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 マンション前には引っ越し屋のトラックはなかった。二人組はとうに作業を終えて、帰路に着いたのだろう。エントランス、共用部ともに人の気配がなくなって久しいことを肌で感じる。みるからに頑丈なRCマンションは、歩くだけでコンクリートの仄暗い冷たさが身に迫ってくる。

 鍵を探そうとリュックを開くと、見知ったキーホルダーが顔を覗かせた。不動産屋からもらった鍵は、オートロック用、部屋用の二種類あった。予備を含めると三つずつ。ここに来る前に手続きをしてくれた不動産屋の社員から、剥き出しのまま渡されたのだった。ぜったいになくさないでくださいね、と念を押され、それなら一組だけでいいのでは、とふと思ったが、有無を言わせないふたつの瞳に気圧され、しぶしぶ引き取ったことを思い出す。それで、なにがなんだかわからなくならないように、無作為に選ばれた一組には、すぐに昔の鍵につけていたキーホルダーを通しておいたのだった。

 新しい家と、知らない青年。なんだか不思議な組み合わせだ。今朝まで住んでいた東京のアパートには誰も呼んだことがなかったから、今こうして出会ったばかりの人を家にあげようとしているこの行為こそ、数年ぶりに体験することだった。

 鍵穴に鍵を差し込む。前の家とは違って、鍵を回すときに奥の方ですこしもたつく。鍵の先っぽが奥のほうで抵抗してもっていかれる感覚がある。ぼくが入り口でまごついているからだろうか、うしろから息を潜めた青年の視線を感じる。ぼくが鍵を開ける様子をじっと眺めているのかもしれない。

「ごめん、お待たせ」

 ぱちん。玄関の明かりは、前のアパートと比較するとだいぶ人工めいた光だった。何回かつけたり消したりして、明かりの色が変わらないことを確認する。

「あ、ジャケット脱ぐならそこのハンガー使って」

 そこ、とぼくはシューズボックス脇の一角を指差し、遅れて顔を上げると、見慣れない光景が広がっていた。旧居には作り付けのウォールハンガーがあったが、この家にはないのだった。うしろの青年はやはりじっと息を潜めていた。ぼくの指先にあるものを探そうとしている気配がひりひりと漂ってくる。

「ごめん、ハンガーなんてなかったね。前の家の玄関には、壁掛けのラックがあったんだけど。あれけっこう便利なんだよ。きみの家にはある?」

 返事はない。

「じつはぼく、今日越してきたばかりで、この家に入るのは内見ふくめて二回目なんだ。他人の家みたいによそよそしいのはそういうわけ。べつに泥棒なんかじゃないよ」

 やはり返事はなかった。暖簾に腕押し。心に去来したむなしさを振り払うように、ちいさく咳払いをする。

「きみのジャケットは預かるよ。たぶんそのあたりのダンボールにハンガーがあると思うから」

 ぼくは振り返る。手を差し出すと、彼が「だいじょうぶです」と言った。

 そのまま彼は、廊下に積まれた段ボールのうえに、自分のジャケットを無造作に放り投げた。ふわり。香水か柔軟剤の香りかわからないが、どこからか若葉のみずみずしい香りが立ちのぼる。流れるような仕草のその先にある、やはり白く繊細そうな指先の余韻を眺めていると、青年はか細い声で何か言葉を発した。

「え、」聞き取れず、ぼくは顔を上げる。

 お久しぶりです。

 今度ははっきりと、彼はそう口にした。

 そこでぼくははじめて彼の顔を正面から見た。風に乱れた前髪から覗く凛とした目尻や、あの人の面影が残る青年の歪んだ口元を見たとき、あ、と間抜けな声が漏れた。

 かつての恋人の弟と会うのは、それが二度目のことだった。

 しかし何かものを言うよりも前に、こういうときどう振る舞えば良いのだろう、とぼくは思った。その一方で、安っぽい蛍光灯の光が気に入らないから早々に取り替えよう、とかそんなくだらないことまで考えていた。近くにホームセンターはあったっけ。駅前の家電量販店まで足を運ぼうか。表通りから離れた個人商店でもいい。まだあの店の店主は元気だろうか。

 彼の瞳をもう一度正面からとらえたとき、ぼくが何か反応しなければいけない、とようやく考えが及んだ。

 彼はあの日と同じように、ぼくの顔をきもち斜め下からじっと見上げていた。この子は中学生のときからそんなに身長が伸びなかったんだなとか、ああ、彼女も不機嫌なときに似たような色を瞳に灯していたなとか、そんなわりとどうでもいいことを思い出したた。フラッシュバックといえばいいのだろうか、とにかく記憶の砂時計が驚くほどの速さでぼくの頭のなかを逆行していた。記憶は重力を超える、って昔誰かがどこかで言っていた気がする。

