第9話 もう一杯の珈琲と食堂車の領収書

 和気を過ぎると勾配が少しずつ高くなっていく。吉永そして三石を通過。大カーブを曲がり抜き、列車はいよいよ船坂峠へと入っていく。かつて客車列車の時代は蒸気機関車が必死で上っていたこの区間も、今時の電車特急ともなれば難なくすいすいと登り切り、そして超えていく。県境だけあってトンネルも長いが、窓の赤ないこの列車にとっては、外の気温など何の関係もないかの如く年間を通して人間をして快適な温度に保ってくれている。


 今は9月下旬。朝晩は涼しい時間帯もあるが、晴れていればどうしても暑い日もある。そんな時は無論冷房がかけられる。この日もいささか体感温度は高めであるから列車は外気より涼しくなるよう車内温度を調整される。

 当時は今と違って禁煙車というものはない。客がそれほどいないため煙草を吸っている客はいないが、各車両で喫煙された煙草の匂いは車内にも残っている。その匂いとエアコンの冷気の混じった一種独特のにおいが、車内に難とも言えない雰囲気をもたらしている。

 石村教授は喫煙者であるが、人の前では基本的に煙草を吸わない。まして未成年の学生で非喫煙者の横で吸うようなことは、ない。


「さて、ハチキ君、この列車は広島発であるが、私がなぜ早めにこの列車で帰ろうと提案したか。お分かりかな?」

 少し間をおいて、八木青年が答える。

「今どきの在来線特急は、下りが岡山からが激増し、上りは岡山で激減しますね。ということは、上り列車で下関や九州方面から来る列車は岡山まで多数の客が乗車してきていますね。その分、車内の汚れやゴミの量も比例して増えますから、お世辞にも快適とは言えませんよね。そこに来て、この列車はせいぜい広島からの朝一番ですから、九州あたりから来る列車に比べて相対的にきれいなままであると考えられます。それに加えて、夜のうちには車両の清掃も行われますから、汚れている可能性は低いです。これが広島ですぐ折り返しなどという場合には、掃除が徹底されないままの可能性もありますが、そのリスクもないです」


 石村教授は八木青年の見立てに感心しつつ耳を傾けている。さすが経営学部で財務関係に進む可能性の高い学生だけのことはある。


「そりゃあ、あの後昼飯でも食ってぼちぼちでもよかったが、折角であるからこの列車を利用したのや。このあと30分もすれば後続のしおじ号が下関からやって来るが、この列車より客が多く乗ってくる可能性が高いからな。しかも速達のひかり号への接続のはずや、あの列車。広島だけでなく山口県からの客の乗継も考慮した列車であるから、その分客の出入りも多く、車内の汚れ具合のリスクは高いわな」

「しかし、今回行きも帰りも新幹線ではなくて在来線の特急に乗られたのは、私への教育的効果を考えられてのことだったのでしょうか?」


 列車はすでにトンネルを抜け、緩やかな下り勾配に差し掛かっている。11両の電車特急は涼しげな風を巻き起こしながら播州平野の西端を快走中。程なく建設中の国鉄智頭線の予定地を山側に見つつ、列車は上郡駅を通過していった。


 特におかわりを頼んだわけでもなく、紅茶1杯で話し込むこと数十分が経過している。先ほどまでいた客は既に退店し、別の客が数名、それぞれのテーブルで飲食をしている。珈琲だけの客もいればビールを飲んでいる客も。中には少し早めの昼食をということでカレーを頼んで食べているビジネス客もいる。そのカレーの香りが、彼らの元へも届いてくる。しかし、客数は先ほどより増えたとはいえ1桁の域を出ない程。紅茶1杯の客だからと言って急かされることもない。

「今からビールいうのも難であるから、もう1杯、珈琲を飲んでおこう」

 教授はウエイトレスを呼び、珈琲2杯を追加注文した。さほど待つこともなく、彼らのテーブルに珈琲が運ばれてきた。彼らは砂糖を適宜入れ、それにミルクを加えて飲み始めた。グラスの水も、珈琲とともに追加された。

