼女を忘れる準備だけして、五年過ごした。五年。それは、途方もなく長い時間のようにも思えたし、今となっては一瞬の出来事のようにも思える。ぼくはその間ずっと、朝に目が覚めるたび、いよいよ彼女のことを忘れてしまう日が来たのだろうかとひとり自問していた。新鮮な予感は朝の穏やかな気配とともに忍び寄ってくるから、毎朝ぼくは心のどこかで期待したり、震えたりしていた。

でも実際、人の記憶はそんな簡単に何かを忘れられるようにはできていなくて、ただいたずらに五年という歳月が過ぎていった。春が来て、夏は通り過ぎ、秋はかんたんに暮れ、冬が心をすっぽりと包む。その繰り返しだった。その間、ぼくは山手線の外回りと内回りの違いを知り、新宿に数ある映画館のなかで一番快適な椅子を見つけ、長身の自分に似合う服装を知り、「大人」になった。彼女を忘れることはないけれど、かといって、いつまでたっても記憶が色褪せないというわけではない。人の記憶は脆いから、ぜんぶぜんぶ仕方のないことなんだ。それが大人になったぼくが唯一知りうることだった。

 うしろから衣擦れの音が聞こえる。どうやら、恋人の弟は短いまどろみから目覚めたらしい。乾いた咳をひとつ、ふたつすると、ごめん、とかそういった類の言葉を口にした。

狼は狼らしからぬ態度で、真後ろでぐずぐず動いている。ぼくはそれを一瞥して、いいよ、と口にした。

「せっかくだし、もうすこし寝ていなよ」

「いや、大丈夫」

「寝不足?」洗い物の手を止めずに、そう尋ねる。

「いや、どうだろう」

「覚えてないの?」ぼくは笑う。

「なあ、」と彼は口にする。

「うん?」

「あなたはほんとうに料理がじょうずなんだな」

あなたはほんとうに料理がじょうずなんだね。

掠れた青年の声を聞いて、炭酸の泡が弾けるように、彼女の声が蘇った。

昼下がりのぼくの家。学生時代、奨学金とわずかばかりの仕送りと家庭教師のアルバイトで貯めたお金でなんとか生活していたころ。寒くなると、思い出したようにすきま風が吹き抜けるうらぶれたアパート。地方の大学生のお手本みたいな暮らしをしていたぼく。なぜだかわからないけど彼女はあのアパートをひどく気に入っていて、好んでよく訪れた。

休日は、そのぼろアパートでふたりならんで昼食を食べるのが定番だった。彼女がスーパーで調達してきた食材を使って、ぼくが即興で手料理を振る舞う。そんななんでもない遊びを、毎週毎週飽きもせずにしていた。

あれはたしかよく晴れたある秋の日のことだった。いつものごとく、洗い物をしていたぼくのうしろで彼女が鼻歌をうたう。換気のために開けていたキッチンの窓から金木犀が香ってきて、いい匂いなのにぼくはほんのり煩わしいとも思っていた。ワンルームの部屋に食べ物のにおいがこもるのも鬱陶しいけど、この甘ったるい匂いが続くのもな、とあれこれ思い巡らせていたときに、たしか彼女がそう呟いた。

あなたはほんとうに料理がじょうずなんだね。

季節外れの金木犀の香りに乗って、恋人の残像がぼくを通過していく。ぼくはたまらなくなって、泡が飛び散るのも構わずに振り返った。

彼女の残像を追いかけるように、ぱたぱたぱたと水滴が飛び散る。その先には、瞳を丸くした青年がひとり。

そこにいたのは恋人の弟でもなく、荒野をひとり駆ける狼でもなく、ただの二十の男だった。

「なんだよ」と彼は言った。

「いや、」

「おれ、なんか変なこと言った?」

「いや」ゆるゆると首を振ると、彼は訝しげに首を傾げる。

その仕草のひとつひとつが、あまりにも記憶のなかの彼女と結びつかなかった。

たぶん、いや、たしかに、ぼくはこの人にかつての恋人の影を重ねて満足していた。さんざんお説教を説いておいて、結局のところ、彼の存在はぼくにとっていわば免罪符だった。五年ぶりに足を踏み入れた土地で、愛した人の顔かたちをじきに忘れてしまう自分に与えられた極上の免罪符。ぼくのその後ろめたさを半減させてくれる魅惑的なえくぼを携え、彼はとつぜんやってきた。もう子どもではないが、まだ大人とも言い切れない青年を見守ることで、ぼくは心のどこかで何かしらの救いを見出していた。彼はぼくにとって僥倖。たしかにそう思っていた。思っていたはずなのに……。

「ちょっとためしに笑ってみてくれないかい」

「は? ていうか、泡」

「いいから」

思ったより強い口調になってしまい、自分で発したにもかかわらずその語気の強さに驚き、はっと顔を上げると、青年はすでに口元を緩めていた。

「ねえ、ほんとうにどうしたの? 泡なんて飛ばしちゃってさ。あんた、やっぱりおかしなひとなんだな」

 彼はそう言うと、つい、といった感じでゆっくりと口角をあげた。たちまち両頬のくぼみが現れる。

「すばるさん、どこか具合でも悪いんじゃないの。気を付けろよ。春になったばっかりで、夜はまだ寒いんだから」

 ぼくはもう一度、ちらりと彼のえくぼを見た。歳の離れたきょうだいを結ぶ、チャームポイントのひとつを。

やはり、彼女の顔はよく思い出せなかった。

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