「五年ぶり、ですよね」と彼は言った。

 恋人の弟は、責めるでもなく貶すでもなく、ただ淡々とそう口にしたのだった。

 ああ、とぼくはうなずく。

 この街に足を踏み入れたのは、たしかに五年ぶりだった。彼女が自分の人生を自らの意志で止めたのも五年前のこと。恋人の弟と顔を合わせたのも、やはりそれ以来なかった。

 五年という歳月は、ぼくに、いやぼくらにどれほどのものを与え、奪ったのだろうか。時の流れがぼくから彼女を奪っていくことは仕方がないにして、それ以外の、たとえば職や知識なんかはそれ相応に自分に与えられたのだろうと思っている。現に、二十七歳のぼくは食うに困らず生活ができている。しかしこの青年はどうだろうか。彼の口元は、自分には何も与えられず、ただ奪われてばかりの人生を送ってきたとでも言いたげだった。彼の瞳は、荒野のただなか、だれとも交わらず、ひとり夜を過ごす孤独な狼を思わせた。

 五年前、彼がまだ中学生で、ぼくも大学生だったころの話だ。ぼくたちは、はじめてまともに目と目を合わせた。それは、あまりにも突然な彼女の死のあと、焼香をと思い彼女の実家に足を運んだときのことだった。憔悴しきった両親の代わりに玄関口でぼくを迎えてくれた弟は、ぼくの顔をじっと見て、ただただ黙っていた。己のうちに轟く感情の波を閉じ込めた、頑なな瞳だった。すくなくともぼくには、彼がぼくと相対した瞬間に、一言も発さないという決意をしたように見えた。

 玄関口で立ち止まっていたところ、なかから母親が声をかけてくれて、ようやく室内に入ることが許された。彼女の遺影がある部屋に通され、ひととおりのことを終えると、母親が茶菓子か何かを勧めてきたと思う。彼女なりの気遣いかもしれないし、ただ気を紛らわせたかっただけかもしれない。ダイニングテーブルに腰掛け、母親の言葉にそれらしい返答をしている間、彼は居間のソファに座り、唇を噛みしめ、ぼくの心臓あたりをじっと見つめていた。最後まで言葉は交わさなかった。まるでそこに、姉の死の原因すべてがあるかのように、少年はぼくの体のただ一点を睨んでいた。

 あの日から、ことあるごとにあの瞳がぼくを見つめている気がしていた。

 彼女が亡くなったのはそれを自分で選んだからであって、その事実を受け入れる必要こそあれどべつにぼくが十字架を背負う必要はないわけで、かれら家族に対してやましい気持ちなど何もないのに、そもそもかれらは彼女の死後も変わらずぼくのことを家族の一員のように扱ってくれていたのに、なぜだかぼくはすべてから遠ざかりたいと思ってしまった。あのあとすぐに東京の会社に就職が決まり、それを理由に上京したが、その後もたびたび恋人の弟のまなざしを思い出しては、目を瞑ってやりすごしていた。

「あ、」

 何かを言おうとして顔を上げるも、視線の先にある彼の瞳に捕まり、けっきょく口をつぐむ。

 線の細さはあのころのままだが、幾分か骨格がしっかりしたようにみえる。五年。五年が過ぎたのだから、人の見た目は変わって当然だ。しかし、彼はあのころと寸分違わない瞳をして、ぼくを見つめている。言葉よりもたしかなまなざし。五年という歳月をまったくなかったことにしてしまうくらい、彼の瞳はあのころのままだった。

 みどりさん。ぼくは死んだ恋人に話しかける。あなたの弟は、あなたがこの世を去ってから、ずっとこうやって生きてきたの? ひとりであることを決して受け入れず、かといってそれを拒否することもできず、ただ時の流れに無力でいたの?