 列車はすでに兵庫県に入っている。かつて赤穂鉄道の連絡駅であった有年を通過し、平野部に向けて列車は軽快に走行している。


「ハチキ君、さっきの話だが、その目的もないわけではない。せやけど、新幹線は末端区間とは言えそれなりに混む可能性もあるし、何より新大阪での出入りが多いからな。こうして少しゆっくり目に在来線で移動できる可能性があるなら、それも一興かと思った迄のこっちゃ」


 石村教授には学会などを理由とした出張も年に何度かあり、その折に長距離列車に乗車する機会が年に何回かある。また、京都帝大の研究室時代の先輩で鉄道趣味界でも名の高い知人もいるため、そのあたりの知識にある程度長けている。それもあって、鉄道研究会というサークル設立時にはある筋から頼まれて顧問に就任して現在に至っているほどである。

 彼らがそれぞれ珈琲を飲み終わる頃に、列車は相生駅を通過。ここから京都に至るまで、トンネルはもうない。


「そろそろ、自由席に行くか」

 教授は飲み物4杯分の代金を支払い、領収書を受領した。


 八木青年とともに、石村氏は3両前の自由席車へと移動した。間の指定席2両とも、客は数えるほどしか乗っていない。自由席に入ると、さすがに十数人の客がすでに乗車しているが、それでもすべての座席が埋まるほどでもない。彼らは海側の適当な席を見定め、そこに座った。前の席にも客はいない。教授は窓側、学生は通路側にそれぞれ腰かけた。


「ハチキ君、タバコ吸わせてもらってもエエか?」

 青年は煙草を吸わないが、特に他者の喫煙を嫌うほどではない。一言、どうぞと述べただけだった。

 石村教授は窓際に座り、煙草を吸い始めた。灰皿は急行列車のように窓側にあるのではなく、目の前の椅子の背もたれにつけられている。頃合いを見て教授は灰皿のフタを開け、そこに杯を落としながらさらに一服する。ほどほど吸い切ったところで、そのフタの上でタバコの火をもみ消した。


 煙草を吸い終わったところで、石村教授が横の学生に尋ねる。

「ところで君、私はさっき食堂車で領収書をいただきましたよね」

 教授は灰皿の上の両席に合せて取付けられた窓側のほうの背面テーブルを開け、財布から先ほどの領収書を出してその上に置いて見せた。

「商業高校出身の八木君のお見立てでは、この領収書をどう仕分しますか?」

 八木青年、このくらいのことはわけもなく答えてくる。

「そうですね、普通なら接待交際費ということになる可能性もあるところですが、学会への移動中の必要経費ということになれば、旅費交通費になる可能性もあるでしょう。そこは本学の規定上どうなっているかは不明ですが、間違いなくそのどちらか、可能性としては後者ではないかと考えます」

「そうか。では貴君が取引先の関係者と関西の関係先に向う車内の食堂車で同じ領収書をもらったとしたら、どういう仕分をするかな?」

「その場合は、会議費という名目でも可能かと。金額の限度はありますが、その場合であれば酒を飲んでいても基本的には経費として計上可能です」

「ほう、そういう名目もあるのかね」

 石村教授は大学での報酬の他に著作などの収入もあるため、毎年確定申告をしているが、会議費などという名目で経費を計上したことはないという。

「もっとも、福利厚生費になる可能性は限りなくゼロでしょうね」

「福利厚生、ねぇ。まあ、その要件に当てはまることがあればそこで計上できる余地もなくはなかろうが、それは確かに違和感あるな」


 列車はいよいよ平坦地に入った。竜野、網干、英賀保と小駅を軽々と通過し、手柄山に行くモノレールの下をくぐって姫路駅へ入線して停車した。自由席ともなれば短距離客も気軽に乗車できることもあってか、ここで十数名の乗客がある。その代わり同じくらいの客が、この駅で降りて行った。

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