広島からの電車特急で、新幹線に乗継
第7話 朝一番の特急待ちの喫茶店
「どや、八木君。石村先生にお会いできて?」
助手的な役どころとは言え専門外の物理学教授の手伝いを兼ねて帰省していた八木青年だが、この帰省で石村氏の紹介によって年配の知人も増えている。
「実にありがたいです。地元とは言え、これまで存じ上げていなかった方とお近づきになれるとは思ってもいませんでした」
率直に感想を述べる八木青年に、米国店経営で市議会議員でもある山藤氏が言葉をつないでいく。
「それは大いに結構である。貴君が石村先生に出会えたのはまさに大学に行けたからこそであろう。けだし男子たる者、広く見聞を広めて自らの世を拡大していくことが肝要である。その点において貴君はこの度石村さんや堀田さんのおかげもあって様々な御縁ができておるが、物理学に少しでも触れた成果が、今回の帰省の一番の収穫として具現化しておるのではないか」
ひとしきり話した山藤氏は、ここでアイス珈琲のおかわりを4人分注文した。代わりのアイス珈琲は程なくやってきた。
「いやあ、ヤギ君、あんたは石村さんにお会いできてホンマ、良かったな。おとといやったか、私らと飲んでいるときに君は言っておったろう。高校までの教師にはろくな者がいなかった。高校の簿記の先生で定時制高校から大学に進んで教師になられた梅谷先生なる方は別としても、社会をろくに知らずに教壇に立って偉そうに能書を垂れていただけの教師各位への恨み節もしっかりと聞いたが、どうかね? 大学の先生方、まあ、私がそのうちに入るかどうかは別として、石村先生はじめ大学の方と出会えて、少しは教師と言われる人たちへの印象は変わったか?」
アイス珈琲を少しすすって、八木青年が答えた。
「はい。うちは家業が散髪屋でして、母親は子どもの頃に亡くなってしまって家事から何から自分でやっていかねばならない状況でここまでやってきました。それだけにわかった口の教師どもへの反感はずっとありましたが、大学まで来まして、本当に世の中が広がった気がします。あのオリエンテーションのときにあくびを仕掛けたり、しまいにはくしゃみまで出そうになったりしなければ、このような出会いもなかったでしょう」
「岡山への恨み節も出しておったが、岡山に久々に戻ってきて、どや?」
堀田教授の質問に、八木青年が答える。
「山藤さんや堀田先生のような方とお近づきになれたこともありますけど、この街も捨てたものではないと思えました。大学に行くことで、ここまで自分の周りが変化していることが実感できたのは、意外でした」
「そうかな。そりゃ結構である。そういえば貴君は私の米屋を知っておったか?」
「自転車で通るくらいはしていましたが、直接には存じ上げていませんでした」
「そうかな。ところで私はかつて陸軍士官学校を経て陸軍将校になったことは申し上げた通りであるが、君の言うガラッパチ高校の前身の旧制中学から士官学校に行くにあたって、親から何を求められたか、わかるかな?」
「帝国軍人として立派に務めを果たすことですか?」
「それができんようでは困るけど、そんなことではない。何が何でも生きて生を全うすること。それが、わしの親父が一番求めていたことじゃ。エエか八木君、わしが陸士に進んだのは、戦死するリスクを減らして生き延びるためじゃ。士官になれば戦闘に参加する確率は兵卒よりも低い。ここにおられる石村さんや堀田君みたいに帝大に行って物理学をきわめる以前で、まあどこの学部にもかからんヘッポコ中学のわしでも、陸軍士官学校のおかげで何とか生き延びてこられたのよ」
山藤氏の弁を兼ねて聞いている少し年少の教授2名が相槌を打っている。
元陸軍将校の山藤サン、少し言葉を砕けさせて尋ねてきた。
「今話したことであるが、その中身には数学の考えが入っとるジャロウが」
アイス珈琲をストローからすすった青年が、思わず答える。
「確率ですよね。こう見えて私、高校時代は確率、好きでした。立命館の受験では世界史を選択しましたが、確率だけの出題なら数学で受験してもよかったかもしれません。もっとも石村先生に言わせれば、私の確立の出来具合は下手の横好きレベルでちょっと計算が長けている程度とのことですが」
たまたま液体を口に入れていなかったのが幸い、もし入っていれば思わず吹き出しかねないほどびっくりしたのは堀田教授。
彼は研究室にいた頃の石村青年を知っている。石村青年は計算が苦手で、かねて教授より追試を食らうことがままあった。
「計算で追試を食らいまくったあの石村君が、素人の文系学生さん相手とは言え、よくそんなことが言えるほどになったものですな」
過去を暴くようなことを言われた教授であるが、それで怒ったりはしない。
「あれは物理学の計算ですよ。ハチキ君のはせいぜいよくて高校数学の順列や組合せの計算レベルです。あんなのはなんてことなくて当然というものデッセ。ただあれにしても、計算ができたらよしってものでもないですからね。その意味をきちんと換骨奪還できんようでは、文系学部でも務まらんでしょう」
「しかし石村さん、どこかルサンチマンを感じられるのは、気のせいかな?」
山藤氏の問いかけに、石村教授が答える。
「そうですね。ないとは言えません。いやあ私、理系ですけどあの手の計算は苦手でしたから。その割に、確率は苦手でもなかったですよ。文系の諸君は確率が得意になるのが存外居りますが、私も一応は理系ですから、数列とか整数論、嫌いじゃないですよ。プロ並にはわかるつもりです、ええ」
「石村君の数列や整数論がプロ並というのは、なんか、パチンコのプロのパチプロみたいな雰囲気を感じられるが、気のせいかなぁ」
「堀田君の気のせいばかりでもなかろう。石村さんは数学が専門ではないが、趣味的にはどうもお好きなようですな。あのマルクスさんは趣味が高等数学の問題を解くことだったようじゃが、それとなんか似ている気がせんでもない」
「石村先生やマルクス大先生の数学好きは、パチンコ好きが高じてパチプロになっているようなものってことですか?」
八木青年の言葉に、年配者各位の間に大笑いが起こった。
「ほな、そろそろ列車の時間ですから、このあたりで失礼いたします」
「この度はお世話になりました。失礼いたします」
「じゃあ八木君、今度帰省するときはうちに連絡して来いよ」
「山藤さん、ありがとうございます。この冬には戻ります」
「ほな、石村先生、また学会でお会いしましょう」
「堀田先生、その節は是非」
・・・・・・・ ・・・・・ ・
それぞれの挨拶を終え、石村教授と八木青年は地下の改札をくぐって西口側に近い山陽本線の上りホームへ向かった。帰りの列車は広島発新大阪行特急「しおじ1号」である。上りホームで列車を待つ客は、今や下りホームほどもいない。新幹線開業前は下りよりむしろ上りホームのほうが多かったが、今やそれが逆転している。
程なく赤とクリームのツートンカラーの電車特急がやってきた。先頭はのっぺらぼうのような顔立ちで、真ん中の字幕には「しおじ」と書かれており、その下には赤字でローマ字表記があるだけ。何とも殺風景であっさりした表記ではあるが、これが目的の電車であることは、利用者としては一目瞭然である。
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