 記憶のなか、恋人は曖昧に笑った。輪郭がひどくぼやけていたのは、彼女がなんとも言えない表情を浮かべたからだろうか。それとも、それはぼくが彼女の顔かたちを忘れつつある証左なのだろうか。


 玄関前に積まれたダンボールのうち、「洗面」と書かれたものを漁ると、消毒液や絆創膏はすぐに見つかった。脱脂綿は見当たらなかったので、さっき薬局で買ったティッシュで代用することにする。

 ダイニングテーブルは、事前にぼくが指定したとおりに配置されていた。恋人の弟は、ダイニングチェアに片膝ついて座っていた。お行儀悪く立てられた右膝を抱え、気怠げに頬をつき、うすぼんやりと両の目を閉じている。それは、孤独な夜から逃れようとする苦悶の表情にも見えたし、明日を夢見る少年の安らかな寝顔にも見えた。

 スツールを引き寄せ、「さわるよ」と言うと、彼は一瞬だけまぶたを上げ、ぼくが手に持っているものを認めると、ふいと目を閉じた。

 唇の端ににじむ血を、消毒液が染みこんだティッシュでやさしく拭う。間違っても口に入らないように注意しながら固まりつつある血を落としていくと、ちょっとした運動をしたみたいにぼくの額にはうっすらと汗が滲んでいた。

「ちょっと顔を上げてくれないかい」

 ぼくの声はちゃんと彼に届いていたようで、両目をゆっくりと開くと、動物がよくやる唸り声みたいなのをひとつあげ、傾けていた頭を起こした。 

 唇の端のわずかに切れてしまっているところに絆創膏を貼る。彼は壊れたお人形のように、ただ真っ直ぐに出窓の向こうの夜を見ていた。瞳の縁がうっすら茶色がかっている。ぼくが恐れていたものとは似ても似つかない、いたく繊細でうつくしいものだった。こんなに間近で人の顔を見ることなんてそうそうないから、一般的に、人の瞳にそういった淡いがあるものなのかはわからないけど、なんとなく彼だけが持つうつくしさのように感じた。それを見ているうちに、ぼくが勝手に苛んでいた、心のうちにある蟠りがすこしだけほぐれる音が聞こえた。

 近くでよく見ると、切れた唇の周りがうっすらと腫れていた。絹のように滑らかな頬には、ほんのりと赤みが差している。この感じだと、明日には紫色のあざになってしまうだろう。冷蔵庫の電源はまだ入ってないから、当然のごとく製氷機は稼働していない。仕方なしに、さっきコンビニで買ったペットボトルを患部に押し当てると、彼は一瞬眉にしわを寄せて、黙ってそれを受け取った。

 絆創膏で皮膚が突っ張られるのがいやなのか、時折、口をもごもごと動かしている。薄く、下がり気味の唇は彼女にそっくりだ。コンプレックスという言葉は使わなかったものの、顔がたるんでいるように見えるのがいやだと、彼女はしきりに口にしていた。だから、いつも意識して頬をきゅっと上げていたと思う。

「いまさらだけど、警察を呼ぶかい? どんな仲なのか知らないけど、殴られたのならば、放ってはおけないだろう」

 彼は窓の向こうから視線を戻すと、瞳だけこちらに向けた。さっき見たあのガラス細工のような瞳ではなく、およそ二十の青年には相応しくない、宵闇すら撥ね返す虚ろな瞳だった。

「いいよ、放っておいて」と彼は言った。

 ぼくはなんとなく目を逸らす。視線の先は、ちょうど彼の手元だった。手の甲の傷が視界に入る。さっき派手に転ばされたときに地面に擦ったのだろうか。滲む血のなかに砂利が混ざっていた。

「手、砂利が入っちゃってるから、洗ったほうがいいね」

「いいよ、面倒くさい」

 彼はふいと顔を逸らした。仕方がないので新しいティッシュを取り、消毒液をたっぷりと垂らす。汚れた手を取ると、頭上から乾いた笑いが降ってきた。

「なに? おにいさんもゲイなの?」

「ちがう、ちがうけど」

「あっそ。おれはゲイだよ。あいつとどんな仲なのかと言われたら、そういう仲ですよ。ねえ、おにいさん。死んだ恋人の弟がゲイだった気持ちって、どんな感じ?」

「どうも思わないよ」

 彼はひとつ舌打ちをすると、消毒を続けるぼくの手を遮って立ち上がった。そのままダンボールやらレジ袋で乱れた床をずかずかと突っ切ると、台所のシンクで血を吐いた。からん。乾いた音が鳴る。

「歯が抜けた?」

「べつにどうってことない。たぶん親知らずだし」

 どうやら、下の歯のどちらか一方の親知らずがぬけたらしい。煩わしげに両頬を触って、左右のちがいを確かめている。

「どうってことないわけないだろう。ぼく、左足の薬指を骨折したことがあるんだけどね、全然思うように歩けなくなっちゃって、治るまでとっても不便だったよ。薬指だよ? ふだんそんなところ意識して歩いたり走ったりするかい? 正直、こんなものあってもなくても変わりやしないだろうって思っていたんだけど、そんなこと全然なくてさ。だからさ、親知らずもないとないできっと不便だよ」

