恋人の弟(Living with a wolf)

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 五年ぶりに足を踏み入れたこの街は、相も変わらず潮の香りが鼻につく郊外の風が吹きすさんでいた。

 四月はもうすぐそこだというのに、冬の名残りが容赦なくぼくの体を通過する。この街の風は、いつ何時でもせわしなくぼくの心を追い立てていたが、よそ者となってしまったぼくのことをもはや歓迎する気すらないのだろう。心のうちで、いちおうやつらに真意を尋ねてみるも、もちろん返事はない。春物のコートの襟を立て、いじわるな風に見つからないよう、体を縮こませて足早に表通りを通り抜ける。

 引っ越し業者には先んじて新居の鍵を渡していた。時計を見ると、もう夜の八時を回っている。どうりで、街灯の明かりがやけに目立つと思った。かつて飽きるほどそばにあった見慣れた街並みを、多少の新鮮さをもって眺めつつ、そんなことをしている場合じゃないと心を入れ替え、せかせかと足を動かす。

 二人組のいかにも力持ちそうな男たちが、旧居にずかずかと入ってきたのはきょうの午前中のことだった。背が高く、年齢不詳のベテラン風を吹かせている男と、無愛想で声の小さい若い男の二人組。不潔でもないが清潔ともいいがたい彼らは、言葉すくなに淡々と作業をこなした。

 彼らの働きぶりは非常にシンプルで無駄がなかったが、ただ一点、しゃがみ込んだときに視界にはいる彼らの靴下の汚れが、どうしても許容できなかった。一度気になってしまったら如何ともしがたく、家具を運んでいる間に、近所のコンビニで靴下を買って差し入れした。なんですか、これ? むこうについたらそれに履き替えてくれ。ついでに、スリッパも渡すから、あっちではこれも使ってほしい。ぼくがそう言うと、年下の男はさも不満げな顔でレジ袋をひったくった。べつにぼくは潔癖症じゃないけれど、これから住もうと思っている家が、今日はじめてあった人間の汚れや汗が染みついた何かによって蹂躙されるところを想像すると、だれだってげんなりしてしまうだろう。

 高速を乗り継げば、遅くても八時には到着する。先輩のほうの引っ越し屋が、去り際にたしかそう言っていた。道が混んでいなければ、いまごろ彼らは今夜からぼくの家となる1D Kのマンションにせっせと荷物を運んでいるだろう。とはいえ、ダンボール五つしかない荷物なんて、一瞬で片が付いてしまうはずだ。家具家電だって必要最低限しかない。冷蔵庫、電子レンジ、洗濯機、シングルベッド、本棚、二人掛けのテーブルと椅子一脚、何となく買ったスツール、よく使うものを置いておくのに都合の良いローテーブル。まるで荷物の総量がその人の人生を要約しているとでも言いたげに、若いほうの男は、室内を見定めるやいなやぼくに憐憫の目を向けた。そのまなざしに何も感じなかったといえば嘘になるが、四捨五入しても三十でしかない男の人生なんて、うまく生きたとしてもせいぜいこんなものだとも思っていた。でも、ぼく個人の感情といえば、寝て、起きて、仕事をする――それだけの人生が悪いものだとはそんなに思っていなかった。

 そんな取るに足らない、いうならば人生を要約したような一日が終わるとき、きまって思い出すのは五年前に死んだ恋人のことだった。家用の眼鏡のピントが合わなくなったことに気づいた深夜、お気に入りのマグカップを割ってしまった夜更け、仕事の都合でこの街に戻ることが決まった日の夕暮れ、そういう日を選んで、彼女はひょっこりとぼくの心にやってくるのであった。

 この街を通り抜ける風に、ほんの僅かに潮の香りが混ざっていることを教えてくれたのも、やはり彼女だった。あなたは知らないかもしれないけどさ、この街は海に繋がっているんだよ。この街にかぎらず、すべての道は海に繋がっているといえない? まあた、そんな皮肉っぽいこと言っちゃってさ。ローマは遠いけどさ、この街の海はすぐそこだよ。歩いて三十分、車だったらすぐそこ。ねえ、今度行ってみない?

 その約束は彼女がいなくなったことによって、永遠に果たされなかった。だから、ぼくはこの街にあるという海を見たことがない。でも、とくに観光地として取りざたされないところを思うに、そんなにたいした場所じゃないんだろう。大量の塩水と、延々と続く灰色に濁った砂浜。海岸の田舎街ならよくある風景を勝手にイメージしていた。

 晴れていてもどこか湿った風が吹くせいか、昔からこの街の雲はたとえ夜であっても厚みがあった。今日も足下を照らす夜光は心もとない。それに、まだ夜の八時だというのに、あたりはまるで人の気配がなかった。ぽっかりと穴の開いた真っ暗闇の宇宙に、ひとりで落ちていくような気分だ。ぼくはひとつため息をつく。この街はやはり、異邦人になり下がったぼくを受け入れる気がないのかもしれない。

 彼女が自分の意志で死を選択したということと、彼女がこの世界のどこにもいないという事実。それらについてこの五年、ただひたすらに思っていた。どこか他人事のような気がして現実味はなかったが、すべてが現実であることはとうに理解していた。

 こんな言い方がよくないのはわかっているけど、たとえば、次の人を見つけてしまえば、彼女は過去の人、つまり有り体にいうと元恋人になる。なるのだけど、そんな簡単なことすらせず、ただ淡々と息をするだけの時間を過ごし、二十七歳を迎えたぼくはこの街に戻ってきた。