「ゲイにかまうなよ」と彼は言った。怒るでもなく、ひどく小さな声だった。

「それはぼくにとってどうでもいいことだ。そんなことより、きみが無事でよかった。歯は抜けちゃったけど、まあ、親知らずだし」

「どっちなんだよ」

 彼はもう一回舌打ちした。

 寂しがりやの一匹狼。そんな言葉がぽつりと浮かんだ。

 ふいに、恋人の弟を取り巻く濃い霧が遠のいていった。霧が去ると、そこにいたのはちいさな狼だった。言葉を交わしたからだろうか。それとも、いくつかの色を灯した瞳を見たからだろうか。もしかすると、荒野のただなか、このはぐれ狼は自らの尻尾を体に巻きつけ、人知れず丸くなって眠るのかもしれない。孤独を孤独とも思わずに。なぜだかそう思わずにはいられなかった。


 家まで送って行かなくていい? とぼくが尋ねると、いいよ、と彼は断った。

「でも、まあまあ夜も遅いし、」

「おれんち、隣だよ」ぼくの言葉に被せるように、彼はそう言った。

「隣?」

「あんたの部屋は一〇一号室、おれは一〇二号室」

「あ、そうなんだ」

「このマンション、見た目のわりに壁が薄いから、彼女を家に呼ぶときは先に言ってくれ。その日はおれ、どこかに消えるから」

「ああ。あ、いや、そういう人はいない」

「あんた、ほんとうに驚かないな」彼は目を細める。

「いや、いまのはかなり驚いている」

「いまの、ってどれ? おれの家が隣なこと? 壁が薄いこと?」

「どっちも」

「どっちもかよ」

 彼はもう一回目を細めて、それから思い出したように笑った。すると、ほほえみの横にいまっぽいえくぼが現れる。

 その頬のくぼみを見ていると、ふわり、彼女のことを思い出した。両頬のえくぼは、よく笑う彼女にはぴったりのチャームポイントだった。あ、これね、弟にもあるんだよ。いかにもきょうだいって感じでいいでしょう。彼女はことあるごとにそう自慢していた。

 このときはじめて、これはあまり正しくない感情かもしれないとぼくは思うにいたった。誰かを誰かの代わりにするなんて、そんなことしてはいけないことくらい、ぼくだってわかっている。これからこの恋人の弟と話す機会があったととして、そのときはこの魅惑的なくぼみはあまり見ないようにしようと心に誓った。

 彼は治療の礼を言うと、静かに去っていった。

 がちゃり。すぐに鍵を開ける音がする。隣に住んでいるというのは、どうやらほんとうらしい。どん、どん、と廊下を歩く音が聞こえる。すぐにどこかのドアが開いて閉まる。ベッドかソファにどかっと座る音まで振動として響いてくる。どうやら壁が薄いこともほんとうらしい。

 そういえば、彼の名前はなんだったろうか。彼女がよく口にしていた気がするが、ぜんぜん思い出せない。

 やはり、五年はぼくにとってかなりじゅうぶんな時間だったのだろう。眠る、ご飯を食べる、新しい体に作り替えられていく。そうやって、彼女のこともだんだんと遠のいてった。色鉛筆でごちゃごちゃにするのではなく、ペンキをひっくり返すのでもなく、ごく自然に、生命の営みとして、この五年、ぼくがそれを望んでいようといまいと、彼女のほうから離れていく気配をたえず実感していた。

 とりあえずぼくは、彼の部屋と隣り合わせの壁に本棚を移動させ、反対側にベッドを配置させた。シングルとはいえど、さすがに一人で移動させるのはしんどく、それなりに汗もかいてしまった。荷解きは来週末へと持ち越して、ぬるくなった缶ビールを開ける。

 ふいにあのうつくしい瞳を思い出す。何をすれば、もう一度あれが見られるのだろうか。ためしに彼が見つめていたダイニングの出窓に近寄り、夜の静寂をひとしきり眺めてみるも、何も得られるものはなかった。

 カーテンをつけるのもまた今度でいい。他人の気配を薄めるため、近寄りついでに出窓を開けると、すぐに風が吹き抜けていく。芯のないさらりとした風が髪を撫でる。この間までつい近くにあった冬の名残は、いつの間にかどこかへ追いやられてしまった。明日は今日に、今は過去に。春の香りを頬いっぱいに確認してから、ビールをもう一口、どろりと喉元に流し込んだ。

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