 おい、とか、このやろう、みたいな誰かを罵る声が聞こえて、ぼくの思考は途切れた。何事かと驚き、あたりを見回す。いつの間にか、新居の前に到着していた。声がする方、新居から見るとはす向かいにある広い公園に目を向けると、何やら男性ふたりが向かい合って話し込んでいた。いや、話し込んでいるなんてのんきな雰囲気ではない。喧嘩だろうか。街灯の明かりの中心に立つ男の体格はやけにしっかりしていて、もう一方の線の細い男を口汚く責めていることは遠くからでもよくわかった。小柄な男はぼくに背を向けるような形で公園のベンチにうなだれているので、どのような表情をしているのかわからない。

 やっぱり喧嘩だろうか。公園の時計をちらりと見やり、新しい住処となるマンションに目を向ける。家々の窓からは、煌々と明かりが漏れている。すこしの逡巡ののち、放っておくのはどうかと思い、静かにそばまで移動し、公園をぐるりと囲むツツジの茂みに身を潜めて、ことの次第を見守ることにした。聞こえる範囲では、かぎりなく理性的でない言葉を大男が絶えず口にしている。そういう粗野な物言いが許される間柄なのかもしれないが、だとしても、もう一方の男があまりにも静かすぎる。ふたりのあいだに何かあったのは明白だった。

 ただ、雰囲気から察するに、どうやら彼らは今日初めてあった仲のようには見えなかった。だとすれば部外者がそう易々と口を挟むべきではない。でも何かよくないことが起きたら、しかるべきところにすぐに相談できるくらいの距離感をとって、ぼくは事のなりゆきを覗き見ていた。

 というのは建前で、本音を言うと、危険を冒してでもあそこに入っていく自信も度胸もぼくが持ち合わせていないだけだった。口論といえど、ほぼ一方的に相手をなじる男は恐怖でしかなかったし、ぼくがもうひとりの彼を庇ったとして、大男は虫けらを見るような目でぼくの存在を無視するだろう。ラグビーやアメフトの選手にも見えるその男からは、遠目に見てもそのくらいの迫力を感じられた。

 一歩、二歩。たしかな足取りで大男が間合いを詰める。まずい、と思ったときには、青年は殴られたあとだった。宇宙のただなかみたいに静かな空間に、大きな塊がどかっと落ちる音がする。殴られた男が地面に飛ばされた音だった。ぼくは目を疑う。ちいさいとはいえ、たぶん大人の男が拳ひとつで棒切れみたいに飛ばされるなんて、どう考えても信じられなかった。

 あ、とか、う、とか、そんな情けない声が自分の口から出たことに気づいたのは、大男が大股でその場を去っていったあとのことだった。

 殴られたほうの男は、すこしすると体についた汚れも払わずにベンチに座り直した。茂みを挟んで見るかぎりだと、微動だにせず、ただぼうっと宙を見ている。殴られたことをなかったことにしたいのか、それとも全然べつのことを考えているのか、もしくは、がらんどうの心をひとつもてあましているのか。ぼくと彼との距離では判然としなかった。

 ぼくはしばらくその青年のうしろ姿を見守っていた。手を握ったり開いたりしたり、街灯の安っぽい光を見上げたり。遠目ではやはりよくわからないけど、どうやら、連れの男に殴られたことや、その彼との間にある問題がおそらく解決できていないことには、そこまでこだわっていないようにみえた。

 助けを呼ぶとしたら、救急なのか、警察なのか。ふつうそんなことを考えるべきだが、ぼくは彼の瞳の先にあるものがなんとなく気がかりで、気が付くと公園の敷地に足を踏み入れていた。

「ねえ、」とぼくは声を掛ける。「どうしたんだい? 暴漢にやられた?」

 男は下を向いたまま、ひとつ首を振った。

 顔はよく見えないものの、近くで見ると思ったよりも幼い印象を受けた。軽やかにうねる黒髪は子犬のように柔らかそうで、腿のうえでゆるく交差する指は薄く、作り物みたいに繊細だ。無遠慮な他人の視線をたえず感じているだろうに、それでも彼は顔を上げない。ただ結んだ手を開いたりこすったり、どうやら所在なげにしているのはわかった。

「すぐに来てくれる人はいる? それともひとり?」

 もう一度、彼は首を振る。力のないその動作は、いないと言っているように見えた。

「すぐ近くにぼくの家があるんだ。よければ寄って行かないかい? 越してきたばかりだけど、きみのけがを治療するための消毒液くらいはあるよ」

 彼はうんともすんとも言わなかった。でも、ぼくが歩き始めてからすこしすると、うしろから靴底が擦れる音がした。続いて、けんけんと遠慮がちな咳が聞こえる。ほんとうに野良犬のような男だとぼくは思った。

 歩いている間、ぼくは一度もうしろを振り向かなかった。し、言葉も発しなかった。「大丈夫かい?」とか「あとすこしだよ」とか話しかけてもいいような気もしたけど、そんなありきたりな言葉を添えて過分に手を差し伸べてしまったら、なんとなく、彼が走り去ってしまいそうな気がしていた。それならそれでぼくとしてはなんら問題のないことのはずなのに、なぜだかそうしたくない心持ちだった。これは、野良犬に懐かれた優越感なのだろうか。それとも、真っ暗な宇宙にともに存在する顔も知らぬ人間に、なにかしらの仲間意識を覚えているのだろうか。どちらにせよ、夜道で顔もよく見えない、素性もしれない青年に抱く感情としてはおよそふさわしくないものを実感し、ぼくは心のうちで苦笑いした。


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